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封蝋師令嬢は白紙の誓約から幸せを結ぶ  作者: 銀細工ナギ


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第3話 嘘を覚えた契約書

「嘘を、覚えさせる?」


王城書庫の役人は、古びた筒を胸に抱え直したまま声を震わせた。回廊の燭火は夜更けの風に小さく揺れ、緑の封蝋に刻まれた王家の印章を暗く照らしている。


エルシアはうなずいた。


「契約そのものを書き換えた熱ではありません。もっと薄く、後から紙の繊維に染み込ませた熱です。読む者に、ここは最初から空白だったと思わせるための……」


言いながら、自分の指先が冷えていくのを感じた。白蝋は誓約の痕跡を薄める禁制品だと、職能組合では何度も教えられている。けれど、白蝋だけでは契約書に新しい記憶を残せない。誰かが古い誓いの熱をなぞり、別の意味を重ねたのだ。


カイは役人へ短く告げた。


「書庫の小閲覧室を借りる。立会人を二名。王城側から一名、北辺伯家から一名だ」


「し、しかし閣下、夜分に正式閲覧を開くには宰相府の印が」


「通行誓約は北辺領の権利に関わる。監査権限の範囲内だ。印が必要なら、私のものを使う」


穏やかな声だった。だが役人はそれ以上反論できず、青い顔のまま先導した。


小閲覧室は石壁に囲まれ、窓のない部屋だった。中央の卓には傷を避けるための鹿革が敷かれ、四隅に魔力灯が置かれている。エルシアは採用通知を胸元の内ポケットへしまい、手を洗ってから、古い契約書の封を見つめた。


百年前、王都と北辺領の間で結ばれた通行誓約。山道の保守を北辺領が担う代わりに、王都は塩と薬草の輸送税を免じる。北辺の冬を越すための命綱だと、カイが簡潔に説明した。


「もし免税条項が消えれば、北辺は春までに薬代を倍払うことになる」


「だから、消したい方がいるのですね」


エルシアの言葉に、カイは否定しなかった。


封蝋師は契約書を破らずに読む。まず蝋の縁へ息を吹きかけ、眠っている熱を起こす。次に印章の溝を目で追い、誓った者の意思が途切れていないかを確かめる。最後に、紙と蝋の境へ指を置く。


エルシアはゆっくりと右手を伸ばした。


最初に触れたのは古い暖かさだった。炉の奥に残る炭火のような、弱くても消えていない誓い。山道を守る者と、そこを通って生きる者の熱が重なっている。


けれど、その奥に冷えた膜があった。


白い。色ではなく、感触が白い。何もなかったことにするための滑らかな冷たさが、免税条項の一行だけを薄く包んでいた。


「ここです」


エルシアは指を離し、卓上の細い銀針を借りた。針先を蝋に刺すのではなく、光だけを当てる。誓約の熱を読む者が使う、封蝋師の検査針だった。


銀針の影が、紙の上でほんの少し歪んだ。


立会人の一人が息をのむ。王城側の書記官だった。彼は老眼鏡をかけ直し、震える手で記録板へ線を書いた。


「文字が……浮いた?」


「消えかけた文字ではありません。見えないよう、上から別の誓約熱をかぶせてあります」


エルシアは自分の携帯印章を卓に置いた。リュネット家の月桂ではなく、その裏面に彫られた小さな職能印を上にする。まだ組合から取り上げられていない、彼女自身の資格の印。


「封蝋師エルシア・リュネットの名において、検査結果を申し立てます。北辺通行誓約の免税条項は、原文の熱を保っています。ただし、後年の白蝋処理により、空白であるかのような偽装を受けています」


声は思ったよりもまっすぐ出た。


王城側の書記官が顔を上げる。


「では、契約はまだ有効だと?」


「はい。少なくとも、無効と断じる根拠はありません」


その瞬間、部屋の扉が外から叩かれた。返事を待たずに入ってきたのは、薄金の飾緒をつけた青年官吏だった。彼の後ろに、見覚えのある栗色の髪が揺れる。


ダリオン・ヴェルク。


エルシアの胸が一拍だけ強く鳴った。彼は宴の時とは違い、やや乱れた礼装のまま、こちらを見て立ち止まった。彼の視線はエルシアの顔ではなく、卓上の契約書と銀針に落ちる。


青年官吏が冷たく言った。


「その閲覧は宰相補オルセウス様の許可を得ていない。加えて、リュネット嬢は今夜、改竄の嫌疑を受けた当事者だ。検査人として不適格ではありませんか」


空気が凍った。


エルシアは唇を結んだ。怖くないと言えば嘘になる。つい先ほどまで、自分の言葉は誰にも届かなかった。ここでまた否定されれば、採用通知の熱さえ夢だったように思えてしまうかもしれない。


けれど、カイが一歩も動かずに答えた。


「不適格かどうかは、手続きで決める。今ここにあるのは、二名の立会人の前で出た検査結果だ」


「北辺伯閣下」


「それと、彼女を呼び捨てるな。監査補佐として雇用した。職務中の名は、リュネット封蝋師だ」


淡々とした訂正だった。怒鳴られたわけでもないのに、青年官吏は口をつぐんだ。


ダリオンが、ようやく声を出した。


「エルシア……君は、本当にその契約書が読めるのか」


その問いは、信じたいからではなく、自分の足元が揺れ始めた者の声だった。エルシアは傷つきそうになる心を押さえ、卓の向こうから静かに見返した。


「読めます。私はずっと、そうしてきました」


ダリオンは何も返せなかった。


カイは書記官に記録板を差し出させ、検査内容を確認したうえで自分の印章を取り出した。銀灰色の蝋が小さな炎に溶け、紙の端に落ちる。そこへ北辺伯家の鷹の印が押されると、閲覧室に澄んだ熱が広がった。


「今夜の結果は仮報告として保全する。原本は王城書庫で封鎖。写しを二通作り、一通は王城、一通は北辺伯家が持つ」


青年官吏が青ざめた。


「宰相府に先に通すべきです」


「改竄の疑いがある文書を、疑いの届く先へだけ預ける理由はない」


その言葉に、エルシアは初めて気づいた。カイはまだ誰の名も告発していない。だが、白蝋を扱える者、古い誓約に触れられる者、そして北辺の権利を消して得をする者は、限られている。


彼女の濡れ衣も、ただの社交界の醜聞ではなかったのかもしれない。


ダリオンが一歩近づきかけ、カイの従者に視線だけで止められた。エルシアは彼を追わず、古い契約書へもう一度目を向けた。冷たい白い膜の下で、百年前の約束はまだ小さく灯っている。


「北辺伯閣下」


「何だ」


「この熱を、完全に表へ戻すには時間が必要です。でも、消えていないと証明することはできます」


カイの灰色の目が、灯の下でわずかに和らいだ。


「十分だ。今夜はそれで、君の仕事としては最上だ」


最上。


その一言が、婚約破棄の夜に浴びせられたどんな言葉よりも深く胸に沈んだ。エルシアは小さく息を吸い、職能印を手に取る。


まだ、すべてを失ったわけではない。


嘘を覚えた契約書は、真実もまた忘れていなかった。

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