第2話 北辺伯の採用通知
薔薇の間を出た途端、夜気は驚くほど冷たかった。
王城の長い回廊には、宴の名残である花弁が点々と落ちている。先ほどまでその花の下で祝福されるはずだったのに、今のエルシアに向けられる視線は、遠巻きな好奇とあからさまな侮りばかりだった。
「リュネット嬢」
呼び止めたのはカイ・ノルヴァルトだった。黒い礼装の上に北辺伯家の外套を羽織った彼は、周囲のざわめきを気にした様子もなく歩み寄ってくる。
「指を見せてほしい」
「え……」
「追放状の封蝋に触れたとき、痛めただろう」
エルシアは反射的に右手を隠しかけた。だが、彼の声に責める響きはない。差し出すと、親指と人差し指の腹が赤くなっていた。火傷ではない。偽りの熱に触れた封蝋師だけが残す、細い針で刺されたような痕だ。
カイは従者から小さな薬瓶を受け取り、彼女の手には触れず、瓶だけを差し出した。
「北辺領で使う冷香油だ。痕は残らない」
「ありがとうございます」
「礼は不要だ。君の証言がなければ、あの場の誰も白蝋に気づかなかった」
エルシアは回廊の奥を見た。ダリオンはまだ広間にいるのだろう。彼の声も、マリアベルの泣きそうな顔も、思い出せば胸の内側を冷たい手で撫でられるようだった。
それでも、カイが差し出した銀の革筒だけは温かい。
「先ほどのご依頼ですが、私が受けてもよろしいのでしょうか。今の私は、王都の職能組合から除名されるかもしれません」
「除名の決定は、正式な監査が終わるまで効力を持たせない」
「そんなことが可能なのですか」
「可能にするための文書を、今ここで作る」
カイが手を上げると、従者が携帯用の書板を開いた。白い羊皮紙、黒鉄のペン、銀灰色の封蝋。どれも無駄がなく、宴の飾りとはまるで違う実務の匂いがした。
「北辺伯家監査補佐、契約修復担当。任期は三月。報酬は王都封蝋師の標準額に危険手当を加える。滞在費、道具費、往復の護衛は当家が負担する」
淡々と読み上げられる条件に、エルシアは瞬きを忘れた。
「危険手当、ですか」
「白蝋が絡むなら危険だ。君を安く使うつもりはない」
その言葉は、妙に胸に残った。エルシアは伯爵令嬢である前に、封蝋師として育てられた。けれど王都では、女の技は家の飾りか婚約の添え物として扱われがちだった。正当な報酬の話を、これほど当然のようにされたことは少ない。
カイは書き上げた採用通知を彼女へ向けた。
「読めるか」
エルシアは指先に冷香油をなじませ、銀灰色の封蝋へそっと触れた。
温かい。
炎のような強さではない。冬の朝、石造りの工房で最初に灯した炉の熱に似ている。約束を守る者の熱。自分の都合だけで相手を縛ろうとしない、静かな温度だった。
「正しい誓約です。ただ、ひとつだけ」
カイの眉がわずかに動いた。
「何か不備があるか」
「私が北辺伯家に従属する、という文言に読める箇所があります。監査補佐として職務に従うことと、人として従属することは違います」
従者が息をのむ。エルシア自身も、言い終えてから少しだけ怖くなった。追放状を突きつけられたばかりの身で、北辺伯の文書に口を出すなど、礼を欠くと思われても仕方がない。
だがカイは、怒らなかった。
「君の言う通りだ」
彼は迷いなく一行を削り、書き直した。
「北辺伯家は、エルシア・リュネットの専門判断を尊重し、職務上必要な独立を妨げない。これでどうだ」
再び封蝋に触れた瞬間、熱はいっそう澄んだ。エルシアの喉の奥に、こらえていた息がほどける。
「はい。これなら、私も誓えます」
彼女は自分の携帯印章を取り出した。月桂の葉先が三枚、欠けずに彫られたリュネット家の印だ。赤い蝋ではなく、カイが用意した銀灰色の蝋へ押すと、二つの熱が重なって、手のひらに小さな灯を残した。
そのとき、回廊の向こうから足音が近づいた。王城書庫の役人らしき男が、青ざめた顔で一通の筒を抱えている。
「北辺伯閣下。先ほどのご指示どおり、北辺通行誓約の写しをお持ちしました」
カイは採用通知をエルシアへ渡し、役人から古びた筒を受け取った。封は黒ずんだ緑。王都と北辺領を結ぶ山道の通行権を定めた、百年前の誓約だという。
「これが最初の仕事だ。無理なら明朝でいい」
「いいえ、触れさせてください」
エルシアはそう答えていた。失ったものの多さに震えるより、今は目の前の誓約を読みたかった。自分の指が、まだ真実に届くのだと確かめたかった。
古い封蝋へ触れた瞬間、彼女は息を止めた。
冷たいのではない。熱がないのでもない。
その封蝋は、誰かの声を覚えていた。百年前の誓いではなく、つい最近、紙の奥へ押し込められた小さな嘘の熱を。
「リュネット嬢?」
カイの声が近い。エルシアは指を離し、かすかに震える唇で告げた。
「この契約書は、白紙になりかけているのではありません」
回廊の燭火が、銀灰色の採用通知を静かに照らしている。エルシアは胸元にそれを抱き、もう一度、古い封蝋を見つめた。
「誰かが、契約書に嘘を覚えさせています」




