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封蝋師令嬢は白紙の誓約から幸せを結ぶ  作者: 銀細工ナギ


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第5話 銀の印章を預かる夜

北辺伯家の王都滞在館は、夜になっても灯を落としていなかった。


雨を含んだ外套を預けると、エルシアは案内された記録室の前で足を止めた。扉の向こうから、紙をめくる音と、蝋を温める小さな火の音がする。舞踏会の音楽よりもずっと低く、けれど今の彼女にはその音のほうが落ち着いた。


「入っていい」


カイの声にうなずき、エルシアは室内へ入った。


長机の上には、朝市で預かった受領札、北辺通行誓約の写し、そして銀灰色の蝋塊が並べられていた。壁際には北辺伯家の書記が二人控え、余計な視線を向けずに筆を整えている。


「これから作るのは、証言ではなく記録だ」


カイは椅子を勧めながら言った。


「噂は人の口で形を変える。記録は、後で誰が読んでも同じ場所へ戻れるようにするためのものだ」


エルシアはその言葉を胸の中で反芻した。昨夜まで彼女は、自分の言葉を信じてもらうことばかり考えていた。けれど、信じるかどうかを相手に委ねるだけでは、また誰かの大声に押し流されてしまう。


指先を洗い、薄布で水気を取る。受領札に触れると、昼に読んだ冷たさがまだ残っていた。蜜蝋の甘い残り香の奥に、白蝋特有の空白がある。熱が消えたのではない。熱が、上から白い布で覆われているような感覚だった。


「封をした者は、急いでいました。蝋の縁が片側だけ薄い。けれど、印影は乱れていません」


「慣れている者か」


「はい。少なくとも、初めて白蝋を扱った人ではありません」


書記の筆が走る。エルシアは余計な推測を入れず、指に残る感覚だけを順に告げた。冷たさの深さ、混ぜられた蜜蝋の割合、封じた時刻のおおよその幅。自分の声が記録へ変わっていくたび、胸の震えが少しずつ仕事の形を取っていく。


最後に、カイが銀の小箱を机へ置いた。


「エルシア・リュネット。北辺伯家監査補佐として、臨時印章を預ける」


箱の中には、細い鎖のついた銀の印章が収められていた。印面には北辺の山稜と、封蝋刀を模した小さな線が刻まれている。


エルシアはすぐには手を伸ばせなかった。


「閣下。私に、そこまでの権限をいただいてよいのでしょうか」


「権限だけではない。責任も渡す」


カイは淡々としていた。けれど、その声には市場で彼女を庇ったときと同じ、揺るがない重みがあった。


「この印章を使えば、君の検査記録は北辺伯家の監査文書として扱われる。君を飾るためのものではない。君の仕事が、途中で握り潰されないようにするための道具だ」


道具。


その言葉に、エルシアの肩から力が抜けた。誰かの庇護を示す首飾りではなく、封蝋師の手を守るための印。ならば、受け取る理由があった。


「お預かりします。必ず、記録にふさわしい使い方をします」


銀の印章は、見た目よりも冷たくなかった。掌に置くと、かすかに温まっていく。エルシアは鎖を首にかけず、腰の道具袋へそっと収めた。そこは封蝋刀や小さな布片と同じ、仕事の場所だった。


カイの目元が、ほんのわずかに和らいだ。


「君らしい持ち方だ」


その一言が、思いがけず胸を熱くした。美しいと言われるより、哀れまれるより、ずっと深く届いた。彼はエルシアを傷ついた令嬢としてではなく、仕事をする一人として見ている。


記録の封を終えた頃、書記の一人が古い台帳を運んできた。


「市場の受領札に使われた紙商を調べました。同じ透かしの紙が、八年前にも王城へ納められています」


カイが台帳を開く。黄ばんだ紙の端に、月と針を組み合わせた小さな透かしが浮かんでいた。


エルシアは息を止めた。


「その印、知っています」


「紙商を?」


「いいえ。母の遺した封蝋帳に、同じ印が押されていました。母は亡くなる前、王家の古い誓約の修復に関わったことがあるとだけ、父に話していたそうです」


言葉にした瞬間、記録室の火が小さく揺れたように見えた。


エルシアの母、セレーネ・リュネット。穏やかで、封蝋の道具をいつも丁寧に磨いていた人。彼女が残した帳面は実家の工房にある。幼いエルシアには難しすぎて、月と針の印だけを栞のように覚えていた。


カイはしばらく黙っていたが、やがて台帳を閉じた。


「明日、君の実家へ人を送る。帳面を取り寄せる許可を、君から出せるか」


胸の奥に、古い痛みが触れた。婚約破棄の夜以来、リュネット家からは一通の手紙も来ていない。父は沈黙し、使用人たちも噂の中で息を潜めているのだろう。


けれど母の帳面が、この白蝋へつながるなら。


「出します。母の仕事まで、白紙にされたくありません」


カイはうなずき、封蝋皿に銀灰色の蝋を落とした。


「では、今夜の記録を閉じよう」


エルシアは預かったばかりの銀の印章を取り出す。蝋の表面へそっと押し当てると、山稜と封蝋刀の線が浮かび上がった。その下で、彼女自身の職能印が小さく寄り添う。


二つの印は重ならない。どちらかがどちらかを消すこともない。


並んで、同じ記録を守っている。


エルシアは初めて、その形を美しいと思った。


窓の外では、雨がようやく止みかけていた。王都の夜はまだ冷たい。けれど机の上の封蝋には、消されなかった熱が残っている。


銀の印章を道具袋に戻し、エルシアはまっすぐ顔を上げた。


真実へ続く細い道は、もう一人で歩くものではなくなっていた。

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