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封蝋師令嬢は白紙の誓約から幸せを結ぶ  作者: 銀細工ナギ


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第17話 町中の印章が灯る日

王宮の控えの間を出た時、エルシアの喉はまだ一粒の音も返さなかった。


馬車の窓に映る自分の顔はひどく青い。けれど膝の上には石板があり、その隣にはカイがいる。彼は王都の地図に指を置き、従者へ短く命じていた。


「橋守組合から始める。次に孤児院、最後に冬麦倉だ。王宮の使者が来ても、北辺伯の監査中だと言え」


エルシアは白墨を取った。


マリアベル様の侍女は。


「別の馬車で保護した。ローデン家にはまだ戻さない」


その返答に、胸の奥がわずかに緩む。利用された者を、ただ罪の側へ押しやらない。その判断が、いまのエルシアには何より確かだった。


橋守組合の詰所は、川霧と油の匂いに包まれていた。古い木机の上に、帳簿と印章箱が並べられる。組合長は白髪混じりの大きな手で箱を押さえ、王宮から来た者を見るような警戒を隠さなかった。


「百年前の誓約だと? そんな古いものを、今さらなぜ」


カイが答える前に、エルシアは石板を掲げた。


橋の修繕費が途切れた年を教えてください。


組合長の眉が動いた。彼は帳簿をめくり、ある頁で指を止める。


「五年前だ。王都役所から、王家の特別扶助は存在しないと言われた。だが、その前までは毎冬、金印つきの許可状が届いていた」


箱から出された古い許可状の封蝋は煤けていた。エルシアは恐る恐る指先を近づける。かつてなら、そこに残る熱が嘘と真実を語ったはずだった。


何も聞こえない。


喉の奥がきゅっと縮む。それでも彼女は手を引かなかった。封蝋の縁には、北風を象った細い刻みが残っている。母の名が刻まれた誓約庫で見たものと同じ、旧王家の補助印だった。


エルシアは石板に書く。


印の写しを取らせてください。受け取った方の証言も。


組合長はしばらく黙り、やがて鼻を鳴らした。


「橋が落ちれば、貴族より先に下町の子どもが川へ落ちる。あの金が約束だったなら、消した連中に言うことは山ほどある」


彼が自分の印章を許可状の横へ押した瞬間、小さな琥珀色の光が封蝋の奥でまたたいた。


エルシアは息をのむ。熱は読めない。言葉も聞こえない。けれど、確かに光は見えた。


次の孤児院では、年老いた院長が古い戸棚から布包みを取り出した。中には、冬用の外套を受け取った時の受領書が何十枚も入っている。王家の紋章は薄れ、白蝋でこすられたような跡もあった。


「去年から、寄付は商人の善意だと言われるようになりました。でも先代の院長は、これは王家と北辺の誓いから来るものだと、毎年子どもたちに話しておりました」


エルシアは子どもたちが縫い直された外套を抱いているのを見た。紙面の上で消された誓約は、布の温かさとしてここに残っている。


彼女は院長へ深く頭を下げ、証言書の末尾に見届け人として名を書いた。声が出ない名代として、カイが一語ずつ読み上げる。


「エルシア・リュネットは、これを旧誓約に連なる生活証言として預かる」


その言葉を聞いた院長が印を押す。今度は受領書だけでなく、子どもたちが持っていた小さな木札の焼き印まで淡く灯った。ひとつ、またひとつ。窓辺の埃の中に、金の粉を散らしたような光が浮かぶ。


王宮で奪われた力が戻ったのではない。けれど人々の側に残った約束が、エルシアにも見える形で応えている。


冬麦倉へ着く頃には、知らせを聞いた職人や商人が通りに集まり始めていた。白蝋で支給記録を塗り潰されたパン焼き職人。北辺兵へ送る毛布の代金を未払いにされた織り子。亡き夫が保管していた通行許可証を握る魚売りの女。


「あんたが読めないなら、俺たちが覚えている」


パン焼き職人がそう言って、粉のついた親指で証言書に印を押した。


その瞬間、通りのあちこちで封蝋が灯った。商人の帳簿袋。荷車の許可札。組合の扉に掛けられた古い印章板。金、琥珀、赤銅色。灯りは大きくはない。だが一つ一つが、誰かの暮らしを支えた約束の残り火だった。


エルシアは石板を握りしめた。涙で白墨の文字がにじみそうになる。


ありがとうございます。


そう書いて掲げると、通りにいた人々が静かに頭を下げた。彼らは彼女を哀れんでいるのではない。声を失った封蝋師に、自分たちの声を預けているのだ。


夕刻、王宮からの使者が北辺伯の馬車を追ってきた。公開審問を明朝に開く、証拠を持参せよ、という命令だった。封じられたエルシアを急がせ、証言が整う前に叩き潰すつもりなのだろう。


カイは命令書を読み終えると、封も切らずに机へ置いた。


「十分だ。町はもう黙らない」


エルシアは首を振り、石板へ書いた。


まだ足りません。マリアベル様の侍女の話を聞きます。


カイの目が細くなる。疲れを案じる色と、彼女の決意を受け止める色が重なっていた。


「分かった。だが、倒れる前に俺に止める権利をくれ」


エルシアは少しだけ迷い、うなずいた。


その夜、保護された侍女は震える手で小瓶を差し出した。中には白く濁った蝋の欠片が残っている。


「マリアベル様は、ただ殿方の心を引く香だと聞かされていました。けれど宰相補の使いは、これを王宮の燭台へ混ぜろと。逆らえばローデン家の借財を暴くと脅されて」


エルシアは小瓶を見つめる。憎むべきは、弱さにつけ込み、沈黙を契約に変えた者だ。


彼女は証言書に最後の行を書いた。


白蝋は誓約を消さない。ただ、消えたと思わせるだけです。


カイがそれを読み上げた時、窓の外で町の鐘が鳴った。夜の王都には、昼に集めた印章の灯りがまだ点々と残っている。誰かが戸口に古い許可札を掲げ、誰かが帳簿を抱えて北辺伯の宿舎へ向かっていた。


エルシアの声は戻らない。


それでも明日、彼女は一人では審問の場に立たない。町中の印章が、失われた声の代わりに灯っている。

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