第20話 幸せを結ぶ金の封蝋
北辺へ戻る馬車の窓から、エルシアは薄く雪化粧した街道を見つめていた。
王都を発つ朝、老大臣は新しい扶助誓約の写しを市井の印章所へ運ばせた。オルセウス宰相補の罪は、王家の審理に預けられる。白蝋を運んだ者たちも、身分にかかわらず調べを受けることになった。噂を広めた者、沈黙した者、見て見ぬふりをした者。そのすべてが一日で正されるわけではない。
それでも、荷馬車には孤児院へ渡る毛布と、橋守組合へ届ける補修金の証書が積まれていた。消された約束が、初めて現実の重さを持って動き出している。
向かいの席で、カイが封筒を差し出した。
「ダリオンからだ。君が受け取りたくなければ、私が返す」
エルシアは少し迷い、封だけを指先で確かめた。熱は小さく、苦かった。けれど、偽りの冷たさはない。
中には短い謝罪と、ヴェルク家が不正に得た便宜を返還する手続きに入ったことが記されていた。マリアベルもまた、自分が白蝋を知らずに運ばされた経緯を証言し、社交界から退くという。
「許せるかどうかは、まだ分かりません」
「分からないままでいい」
カイの声は穏やかだった。
「君の幸せは、誰かを許す義務でできているわけではない」
その言葉に、エルシアは胸の奥で固く結ばれていた糸がほどけるのを感じた。婚約破棄の夜から、彼女はずっと正しさを示そうとしてきた。けれどこれからは、正しさのためだけでなく、自分が温かいと思う場所へ手を伸ばしていいのだ。
北辺の町に着いたのは夕刻だった。
工房の前には、思いがけないほど多くの人が待っていた。橋守の親方、孤児院の子どもたち、印章所の若い職人、毛織り組合の女主人。王都から戻ったばかりのエルシアを見ると、誰からともなく帽子が上がり、扉の上に新しい看板が掲げられた。
「エルシア工房。王国認可封蝋師試験所」
板に刻まれた文字を見た瞬間、エルシアは言葉を失った。喉が痛むからではない。胸の中に、言葉より先に熱が満ちたからだった。
「勝手に作ったのですか」
「王家の認可状は正式に届いている」
カイは少しだけ目をそらした。
「看板の文字は、町の者たちが譲らなかった」
子どものひとりが小さな包みを差し出した。中には乾かした北辺の花と、古い封蝋の欠片が入っている。
「みんなの約束が、またあったかくなりますようにって」
エルシアは膝を折り、包みを受け取った。
「必ず見守ります。私一人ではなく、ここで学ぶ人たちと一緒に」
翌朝、工房の炉には金の蝋が置かれた。王家の銀、北辺の松脂、市井の赤銅、母リュネットが残した透明な蜜蝋を少しずつ混ぜたものだ。溶けていく色は派手ではない。けれど、光を受けるたびに内側から柔らかく輝いた。
エルシアは、カイにもらった白い印章台を机に置いた。夜通し考えた末、そこに刻んだのは家名でも爵位でもなかった。
「結び直す者」
カイが低く読み上げる。
「君らしい名だ」
「壊れたものを、すべて元どおりにできるとは思いません。でも、白紙にされたままにはしません。誰かの約束が冷えきる前に、もう一度、熱を確かめたいのです」
エルシアは金の蝋を羊皮紙に落とした。そこには王家の誓約ではなく、北辺伯の命令書でもなく、彼女自身が書いた短い誓いがある。
一、誓約を身分ではなく真実によって読むこと。
二、沈黙を強いられた者の手にも印章を返すこと。
三、隣に立つ人を信じ、同じだけ信じられる人であること。
最後の一文を書いた時、指先が震えた。カイは何も急かさず、ただ隣にいた。だからエルシアは顔を上げ、自分の声で言えた。
「カイ様。私は、あなたと誓約を結びたいのです。仕事の相棒としてだけでなく、これからの道を共に選ぶ人として」
炉の火が小さく鳴った。カイは一度だけ息を呑み、それから深く、まっすぐに礼をした。
「私も同じ願いを持っている。君を守るためだけではなく、君に並ぶために生きたい」
彼は自分の印章を取り出した。北風の紋は、いつもより柔らかく見えた。
「エルシア。私の名と領地と、これから得るすべての喜びを、君と分かち合いたい」
返事はもう決まっていた。エルシアは金の封蝋へ新しい印章を下ろす。続いてカイの印が隣に重なった。二つの紋は互いを隠さず、ひとつの円を結ぶ。そこから広がった熱は、王宮の誓約庫で感じたどの光よりも静かで、確かだった。
「結ばれました」
今度の声は震えなかった。
春が来るころ、北辺の橋は修復され、孤児院には王家の扶助が届き、王都の印章所にも新しい試験を受ける者が列を作った。エルシアの過去を笑った人々の声は、やがて別の噂に変わった。北辺伯の隣で働く封蝋師令嬢は、冷えた誓約を温め、白紙にされた約束を結び直すのだと。
工房の窓辺には、金の封蝋で封じた小さな誓約書が置かれている。
誰かに奪われた婚約ではない。誰かを縛る契約でもない。エルシアが自分の手で選び、カイが同じ熱で応えた、幸せを結ぶ約束だった。
夕暮れ、炉の火を落とす前に、エルシアはその封をそっと撫でた。指先に返る温かさは、もう二度と消えない。




