第7話 破られた謝罪文
王城の修復庫は、祈りの場に似ていた。
高い天井から吊るされた銀灯は昼でも淡く、壁一面の棚には、箱に収められた誓約書が年代順に並んでいる。燃え残りの香ではなく、古い羊皮紙と蜜蝋の匂いが静かに沈んでいた。
エルシアは入口で手袋を替えた。白燐谷で採った粉が混じらぬよう、薄布も封蝋刀も新しいものにする。カイは修復庫長へ封鎖命令の写しを渡し、いつもの低い声で言った。
「白蝋の不正搬出について確認する。直近三か月の受領記録を出してくれ」
修復庫長は青ざめた顔でうなずいた。彼は年配の穏やかな男で、棚の鍵束を握る手だけが震えている。
「こちらで扱う白蝋は、破損した封蝋の補強に限られております。量も、帳簿も、毎日確認を」
「帳簿が正しければ、それを証明すればいい」
カイの言葉は責めるためのものではなかった。だからこそ、庫長は少しだけ息を整え、記録箱を運ばせた。
エルシアは一枚ずつ受領印に触れた。正規の白蝋は冷たい。けれど冷たさの底に、保存のための慎重な熱がある。白燐谷で見た若い白蝋は、もっと乾いていた。熱を覚える前に、熱を奪うような冷たさだった。
三冊目の帳簿で、指先が止まった。
「ここだけ、印の縁が二重です」
カイが覗き込む。日付は、エルシアが婚約を破棄された夜の翌朝。品目は破損文書の補修用白蝋、受領者は宰相府臨時書記官となっていた。
「宰相府が修復庫から直接受け取る理由は?」
「通常はございません」
庫長の声がかすれた。
その時、扉の外で短い言い争いが起きた。護衛が入室の許可を求め、続いて若い従僕が両手で小箱を掲げて現れる。衣服はヴェルク伯爵家の色だった。
エルシアの胸が一拍、遅れて鳴った。
「ダリオン様より、北辺伯閣下へ。……いえ、リュネット嬢へ、でございます」
従僕は視線を上げられなかった。カイは箱を受け取らず、まずエルシアを見た。
「開けるかどうかは君が決めていい」
その一言で、息が楽になった。以前なら、ダリオンからのものは当然受け取るべきだと周囲に決められていただろう。いまは違う。エルシアは自分の意志でうなずいた。
「仕事に関わるかもしれません。確認します」
小箱の封は割れていた。赤い蝋の上に、薄い白が刷毛で撫でられている。中には一通の手紙が入っていたが、半ばから乱暴に裂かれ、端は何度も握りつぶされたように皺だらけだった。
宛名は、エルシア・リュネット嬢へ。
差出人は、ダリオン・ヴェルク。
「謝罪文、ですね」
声に出しても、心は不思議なほど揺れなかった。傷が消えたわけではない。ただ、その傷だけで立っている自分ではなくなっていた。
エルシアは破れた紙片を薄布の上に並べた。文字はところどころ失われている。
――婚約発表の夜、私は君の弁明を聞かなかった。
――宰相府の方より、君を遠ざけねばヴェルク家も疑われると告げられ。
――マリアベル嬢の招待状に使われた封蝋は、私が選んだものではない。
――君の母上の名が、古い誓約庫の目録に。
そこで紙は大きく裂けていた。
カイが低く息を吐く。
「謝罪を装った罠かもしれない」
「はい。けれど、書いた瞬間の熱は残っています」
エルシアは最初の一片に指を置いた。温度は弱く、情けなく震えていた。誠実と言い切るには遅すぎる。勇気と呼ぶには薄すぎる。けれど、自分が見捨てた相手へ向けて、初めて恥を覚えた者の熱だった。
次に、裂け目へ触れる。
そこだけが冷たい。若い白蝋の粉が紙の繊維に入り、破った者の痕跡を覆っている。だが完全には隠せていなかった。爪を立てた位置に、かすかな焦りが残っている。
「これは、書かれた後に破られています。ダリオン様が途中で破棄したのではありません。誰かが読み、必要な部分を奪った」
「必要な部分?」
エルシアは最後の文を見つめた。
「母の名と、古い誓約庫です。私に届いては困る情報だったのだと思います」
従僕が膝をついた。
「申し訳ございません! 若様は昨夜、これを封じて私に預けました。ですが今朝、伯爵家の門で宰相府の使いに止められ、箱を改めると。取り返した時には、もう」
カイは従僕を責めなかった。ただ護衛に名を控えさせ、箱と封を証拠として保管するよう命じた。
「エルシア。これは君への謝罪だ。証拠にする前に、君の気持ちを聞く」
その丁寧さが、胸に熱を灯した。
エルシアはしばらく紙片を見下ろした。あの夜のダリオンの顔を思い出す。彼は彼女を守らなかった。信じなかった。だから、破れた謝罪文ひとつで過去が戻ることはない。
「許すかどうかは、今は決めません」
彼女は静かに言った。
「でも、この謝罪文に残った熱は、なかったことにしません。私のためにも、これから同じように白紙にされる誰かのためにも」
カイの目元がわずかに和らいだ。
「では、北辺伯家と封蝋師エルシア・リュネットの共同記録として扱う」
エルシアはうなずき、銀の印章を取り出した。破れた紙片を封じるための仮封に蝋を落とす。赤い蝋は白い粉を押し返すように光り、小さな熱を取り戻した。
修復庫長が、震える手で別の鍵を差し出した。
「古い誓約庫の目録でしたら、地下にございます。王家の血縁、領地境界、婚姻誓約など、閲覧には本来、宰相府の許可が必要ですが……北辺伯閣下の監査権ならば」
カイは鍵を受け取った。
「案内を」
地下へ続く階段は、灯りが少なく、石壁から湿った冷気がにじんでいた。エルシアは破れた謝罪文を抱え直す。母の名が、なぜ王家の古い誓約庫にあるのか。怖さはある。けれど、もう目を逸らす理由にはならない。
白紙にされた真実は、誰かが破って隠しても、熱だけは残る。
エルシアはその熱を、今度こそ自分の手でたどるつもりだった。




