2 帰省
『ECLIPSE』
それは、韓国三大事務所の一つに数えられる芸能プロダクション事務所『LUMINAS ENTERTAINMENT』、通称LSCの数あるアイドルグループの中の一つである。二ヶ月前に発表された大ヒット新曲『ECLIPSE』がつい本日米ビルボードのトップ10入りを果たし、今や世界中を飛び回るアジアの伝説的5人組ボーイズグループとなった。
結成は今から約3年前。
「闇に堕ちた孤独な王子たち」という重厚なダークファンタジーの世界観を背負い、一糸乱れぬダンスと圧倒的なビジュアルで数万人のファンを熱狂させる。
(……いや、最初にデビューのコンセプトを聞かされた時は、本気で耳を疑ったけどね。『は? あのバカ兄貴がダークで狂気あふれる王子様…… なんかのギャグ?』って)
だが、私の失礼な予想に反して、彼らは今や飛ぶ鳥を落とす勢いでトップに登り詰めた。
今回の新曲のテーマは、影の一族に生まれ、死の呪いをかけられた王子の悲恋。
MVの舞台は、茨に覆われた廃城。重厚なパイプオルガンの音色から始まり、激しいトラップビートへと切り替わった瞬間、5人の足音すらピタリと揃う、一体化したカル群舞がスタートする。
ー特にサビ前のポイントダンスは圧巻だ。
首に巻きついた見えない鎖を、苦悶の表情で乱暴に引きちぎるような振り付け。漆黒のベルベットスーツの胸元が乱れ、飛び散る汗がスポットライトに光る。指先から視線の流し方まで、1ミリの狂いもなく計算し尽くされたダンス――
……とまあ、さも知った風に長々と語ってみたけれど。この『カル群舞』だの『1ミリの狂いもない』だのという専門的な解説は、全部オタクのチョアとミンヨンから耳にタコができるほど熱弁された受け売り。ごめん、私自身はダンスの細かい技術なんてぶっちゃけ全然分からない。
けれど、そんな素人目の私が見ても、普段は実家でヨレヨレのスウェットを着てくだらない喧嘩をしているあの身内たちが、カメラの向こうで圧倒的なオーラを放って画面を支配している姿を見ると、やっぱり素直に――「おー、芸能人、すごいな……別人みたい」なんて、ちょっとだけ息を呑んで感動してしまうものだ。
グループには、お兄ちゃんと同い年の頼れるリーダーのテギョンオッパ(21歳)、ムードメーカーのハヌル(19歳)、そして私とアイツと同い年で天使みたいに可愛い末っ子のシウ(16歳)がいる。アイツを含めて全員で5人だ。
実は、結成して間もない頃――まだデビュー直後の忙しくない時期に、お兄ちゃんが『我が家にうまいもん食べに行こうぜ!』と全員を我が家に引っ張ってきたことがある。
(……まあ、クラスの女子たちが『同じ空気吸ってるだけで狂いそう!』と絶賛悲鳴を上げているその当の5人が、我が家に全員揃って遊びに来たことがあるなんて、口が裂けても言えないけれど)
普段は私の平穏を乱すバカ兄貴と居候はさておき、初めて生で見る他の3人は、舞台用のメイクもしてないのに同じ人間とは思えないほど、神がかったビジュアルで文字通り発光していた。
最初は『ユゴンヒョンの実家で、ご両親も妹さんもいるから』と、みんな背筋をピンと伸ばして、お行儀よくソファーの端っこに固まっていたのだ。
……だが、そんなよそゆきの緊張感も、我が家のサッパリとした放任主義とあたたかい空気の前では一時間も持たなかった。
お母さんが『遠慮しないでたくさん食べなさい!』と大皿料理を運んでくると、一瞬でいつもの宿舎のノリが復活。学校で悪ふざけする男子グループみたいに、気づけばリビングは、テレビのリモコンを賭けた大騒ぎの動物園へと変化を遂げていた。
お母さんが急いで揚げた大量のヤンニョムチキンは、まるで飢えた猛獣たちの嵐に呑み込まれるように一瞬で平らげられていった。
――あ、言っておくけれど、テギョンオッパだけは別だ。
テギョンだけは最後まで品行方正で、キッチンでお母さんのお手伝いをしてくれたり、暴れるメンバーに『お前ら静かにしろ』と低音でたしなめてくれる唯一の良心だった。
だからこそ画面の中で重厚な世界観を演じ、誰も触れられない孤独な王子になっている彼らを見ると、どうしてもあの時、口の周りに真っ赤なヤンニョムソースを口の端につけて爆笑していた惨状が重なって、ふふっと笑いが漏れてしまうのだ。
(……まあ、私もどさくさに紛れて末っ子のシウと最後のチキンを本気で奪い合って、テギョンオッパに苦笑いされた口なんだけど。だってさ、私の分まで取られるなんて聞いてないじゃん、しょうがないよね)
キーンコーンカーンコーン――。
そんな過去の記憶に浸っていた私を現実に引き戻すように、本日の授業終了を告げるチャイムが教室に高く響き渡った。 「やったー今週終わり!でも宿題が多すぎる」と頭を抱えるミンヨンを横目に、ジウは大急ぎでカバンに教科書を詰め込む。 そう……問題は、まさに”今日”なのだ。 ワールドツアーや過酷なプロモーションを終えて、彼らがようやくまとまった長期休暇をもらった時、他のメンバーたちがそれぞれの実家に帰ったり旅行に出かけたりする中、我が家には決まって、あの二人組の男たちが帰ってくる。
(……思い出すだけで頭が痛い)
ここで改めて、噂の二人組についてまとめておこう。さっきメンバー紹介の時に端折ってしまったし。
ユゴン、21歳 / メインボーカル。
テレビでは、神々しいほどの美貌と突き抜けるような高音ボイスでファンを魅了するパーフェクトプリンス。(自分で紹介してて気持ち悪くなってきた)大サビの祈るようなポーズで、神々しさ・天上人感を強調、マイクを両手でそっと包み込むようにして長い睫毛を伏せる彼がカメラに向かって冷酷な視線を放つたび、SNSでは世界中の言語で悲鳴が上がる。
――それが私の実の兄だなんて、今でもまだ信じられていない節がある。
お母さん譲りの顔の良さだけは認める。だが、練習生時代から宿舎で暮らし、今や過酷なスケジュールで年に数日しか実家に帰ってこない超多忙なスターのはずの男は数ヶ月ぶりに実家の敷居を跨いだわずか5分後には、その神々しいオーラをすべて玄関に投げ捨てる。
「ジウ〜! 会いたかったぞ〜!! 俺のアイス取っといてくれた!?」
速攻で家用のよれたスウェットに着替え、感動の再会もそこそこに私のアイスを横取りする。 おまけに、普段遠遠離れて暮らしている反動なのか、忙しくない時期はLINEで『今日の1日はどうだったか?』だの『お兄ちゃん恋しい?』だのと追加でウザいシスコンを発揮してくる。
(たまに帰ってきたと思えばこれだし、離れてたら離れてたで連絡が鬱陶しい……)
外での神々しいカリスマ性は、すべて事務所のクローゼットにでも置いてきているらしい。実情、彼は妹の贔屓目に見ても誰の手にも負えないポンコツである。
そして、スホ、16歳/ センター・ビジュアル担当。
......こいつが問題の何度も出てきた”アイツ”である。
今や兄の金魚のフンみたいに、当然の顔をしてうちの実家へ帰省する。
グループで一番の人気を誇り、巷では「圧倒的センター」「顔面国宝」なーんて持て囃されている。MVのラストで、赤黒く滲んだスモーキーメイクのまま荒い息を吐き、モニター越しに救いを求める切実な瞳。彼が完全に大人へと成長した時、世界をどれほど狂わせるのか――そんな伝説の訪れを確信させる、危うい色気を放つ呪われた悲劇の王子......
……、なのか? ハッ、笑わせないでほしいわ!あんなの、私から言わせればただの口が悪いクソガキ!
色っぽさと儚さを体現している”はず”の男は、実家のソファの定位置で口を半開きにして爆睡し、起き抜けにかすれた声で「……何、人の顔じっと見てんの。朝から俺に見惚れてたわけ? キモ」と、こちらが息を吸う暇もなく小生意気な嫌味を飛ばしてくる。同い年だから遠慮は一切なし、顔を突き合わせればいつもバチバチ言い合っている。あんな捻くれたガキのどこが王子様なのか、私にはさっぱりわからない。
あの腹が立つほど綺麗な顔も、台無し。全部テレビ用の仮面だ。
チョアとミンヨンと別れたジウは、急ぎ足で家路についていた。
(あの騒がしい奴らが、よりにもよって週末の課題が多い日に帰ってくるなんて最悪だ……)
口ではそう文句を垂れつつも、今日の夕飯はお母さん特製の絶品ハンバーグだと思い出し、自然と足早になってしまう。兄たちも大好物だから、みんなで囲む今夜の食卓は楽しみだ。
「ただいまー」
ガチャッと重い玄関の扉を開けると、ほのかに香る実家のいつもの匂いと一緒に、リビングから何とも言えない空気が漂ってきた。
昼休みに届いたあの手ブレだらけの惨事写真から数時間。もうとっくに勝負の決着はついているはずなのに呆れながらリビングを覗き込むと、そこには期待(?)を裏切らない惨状が広がっていた。
ソファの上では、プリンを横取りして大満足のバカ兄貴が、毛玉スウェット姿で私のお気に入りのクッションを抱え、平然とテレビを見ている。
そしてその足元――床の上に胡座をかいて座り、テレビ画面を睨み殺しそうな三白眼で、全身からどす黒い怨念オーラを撒き散らしているのがスホだ。ジウはローファーを脱ぎ捨て、わざとドスドスと大きな足音を立ててリビングに踏み込んだ。
「……ちょっと、あんたたち。帰ってきてそうそうこの重苦しい空気嫌なんだけど」
「あーっ! ジウ、おかえりぃぃっ! 今日も世界一可愛い俺の自慢の妹よ、頼むからこいつ何とかしてくれ! さっきからずっと俺を殺しそうな目で睨んできて、居心地悪くてテレビに集中できないんだよ!」
「……チッ。帰ってくんの、遅ぇよ」
クッションをぎゅっと抱きしめて情けなく助けを求めてくる兄貴と、チッケムで何百万回も再生されているあの国宝級の美貌を凶悪なまでに歪め、開口一番、私をギリッと睨みつけてくるスホの姿が帰宅直後から目に飛び込んでくる。まあ今更呆れはしない、いつも通りの光景だ。
「は? なんで私が怒られなきゃいけないわけ」
「……Cacao見ただろ。お前がチンタラ帰ってくるからだ。こいつ、俺がおばさんにお願いして名前書いてもらってた一番デカいやつ、一口も残さず全部食い尽くしやがった。……マジでヒョンの限定スニーカー、全部ハサミで切り刻んでやろうかと思ってたところ」
「ジウ! こいつ、俺が命の次に大事にしてる限定スニーカーコレクション――あの世界500足限定のシカゴカラーのやつを『エアバッグ全部パンクさせてやる』って脅してきたんだぞ!? 名前書いてあんの気づかなかったって何度も言ったろ、それにお母さんのプリンは早い者勝ちだって昔から決まってんだ!」
「うるせぇ、泥棒。死ね」
世界中のファンが失神するようなロイヤルスマイルはどこへやら、口を開けば小学生男子並みの暴言と舌打ちのオンパレードだ。
「またいんの? 帰りなよ、ソウルの広い宿舎に」
「帰らねぇ。……おばさんが今日はハンバーグにしてくれるって言ってたから。こいつよりデカい方、絶対俺が食う」
「あんたねぇ……お父さんとお母さんの仕事も、今日はもうすぐ終わる時間なんだからね。二人が帰ってきてこの険悪な空気見たら、二人とも玄関から叩き出されるよ」
ジウがカバンをドンッとソファ前のローテーブルに置くと、スホは「チッ」とわざとらしく舌打ちをし、ユゴンの後頭部に向けて振り上げていたテレビのリモコンを、不満たらたらの手つきでソファ横のポケットに乱暴に置いた。
足を投げ出してソファのへりに頭をもたれかけさせ、ぷいっとそっぽを向いて不貞腐れる姿は、どこからどう見てもただの反抗期の高校生だ。そのあからさまに苛立っている背中を見て、ジウは小さくため息をついた。
(……ほんと、面倒くさい。久しぶりに会ったのにまるで変わってないな)
文句を言いつつも、世界が終わったかのような顔をしているこいつを前にすると、昔からどうにも放っておけなくなる自分が腹立たしい。
「……しょうがないなぁ。冷蔵庫の奥に、私の分一個残ってるでしょ。それ、あんたにあげるから!」
「え?」
「私はお昼に学校で甘いもの食べてきたから、いらないの。だからもう喚かないで」
ジウがそっぽを向きながら言うと、スホは目を丸くして、パチパチと瞬きをした。
「……でも、それお前の分だろ」
「いらないって言ってるじゃん。それとも、私が食べかけのやつ渡した方がいいわけ?」
「……いらねぇし。チッ、最初からそうしろよ」
憎まれ口を叩きながらも、スホの顔からスッと険が抜けていく。
彼はそそくさとキッチンへ向かうと、冷蔵庫の奥からガラスの器に入ったプリンを取り出した。
その瞬間、背中越しにもわかるくらい、さっきまで怒りで張り詰めていた彼の広い肩から、ふっと力が抜けたのが見えた。
振り返った彼は、たかがプリンが入ったガラスの器を、なぜか落としたら割れる高級な骨董品でも扱うかのように、大きな両手でそっと包み込むように持っている。
さっきまでのドス黒いオーラは綺麗さっぱり消え去り、そこにあるのは、どこか安心しきったような、ひどく無防備な顔だった。
(……ただのプリン一個でどんだけ安上がりな男なわけ?)
一般家庭の冷蔵庫のスイーツ一個を両手で大事そうに抱えてホッとしている姿は、滑稽を通り越してちょっと拍子抜けする。普段あっちの豪華な宿舎で、一体どんな過酷な食事制限をさせられたらこんな顔になるんだ。
私がその変わり身の早さに呆れて鼻で笑っていると、その様子を見ていたユゴンが「なんだよ、俺にはくれないのかよ!」と唇を尖らせて割り込んできた。思わず無言で兄のすねに強烈な蹴りを入れてしまった。
「痛っ! なんで俺だけ!?」
「お兄ちゃんが全部悪いんでしょ! ほら、お母さんたち帰ってくる前に散らかったクッション片付けて」
痛がる兄を冷たく見下ろしながら、私は入ってきた時にローテーブルの上にドサッと放り出していた通学カバンをひっつかんだ。 「ちょっと二階に荷物置いてくるから」と言い残し、階段を駆け上がって自分の部屋へ向かう。
ドアをバタンと閉めて、ようやく「ふぅーっ」と深く息を吐き出した。
ドアを一枚隔てたって、階下からドタドタと響いてくる兄の情けない足音と、スホの低くてトゲのある声は普通に床越しに伝わってくる。全然静かになんてなりゃしない。
部屋の中は、今朝家を出た時の慌ただしさそのままに散らかっていた。
勉強机の上には、来週から始まる高2の期末テストの範囲表が、丸まった数学の小テストプリントと一緒に放り出されている。椅子の上には昨日脱いだジャージが引っ掛けられたままだし、クローゼットの扉もあと数センチのところで中途半端に開いたままだ。
(……ったく。あいつらが来ると、一気に家の人口密度上がるんだよなぁ)
重たい通学カバンを床に適当にドサッと落とす。
窮屈なブレザーを脱ぎ捨てて椅子の背もたれに雑に引っ掛けると、首元のリボンをパパッと緩めて、引き出しから引っ張り出しただるんだるんのTシャツと短パンに素早く着替えた。ついでに机の隅に転がっていたクリップで、邪魔な前髪をパチンと留める。
あいつらが来ると、リビングは占領されるし、冷蔵庫の食料は秒で消えるし、何よりくだらない小競り合いに巻き込まれて本当にうるさくて仕方がない。
……そうやって頭の中で散々文句を並べ立てているくせに、ふと机の上の鏡を見たら、自分の口元がだらしなく緩んでいるのが目に入った。
(……あ、ヤバ。なーにニヤけてんの私。あんなバカ二人組、絶対調子に乗らせたら面倒くさいのに)
私はペシッと両手で自分の頬を叩いて気合いを入れた。
階下からは相変わらず、「お前、それ以上ソファ寄ってくんな!」「ヒョンがどけばいいだろ」という、小学生レベルの陣地争いが聞こえてくる。
(……まったく。ちょっと目を離すとすぐこれだ)
私はわざと重たい足音をドタドタと立てながら、階段を駆け下りてリビングへ戻った。
……リビングには期待を裏切らない光景が広がっていた。
キッチンの引き出しから銀のスプーンを取ってきたらしいスホが、リビングの中央にある三人掛けのソファの真ん中に、デーンと我が物顔で腰を下ろしている。 しかも、右側で蹴られたスネをさすりながらブツブツと恨み言を言っているユゴンに対し、これ見よがしに完全に背中を向けて座り込んでいた。
ガラスの器を両手で大事そうに抱え、ユゴンには背を向けたまま、スプーンの先でプリンを小さくすくっては、ちびちびと至福の表情で口へ運んでいる。
スホがプリンを味わいながらふう、と深く満足そうに息を吐いて目を細める。
「おいスホ、わざと俺に背中向けて食うなよ! 嫌味か!」
「うるせぇ。話しかけんな」
小学生でもやらないようなあからさまな背中向けと小競り合いを繰り広げている。 私は呆れて肩をすくめながら、床に転がっていたお気に入りのクッションを拾い上げ、スホの左側の空いたスペースに当然のように腰を下ろした。
三人掛けのソファに、手足の長い高身長の男が二人。ただでさえ狭いのに、スホがユゴンを避けてこっち側に体を傾けているせいで、スウェット越しに彼の硬い膝が私の太ももにガツンと当たった。イテっと声が聞こえたがどかす気配は微塵もない。
「……はいはい、戻りましたよ。満喫してるみたいね」
「……ん」
スホはスプーンを口にくわえたまま横目で私を一瞥すると、私の適当にクリップで留めた前髪と短パン姿を上から下までジロッと見て、低く鼻を鳴らした。
「……相変わらず、家だと一瞬で気抜けた恰好すんな」
「お兄ちゃんに言われたくない、余計なお世話! 部屋着なんだからいいでしょ!」
真ん中でユゴンに背を向けたままプリンを味わうスホと、右側でふてくされてスマホをいじるユゴン、そして左側でクッションを抱える私。
数十分前まで殺気立って大喧嘩していたはずなのに、いつの間にか三人で一つのソファにぴったり収まる、見慣れたいつもの光景が出来上がっていた。
ふあ、と小さく欠伸を噛み殺しながら、私は何気なくソファの上で片膝を立て、テレビのバラエティ番組に視線を戻した。何となく頭の横が痒くて、左手で頭を掻く。
右側では、同じようにスマホを見ていたユゴンが「あー、肩凝った……」とぼやいている。
真ん中でプリンのカラメルを掬おうとしていたスホが、銀のスプーンをピタリと止めて、信じられないものを見るような、心底嫌悪感に満ちた目で私の右膝と左手を凝視し、そのまま首だけを右に向けてユゴンを一瞥した。
「……おい。お前ら、左右の視界で寸分違わず同じ動きすんのやめろ。気味悪い」
「……は?」
「あ?」
私とユゴンの声が、見事なまでにハモった。
慌ててスホの背中越しに右側の兄貴を覗き込むと――そこには、私とまったく同じようにソファの上に右膝を立て、左手で頭をポリポリ掻いているバカの姿があった。
(うわ、最悪……! 私、無意識にこいつとシンクロしてたわけ!?)
鳥肌が立つような拒絶反応が背筋を駆け抜けたのと、ユゴンが「はっ!?」と顔を歪めたのは完全に同時だった。
「一緒にするな! 私がこんなバカ兄貴と同じ動きするわけないでしょ!」
「俺だってこんなちんちくりんの妹と一緒はごめんだね! 俺の華麗な所作を真似すんな!」
「誰が真似したっていうのよ! 膝立てて頭掻くのが華麗なわけないでしょ、ただのガサツ!」
またしてもギャーギャーと始まりかけた兄妹喧嘩にスホはやれやれと深くため息をつきながらも、その口元にはどこか居心地の良さそうな微かな緩みを浮かべ、再びプリンを匙ですくって口へ運んだ。
それからひとしきり言い合って息を切らした後、私はコホンと喉を鳴らして気を取り直し、二人に尋ねた。
「……で。今回のお休みはどのくらいなの?」
「んー、三日。大ヒットした新曲のプロモーションがやっとひと段落して、これから始まる夏のドームツアーに向けた、数少ない短い休暇が今日からってわけ。明々後日の朝にはソウルに戻って、そのまま次の撮影」
「たった三日!? 相変わらずブラックだねぇ……。まあでも、ECLIPSE大ヒットおめでとう。……お兄ちゃんたちのせいで、今日の昼休み、学校で酷い目に遭ったんだけどね」
私が恨めしそうにジト目を向けると、ユゴンが「ははっ!」と得意げに笑って身を起こした。
「おっ、ついに俺の魅力が一般層にもバレちまったか! 今日の午前中に速報出たばっかだもんな。米ビルボードのメインチャート初登場8位! クラスのやつら、なんて言ってた? 俺の神ボイスに息止まっただろ?」
「サビ前のスホの色気がヤバいって言ってたよ。お兄ちゃんのことは高音凄かっただってさ」
「なんで俺の方が感想薄いんだよ!?」
ギャーギャー騒ぐ兄貴を無視して、私は真ん中に座るスホの太ももに容赦なく片手を置いてぐっと身を乗り出し、右端の兄の顔をまじまじと見つめた。
無精髭がうっすら生えかけ、スウェットの襟元はヨレヨレ。さっきプリンを巡って喚き散らしていた男のどこに、ファンを魅了する要素があるというのか。
「……おい。前塞ぐな、邪魔」
プリンの器を持ったスホが、視界を遮られて不機嫌そうに銀のスプーンの柄で私の額をコツンと小突いてきた。
私はそれを手で払いながら、兄に向かって素朴な疑問を投げかける。
「……それにしても、アメリカでそんなにウケたのって正直ちょっと不思議なんだけど。あっちの人たちって、もっとスーパーマンみたいな筋肉モリモリの逞しい男の人が好きなイメージあるじゃん。あんたたちみたいな細身のどこがそんなに響いたわけ?」
私の素朴な疑問に、ユゴンは待ってましたとばかりに胸を張ってドヤ顔を浮かべた。
「はっ! 分かってねぇなジウ! 向こうのメディアでも言われたぜ。東洋の美しき吸血鬼たちってな! スーパーマンみたいなマッチョに飽きてたあっちの若者に、この退廃的で独特な世界観がぶっ刺さったの! 俺の神々しい歌声と俺らの美貌がな!」
「……ヒョン、てきとうなこと言ってんじゃねぇよ」
真ん中で最後の一口のカラメルをこそげ取っていたスホが、銀のスプーンをくわえたまま、低く呆れた声を落とした。
「……向こうのストリートのトレンド徹底的に拾って、テギョンヒョンとトラップビートの重低音、調整を重ねた結果だろ。顔と服だけでビルボード入れるわけねぇだろ、バカ」
「お前、ロマンのないこと言うなよ! 現実主義者!」
「現実見ねぇで浮かれてんのヒョンだけだろ」
「……画面の中でキラキラしてるあんたを見ると、すごく不思議に思うんだよね。どう見てもただのポンコツな兄なのに、なんであんな闇の王子みたいな顔できんの?」
「失礼なやつだな! 俺のプロ意識の賜物だよ」
「……さっき俺のプリン食おうとして、クッション抱きしめて情けなく縮こまってたくせに」
スホが空になったガラスの器をローテーブルにコトッと置き、ごちそうさま、と短く呟きながら呆れたように口を挟んだ。それを聞きつけたユゴンが、気を取り直したようにスホへと向き直る。
「おいスホ、お前は俺の味方だろ! 誰の部屋に泊めてやると思ってんだ!」
「は? 俺の部屋だし。おばさんがスホくんの部屋はいつでも開けてあるからねって言ってたし」
「おいおい、実の息子の俺より待遇良くないか……?」
ブツブツと文句を言うユゴンを見て、私は思わず吹き出した。
ソファの背もたれに深く体重を預けたスホの横顔も、すっかり険が取れて柔らかくなっている。
「でもさ」
ジウはふと、窓の外の暮れゆく空を見ながら呟いた。
「思えば、デビューから三年か。あんたたち、ついに本当に有名になってきちゃったね」
その言葉に、ユゴンとスホの動きが止まる。
三年間。血を吐くような練習生時代から、なかなか結果が出ずに焦っていた時期、その努力が花咲き出した今。そのすべてを一番近くで見てきたジウの言葉には、からかいではない、確かな温かさが混じっていた。
ジウはスホの言葉に深く頷く。
「……まあな。お前には、散々心配かけたし」
ユゴンが照れくさそうに頭を掻く。
スホは何も言わず、ローテーブルに置かれた空のプリンの器を見つめながら、居心地の良さと少しの気恥ずかしさを誤魔化すように、私のすねを足の先で軽く小突いてきた。
リビングの大きな掃き出し窓からは、初夏の柔らかい夕風が吹き込んできて、薄いレースのカーテンを静かに揺らしている。緑に囲まれた小高い場所にある我が家の周りには、視界を遮る民家も何もない。
だからジウはこうして窓を開け放ち、夕暮れに染まりゆく空を眺めながらソファでだらしなく寛いでいられる。
今でこそ手が届かない世界的スターとなった二人だが、練習生期間やオーディション番組で過酷なサバイバルをしていた頃は、休みがあるたびにこの家に帰ってきては、父の趣味部屋でダンスの練習をして、悔し泣きをしながらご飯をかき込んでいたのだ。
12歳の頃からこの家のソファを占領し、一緒にテレビを見て、同じご飯を食べていた彼らに対し、今さら遠慮なんて言葉が存在するはずがなかった。
「ほんとだよ。オーディションの時、お母さんに泣きついてたくせにさ」
「おい! それはもう言うなって!」
ユゴンが慌てて誤魔化すのを横目に、ジウはニヤニヤしながら今度はスホの方を向いた。
「そういえばスホだって、昔初めてうちに来た時、テラスで泣きべそかいてたよね? あの時、私がソーダアイス半分あげた恩、まさか忘れてないでしょうね」
私が笑い話のつもりでケラケラと笑いながらからかうと、スホの肩がピクッと跳ねた。 彼はプリンを口に運ぶ手を止め、ゆっくりとこちらを振り向く。
――その瞬間、私の喉から笑い声がヒュッと消え去った。
真っ直ぐに私を射抜いた彼の瞳が、ゾッとするほど冷たく、底なしに暗かったからだ。いつもの人を小馬鹿にしたような目じゃない。
窓から差し込む夕暮れのオレンジ色の光を浴びながら、彼が纏った異様な気配に、背筋を冷たい針で撫でられたような錯覚を覚える。
ただの昔話でからかっただけなのに。まるで絶対に触れてはいけない彼の最も深い聖域を、私が土足で踏み荒らしてしまったかのような、息が詰まるほど重たい沈黙が二人の間に落ちた。
「……お前には、……………………けどな」
這うように低く、掠れた声がボソリとこぼれ落ちた。 夕風の音に紛れて、私にしか届かないほどの小さな音量。けれどその響きには、心臓を鷲掴みにされるような、ひどく切実で重たい熱が混じっていた。
「え? なに? 今なんて言ったの?」
私が思わず聞き返すと、スホはハッとしたように長い睫毛を震わせ、サッと乱暴に視線を逸らした。
「……別に。誰が泣きべそなんて。そんな大昔のこと、とっくに忘れたし」
そう吐き捨てた彼の顔は、さっきまでの底冷えするような表情から一転し、不貞腐れた子供のような顔に戻っていた。
ただ――夕日の赤さのせいだけではないと思う。私から背けた彼の耳の裏から首筋にかけてが、みるみるうちに熱を持ったような朱色に染まっていくのがはっきりと見えた。あれれとからかってやろうと思って顔を覗き込むと、スホはその動揺を隠すように小さく舌打ちをして、腕を組んでプイッと完全にそっぽを向いてしまった。
(なんだよ、ちょっとからかっただけなのに。相変わらず沸点がわからないやつ)
さっき、あいつは何を言いかけたんだろう。
私はスホの不自然な表情を図星を突かれてプライドが傷ついた恥ずかしさだと都合よく片付け、呆れたように小さく肩をすくめた。
「あ、またそうやってすぐ不貞腐れる!」
夕暮れのリビングに、笑い声が響いていた。




