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封蝋師令嬢は白紙の誓約から幸せを結ぶ  作者: 銀細工ナギ


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第19話 新しい誓約の条件

公開審問の翌朝、王宮の誓約庫には冬のような静けさが沈んでいた。


昨夜のうちにオルセウス宰相補の印章は封じられ、関係書庫には王家の銀鎖が掛けられた。けれど、エルシアの胸に晴れやかさは少なかった。罪を暴いただけでは、消された年月の寒さは戻らない。橋を直せず遠回りを強いられた人も、届くはずの外套を待った子どもも、誓約の空白の中で確かに暮らしていたのだ。


長卓の上には、再審理のために集められた古い文書が積まれている。白蝋を削がれた封蝋は、まだ本来の温度を取り戻していない。エルシアはそのひとつに指を添えた。喉の奥がかすかに震える。声は、昨日より少しだけ戻っていた。


「……熱は、弱いです」


かすれた一言に、隣のカイが息を止めた。驚きが顔に出たのは一瞬だけで、すぐに彼はいつもの静かな目で頷く。


「無理はしなくていい」


「無理ではありません。今、言っておかないといけないことです」


エルシアは書記官たちを見回した。老大臣、王家の監査官、北辺の使者、橋守組合の代表、孤児院の院長。昨日まで同じ卓に着くことなど考えられなかった人々が、今日は一枚の誓約書を前に座っている。


老大臣が羊皮紙を広げた。


「旧北辺扶助誓約を復旧し、以後は王家の名において履行する。これが骨子だ。北辺伯、異存は」


「あります」


カイの返答は短かった。


書記官たちがざわめく。老大臣も眉をひそめたが、カイは礼を崩さない。


「復旧だけでは足りません。古い誓約が消された理由は、一部の者だけが保管し、一部の者だけが読めたからです。新しい誓約は、守られる側も確かめられる形にしてください」


橋守の代表が、太い指で帽子を握りしめた。


「俺たちが、王家の書庫を覗けるように、ということですか」


「すべてではありません。けれど、扶助がいつ、どこへ、どれだけ届けられたか。その履歴は町の印章所にも写しを残すべきです」


エルシアは頷き、小さな紙片を卓に置いた。昨夜、眠れないまま書いた条件だった。


一、誓約の原本は王家、北辺領、認可された市井の印章所に分けて保管すること。


二、扶助の履行記録は毎年公開し、受け取る者の印章を証として残すこと。


三、白蝋その他の禁制品を用いた封印は、身分にかかわらず審問の対象とすること。


四、封蝋師は貴族の飾り職ではなく、誓約を見守る職能として王国法に記すこと。


読み上げるほどに、喉が焼けるように痛んだ。それでもエルシアは最後まで声を途切れさせなかった。


老大臣は長く沈黙した。王家にとって都合のよい条件ではない。だが、昨日の大広間で民の印章が灯った光景を、この場の誰も忘れてはいなかった。


「リュネット令嬢。これは王家を疑う条件だ」


「いいえ」


エルシアは首を振った。


「信じ続けるための条件です。疑わずにいられる仕組みがなければ、誓約はまた誰かの沈黙に頼ります。私は、もう沈黙を封にしたくありません」


孤児院の院長がそっと目元を押さえた。橋守の代表は大きく頷き、北辺の使者は胸に手を当てる。老大臣の表情から固さが少しずつほどけていった。


「封蝋師の職能を法に記すとなれば、王宮工房の反発は避けられぬ」


「反発があるなら、公開試験を設けてください」


エルシアは膝の上で指を組んだ。


「血筋ではなく、熱を読み、誓約を扱う手順を守れる者を認めてください。私だけの仕事にしてはいけません。私一人が倒れたら、また白紙が生まれます」


カイがそこで初めて口元を緩めた。


「北辺は試験場と工房を提供します。王都が迷うなら、こちらから始めればいい」


「北辺伯、あなたはいつも先に橋を架けようとする」


老大臣のぼやきに、カイは静かに返した。


「遠回りに慣れた土地ですから」


卓に小さな笑いが生まれた。張りつめていた空気が、少しだけ人の息に戻る。


やがて老大臣は新しい羊皮紙を取り寄せた。書記官が条件を書き写す音が誓約庫に響く。エルシアは封蝋皿に金と琥珀を落とし、そこへ北辺の松脂を一滴加えた。王家だけの色でも、北辺だけの色でもない。灯に温められた蝋は、朝日のように澄んだ色へ変わった。


「封を」


老大臣が促す。


だがエルシアは印章を持ち上げたまま、首を横に振った。


「最初の印は、私ではありません」


彼女は橋守の代表に視線を向けた。男は目を丸くし、ついで慌てて自分の古い印章を取り出す。


「俺で、いいんですか」


「約束を受け取る人の手から始めたいのです」


震える手が蝋に下りた。赤銅の印が灯る。続いて院長の薄金、北辺の使者の青灰、王家の銀。最後にカイが北風の印を押した。いくつもの光が重なっても、互いを消さない。むしろ中心の空白を、温かく照らしていた。


エルシアはその最後の余白に、自分の小さな印を添えた。


その瞬間、胸の奥からふっと息が通った。


「結ばれました」


今度の声は、確かに誓約庫へ届いた。


老大臣は深く頭を下げた。身分ある者が令嬢に向けるには重すぎる礼だった。


「王家は、この誓約を守る」


エルシアは返礼し、けれどすぐに言った。


「守ったかどうかを、皆で確かめます」


老大臣は苦笑しながら頷いた。


昼過ぎ、誓約庫を出ると、回廊の窓から王都の屋根が見えた。昨日まで噂の声で冷たかった街が、今日は遠くから鍛冶場の槌音や荷車のきしみを響かせている。何もかもが一日で癒えたわけではない。それでも、白紙にされたものを白紙のままにしない道は開いた。


カイが隣に並ぶ。


「君はまた、難しい条件を通した」


「あなたが異存を唱えてくれたからです」


「私は君の考えを聞きたかっただけだ」


その言葉は穏やかで、少しずるかった。エルシアは窓辺に手を置き、朝の光を受ける自分の指先を見た。熱は戻った。声も、少しずつ戻っている。では、ずっと胸に残っていたもうひとつの言葉は、いつなら封じずに差し出せるのだろう。


カイが懐から小さな包みを出した。中には、何の紋も刻まれていない銀の印章台がある。


「急がせるつもりはない。これは、北辺の工房で作らせた。君が望む名と形を刻めるよう、白いままにしてある」


エルシアは息を呑んだ。白紙とは違う。これは、消された空白ではなく、これから選べる余白だった。


「私に、ですか」


「君が君自身の誓約を結ぶために」


カイの耳元がわずかに赤い。エルシアはその不器用な優しさに、胸が痛いほど温かくなった。


「では、刻む言葉を考えます」


「いつまででも待つ」


「いいえ。あまり待たせません」


そう答えると、カイは驚いたように瞬きをした。エルシアは初めて、自分から微笑んだ。


王家と北辺と町を結ぶ新しい誓約は、今日ここに形を得た。


残るのは、誰かに命じられた婚約ではなく、誰かを黙らせる封でもなく、エルシア自身が選ぶ約束だった。


彼女は白い印章台を両手で包み、明日の朝、金の蝋を溶かそうと決めた。

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