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封蝋師令嬢は白紙の誓約から幸せを結ぶ  作者: 銀細工ナギ


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第6話 白蝋の産地へ

夜明け前の王都は、雨上がりの石畳に薄い銀色の光をためていた。


エルシアは北辺伯家の馬車に乗り込む前、道具袋の留め具を確かめた。封蝋刀、薄布、記録用の小瓶、そして昨夜預かった銀の印章。重さはわずかなのに、腰のあたりに確かな支えを感じる。


「無理に同行する必要はない」


馬車の扉を押さえたまま、カイが言った。


「白蝋の産地は王都の外れだ。名目上は廃鉱だが、禁制品が動いているなら見張りもいる」


彼の言葉は止めるためのものではなく、危険を正しく渡すためのものだった。エルシアはそれが分かるようになっていた。だからこそ、まっすぐ答えられた。


「触れなければ、分からないことがあります。記録を残すのが私の仕事なら、現場へ行かせてください」


カイは短くうなずいた。


「では、相棒として頼む」


相棒。その響きに、胸が小さく跳ねる。エルシアは膝の上で手を重ね、はしたなく笑みがこぼれないよう窓の外へ目を向けた。


白蝋は、かつて王都北西の白燐谷で採れた。谷に生える白蜜樹の樹脂を、石灰水で何度も晒して作る。熱を保たず、封蝋に混ぜれば誓約の痕跡を鈍らせるため、現在は王城の修復庫に限って保管される禁制品となっている。


馬車が城壁を抜けるころ、空は淡く晴れ始めた。王都の尖塔が遠ざかり、畑と低い丘が広がる。やがて道の端に、古びた看板が傾いているのが見えた。


――白燐谷採蝋所、閉鎖。


文字の半分は苔に覆われていたが、門の錠前だけは新しかった。


「閉じた場所に、新しい錠前ですか」


「人が出入りしている証拠だ」


カイは護衛二人に周囲を見させると、門番小屋へ向かった。小屋には老人が一人、暖炉の灰をかき混ぜていた。北辺伯家の紋章を見ると、彼は慌てて立ち上がる。


「ここはもう王領の預かりで、採蝋はしておりません」


「ならば、先月の搬出記録は何だ」


カイが差し出した写しに、老人の顔色が変わった。エルシアは横からその紙を見た。搬出先は王城修復庫。受領印は確かにある。だが印影の端に、見覚えのある冷たい白さが滲んでいた。


「触れても?」


カイの許しを得て、エルシアは紙の下端へ指を添えた。


普通の封蝋なら、誰かが印を押した瞬間の迷いや緊張が、かすかな熱の揺れとなって残る。けれどこの受領印は、表面だけが整いすぎていた。奥にあるはずの熱が薄く、代わりに乾いた粉のような感触が指にまとわりつく。


「これは、保管庫の蝋ではありません。白蜜樹の樹脂を晒したばかりの、若い白蝋です。まだ灰の匂いが残っています」


老人が息をのんだ。


「わ、わしは何も。昨年から、王都の役人が鍵を預かるようになりまして」


「名は」


「オルセウス様の使いだと。宰相府の補佐官殿の……」


その名を聞いた瞬間、カイの目が細くなった。エルシアも胸の内側が冷えるのを感じた。婚約破棄の夜、場を収めるふりをして彼女を罪人のように扱った男。あの穏やかな声の奥に、同じ冷たさがあった。


採蝋所の奥は、長く使われていないはずなのに床だけが掃かれていた。石壁には白蜜樹の枝が束ねられ、乾燥棚には薄く削られた白い蝋片が並ぶ。窓は内側から布で覆われ、昼の光を拒んでいる。


エルシアは棚の前で立ち止まった。


「この蝋、王城へ運ぶには量が少なすぎます。大きな改竄ではなく、いくつもの小さな封に混ぜるための量です」


「市場の受領札、通行誓約、社交界の招待状」


カイが並べた言葉に、エルシアはうなずく。ひとつひとつは些細で、誰も裁きの場へ持ち込まない。だが積み重なれば、人の評判も家の信用も、少しずつ白紙へ近づけられる。


ふと、乾燥棚の下に落ちた紙片が目に入った。エルシアは膝をつき、薄布越しに拾う。荷札の破れ端だった。


そこには、月と針の透かしが浮かんでいた。


「母の帳面にあった印です」


声が思ったより小さくなった。けれどカイは聞き逃さなかった。


「ここで、君の母上の仕事につながる紙が使われた」


「はい。でも母は白蝋を隠す人ではありません。封蝋を教えるとき、いつも言っていました。契約は人を縛るためだけではなく、守るためにあるのだと」


言いながら、エルシアは指先に力を込めた。誰かが母の名残を使い、誰かの誓約を消そうとしている。その事実が、婚約破棄の夜に受けた侮辱よりも鋭く胸を刺した。


カイは彼女の手元へ視線を落とし、静かに言った。


「怒っていい。記録には冷静さが要るが、怒りまで捨てる必要はない」


エルシアは目を瞬いた。怒りは見苦しいものだと、令嬢として何度も教えられてきた。けれど今の怒りは、誰かを傷つけるためではない。消された熱を、なかったことにしないための火だった。


「では、この火を仕事にします」


「頼もしいな」


短い言葉なのに、カイの声には確かな温度があった。


その時、外で護衛の鋭い声が上がった。カイが扉へ向かい、エルシアも道具袋を押さえて続く。谷へ下りる細道を、一台の荷馬車が慌てて遠ざかっていた。積み荷には粗布がかけられ、その端から白い粉が舞っている。


護衛が追おうとしたが、カイは手を上げて止めた。


「追跡は別隊に任せる。ここを空にするな」


彼はすぐに判断し、採蝋所の封鎖を命じた。エルシアは銀の印章を取り出し、記録紙に蝋を落とす。北辺伯家の山稜と、彼女の職能印。二つの印が並ぶと、白く冷えた部屋の空気に小さな熱が戻った気がした。


門を出るころ、谷の上には昼の光が満ちていた。白蜜樹の葉が風に揺れ、何も知らないように淡く輝いている。


「次は王城の修復庫だ」


カイの言葉に、エルシアはうなずいた。


母の帳面も、白蝋の荷札も、同じ場所へ向かっている。怖さはあった。けれど逃げたいとは思わなかった。


白紙にされた誓約の向こうに、まだ誰かの熱が残っている。


それを読むために、エルシアは封蝋師になったのだから。

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