3 夕飯
それからも、久しぶりに再会した私たちはくだらないバカ話にひとしきり花を咲かせた。夕暮れの日差しが沈む頃には、移動の疲れもあったのか、食後の猛烈な眠気に襲われたらしい二人はあっけなく沈没。
ユゴンはソファの端で豪快に腹を出して爆睡し始め、スホはパーカーのフードを深めにかぶって、反対側に深く体重を預けて静かにウトウトと船を漕ぎ始めている。
二人の寝息だけが響く静かなリビングで、私は一人、ダイニングテーブルに数学の教科書とノートを広げて週末課題と格闘していた。どのくらいの時間が経っただろう。
大きな掃き出し窓から差し込む光が、じんわりと綺麗なオレンジ色の夕暮れ色に染まり始めた、ちょうどその時だった。
ガチャッ、と玄関の重い扉が開く音が響いた。
「ただいまー!二人とも元気ー?」
スーパーのレジ袋を下げたお母さんの明るい声に続いて、お父さんの「ユゴン、お前また靴脱ぎっぱなしだぞ」という呆れた声が響く。
(お母さん、その脱ぎ散らかされた靴の持ち主たち、さっきまで雰囲気険悪で大変だったんだから……。私が無事に制圧したと思ったら、あっけなく寝ましたよ)
私の密かなツッコミなど知る由もなく、リビングの扉がガラッと開いた。その賑やかな気配に、ソファで丸くなっていた二人がハッとしたように身動ぎする。
ユゴンが「んあ……?」と口元を拭いながらガバッと起き上がり、スホもかぶっていたフードをゆっくりと頭から外した。まだ少し眠気の残る目を瞬かせながら、長身を縮めて行儀よく座り直す。
「あらあら、二人とも寝てたの? スホくん、いらっしゃい! また少し痩せたんじゃない? ちゃんと寝てるの? 今日は特大のハンバーグ焼くからね!」
「……あ、こんばんは。いつもすみません、ありがとうございます」
スホが寝起きの少し掠れた声で、照れくさそうに、けれどどこか嬉しそうにぺこりと頭を下げた。
「親父、母さん、俺もいるんだけど!」
「あんたは放っておいても勝手に食べるでしょ」
半年ぶりの息子に対してピシャリと言い放つお母さんに、ジウは「さすが」と心の中で盛大な拍手を送った。
「俺、全米を揺るがす『ECLIPSE』のメインボーカルだぞ!? 大ヒットした新曲の過酷なプロモーションがようやくひと段落して、これから控えるドームツアー前の貴重な休みなの! もっと労ってくれてもよくない!?」
「はいはい。伝説でも何でも、我が家ではただのキム・ユゴンです。ほら、文句言う前に玄関の靴並べて来なさい」
お母さんはスーパーの袋を抱えたまま呆れたように苦笑し、ピッと顎で玄関を指し示した。そしてスホに向き直ると、途端にふんわりと柔らかい笑顔になる。
「スホくんは疲れてるんだから座っててね。今冷たい麦茶入れるから」
「……おいスホ。俺とお前の待遇の差、バグってないか?」
ユゴンが恨めしそうに睨むが、スホは「別に」と言いたげな顔で、促されるままリビングの定位置へと向かった。 ユゴンは「ちくしょう……」とブツブツ文句を言いながら、渋々玄関へ引き返して靴を揃え始める。
そこへ、新聞と缶ビールを手にしたお父さんが、リビングの奥からひょっこりと顔を出してダイニングテーブルの定位置、私の左隣に腰掛けたスホに話しかける。
「あ、スホくん。そういえばこないだの音楽番組見たぞ。曲の最後のキメポーズ、キレがあってカッコよかったなぁ!」
「あ、ありがとうございます、おじさん」
スホが恐縮したように頭を下げると、ドタバタと玄関から靴を揃え終えて戻ってきたユゴンが、待ってましたとばかりに叫んだ。
「親父! あれスホの決めポーズだろ! 俺のサビの三段階の高音はどうだったんだよ!? あそこがこの曲の一番の見どころだろ!」
「ん? お前のか? ……なんか声が大きくてうるさかったから、テレビの音量下げるのに忙しかったわ」 「ひどくない!? 全米が大絶賛した奇跡の歌声だぞ!?」
ガーンとショックを受けるユゴンと、ふっと満足そうに口元を緩めるスホを尻目に私は数学のノートを片付けながら、兄の家での扱いの酷さに、心の中で腹を抱えて爆笑していた。
(うちのお母さんとお父さんの前じゃただのデカい子どもなんだから……)
こうやってくだらないことで笑い合える我が家の空間は、誰がどこで何していようと二人がどんだけ有名になろうがみんな揃えばいつだって変わらない温かさがある。あの生意気盛りなスホでさえここへ入ると、どこか表情を和らげて子どもみたいに素直になる理由が、なんとなく分かる気がした。
「お母さん、私手伝うよ」
私まとめた教科書とノートを近くのキャビネットの上にてきとうに置いて、ダイニングからキッチンへと移動してエプロンを身につけた。
「あら、助かるわ。じゃあジウ、ひき肉を捏ねて空気を抜くの頼める? 」
「はーい」
ボウルに入ったひき肉と、あらかじめ炒めて冷ましてあった玉ねぎの甘い香りが広がる。両手にビニール手袋をはめ、冷たいひき肉をペチペチと力強く捏ね始める。
そんな私の一連の手際を、リビングのソファから見ていたスホが、自分も何かした方がいいと思ったのか、「……何か手伝うことありますか?」とスッと長身を立ち上げた。
「やだ、スホくんは座ってて! 疲れを癒しに来たんだから、お茶飲んでゴロゴロしてなさい!」
「……あ、はい。いつもありがとうございます」
お母さんに秒で阻止されたスホは、申し訳なさそうに頭を下げてソファへ戻る。
出た、あいつの完璧なまでの猫かぶり。私たちの前で見せる横暴さはどこへ行ったのやら、大人たちの前では本当に絵に描いたようなお行儀の良い少年になるんだから呆れてしまう。
ダイニングではさっき父に「うるさい」と言われたユゴンが、名誉挽回とばかりにスマホを握りしめて新聞紙を眺めるお父さんに熱弁していた。
「親父、見ろって! これが先週のミュージックバンクの映像! ここだよ、ここ!! 観客が全員歓声上げてんだろ!?」
「あーどれどれ、はいはい、わかったわかった。……スホくん、プロ野球どこ応援してるんだ?」
「おい親父、画面見ろよ! 完全にスルーすんな!」
「うるさいなぁ。家の中でまでカラオケ会場にされたらたまらんわ。ほら、試合始まるぞ」
お父さんは缶ビールをゴクッと飲むと、ユゴンのスマホをすり抜けてテレビの野球中継に集中し始めた。撃沈したユゴンが「ちくしょう……」とソファに崩れ落ちる。
(ふふっ、ほんといつも通り)
手のひらの上でタネを往復させ、ペチッ、ペチッとリズムよく空気を抜きながら、私が思わず吹き出していた、その時だった。
お父さんとユゴンのやり取りを半ば呆れ顔で眺めていたスホが、ふいに視線をこちらへ向けた。
エプロンを着けて両手をひき肉だらけにしながら、兄貴の撃沈に肩を揺らしている私と、バチッと視線が交差する。
スホは一瞬だけ驚いたように目を丸くすると、すぐにフッと口元を緩めた。そして、お母さんやお父さんには見えない角度で、私だけに分かるように小さく「ヒョン、アホだな」と口パクで言ってきた。
(……他人事だと思って。あんたも同類でしょうが)
私がジト目で睨むと、スホは満足そうに細い目をさらに和ませ、冷たい麦茶に口をつけた。 父親に一言でボコボコにされている兄と、それを知らん顔で笑い合う私たち。食卓の端っこで通い合う内緒の可笑しさに、私も堪えきれずにくすっと笑いを漏らしてしまった。
――そして、場面は夕食の食卓。野菜サラダと、皿に並べられた特大のハンバーグを囲みながら、話題は自然とグループの近況になった。
「あー、マジで生き返る……。カムバ前なんか、事務所の食事制限がエグすぎて、飲む水の量までぜーんぶ計算されてたからな。毎日ウサギみたいなサラダとササミしか食ってなかったし」
ユゴンが特大のハンバーグを大口で頬張りながら、大げさに愚痴をこぼす。
「そうよ、二人ともテレビで見るたびに顎のラインが鋭くなっちゃって、お母さん心配だったんだから! ほらスホくん、こっちのおかずも食べなさい」
「……はい。いただきます」
お母さんに次々と皿におかずを乗せられたスホは、無心でハンバーグを口に運んでいる。
オンシーズンでは、バラエティ番組などの一部企画以外において、彼らはアイドルとしてのビジュアルを維持するために過酷なカロリー制限や節制を強いられている。しかし、休暇中のこの期間だけは、そんな見えない鎖から解き放たれ、食欲のままにご飯を頬張れるご褒美期間なのだ。
「それにしても、新曲で米ビルボード8位なんて本当にすごいわよねぇ。今日も取引先のお得意さんから『息子さん見ました!』って言われたんだから」
「だろ!? あのMV撮影、廃城のセットで丸二日寝ずに踊りっぱなしでマジで死ぬかと思ったけど、その甲斐あったぜ! なぁスホ!」
「……ヒョンが途中で振り付け間違えまくったせいで、テギョンヒョンにガチギレされて長引いただけだろ」
「お前! ここでその裏話バラすなよ!!」
ギャーギャー騒ぐユゴンを横目に、スホは涼しい顔でハンバーグを切り分けている。
ジウは呆れながらも、この騒がしくて温かい食卓の空気に知らず知らずのうちに口角が上がるのを感じていた。
「ちょっとスホ、あんたそんなに急いで食べたら喉詰まらせるよ。お茶飲む?」
「……ん。サンキュ」
ジウが呆れながら麦茶のグラスを差し出すと、スホは少し頬を膨らませたまま、小さな声で礼を言ってそれを受け取った。
「でも本当に、みんな忙しそうね。その様子だとテギョンくんやハヌルくんも元気かしら?」
お母さんのその言葉に、ジウはピクッと反応してしまった。手元のハンバーグを切るナイフの動きが、ほんの少しだけ止まる。
(……テギョンオッパ!)
実は、みんなには内緒にしていることだが、ジウはECLIPSEの最年長にしてリーダー・テギョンの密かなファンである。
あれは一年前、メンバー全員がこの家に遊びに来た時のことだ。ユゴンの実家ということで、興奮して動物園のように騒いでいたメンバーたちの中で、テギョンだけは違った。
『お邪魔します。いつもユゴンにお世話になっています』
あの大スターが、お母さんの手伝いをしてさりげなくキッチンに立ち、騒ぐメンバーを「ほら、お前ら静かにしろ」と低い声でたしなめる。その落ち着きっぷりと硬派な大人の佇まいに、私は完全に骨抜きにされてしまったのだ。
同じ歳だというのに、片や頼れるカリスマリーダー、片や自分のプリンを盗み食いするスウェット姿のポンコツ兄。まったく、どうしてこんなにも差が出るのだろうか。
「テギョンヒョンなら、今日から実家に帰ってるよ。……っていうかジウ、お前今、テギョンの名前聞いて顔ニヤけなかったか?」
ユゴンがハンバーグを頬張りながら、ジロリとこちらを睨んできた。しまった、顔に出てた!?
「は!? ニヤけてないし! 私はただ、あのポンコツ兄をまとめるテギョンオッパは本当に苦労してるだろうなって、同情してただけ!」
目が泳いで声が裏返ったのを必死で誤魔化す。
「なんだと!? おいスホ、こいつ俺のことバカにしてるぞ!」
ユゴンが同意を求めるが、スホは我関せずといった顔で、もくもくとハンバーグを口に運んでいる。
「……いや、ジウの言う通りだろ。テギョンヒョンがいなかったら、ヒョンはただの騒がしいゴリラじゃん」
「スホまで!! お父さん、こいつら俺に冷たい!!」
ユゴンが最後の砦である父に泣きつくが。
「まあまあ、ユゴン。お前が家でだらしないのは事実だからな」
お父さんが苦笑いしながらお茶をすすると、食卓はドッと笑い声に包まれた。
「あ、そうだジウ」
ユゴンが思い出したようにポンと手を打ち、自分の足元に置いてあった黒いボストンバッグをごそごそと漁り始めた。
「お前、こないだテギョンヒョンのサイン欲しいって言ってただろ。キャップにもらってきてやったぞ」
「えっ!? 嘘でしょ!?」
差し出された黒いキャップのつばには、見慣れたテギョンの流麗なサインが銀色のペンで書かれていた。
ジウは思わず立ち上がり、ひったくるようにそれを受け取る。
「うわあああ、ほんとだ! さすがテギョンオッパ、サインの文字まで洗練されてる……! ありがとうお兄様、一生大事にする!!」
「お前、俺がサインあげた時は『フリマアプリで売ろうかな』とか言ってたよな!?」
アイドルの妹でいるのも、こういう時は悪くない。胸の前で大事にキャップを抱きしめ、ジウは緩みっぱなしの口元を押さえた。
「……趣味悪」
ふいに隣から落ちてきたのは、温度の感じられない低く短い呟きだ。 見ると、スホが皿の上のハンバーグを小さく切り分けたまま、フォークを動かす手を止めていた。
伏せられた長い睫毛の隙間から、氷のように冷淡な三白眼が、私の抱えるキャップと――私の緩んだ顔のあたりを、じーっと無表情に見つめている。
「あんな説教くさいヒョンのどこがいいんだよ」
「説教くさいって言わないでよ! スホにはテギョンオッパの大人の魅力がわかんないの!」
「……大人の魅力、ね」
スホはふっと短く鼻を鳴らすと、それ以上は何も言わず、切り分けた肉を無造作に口へ運んで視線を落とした。
(なによ。テギョンオッパにいつも小言言われてるからって、こんな時まで反抗期みたいな態度とらなくてもいいのに)
「まあまあ、テギョンくんはしっかり者だからねぇ。ジウが好きになるのも分かるわよ」
キッチンからお代わりのスープを運んできた母が、おかしそうにクスクスと笑う。
「――っ、はぁ!? 好きとかじゃないし! やめてよ、変な誤解生むような言い方するの!」
勢いよく立ち上がりかけた私に、母は「はいはい」と楽しそうに目を細める。
「だって『クラスの友達がファンだから』ってユゴンに頼んでたわりには、部屋で嬉しそうに眺めてたじゃない。お母さんお見通しよ」
「が、眺めてなんか……! 状態が綺麗か確認してただけだし! 本当に友達にあげるやつだから!」
必死で言い訳を重ねれば重ねるほど、墓穴を掘っている気がして顔が熱くなる。
「待てジウ、お前俺を利用してテギョンのサイン手に入れたのか!? ていうか自分の兄貴を推せよ!」 「うるさいバカ兄貴! あんたを推す要素がどこにあるのよ!」
ぎゃーぎゃー叫ぶ私とユゴンの横で、スホは無言のまま、カトラリーをコトンと皿に置いた。
「まあまあ二人とも落ち着きなさい。スホくんも、ニンジン残さないでちゃんと食べなさいね」
父の苦笑いとスホの嫉妬の視線に挟まれ、私は顔が爆発しそうなままスープのカップに逃げ込んだ。
その時テーブルの上のユゴンのスマートフォンが、ピコンと短い通知音を鳴らした。 画面を覗き込んだユゴンが、「おっ、噂をすればテギョンヒョンからだ」と声を上げる。
「『ユゴン、スホと一緒にご実家にお世話になってるだろ。今頃ご家族に迷惑かけてないか? ジウちゃんにもよろしく。今度お詫びに、ずいぶん前だがジウちゃんが好きだって言ってたお店のケーキでも送るよ』……だってさ。相変わらずマメな人だなー」
「えっ!? テギョンオッパ、まさか、私がなんとなく話したケーキのこと覚えててくれたの!?」
その瞬間、私の中で恥ずかしさメーターが限界を迎えて音を立てて爆発した。
もういい!!隠すのも、モジモジ照れるのも私の性に合わない。こうなったら堂々と開き直ってやる!
私はバンッと両手をテーブルにつき、キャップを握りしめたままガタッと身を乗り出した。
「そうよ、開き直って何が悪いの! やっぱりテギョンオッパはどこをとっても完璧……! どこかのバカ兄貴や手のかかる居候とは大違いの大人の余裕と包容力……っ! アイドルの妹で良かった……っ!」
うっとりと両手を合わせて天を仰いだ、その瞬間だった。
スッと横から伸びてきたスホの長い手が、ユゴンのスマートフォンを迷いなく引っくり返し、画面をテーブルにバタンと伏せた。さらにその上に、自分の空になったコップを重しのようにコトッと置く。
「うおっ、何すんだよスホ!」
「……食事中に画面光らせんな。行儀悪い」
「お前、宿舎じゃ飯食いながら平気でゲームやってるだろ!?」
「ここは実家だし。おじさんたちもいるのに失礼だろ」
涼しい顔で正論を並べ立てるスホの横顔に、ユゴンが「うぐっ……」と息を詰まらせる。父と母が「まあまあ、スホくんの言う通りよ」と笑うのをいいことに、スホの広い背中とコップが絶妙な壁になり、私からスマホの画面は綺麗に見えなくなってしまった。
(絶対わざと見せないようにしてるでしょ、おのれ……)
そして、私の手元のキャップを一瞥すると、スホはフォークを弄びながら低くボソリと言い放った。
「……それに、あそこの店のケーキ、お前こないだ『生クリーム重すぎて一個食えない』って文句言ってただろ」
「えっ?」
「あそこのパティシエ変わってから味落ちたって、先月文句言ってたの誰だよ。……ヒョンはそれ知らねぇから、そんな昔の話してんだろ」
「う、それはそうだけど……! でも覚えててくれたことが嬉しいんじゃん!」
「……ふーん。あっそ。」
スホは不服そうに視線を逸らすと、わざとらしく大きくため息をついて、残っていたスープを無言で飲み干した。
(ちょっと、何なのこいつ……! ほんと大人げないんだから!)
私が「ちょっと、人のスマホ勝手に伏せないでよ!」と文句を言おうとした、その時だった。
ブーッ、ブーッ。
テーブルの端に置かれていたスホのスマートフォンが、無機質で重い振動音を立てた。 画面が青白く発光し、そこに表示された短い文字をチラリと見た瞬間、スホの纏う空気が一変した。
さっきまで不貞腐れたように尖らせていた唇が真一文字に結ばれ、フォークを握る指先に白くなるほど力が込められる。リビングの温かい空気が、彼の周囲だけ急激に氷点下まで下がったかのような錯覚を覚えた。
彼がスマートフォンを見つめるその目には、怒りも、悲しみも、何も浮かんでいない。それくらい温度のない瞳だった。 無機質に点滅する液晶画面の上には、父という文字が、残酷なほど冷たい光を放っていた。
「……ごちそうさまでした。ちょっと、電話出てくる」
スホは乱暴に椅子を引き、逃げるようにリビングから出て行った。
スホが嵐のように去っていった後、取り残された食卓に気まずい沈黙が落ちる。 私は胸に抱いていたキャップをゆっくりとテーブルに下ろし、少し迷った後、空のグラスを手に取ってそっと席を立った。
「……麦茶、持っていくついでに様子見てくる」
誰にともなく言い訳をして賑やかなリビングの扉を閉めると、廊下は水を打ったように静まり返っていた。 仄暗い廊下の突き当たり、テラスへと続くガラス戸の前に、スホの背中があった。
ガラス戸の向こうに広がる青暗い夜の闇と、薄い月明かりが彼の髪と、張り詰めた肩のラインを冷酷なまでに照らし出している。
「……だから、帰らないと言ってるだろ」
地を這うような低い声に私はハッとして、無意識に壁の影へと身を潜めた。息が止まる。
「……今週末の会食? ……断る。ビルボードに入って箔がついたからって、今更父親面すんなよ。……俺は、あんたの取引先に自慢して回るためのトロフィーじゃない」
薄暗い部屋の中、スマートフォンを耳に当てるスホの横顔は、苦痛と嫌悪で痛々しく歪んでいた。窓枠を掴む手は、関節が白く浮き出るほど強く握りしめられている。
「デビューした時は一族の恥だって勘当同然で追い出したくせに……っ! 俺を、これ以上あんたの道具にするな……っ!」
震える吐息と、ギリッと奥歯を強く噛み締める音だけが廊下に響き渡る。 そして――ツーツーと無機質な切断音が漏れたのだろう。スマホを下ろしたスホの背中が、重力に耐えかねたようにグラリと大きく揺れた。
「……っ、はぁっ……、ハァッ……、くっ……」
暗いテラスの前で、スホは突然、自分の胸ぐらの服を強く掴み、そのままズルズルとその場にうずくまった。
(え……スホ……?)
私はハッとして、壁の陰で息を呑んだ。
床に膝をついた彼は、浅く、早い呼吸を繰り返している。もう片方の手で口元を強く覆い、胃の底からこみ上げてくる激しい吐き気を必死に堪えているようだった。
大きく上下する広い背中に重なったのは、14歳の冬、高熱でボロボロになって我が家にやってきたあの夜の姿だった。強がりもプライドも削ぎ落とされた彼は、ただ息をするのすら苦しそうで、今にも粉々に壊れてしまいそうなほど脆かった。
今すぐ駆け寄って、「大丈夫?」と背中をさすってあげたかった。
けれど、彼が必死に隠している一番見られたくない弱さを、勝手に踏み荒らしていいのかわからず――私は壁に背中を押し付けたまま、ただ自分の口元を両手で塞いで、動くことができなかった。
*
すりガラスの向こうで、シャワーの音が絶え間なく響いている。
ジウは湯船の縁に顎を乗せ、熱いお湯の中で膝をぎゅっと抱え込んだ。
浴室に広がるこもった白い湯気といつも使っているフローラル系のボディソープの甘い香りが、今日に限ってひどく息苦しく感じる。
お湯はこんなにも温かくて、体の芯まで熱くしてくれるのに、まぶたを閉じると、先ほど冷たい廊下で見たスホの背中と、凍りつくような声が脳裏に焼き付いて離れない。
『俺を、これ以上あんたの道具にするな』
あの時、彼はどんな顔をしていただろうか。
普段は口が悪くて、生意気で、国宝なんて呼ばれて澄ました顔をして強がっているけれど、スホの奥底には昔から、誰にも見せまいとひた隠しにしている、透明で綺麗なガラスのような脆さがあった。
もしも誰かが不用意にその地雷を踏み抜いてしまったら、この人は跡形もなく粉々に砕けて壊れてしまうんじゃないか――。
昔から何度も、そんな言葉にならない予感が胸をよぎった。
だから私は無意識のうちに、あいつが暗闇の底へ落ちていかないよう、その手を必死で繋ぎ止めようとしてきたのかもしれない。
失敗したって「まあまあ」で済むウチの普通しか知らない私には、あいつが時折見せる追い詰められたような歪みが、どうしても息が止まるほど異質で、痛々しかった。
たとえば――まだデビュー前の、練習生だった頃のことだ。
重要な月末評価の直前、四十度近い高熱を出したあいつは、病院にも、宿舎にも、冷たい自分の実家にもいられず、ユゴンに半ば強引に連れられるまま我が家へやってきたことがあった。
あとからユゴンに聞いた話では、あいつは宿舎でライバルたちに弱みを見せたくないと、体調の悪化を限界まで隠して溜め込んでいたらしい。病院へ行こうという周りの勧めも”絶対に行かない”と頑なに拒み続け、そのあまりの痛々しさに見ていられなくなったユゴンが、見かねて我が家に連れ帰ってきたのだという。
顔を真っ赤にし、立っているのすらやっとの癖に、あいつは客間の床で必死にダンスの動画を睨みつけ、震える指で振り付けの確認をやめようとしなかった。
『バカじゃないの!? 熱が四十度もあるのよ、大人しく横になりなさい!』
私が半ばキレ気味に取り上げたスマートフォンの画面を、あいつは光のない、まるで今にも割れそうなガラス玉みたいな目で見つめ返してきた。
『……っ、休んだら……落ちる……』
『……完璧じゃない俺なんて、……誰も、必要としないんだよ……っ』
> 荒い息の合間に絞り出されたその言葉を聞いたとき、私は全身の血が引いていくような寒気を覚えた。 熱で真っ赤な顔をしたあいつの目は、ただのわがままや強がりなんかじゃなかった。これを取り上げられたら本当に消えてしまうんじゃないかと思わせるほど、あやうく揺れていたのだ。
風邪を引いたらお母さんに甘えて、あたたかいスープを食べて寝るーーそんな私の当たり前なんて、あいつには一切通用しない。理由はよく分からなかったけれど、あいつにとって休む、立ち止まるということは、死ぬことと同じくらい恐ろしいことなのだと悟ってしまった。
……あんな風に自分を追い詰めて、悲鳴を上げながらしか生きられないあいつを、誰かが繋ぎ止めてあげなきゃ。そうしないと、本当にいつか壊れてどこかへ消えてしまう。
「バカじゃないの!? もう踊らなくていいから! 大人しく横になりなさいよ!」
私は強引にあいつの手からスマホを取り上げ、枕元へ放り投げた。 綺麗事は言えなかったけれど、言葉にならない衝動に突き動かされるまま、私は夢中で氷嚢を取りに行き、おでこに冷えピタを貼り付けて、お母さんが作った熱いおかゆを一口ずつ口に押し込んだ。
「自分を大切にしてよ! ……ここには、あんたのこと怒る奴なんて誰もいないんだから、バカ……っ!!」
呆れ混じりにそう言った、瞬間だった。
頑なに強がっていたあいつの身体から、ふっと力が抜けた。
真っ赤に熱を持った三白眼から、ぽろぽろと大粒の涙が溢れ出し、客間の布団にポタポタとシミを作っていく。生まれて初めて弱さを許された子どものように、あいつは口元を覆い、声を殺して泣いていた。
ー高校生になった今、その地雷を土足で踏み荒らそうとしているものの正体を、私は知っている。
スホの実家が誰もが知る大企業で、優秀なお兄さんが会社を継ぐことはニュースなんかで知っていた。
ーー経営に関わっていないスホには、家業の重圧なんて関係ないはずなのに。
……ううん、違う。
ふと、今まで何度か目にしてきた光景が、パズルのピースのように脳裏で繋がっていく。
電話を切った直後、暗いテラスで顔色を悪くして浅い呼吸を繰り返していた姿。
実家にいるときのあいつは、いつもダサいスウェットを着て、うちと同じ匂いしかさせないのに、時々、電話の後に自分の部屋へ閉じこもったかと思うと、キツい香水を全身に振りまいて戻ってくることがあった。
『どこも出かけないのに家で香水? 好きだねー。でも、ちょっとつけすぎじゃない?』 なんて言って呆れ顔で笑う私に、あいつはいつだって不機嫌そうに目を逸らすだけだったけれど
あれは、きっとただの気取りなんかじゃなかったのだ。 冷たい何かを必死に振り払うみたいに。ドロドロとした惨めな自分を消し去って、自身を守る鎧を着込むための、切羽詰まった抵抗だったんじゃないだろうか。
もしかして、あいつは――。
会社を継がない次男だからこそ、幼い頃から家のトロフィーとしてしか見られてこなかったんじゃないだろうか。
世界的なアイドルになって莫大な成功を収めた今でも、父親にとってのスホは、自分たちの顔を立てるための便利な道具でしかないのだとしたら。
……もしそうだとしたら。あいつは今までずっと、あの温かい家の片隅で、たった一人でそんな冷たい絶望を噛み殺していたというのだろうか。
胸の奥がギュッと締め付けられるような痛みに、私は熱くなった頬を冷たい手のひらで覆い、長く、重い息を吐き出した。
……って、いやいやいや。ストップ!!
あまりにもスケールが大きすぎて、頭がおかしくなりそう。
というか、そもそも冷静に考えて私の周囲の環境がおかしいのだ。
自分の実の兄がビルボードに入るような世界的トップアイドルで、その同じグループの圧倒的センターが毎度我が家に入り浸っている。おまけに、そいつがニュースにも出るような大企業の御曹司で、人知れず深ーい闇を抱えているだなんて。
普通の少女漫画なら前世で国を救った聖女ヒロインとか言われる設定なんだろうけど、私から言わせれば『前世でどんな大罪を犯したら、こんな胃もたれする盛り盛り設定の男たちに囲まれる罰ゲームを受けるのか』って感じだ。
現にこっちは、美形なんてあのバカ兄貴一人で一生分お腹いっぱいなのだ。有名な兄のせいで男子からは完全に引かれ、平穏な高校生活での恋模様を完全に諦めているというのに。
これ以上の波乱なんて、絶対に、絶対にごめんだ。変に干渉なんかして、私の平和な生活を乱されたくない。
……それに。
(同情なんて、彼が一番嫌がるに決まっている)
ジウは両手でパンッと自分の頬を叩き、強引に思考を断ち切ると、バスタオルを掴んで浴室を出た。パジャマに着替え、濡れた髪をタオルで拭きながら洗面所の扉を開けた、その瞬間だった。
「……おっそ。お前、風呂の中で寝てたのかよ」
「うわっ!」
着替え終わって洗面所の扉を開けた瞬間、脱衣所の壁に寄りかかっていたスホと鉢合わせ、私は変な声を出してしまった。 真っ白な蛍光灯の下、彼は相変わらずいつものスウェット姿で、腕を組んで壁に寄りかかっていた。 私と目が合うと、片方の口角をふっと上げて、いつものように人を小馬鹿にした笑みを浮かべる。
そこにあるのは、今日プリンのことで本気でキレていた、生意気なあいつの顔だった。さっきテラスで見た、あの呼吸すらままならなかった脆い姿なんて、最初からなかったみたいにどこにもない。
「どんだけ風呂待たせんだよ。早くドライヤー貸せ」
「はぁ!? 自分の部屋の使えばいいじゃん!」
「俺の部屋のやつ、風力弱くて乾くのおせぇんだよ」
――その瞬間。 フワッと、彼の体から信じられないほど強い香水の匂いが放たれ、私の鼻を殴りつけた。
(……えっ?)
思わず顔をしかめる。それは彼が仕事の時によくつけている、ウッディでスパイシーな香水の匂いだった。でも、量が異常だ。いくらなんでもキツすぎる。 お風呂にも入っていないはずなのに、額に張り付いた前髪が、どこか湿っているように見えた。
(なんで、お風呂も入ってないのに……。まさか、髪が濡れてるのって……)
さっき、暗いテラスで苦しそうに息を乱していたあいつの背中が脳裏を過る。
……そうか。あいつ、消したかったんだ。
自分の中に残る冷たい感触も、嫌な記憶も、全部。この強い香水で無理やり覆い隠して、何事もなかったみたいに笑おうとしたんだと、気づいてしまった。
「……っ」
ドライヤーを奪い取った彼の手のひらが、一瞬だけジウの指先に触れた。 驚くほど、氷のように冷たい手だった。
ハッとしてスホの顔を見上げる。
憎まれ口を叩くその唇は普段通りだが、目の下にはうっすらと疲労の影が落ち、髪の隙間から覗く瞳は、虚勢で塗り固められたガラス玉のように、どこかひどく消耗しているように見えた。
(……本当に、大丈夫なの?)
心配で胸が締め付けられる。でも、彼が必死に香水まで浴びて保とうとしているこの日常を、私の勝手な同情で壊すわけにはいかない。
「……あっそ。じゃあ、早く使って返しなさいよね」
「言われなくてもそうするし」
ジウはわざといつも通りの呆れた声を出し、彼に背を向けて洗面所を出た。
背後から、ブォォォンというドライヤーの無機質な重低音が響き始める。
冷や汗で濡れた前髪を、無理やり乾かしているのだろう。 せめてこの家にいる時だけは、息の詰まる大人の思惑とか世界のことなんか全部忘れて、ただの16歳として笑わせてやろう。
ジウは、少しだけ湿った自分の髪を握りしめながら、密かにそう決意していた。




