第16話 声を失った封蝋師
白い炎が消されても、広間の冷えはすぐには退かなかった。
エルシアはカイの腕に支えられたまま、赤い封蝋から目を離せずにいた。指先はまだそこへ伸びている。けれど、ほんの少し前まで確かに脈打っていた金色の熱は、厚い雪の下へ埋められたように遠かった。
「医師を呼べ。燭台には誰も触れるな」
カイの声が広間を打った。王宮の儀典官たちは青ざめ、書記たちは羽根ペンを握ったまま立ちすくむ。オルセウス宰相補だけが、乱れた袖を直しながら静かに告げた。
「北辺伯、ここは王宮です。騒ぎを大きくするより、まずリュネット殿を休ませるべきでしょう」
カイは答えなかった。ただ、エルシアを抱える腕に力を込める。その温かさが、今の彼女に残された唯一の確かなものだった。
声を出そうとした。白蝋、と。燭台、と。証拠を、と。
喉は震えたのに、音は生まれなかった。
エルシアは自分の口元に手を当てた。恐怖が遅れて押し寄せる。封蝋を読めない。話せない。ならば自分は、何をもってここに立てばいいのだろう。
控えの間へ運ばれる途中、ダリオンが兵に囲まれているのが見えた。彼は逃げず、ただこちらを見ていた。悔恨に濡れた目が、かつての夜会で彼女を切り捨てた男のものとは思えないほど弱っている。
エルシアは彼に何かを言おうとした。あなたの証言は無駄ではない、と。
けれど、やはり声は出なかった。
控えの間には暖炉があった。侍女が膝掛けを持ってきて、医師が脈を取る。喉に傷はない、毒の反応も薄い。ただ魔力の通り道だけが冷たく塞がれている、と医師は困惑した顔で言った。
「白蝋と竜胆油を合わせたものだな」
カイが低く言う。
「一時的な封じなら、解ける可能性はあります。ですが、どれほどで戻るかは」
医師の言葉はそこで途切れた。
エルシアは膝の上で両手を握りしめた。爪が手のひらに食い込む。痛みはある。熱も冷たさも、ただの身体の感覚なら分かる。それなのに封蝋の奥にある誓約だけが、白紙の向こうへ隠れてしまった。
カイが机の上の筆記板を取った。小さな石板と白墨を、エルシアの前へ置く。
「無理に話さなくていい。見たことを、書ける分だけでいい」
その声音に命令の硬さはなかった。彼は彼女を証拠として扱っていない。壊れた道具として見ていない。そのことが分かって、エルシアの目元が熱くなった。
彼女は震える指で白墨を取った。
燭台は四隅。火が白く跳ねた時、合図は右手。
そこまで書いて、一度息を吸う。
旧誓約は生きています。若い王と、リュネット家の封蝋師を見ました。
白墨の線は少し歪んだ。けれどカイは一字も急かさず、最後まで読んでからうなずいた。
「それで十分だ」
十分なはずがない。声も熱もない封蝋師の証言を、オルセウスは必ず笑う。錯乱だと片づけ、王宮の形式の中へ沈める。さきほど広間で彼がそうしたように。
エルシアは首を振った。白墨で続ける。
私だけでは足りません。
「ああ」
カイはすぐに答えた。
「だから、君だけに背負わせない。燭台の白蝋片、香炉の残渣、書記三名の写し、ダリオンの証言。すでに押さえてある。だが王宮は、封蝋師の感覚を疑う余地があると言うだろう」
エルシアは顔を上げた。カイの灰色の目は、嵐の前の北の空に似ていた。暗いのではない。遠くまで見通すために、余計な光を削ぎ落としている。
「次は、市井だ」
彼は机に置かれた王都の簡易図を広げた。橋守の組合、孤児院、修繕職人の寄合、冬麦の倉。かつて王家旧誓約の恩恵を受け、今もその痕跡を持つ場所に、小さな印が付いていく。
「誓約が本当に生きていたなら、その金は紙の上だけでなく人の暮らしに残っている。封蝋の熱を読めなくても、約束に支えられた人間は証言できる」
エルシアは胸を押さえた。
封蝋師である自分が読めないなら、もう終わりだと思っていた。けれど、誓約とは封蝋の中だけに閉じ込められたものではない。誰かが守り、誰かが受け取り、誰かが次へ渡してきたから、百年も息をしてきたのだ。
扉が叩かれ、カイの従者が入ってきた。
「北辺伯様。ダリオン・ヴェルク殿が、正式な供述書へ署名すると申し出ています。また、ローデン家の侍女からも話があると」
マリアベルの名を聞いた瞬間、エルシアは背筋を伸ばした。あの令嬢もまた、白蝋に利用された一人だった。彼女が何を知っているのかは分からない。だが、沈黙していた者たちが少しずつ顔を上げている。
エルシアは石板に新しい言葉を書いた。
聞きたいです。私も同席します。
「休めと言っても、聞かない顔だな」
カイの口元に、ほんのわずかな笑みが浮かんだ。けれど次の瞬間には真剣な表情に戻り、彼はエルシアの前に膝をついた。
「怖いか」
短い問いだった。
エルシアはすぐには書けなかった。怖い。声が戻らないことも、熱を失ったままになることも。自分の見たものが、力を失った途端に誰にも届かなくなることも。
けれど、それ以上に怖いのは、あの金色の誓約を知りながら目を伏せることだった。
彼女はゆっくり白墨を走らせた。
怖いです。でも、止まりたくありません。
カイはその言葉を読み、彼女の冷えた手を両手で包んだ。
「なら、俺が君の声になる。君が書き、俺が読み上げる。君が覚えている熱を、俺たちが証言に変える」
手のひら越しに伝わるのは、封蝋の魔力ではない。ただ人の体温だった。それでもエルシアには、失ったものを数えるより強く、その温かさを信じたいと思えた。
窓の外で、王都の鐘が昼を告げる。
解印式は止まっただけだ。オルセウスはまだ玉座の近くにいる。王宮の廊下には、彼の言葉を信じる者も多いだろう。
それでも、白紙に戻されたわけではない。
エルシアは石板を胸に抱き、もう一度うなずいた。声の代わりに、目で。封じられた熱の代わりに、記憶で。
百年前の約束は、まだ生きている。
ならば次は、その約束に灯された人々の印章を集める番だった。




