1 高校
晴れ渡った青空、初夏の訪れを告げるうららかな日差しが窓際に座る背中をぽかぽかと照らしていた。
...が、悲しきかな。この暖かい午後のうららかな陽気を楽しむなんてそんな余裕はなく、四限終わりのチャイムが鳴り終わっても、キム・ジウは手元のノートから顔を上げず、チョークの粉が舞う黒板の文字を必死で書き写していた。
「ちょっと、今週末の数学の宿題多すぎじゃない? 明日から土日だからってひどくない?」
前の席から黒髪を揺らしながらくるりと振り返ったのは親友のチョアだ。机の上に突っ伏しながら盛大なため息をついた。
「ねー。 先生たち私たちをいじめたいのかな? 今週末は晴天だって言ってたのに」
「ほんとそれ。先生、私たちが宿題だけを週末、全員おとなしく家で勉強する前提で出してるよね。私は、自分の勉強も他にたくさんあるのに」
隣の席のもう一人の親友ミンヨンも、手鏡でリップのノリをチェックしながら、気怠そうにシャーペンを机に放り投げた。ジウは手元のノートから顔も上げずに必死で相槌を打つ。
私が通うこのセボム高校は、ソウル市内でも大分郊外にあるごく普通の一般校だ。スポーツコースなんていう気の利いたものはないし、生徒たちの関心事といえば、次の小テストの範囲か、テレビの中の芸能人や今をときめくアイドルの話題、あとは季節の学校行事くらいなものだ。 良くも悪くも平和で、平凡で、ただ宿題だけはやたらと多い。
「ちょっとジウ、聞いてる!? 今週末の課題の量、絶対おかしいって! 先生たち狂ったの!?」
「……うん、聞いてる聞いてる(……自称進学校め。ほんと、それだけは同意だわ)」
目の前でキーキーと叫ぶチョアの愚痴に曖昧に相槌を打ちながら、ジウは心の中で深くため息をついた。
そう、ただでさえ課題が多いセボム高校だというのに、今週末に限ってはいつにも増して課題が山積みなのだ。
私にだって、週末くらい友達とカラオケや映画を楽しんだり、静かなカフェで課題を片付けたりする『普通の女子高生の休日』を過ごす権利はあるはずだ。
けれど、今の私にはそんなささやかな希望すら許されそうにない。
なんと言っても今週末は、半年ぶりにあの騒がしいバカ兄貴と、もう一人のアイツが揃って家に帰ってくるのだ。
ただでさえ課題が終わらないっていうのに、あの二人が家にいたら静かに勉強なんて一ミリもできるわけがない。それどころか、「腹減った」だの「暇だ」だのと騒ぎ立てられて、どこかへ連れ回されて私の休日が丸ごと潰される未来まで目に見えている。
(……なら、今週末は図書館にでも逃げ込めばいい話だ。二人には『課題が忙しいから』って素気なく言えばいい)
……なのに、最初から逃亡という選択肢を頭から除外している自分に、ジウは心底呆れてしまった。
なんだかんだ言いながら、あの二人と過ごす騒がしい時間が嫌いじゃないこと。そして、半年ぶりにあの二人に会えるのを、ほんの少しだけ楽しみにしている自分がいること。――そんなの、口が裂けても認めたくはないけれど
(はあ、考えてたら余計に頭が痛くなってきた。とにかく今は、目の前の課題を終わらせるのが先!)
ブンブンと頭を振って雑念を払うと、昼休みのチャイムが鳴り響く中でカリカリと猛スピードでシャーペンを走らせる。
「ねえジウ、今日のお昼どこで食べる? 中庭? それと....」
「できたーーー!」
最後の回答を書き終えた瞬間、ジウはシャーペンを机にバンッと置いて勝利の歓声をあげた。
急な大声にミンヨンが「ひゃい!?」とビクッと肩を揺らし、チョアが「お疲れ様」と呆れたように笑う。
――これからいつもの平和な昼休みが始まる。はずだった。
ジウが大きく伸びをしようと腕を上げた、その時。
廊下からドダダダダという地響きのような足音が教室に迫り、間髪入れず、鼓膜を劈くような甲高い悲鳴が教室の前方から上がった。
「嘘でしょ、ちょっと見た!? 今入ってきたニュース!!」
「ビルボード200で初登場8位!? やばい、アジアの伝説じゃん!!」
2-Cの教室の後方、ジウの席のすぐ斜め後ろにある出入り口付近で、鼓膜を突くようなけたたましい黄色い声が弾けた。
(うわ……また始まった)
他クラスの女子まで入り乱れ、誰かのスマートフォンを囲んで熱狂の渦ができている。
教室に入ろうとしていた男子たちが、その異様な熱気にドン引きし、迷惑そうに前方のドアへと迂回していくのが見えた。
心なしか、教室中の温度さえこの一瞬で急上昇したのを感じた私は、押し寄せるような騒音と制汗剤の入り混じった匂いに、げんなりと息を吐いた。この勘は人生で一度も外したことがない。今日もまた、最悪な一嵐が来る。
(ちょっと、早く昼食食べに出て行かないと中庭と食堂の特等席たちが埋まっちゃうじゃん……!)
私のささやかな昼食の野望をよそに、興奮の人だかりはやはり一直線にこちらの席へと迫ってきた。
直後、バンッと、私の机が乱暴に揺れた拍子にまだ筆箱にしまっていなかった消しゴムが落ちる。 興奮しきった他クラスの女子の一人が、わざわざ私の机に両手で体重をかけ、たまたま近くを通りかかっただけの男子生徒の鼻先にスマホの画面を突きつけたのだ。
隣の席のミンヨンが「チッ」と露骨に目を細めて脚を組み替え、私を熱気から庇うように壁を作ってくれて前の席のチョアもまたかと呆れ顔で肩をすくめた。
(ちょっと、人の机に勝手に体重かけないでよ。消しゴム落ちたじゃない!)
顔を顰めてのけぞるジウを完全に透明人間扱いして、彼女は画面の中の男たちを指差し、暑苦しいほどの熱弁を振るい始めた。
「ちょっとジュノ! 昨日の『ECLIPSE』のカムバックステージ見た!? 見てないでしょ、見なさいよ!!」
「うおっ!? いや、俺アイドルとか全然わかんねぇって! たまたまトイレ行こうと思ってただけなのに、なんで捕まってんだよ……!」
クラスメイトの男子ーカン・ジュノがのけぞりながら苦笑いするも、女子の熱量はお構いなしだ。彼の迷惑そうな苦笑いなんて、彼女の猛烈な熱量には一ミリも届かない。小さく漏れ出る重低音のビートとともに、4Kの高画質動画が再生され始めた。
彼女は、画面の中で激しく踊る五人の男たちを指で突くようにしながら、わざわざ私の席の真前で大きな声を張り上げた。
「いいから黙って一秒だけ見なさいよ! ほら、このイントロ!」
暗転したステージに一筋の青い照明が差し込み、重厚なベース音が響く。
画面の中央に立つ一人のアイドルにスポットライトが落ち、彼がゆっくりと顔を上げた。
アッシュブラックの髪間から覗く、絶対零度の冷たい瞳。漆黒のベルベットジャケットの隙間から、引き締まった胸元とシャープな鎖骨のラインが白く浮かび上がっている。
「この真ん中で踊ってるのがECLIPSE絶対的センターのスホ様! 見てこの、鎖を引きちぎるような振り付け! ここ!」
重厚な重低音のパンチに合わせて、スホの身体がまるで重力を無視したかのように跳ねた。
計算し尽くされた関節の動き、鋭く空気を切るような腕の旋回、そして一転して流れるような滑らかなアイソレーション、激しいフォーメーションチェンジの中でも体幹は一切ブレず、衣装のベルベット生地が動きに合わせて美しく光を反射する。
カットが切り替わる瞬間、激しいダンスで乱れた前髪の隙間から、汗ばんだ首筋が覗かせながらスホが冷ややかにカメラを射殺すような視線を投げかけ、不敵に口角を上げた。
「……凄ェな……」
「でしょ!? 完全なる闇に堕ちた王子でしょ!! 同い年でこの顔面国宝っぷりと危うい色気、マジで信じられないんだけど!!」
「へ、へえ……確かにな……」
彼女は「まだまだこんなもんじゃないから!」と興奮冷めやらぬ様子で、心の中で盛大に悪態をつく私をよそに、さらに鼻息荒く画面をスワイプする。
「こっちで余裕たっぷりに踊ってるのがリーダーの『テギョン』! そんで、このゴリゴリにラップしてる青いウルフカットが『ハヌル』でしょ。このあざとくて可愛い金髪の子が末っ子の『シウ』! んで、最後に……」
ミナちゃんが画面をスワイプした瞬間、曲終わりのカメラが猛烈な勢いでズームアップした。画面いっぱいに映し出されたのは、汗ばんだ前髪の隙間から冷ややかにカメラを睨みつける男の顔だ。
「この人がメインボーカルの『ユゴン』! なんと、この高校の先輩よ!! 首筋に青筋立てながら冷酷な視線でカメラ抜かれたの、あれ絶対ファンを殺しにきてるって!! 同じ空気吸ってるだけで狂いそうなんだけど」
机の周りで、甘ったるい制汗剤の匂いを振りまきながら大惨事を起こしたように悲鳴を上げる女子たち。
画面の中の男は、まさに世界を平伏させる孤高の絶対的アイドル――
ジュノは「へぇ、なるほどね」と生返事をしながら、ふとスマホ画面の中のユゴンを見つめ――そして、すぐ目の前で引きつった笑顔を顔に貼り付けている私を見た。
画面の中の、美形アイドル。 目の前の、学食のヤンニョムチキン定食に命をかけている一般人。 画面。私。画面。私。 ジュノの首が、何度も往復する。
――ッ!
(ちょっとちょっと、見比べないで。ねえねえ! お願いだから〜)
同じ親の腹から生まれたのに、片や世界を震撼させる超絶イケメンで、片やただの高校生。遺伝子の神様が盛大にえこひいきした残酷な結果を、一般男子の鋭い観察眼で証明しないでほしい。
「……あー! なるほど、この人が有名なお前の兄貴か、キム・ジウ! 確かによく見りゃ半目の時の目元が似てるかも。すげぇな、お前の兄ちゃんこんな化け物みたいなグループにいんのかよ!」
ポンと手を打って納得したジュノの言葉に、ジウは「あ、あはは……ほんと、すごいよねぇ」と引きつった笑顔を浮かべながら、背もたれにジリジリと後ずさった。 私は無意識のうちに、自分の平凡な毛先を指でくるくるといじってしまう。
(……そりゃ似てないでしょうよ。私とあいつじゃ遺伝子の分け前が違うんだから)
昔からそうだった。幼少期から「お兄ちゃんはあんなにイケメンなのにね」という、悪気のない視線や言葉を幾度となく投げかけられてきた。 だからこそ、私は幼い頃に悟りを開いてしまったのだ。
(顔、顔、顔……どいつもこいつも容姿がなんだっていうのよ。顔が良いから何なの? 重要なのは中身でしょ! そもそも顔面なんて年齢と共に老けていく、消費期限付きの目減りする資産じゃない! 一生モノの価値なんてないんだから!)
そうよ、アイドルだって朝は寝癖で頭爆発させて、口半開きでヨダレ垂らして寝てんの! 劣等感を打ち消すように、心の中で誰にも言えない彼らの無防備な現実を暴いて、私はなんとか己のプライドを踏みとどまらせる。
「そうよ! ジウ、あんた毎日あの顔見て育ったんでしょ!? 前世で国でも救ったわけ!?」
「ねえねえ、今度の凱旋ライブ、どうにか関係者席とか――」
「チケットの倍率が高すぎて、全然当たらないの......!!お願い!!」
ジュノの言葉を合図にしたように、女子たちがぐいっと私にのしかかるように身を乗り出してきた。
(……出た。それが最初から本当の目的だろ……!!)
動画を見せて『かっこいい〜!』なんてキャーキャー騒いでいたのは全部ただの前振り、最初からこの関係者席のチケット目当てに、私の席に乗り込んできたのだ。失礼だけど、目の前の餌にギラついているハイエナのように見える。
(近いってばー……! 圧が強い!!)
興奮した彼女たちの息がかかりそうな距離と、鼓膜が破れそうな甲高い声に、ジウはたまらず背もたれにジリジリと体を押し付けた。
「え、あ、いや、ライブは私も普通に……」
「はいはい、ストーップ!!」
ジウが完全に壁際に追い詰められたその時、前の席のチョアがパンッと大きく手を叩いて立ち塞がった。同時に、ミンヨンが私の腕を強く引き、ギラギラと燃えたつ女子たちの熱から引き剥がしてくれる。
「ジウが困ってるでしょ! ジウはお兄ちゃんたちと最近全然連絡取ってないし、事務所が厳しくて家族でもチケットなんか取れないんだからね!」
親友の作ってくれた防壁に、ジウは強張っていた肩からスッと力を抜き、心底ホッとして息を吐き出した。
(……ほんっと、二人には感謝してる)
チケットが取れないとか、全然連絡を取っていないとかは、もちろん嘘だ。
うちの兄貴は何気ないことでもすぐ連絡してくるし、家族ラインは活発で、逆に暑苦しいくらいだ。言えば関係者席なんていくらでも用意されるだろうし、実際、ライブのたびに親の分と一緒にチケットが家に送りつけられてきている。
(……まあ、一回も見に行ったことないんだけど)
忘れもしない中学三年生の夏。彼らの記念すべきデビューライブのチケットが届いた時、私は高校受験の超大事な志望校判定模試の直前だった。 『妹が来ないデビューライブなんてあり得ない!』と電話口で子供みたいに大号泣してごねる兄貴を、『こちとら人生かかってんの!』と蹴り倒して模試を優先して以来、なんだかんだ理由をつけて一度も会場には足を運んでいない。
とにかく、こんな騒がしい女子たちにくれてやるチケットなんか一枚もないし、万が一渡そうものなら『私にも関係者席ちょうだいー!』と私の身辺がもっとうるさくなるのは目に見えている。これ以上厄介事に巻き込まれるのは御免だ。
それに、兄、兄、兄。
いつも向けられるのは、私自身ではなく『彼の妹』としての関心ばかり。
家族のことを褒められて嫌な気はしないけれど、こうまで“私の日常”を踏み荒らされると、いい加減うんざりする。
チョアに追い払われながらも、女子たちが突き出していたスマートフォンの画面。
数万人の歓声に包まれる彼らの姿を冷めた目で見つめながら、ジウは心の中で盛大に本日何度目か分からない悪態をついた。
(……なーにが孤独な王子様よっ)
アジアの伝説、新着追加でビルボード8位のスター、美形アイドル集団......etc.etc.
画面の中で、兄を含む5人のメンバーたちが、漆黒の衣装を纏って冷酷な視線を投げている。ECLIPSEの世界観そのままの、誰も触れられない孤独な王子たち。
数万人の歓声に包まれる彼らの姿を冷めた目で見つめながら、ジウは心の中で深くため息をついた。
全く熱狂する彼女たちは誰も知らない。
実家にちょうど今日帰省したその画面の中の2人が数十分前から、自分の家のリビングで毛玉のついたスウェット姿のまま、どっちがプリンを食べるかで本気の取っ組み合いをしていることなんて。
さっきからジウの制服のポケットの中で、当事者であるスホから『ヒョンが俺のプリン横取りしようとしてる』というSOSと一緒に、毛玉だらけのスウェットを着たアイドル2人組が、リビングの床で最後のいちごプリンを賭けて必死の形相で取っ組み合っているブレブレの酷い自撮り写真が連投されてきていることなんて。
(……あいつら、半年ぶりに帰ってきたと思ったら何やってんの……!?)
半年間成長を止めていたのではないだろうか。添えられているのは、フォロワー数千万人を誇る彼の個人インスタやBeRealで見せる日常からは100万光年遠ざかった、酷すぎる現場写真。 ソファの上で最後のお母さん手作りプリンを賭け、歯を剥き出して必死の形相でヘッドロックをかまし合っている。手ブレのせいで二人の顔が残像のようにブレブレになった、公式に見つかったら即削除レベルの地獄絵図ショットだ。
(……事務所のSNS担当が見たら卒倒するレベルの事故画送ってくんじゃないわよ……)
さらに追撃で届いた、『早く帰ってこい。ユゴンヒョンをどうにかしてくれ』という心底どうでもいいCacaoメッセージを画面から叩き消す。
(……はあ。帰ったら、絶対に二人まとめてスネ蹴り飛ばしてやる……!)
ジウは、放課後待ち受けているであろう嵐のようなドタバタ劇を想像して、小さく、けれど力強く拳を握りしめるのだった。




