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封蝋師令嬢は白紙の誓約から幸せを結ぶ  作者: 銀細工ナギ


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第1話 追放状の赤い封蝋

王城の薔薇の間には、春の花よりも濃い香油の匂いが満ちていた。


伯爵令嬢エルシア・リュネットは、銀糸の手袋をはめた指先を胸の前で重ね、壇上に置かれた誓約書を見つめていた。今夜は、彼女と子爵家嫡男ダリオン・ヴェルクの婚約を正式に披露する夜のはずだった。


誓約書の封蝋は深い赤。ヴェルク家の鷹とリュネット家の月桂が並び、燭台の光を受けて小さく艶めいている。けれどエルシアの目には、その赤が妙に薄く見えた。正しい誓約に残る、手のひらを温めるような光がない。


「エルシア」


名を呼んだダリオンの声は、昨日までの婚約者のものではなかった。彼は広間の中央で一礼し、集まった貴族たちへ向き直る。隣には、白薔薇の髪飾りをつけたマリアベル・ローデンが寄り添っていた。


「私は今宵、この婚約を破棄する」


ざわめきが波のように広がった。エルシアは息をのんだが、膝だけは折らなかった。彼女は封蝋師の家に生まれた娘だ。誓約の前で取り乱せば、それだけで真実は見えにくくなる。


ダリオンは従者から別の羊皮紙を受け取り、赤い封蝋を掲げた。


「リュネット伯爵令嬢は、両家の契約条項を勝手に書き換え、持参金の返還権を己の家へ移そうとした。これは証拠だ。封蝋は彼女の工房で用いられる配合と一致している」


視線が一斉にエルシアへ刺さった。


「違います。その封蝋は、私が結んだものではありません」


声は震えなかった。けれど誰も、聞く前から答えを決めている顔をしていた。ダリオンの母は扇で口元を隠し、マリアベルは困ったように眉を下げる。その仕草だけで、広間の同情は彼女へ流れていった。


「ならば、封蝋師として読んでみせろ」


ダリオンが勝ち誇ったように羊皮紙を差し出した。エルシアは一歩近づき、手袋を外した。素肌の指先で封蝋に触れる。熱は、嘘をつかない。


本来、誓約の蝋は結ばれた瞬間の意志を覚える。誠実な誓いは灯に似た温かさを残し、迷いは水を含んだ灰のように冷える。エルシアは幼い頃から、そのわずかな温度を読むことができた。


赤い封蝋は、表だけが熱かった。貴族たちに見せるための、作られた熱。奥には白く乾いた空洞があり、そこから細い冷気が這い上がってくる。


「これは二度、押し直されています。最初の印は消され、別の蝋で上から覆われている。赤に混ぜられた白蝋が、誓約の痕跡を薄めています」


「禁制品の名を出して逃げるのか」


ダリオンの声が鋭くなった。


「逃げません。封蝋の縁を見てください。私の印章なら月桂の葉先が三枚残るはずです。これは二枚しかありません。似せていますが、私の印ではない」


彼女の説明に、近くの老侯爵が目を細めた。だがダリオンは追放状を彼女の足元へ投げた。


「詭弁だ。リュネット家は本日をもって王都の社交から退くべきだろう。エルシア、君の名を私の誓約から消す」


足元の羊皮紙には、すでに赤い封蝋が押されていた。婚約破棄ではない。王都の職能組合から彼女を除名し、封蝋師としての仕事を奪うための追放状だった。


その蝋に触れた瞬間、エルシアの指先は焼けるように痛んだ。熱ではない。無理に温められた偽物の痛みだ。誰かが彼女の技を知り、彼女が読めると承知のうえで、あえて毒のような熱を残している。


「この追放状も、誓約として成立していません」


「まだ言うか」


「署名した者の意志が足りないのです。恐れと命令の熱しかない。これは誰かに書かされた文書です」


広間の奥で、低い笑いがした。エルシアが顔を上げると、壁際に立つ黒衣の男性と目が合った。北辺伯カイ・ノルヴァルト。王国の監査を担う若き領主で、社交の噂よりも帳簿と条約を重んじる人物だと聞いている。


「面白い」


彼の声は静かだったが、ざわめきを断つだけの重さがあった。


「北辺伯、これは我が家の問題です」


ダリオンが焦ったように言う。カイは彼を見ず、床の追放状を拾い上げた。


「我が家だけの問題ではない。禁制の白蝋が王城内の誓約に使われた可能性を、封蝋師が指摘した。監査官として見過ごせない」


カイは封蝋の端を光にかざした。赤の奥に、粉雪のような白い筋が走っている。


「リュネット嬢。君は今、二つの文書に残る異常を即座に読んだ。王都の組合が君を退けるなら、北辺伯家が職務として依頼する」


エルシアは返事を忘れた。追放状を突きつけられたばかりの自分に、仕事を任せる者がいるとは思わなかったからだ。


カイは小さな革筒を差し出した。封は銀色。触れる前から、まっすぐな温かさが伝わってくる。


「北辺領に保管された古い通行誓約が、近頃になって白紙化し始めた。王都の封蝋師は皆、原因不明と報告している。君の目と指なら、読めるかもしれない」


「私を、信じてくださるのですか」


「文書を信じる。熱を信じる。そして、熱を前にして嘘を急がなかった君を信じる」


その言葉は、広間のどの拍手よりも温かかった。エルシアは追放状から手を離し、痛む指先を胸元に引き寄せる。


婚約は破られた。名誉も職も、赤い封蝋で奪われようとしている。


けれど、白く空いた誓約の底に、まだ消えていない熱があった。誰かが隠した真実は、必ず封蝋の奥に残る。


エルシアはカイから革筒を受け取った。


「お受けします。私は封蝋師です。結ばれた誓いが本物かどうか、最後まで読み届けます」


その夜、薔薇の間に残った赤い封蝋は、彼女を追い出すための印ではなくなった。


それはエルシア・リュネットが、自分の手で新しい誓約を結び直すための、最初の証となった。

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