4 ドライブ
次の日の土曜日。
お父さんから借りた大型SUVが、緩やかなカーブを曲がるたびに低いエンジン音を響かせる。
開け放たれた窓から流れ込んでくる風は、家がある町の熱気が嘘のようにひんやりとしていて、夏の訪れを感じさせる濃い青葉の匂いがした。時折すれ違う車は数台程度で、休日だと言うのに昼下がりの山道は静かだ。
「あー、マジで最高。やっぱり夏はクーラーガンガンの部屋より、こういう自然のマイナスイオンに限るよな!」
ハンドルを握るユゴンが、サングラス越しの目を細めて上機嫌に笑う。
助手席で、膝の上にバカでかいピクニック用の三段重弁当を抱えさせられている私は、呆れて隣の席にジト目を向けた。
「あのさぁ。お兄ちゃんたちが『外の空気吸いたいけど顔バレしたくない』ってワガママ言うから、わざわざこんな何もない山奥まで付き合ってあげてるんですけど。そもそも、なんで私まで来なきゃいけないのよ」
「仕方ないだろ、母さんが『あんたたちだけで行かせたら絶対川で溺れるか遭難するから、ジウ、監視役としてついて行きなさい』ってこの弁当押し付けてきたんだから」
(ふふん。まあね、お母さんもちゃんと分かってんのよ。この人たちの中で一番まともで頼りになるのが誰かってことを!)
内心で大いにドヤ顔を決め、「私、完全に保護者じゃん……」とわざとらしく重いため息をついて見せると、ユゴンが「はいはい、頼もしい保護者様!」と爆笑しながら片手でジウの頭をはたいてきた。
「やめっ、お兄ちゃん手汗かいてんでしょ!」
「かいてねぇよ! ほら、着いたら弁当の卵焼き一番に食わせてやるから!」
「子供騙しで釣るな!」
お腹を抱えて大笑いした時、ふと、ルームミラー越しに後部座席のスホとバチリと目が合った。 窓枠に頬杖をついたまま、少しだけ目を細めて、じっと私の顔を見つめている。
(……なに? なんか文句でもあんの?)
あいつは昔からたまに、こういう不気味なくらい静かな目で私を見てくることがある。何を考えているのかサッパリ分からないその視線に、なんだか調子を狂わされてカチンときた私は、「……なに?」と怪訝な声で睨み返した。
するとあいつはハッとしたように少し目を見開き、気まずそうにサッと視線を外した。
「……別に。ただ、笑った顔がヒョンにそっくりで腹立つなって思っただけ」
窓の外にそっぽを向きながら、彼がボソリと吐き捨てる。
……私とお兄ちゃんは、はっきり言って全く似ていない。お兄ちゃんが母親譲りの派手で整った顔立ちなのに対し、私はどちらかというと素朴で小柄だ。 でも、昔から親戚には「ああやって眉を下げて無防備に大笑いした瞬間だけ、目元の筋肉の緩み方や口角の上がり方がお兄ちゃんにそっくりね」とよくからかわれていたのだ。
(……サイアク。絶対『ヒョンと同じアホ面しててキモい』って思われた……!)
いつもの憎まれ口なのに、なのに、どういうわけかその声にはいつもの刺々しさがなく、妙に柔らかく響いて――なぜだか、胸の奥がチクッとざわついた。
「……おいスホ、お前もなんか言えよ! ジウのやつ、俺のことポンコツ扱いしてくるんだぞ」
赤信号で車が停まった瞬間、ユゴンが振り返って同意を求めてくる。 スホは慌てて窓枠から拳を解き、ミラー越しに私と視線が合うのを避けるように、わざと深くシートに沈み込んで寝たふりを始めた。
「……事実だろ。ヒョンは運転だけしてればいいんだよ。おばさんの弁当、寄り道して腐らせたら殺すからな」
「お前らマジで俺へのリスペクト足りなくない!?」
冷たく言い放つスホの鼻先には、助手席の私が抱える弁当箱から漂ってくる、甘い卵焼きと唐揚げの匂いが微かに届いているのだろう。彼が少しだけ喉を鳴らしたのを、私は聞き逃さなかった。
一方、車が走り出してからずっと、ジウは助手席で妙な居心地の悪さを感じていた。
ダッシュボードがいつもより遠いのだ。
足元のマットに伸ばしたつま先が、妙に宙に浮くような、空間を持て余しているような感覚がある。
普段、お父さんがこの車を運転して家族で出かける時は、もっとフロントガラスが近くて視界が狭かったはずだ。
(……あ、そっか。座席だ)
ジウは足元を見て、ようやくその違和感の正体に気がついた。助手席も、そして運転席も、シートの位置が限界まで後ろにスライドされているのだ。
「……ねえ、走り出してからずっと不思議だったんだけど」
ジウは呆れたように口を開き、隣でハンドルを握る実の兄をジト目で睨んだ。
「なんで二人とも、そんなにシート後ろに下げてんの? お父さんが運転する時、位置もっとずっと前だよ」
「ん? ああ」
ユゴンは前方の信号を見つめ、アクセルを踏み込みながら事も無げに言った。
「そうしないと、ハンドルに膝が当たんだよ。俺、足長いから」
さらりと言ってのけたその言葉に、ジウの眉間がピクッと引きつる。
すかさず視線を上げ、ルームミラー越しに後部座席も覗き込んだ。そこには、限界まで下げられたフロントシートのせいで狭くなっているはずの空間で、無駄に長い足を少し窮屈そうに組み替えているスホの姿が映っていた。モデル気取りみたいなその姿が、余計に腹立たしい。
「……っ、おかしいじゃん!!」
ジウは助手席でバタバタと身悶えし、理不尽な怒りを爆発させた。
「隣と後ろで芸能人に挟まれてると、自分の等身の平々凡々さが際立ってマジで腹立つんだけど! 私、いつも友達に『芸能人と一般人の違いって何?』って聞かれたら、一番に頭身の違いって答えてるもん! なにその腰の位置、人間の骨格構造として絶対におかしい! バグってんじゃないの!?」
「バグってねぇよ。これが世界基準のビジュアル!」
「うるさいこのゴリラ! あんたもよ、スホ! 何その座高の低さ! あんたのその余った長い足、普段どこに収納してんのよ!」
助手席で身を乗り出し、後ろを振り向いて必死で文句を叩きつけると、後部座席のスホは「……うるせぇな」と低い声で悪態をついた。
窓枠に肘を突き、長めの前髪の隙間から私をジロリと睨み返してくる彼の瞳は少しだけ泳いでいて、私の理不尽な怒り方が可笑しいのか、口角がピクピクと上がそうになるのを必死に堪えているのが丸わかりだった。あー腹立つ!
「お前が縮んだだけだろ。昔は、もう少しマシなサイズ感だった気がするけど」
「縮んでないし! あんたたちが勝手に縦にも横にも成長したんでしょ! ……あーあ、思い返せば、初めて会った時はもっと儚くて可愛いお坊ちゃまだったのになぁ」
ジウが遠い目をすると、お弁当を意識して微かに動いていたスホの手が一瞬、強張った。
「可愛いとか言うな。……だいたい、あの頃の俺はただ体調が悪かっただけだし」
「はいはい。どの口が言うんだか。あの時、うちのキッチンで生まれて初めてカップラーメン食べた時なんて、目ん玉飛び出るくらい驚いてたくせに!」
「……っ、それは、」
スホの耳の裏が、みるみるうちに真っ赤に染まっていく。
四年前、家出同然で飛び出してきた大企業のご子息様は、ジャンクフードというものを一切与えられずに育っていた。ユゴンに連れられてジウの家に転がり込んだ夜、小腹を空かせたスホに、ジウが当たり前のように差し出したのが、三分待って食べる安物の醤油ラーメンだったのだ。
恐る恐るスープを口に含んだ瞬間、スホのビー玉みたいに綺麗な目が落ちそうなくらい見開かれ、ハフハフと不器用に麺をすする姿は、今でも思い出して笑ってしまう。
「『なんだこの美味い食い物は……!』って感じで、お椀握りしめて震えてたよね! お母さんが『スホくん、そんな体に悪いもの食べちゃダメよ』って慌てて野菜炒め乗せてあげてさ。あの時のあんた、本当にただの世間知らずの迷子って感じで守ってあげたくなったのに、今やビルボードアイドル様だもんなぁ」
「……もう忘れた。そんな大昔のこと」
スホは小さく舌打ちをして、動揺を隠すように乱暴に前髪をかき上げた。そのまま窓の外へとふいっと顔を背けてしまったが、照れ隠しにしては不自然なほど赤くなった耳元が、彼の動揺を物語っていた。
「あ、またそうやってすぐ不機嫌になる! ほんと素直じゃないんだから!」
「ジウ、お前スホをからかうのはその辺にしとけ。こいつ、これでも大企業の御曹司様なんだからな」
(……あ)
ユゴンのからかい混じりの声に、ジウの胸が一瞬ちくりと痛んだ。
スケジュールに追われ、半年ぶりにようやく帰ってきたこの家。 せっかくの帰省なのに、昨日の夜、暗いテラスで電話を握りしめていたスホの背中や、冷や汗を消すように浴びていた強い香水の匂いが脳裏を掠める。
大企業の御曹司なんて世間から見れば羨むような肩書きなのかもしれないけれど、あいつにとってはきっと、息を詰まらせるだけの重荷でしかないのだ。
せっかく久しぶりに帰ってきたのに、この家にいる時までそんな顔をさせるわけにはいかない。ここで私が変に気まずい顔をしたら、あいつはもっと傷つく。 私は咄嗟にいつもの呆れ顔を作ると、あえて大げさに声を張り上げた。
「はいはい! 今はただの手のかかる居候ですぅー!」
「誰が手のかかる居候だ、殺すぞ」
後ろから即座に飛んできたスホの毒舌に、私とお兄ちゃんはお腹を抱えて爆笑した。
木漏れ日のトンネルを抜け、大型SUVはゆっくりと目的地の森へ登っていく。後部座席でそっぽを向いたままのスホの口元が、わずかに緩んでいるのを、ジウは見逃さなかった。




