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封蝋師令嬢は白紙の誓約から幸せを結ぶ  作者: 銀細工ナギ


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第4話 雨の市でほどける噂

夜明け前から、王都には細い雨が降っていた。


石畳を打つ音はやわらかいのに、エルシアの胸の中では、昨夜の閲覧室の扉を叩く音がまだ響いている。北辺通行誓約の仮報告は、王城と北辺伯家の双方で保全された。契約は消えていない。白蝋で隠されている。


それを証明できたのだと、頭ではわかっている。


けれど王城を出ると、濡れた空気はすぐに別の現実を運んできた。


「あれがリュネットのご令嬢だって」


「婚約者の家の契約書に細工したんだろう」


「いや、北辺伯が連れていったそうだ。何か別の証拠が出たとか」


傘の下で交わされる声は、雨粒よりも細かく、どこからともなく肌へしみ込んだ。エルシアは外套の襟を少し上げる。顔を隠したい気持ちと、隠してはならないという気持ちが、胸の中でぶつかった。


隣を歩くカイは、足を止めなかった。


「市場を通る」


「宿へ戻るのではないのですか」


「戻る前に、君に見せておきたいものがある。王城の中で何が書かれても、王都で噂を運ぶのはこの場所だ」


朝市は雨でも開いていた。魚籠には銀の腹が並び、薬草売りの屋根布からは、湿った甘い香りが落ちている。パン屋の竈だけが晴れの日のように明るく、細い路地には配達人や小商人が肩を寄せていた。


広場の端に、掲示板があった。王令や税の告知、失せ物札、職人組合の募集が、何層にも重ねて貼られている。その下には雨を避けるための浅い軒があり、人々はそこで噂を確かめ、また別の誰かへ渡していくのだという。


エルシアは掲示板の一角に目を留めた。


『リュネット伯爵令嬢、契約書改竄の疑い』


乱暴な筆で書かれた紙片だった。正式な告知ではない。封も印もない。けれど、そこに集まる視線は、昨夜の大広間と同じ冷たさを持っていた。


カイが従者へ合図すると、従者は軒下の管理人に銅貨を渡し、一枚の小さな告知を掲示板へ留めた。銀灰色の封蝋が雨雲の光を受けて鈍く光る。


『北辺通行誓約に白蝋処理の疑いあり。仮検査人、エルシア・リュネット封蝋師』


たったそれだけの文だった。弁明も、嘆きも、誰かを責める言葉もない。


それでも、空気が変わった。


「白蝋だって?」


「禁制品じゃないか」


「じゃあ、昨夜の騒ぎは何だったんだ」


囁きは消えない。ただ、向きが少しずつ変わっていく。エルシアを刺していた針の先が、別の暗がりを探り始めるのがわかった。


薬草売りの老婆が、じっと告知を読んでから顔を上げた。


「あんた、封蝋師なのかい」


「はい」


「なら、これを見ておくれ。昨日の夕方、妙な買付書を持ってきた若い衆がいてね。雨に濡れても字がにじまないから気味が悪かった」


老婆が差し出したのは、薬草の束に添えられていた小さな受領札だった。エルシアは礼を言って受け取り、紙の端に指を添える。商いの札に強い誓約は宿らない。けれど、使われた封蝋の名残くらいは読める。


指先に、薄い冷たさが触れた。


「白蝋です。ただし、純粋なものではありません。蜜蝋に混ぜています」


カイの目が細くなる。


「出所を隠すためか」


「おそらく。封をした人は、禁制品だと知って扱っています」


老婆は眉をひそめた。


「買付に来たのはローデン家の使いだと言っていたよ。お嬢様の茶会に薬草蜜を使うんだとか。けれど、王都の令嬢が北辺の薬草をそんな急に欲しがるものかね」


ローデン。


その名に、エルシアは昨夜の大広間を思い出した。ダリオンの隣で微笑んでいたマリアベル・ローデン。白い手袋、甘い香水、そして彼女が持っていた封筒の、妙に冷えた口。


けれどエルシアは、すぐに言葉を飲み込んだ。ここで名を出せば、また噂になる。証拠ではなく、憶測として。


「この札を、預からせていただけませんか」


「構わないよ。あたしらには、まっとうに薬草を売れればそれでいい。北辺の道が止まると、困るのは貴族様だけじゃないんだ」


その言葉は、雨に濡れた市場の匂いと一緒に、エルシアの胸へ深く入った。契約書の一行は、紙の上だけにあるのではない。薬を買う者、運ぶ者、売る者の朝を支えている。


自分が読んだ熱は、そういう人々の暮らしの熱だったのだ。


掲示板の前で、さっきまで彼女を見ていた若い配達人が帽子を取った。


「リュネット封蝋師、昨日は失礼なことを言いました。うちの親方が、北辺の塩道には世話になっているんです」


謝罪は小さく、ぎこちなかった。それでもエルシアは、胸の奥の固い結び目がほんの少し緩むのを感じた。


「ありがとうございます。まだ、すべてが明らかになったわけではありません」


「でも、調べてくれる人がいるならいい」


その一言に、カイが静かにうなずいた。


雨は強まっていた。広場の端で、例の乱暴な紙片が水を吸い、端から剥がれかけている。誰かがそれを直そうとして、隣の銀灰色の告知を見た。そして手を止めた。


エルシアは外套の内側に受領札をしまう。


「北辺伯閣下。私は、この札の熱を記録します。ローデン家の名だけでは足りません。でも、白蝋が市場を通ったことは示せます」


「では今夜、北辺伯家の滞在館で正式に記録を取る。君には監査補佐としての印章が必要になる」


「私の職能印では、不十分ですか」


「君自身の資格は十分だ。だが、君を守る肩書きがまだ薄い」


カイはそこで、少しだけ声を落とした。


「王都の噂は速い。だからこちらは、手続きで先に道を作る」


雨音の向こうで、鐘が朝の刻を告げた。昨夜までエルシアは、社交界の中心から追い落とされた令嬢だった。けれど今、濡れた市場の真ん中で、誰かの暮らしを守る契約を読み、誰かの小さな謝罪を受け取っている。


失った場所の代わりに、仕事が足元を照らし始めていた。


掲示板では、銀灰色の封蝋が静かに熱を残している。


雨にほどけた噂の隙間から、真実へ続く細い道が見えた。

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