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封蝋師令嬢は白紙の誓約から幸せを結ぶ  作者: 銀細工ナギ


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第15話 偽りの解印式

王宮東離宮の誓約広間は、冬の朝だというのに花の香で満ちていた。


高い天井から銀の鎖が垂れ、壁際には歴代王の肖像画が並んでいる。磨かれた床には赤い絨毯が敷かれ、その中央に黒檀の卓が置かれていた。卓上の硝子箱の中に、王家旧誓約の巻紙が眠っている。


エルシアは入口で足を止めた。


広間の四隅に、白い燭台が立っていた。火はまだ入っていない。それでも、白磁の肌から染み出すような冷えが、手袋越しに指先へ触れてくる。


「見つけたか」


隣のカイが低く尋ねる。彼の肩には北辺伯家の外套、胸には監査官としての銀章が光っていた。


「はい。燭台そのものに、薄い白蝋が塗られています」


「式が始まれば、香に紛れるな」


エルシアは小さくうなずいた。証拠の小箱はカイの従者が別室に保管し、写しはすでに三人の書記へ預けてある。準備はした。けれど、白い燭台を前にすると、母の名が残っていた台帳も、橋守の巻紙も、胸の内でかすかに震えた。


奥の扉が開き、廷臣たちが一斉に頭を下げた。


最初に現れたのは王宮書記長、次いで儀典官たち。そして最後に、淡い灰色の礼服をまとったオルセウス宰相補が歩み出る。細い目元には疲れの色さえなく、まるで今日の式がただの年中行事であるかのように穏やかだった。


「エルシア・リュネット殿。よく参られた」


「召喚に従い、参上いたしました」


「北辺伯も同席されるとは、心強いことです」


オルセウスの視線が一瞬だけカイの銀章を撫でた。歓迎の言葉なのに、そこに温度はなかった。


式は定刻に始まった。書記長が王家旧誓約の由来を読み上げる。百年前、王家が北辺の橋と鉱脈を守る代わりに、収益の一部を北辺の復興と孤児救済へ戻すと定めた誓約。だが近年、封蝋の熱が弱まり、効力喪失の疑いがある。ゆえに、本日解印し、王家の負債を整理する。


その言葉が広間に落ちた瞬間、エルシアは唇を引き結んだ。


負債。整理。紙の上では滑らかでも、その下には人の暮らしがある。橋を直した職人、雪で親を失った子供、北辺の冬を越すための麦。それらを、冷たい一語で白紙に戻そうとしている。


儀典官が四隅の燭台へ火を入れた。


甘い香が強まった。花ではない。竜胆油だ。薄められ、香料に包まれ、式場全体に広がっていく。


指先が鈍る。革手袋の内側で、感覚が雪に埋もれるように遠のいた。


カイが半歩、エルシアの前へ出た。


「宰相補殿。封蝋師が読む前に、燭台の検分を求める」


「解印式の備品を疑われるのですかな」


「疑いではなく手順だ」


場がざわめいた。だがオルセウスは微笑を崩さず、ゆっくりと首を振る。


「王宮の儀式は、百年続いた作法に従います。北辺伯ほどの方なら、形式の重みをご存じでしょう。リュネット殿、どうぞ」


硝子箱が開かれた。


巻紙の封蝋は深い赤だった。王冠と橋を組み合わせた印章。表面は乾き、縁には白い粉のような曇りが薄く絡んでいる。


エルシアは息を整えた。燭台を見るな、という手紙の文字が浮かぶ。見るのではなく、思い出す。母の手、工房の机、小さな契約に残っていた温もり。熱は奪われても、誓約が生まれた瞬間の芯までは消えない。


彼女は手袋を外した。


「エルシア」


カイの声がすぐそばで止めた。命令ではない。戻る道を示す声だった。


「大丈夫です。私が読みます」


指先を赤い封蝋へ近づける。白い冷えが皮膚に噛みついた。けれど、その奥で、かすかな金色の熱が脈打っている。細く、深く、消えずに。


見えた。


若い王が震える手で印章を押す姿。北辺の女封蝋師が、その隣で封蝋の熱を確かめる姿。彼女はエルシアと同じ灰青の目をしていた。母ではない。もっと前の、リュネット家の誰かだ。


――王家は北辺を忘れない。


その誓いは、まだ生きている。


エルシアは顔を上げた。


「この誓約は失効していません。封蝋の熱は残っています。弱まって見えるのは、外側を白蝋で覆われているからです」


廷臣たちがどよめいた。書記長の羽根ペンが止まり、儀典官のひとりが燭台を振り返る。


オルセウスの笑みが、初めて薄く割れた。


「お若い封蝋師の感覚だけで、王宮の判断を覆すおつもりか」


「感覚だけではありません。白蝋の欠片、竜胆油の痕跡、同じ手口で薄められた市井の契約書。写しはすでに監査記録として提出済みです」


カイが一歩前へ出た。


「この場で燭台を調べれば済む。拒む理由はないはずだ」


その時、広間の脇で椅子が鳴った。


目立たぬ席に座っていた青年が立ち上がる。やつれた顔、硬く握った手。ダリオンだった。


「白い燭台は、昨夜、宰相府の下働きが運び入れました。通常の備品ではありません」


名を呼ぶ声と叱責が重なった。ダリオンは顔色を失いながらも、逃げなかった。


「私は以前、同じ香を……リュネット嬢を陥れた夜にも嗅ぎました」


その証言が、均衡を崩した。


オルセウスは小さく手を上げた。合図はほんの一瞬だった。四隅の燭台の炎が、同時に白く跳ねる。


冷気が爆ぜた。


エルシアの喉を、見えない封蝋が塞いだ。叫ぼうとしても息だけが漏れる。指先から熱が引き抜かれ、赤い封蝋の温もりが急に遠くなる。


倒れかけた身体を、カイの腕が支えた。


「エルシア!」


彼の声は聞こえる。広間のざわめきも、書記の椅子が倒れる音も。けれど、自分の声だけがない。


エルシアは必死に封蝋へ手を伸ばした。もう一度、熱を読もうとする。だが指先には、白い雪のような無音しか残っていなかった。


オルセウスが静かに告げる。


「封蝋師殿は、儀式の重圧で錯乱されたようです。解印式は一時中断とし、証言の信頼性を改めて審査しましょう」


カイが彼を睨みつける。けれどエルシアは、彼の袖をつかんだ。


声は出ない。熱も読めない。


それでも、さきほど確かに見た金色の誓約だけは、胸の奥でまだ消えていなかった。

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