第96話 酒吞
【登場人物紹介】
紅皇鬼━━━━
閻魔宮で亡者に罪を伝える役目を担う閻魔王の片腕。紅鬼総大将であり、短気で感情的な性格。蒼鬼軍の壊滅と日本の制覇を目論む。紅呪鬼の反対を押し切り、封鬼牢に永年封印されてきた酒吞の解放を決意する。
紅呪鬼━━━━
紅鬼の修羅。官吏のような衣を纏い、常に知的で冷静沈着、余裕の笑みを浮かべている。紅鬼の中では誰よりも妖力に長けた副将格。紅皇鬼の片腕的存在。紅皇鬼の命令を受け、酒吞の封印を解くために封鬼牢へ向かう。
紅蓮鬼━━━━
紅鬼の修羅。『分茶梨迦』と呼ばれる地獄の池で、火焔の蓮の花で罪人たちを焼き尽くしている。穏やかな優男的な見た目によらず、性格は紅皇鬼に似て残虐。酒吞に興味津々、紅呪鬼と共に封鬼牢へと向かう。
紅風鬼━━━━
紅鬼の修羅。紅鬼の牢獄、封鬼牢の番人。若いながらも閻魔王からの信頼は厚い。呪術に関しては紅呪鬼とは師弟の間柄。鬼を封じる術に長け、呪符を使った風の攻撃を得意とする。渦巻柄の紅白の外套を羽織っている。
紅酒鬼(酒吞童子)━━━━
紅鬼の修羅。かつて紅鬼軍の総大将だった絶大な力を誇る紅鬼。大胆不敵にも閻魔王に逆らって地獄転覆を画策するが失敗。二千年の禁固刑を受けて封鬼牢に封印された後、現在に至るまで七百年以上もの歳月が流れた。紅鬼にとっては敵にも味方にもなりえる諸刃の紅鬼。
━━━━禁忌の封印は解かれた。
およそ七百年前、日本だけではなく地獄までをも混乱に陥れ、閻魔王の地位すらも狙った伝説の狂鬼、酒吞。
その古の物語は、再び現実の恐怖となる。
その巨躯に煌めく鋭い瞳は今、封印を解いた紅呪鬼たち三鬼に対して向けられていた━━━━。
━━━━《⋯⋯何者だ? この酒吞様の封印を解いたのは、貴様たちか? 見た所、同じ紅鬼だな。⋯⋯答えろ。はや二千年の月日が経ったのか? それとも⋯⋯、返答次第によっては⋯⋯、⋯⋯ひねり潰す》
その眼光は地上のどんな野獣よりも鋭い。
封印を解き放った感謝の念も無ければ、同じ紅鬼同士の親近感も無い。
酒吞に寄り添える要素はまるで無かった。
どんな言葉を返したとしても、穏やかに事は進みそうもない。
そんな問答無用の残虐性や理不尽な暴力性が、この時の酒吞の瞳には滲みに滲んでいた。
それはまさに大蛇に睨まれた小蛙だった。
紅蓮鬼の口元が無意識に歪む。
そして眉を顰めながら呟いた。
《⋯⋯っ、嫌な予感しかしない。僕の想像していた以上だ。酒吞は見るからに危ないな》
紅蓮鬼の額からは先程の余裕は完全に消え失せ、早くも死地の戦場さながらの緊迫緊張の汗が滲んでいる。
隣の紅風鬼も状況は全く同じだった。
若い紅蓮鬼と紅風鬼が完全に圧倒されている中、この場で冷静に自身を保つ事ができているのは、ただ一鬼。
紅呪鬼だけだった。
《⋯⋯久しぶりだな。紅酒鬼、酒吞よ。刻の流れが思いのほか早いと感じているかもしれんが、さも当然。まだ刑期二千年までは程遠い。あれから七百年しか経っておらん。此度は一時的に牢から解き放ってやったまでだ》
《⋯⋯何だと?》
酒吞の身体がぴくりと反応する。
改めて三鬼に向けて放たれる、怪訝を纏った眼光。
その濃銀の眼が放つ鋭さと迫力は、先程までの視線とは比べ物にならない。
敵意を顕にした威圧感、そして凶暴な醜悪さに満ちていた。
しかし紅呪鬼は怯まない。
凛とした口調で言葉を続けていく。
《⋯⋯微かにでも聞こえたであろう。我々三鬼が封鬼牢に来た目的は、先程発した声の通りだ。御主に代わる紅鬼の現 総大将様からの御下命により、参上した》
《⋯⋯なにぃぃ、現総大将だと? ⋯⋯ふん、どうやら酒吞様の出獄を祝って駆けつけたわけじゃなさそうだな。⋯⋯しかも命令だと? 笑わせるぜ。どんな魂胆かは知らねえが、この酒吞様を牢から出したのは、その現総大将さまとやらの意思か? それとも口から出任せ、貴様らの入れ知恵か何かの企みか? ⋯⋯それとも⋯⋯閻魔からの命令か?》
酒吞の口から出た、“閻魔”の言葉。
酒吞は目覚めたばかり。
封印されてからの日本侵攻に関わる詳細はおろか、正門が固く閉ざされた現在の閻魔宮、姿を見せない閻魔王の事も何一つ知らない。
更にこの時点における蒼鬼軍との日本争奪戦。
加えて閻魔宮の不可解な現状。
どちらも酒吞には願ったり叶ったりの状況だった。
それをありのままに語る事は、説得には不利。
加えてこの強大な酒吞を更に増長させ、暴走へと導く可能性がある。
咄嗟にそう考えた紅呪鬼は、返す言葉に咄嗟の機転を利かせていた。
紅呪鬼は敢えて大事の全てを伏せた。
そして酒吞を抑えるために最も効果的と思われるその言葉⋯⋯、“閻魔王”の名を利用した。
《⋯⋯そうだ。これは総大将様の御意思であり、“閻魔王”様の御意志でもある。御主が逆らえば、すぐに閻魔王様が動かれる》
《⋯⋯なにぃぃぃッ、⋯⋯ちぃっ、また閻魔王か⋯⋯、あの野郎、いちいち出しゃばりやがって》
酒吞が初めて苦々しく呟く。
この偽りの言葉に、酒吞は何一つ疑念を抱いていないように見える。
第一の関門は上手くすり抜けることができたかもしれない⋯⋯、そう捉えた紅呪鬼は、これ幸いとばかりに矢継ぎ早に次の言葉を畳み掛ける。
《⋯⋯それが嫌ならば、紅鬼の悲願。人間界の征服のためにも邪魔な二人の人間を殺すのだ。⋯⋯紅鬼の同胞、酒吞よ。⋯⋯心してよく聞け。御主を解き放った理由。それは日本にあり。⋯⋯即ち、羅生門の開門!》
《⋯⋯羅生門。どういう事だ。しかも二人殺せ、だと? ⋯⋯おい、この酒吞様が封印されてから、この地獄や地上界はどうなった? まだ日本は堕ちていねえのか!?》
《⋯⋯日本侵略は今もまだ続いている。その標的、まず一人目は、私たち紅鬼軍の修羅の二鬼を斃した、厄介な刀を持つ鎌足と言う女の忍。その鎌足は今、日本の北、出羽国の山中に向かっている。日本の協力者とも連携し、何らかの手段を用いて羅生門邪道を開通させる故、その鎌足を追撃し刀を奪い、そして命を奪うのだ》
《⋯⋯あぁん!? ⋯⋯かまたり!? ⋯⋯女だと!?》
《そしてその同じ山奥には、前回撤退を余儀なくされた七十年前、当時『六歌戦』を務めていた、役小角と言う並外れた妖力と剣技を持つ男も暮らしているはず。⋯⋯相当の高齢だが、その人間もまた先の鎌足同様、私たち紅鬼の仇。よいか、その男が二人目の獲物だ》
酒吞の眼光に怯む事無く、紅呪鬼は冷静に、そして力強く言葉を並べていく。
しかし紅呪鬼と酒吞の性格は、見るからに水と油。
紅呪鬼の冷静さが悪印象となり、また話の内容自体も短気な酒吞には逆効果だった。
更に酒吞は命令される事を何よりも嫌い、またその自尊心はどんな山よりも高い。
何もかもがその機嫌を大きく損ねるには十分だった。
酒吞はすぐさまに声を荒げる。
そして紅呪鬼を罵り、嘲り笑う。
《何だ、何だ、七百年も経ちながら、まだ人間界を征服し損ねてるのか、ふはははは⋯⋯! やはりこの酒吞様が居なければ、紅鬼軍は駄目だな。⋯⋯そしてそんな駄目駄目な紅鬼の分際で、この地獄最強の酒吞様に向けた、今の数々の生意気な命令口調、万死に値す⋯⋯ん⋯⋯?》
断罪の怒鳴りの最中、ふと酒吞の目の色が変わった。
そしてまだ怒りに目を血走らせながらも、唐突に⋯⋯
⋯⋯笑い出した。
《⋯⋯ん、ふふ⋯⋯、ふふふ、⋯⋯ふははははははははは! ⋯⋯小賢しい生意気な紅鬼。何処の誰かと思えば、七百年前に閻魔が俺を封じ込める時に一役買っていた、紅呪鬼じゃねえか。⋯⋯待てよ。⋯⋯という事は、まさか今の総大将ってのは⋯⋯!?》
《⋯⋯ああ、紅皇鬼様だ》
《⋯⋯何ぃ!? ⋯⋯ふふ、ふはははは!! まさかとは思ったが、図星か。あの紅皇鬼が現総大将なんてなあ?》
《⋯⋯だから、何だ》
《⋯⋯はっ、冗談じゃねえ!! 紅皇鬼総大将だけでも相当に頭にくるのに、女と爺如きを俺様の獲物に充てがうとは⋯⋯、しかも華やかな京の都でなく、何処にあるのかもよく知らねえ北のはずれの出羽だぁ? ⋯⋯っ、たく、この酒吞様も全くもって舐められたものだ⋯⋯⋯⋯━━━━ふざけるなぁぁぁぁぁッッ⋯⋯!!!!!!》
《⋯⋯お、おおっとぉッ!?》
《⋯⋯まずいッ!?》
最後の凄まじい怒号に震えが走ったのは、紅蓮鬼と紅風鬼だけではない。
武器の無い丸腰の酒吞に、洞窟までもが震えていた。
強烈な波動により天井からぱらぱらと落ちてくる石礫や、ひびが走っていく岩壁は、まるで怒声だけで粉々にされた人間の骨肉のようにすら見える。
鬼の本能を刺激する、凄まじい殺気と迫力だった。
紅蓮鬼と紅風鬼の身体も自然に反応する。
気付いた時には二鬼は既に身構えていた。
紅蓮鬼は広げた両の掌に火蓮の炎を無数に咲かせる。
紅風鬼は外套を靡かせ両手に攻防一体の呪符を握る。
両鬼共に完全な戦闘態勢だった。
いつ七百年前と同じ捕物、生きるか滅するかの激突が起こってもおかしくない。
しかしそんな緊迫の状況の中でも、まだ紅呪鬼の動きや表情だけは変わらなかった。
それは並々ならぬ精神力で、湧き上がる様々な鬼の本能を、自身で制御しているようにも見える。
(《⋯⋯今は説得こそが最大の攻撃、そして防御》)
紅呪鬼はそう心で呟きながら、淡々と酒吞に言葉の刃を返す。
《ふざけてはおらん。勿論ただとは言わぬ。見返りも用意してある。その二人を斃せば、先の二千年の受刑、総大将様の特別の恩赦で、この僅か七百十年で留め置く。すなわち晴れて自由の身になれるのだ。御主の好きな、人間の生き血を搾った酒もまた飲み放題、人間を殺すのも喰うのも思うがままだ。⋯⋯どうだ? 決して悪い話ではあるまい?》
《⋯⋯あぁん!? 紅皇鬼と言えば、強気と負けん気、そして達者な口”だけ“は一丁前な、格下の紅鬼修羅。貴様の後ろでさっきからずっとびびってやがる、そいつらみたいな”ひよっこ“の若僧だったじゃねえか!?》
酒吞はゆっくりと指先を左へ、右へ。
中央の紅呪鬼の背後に控えている紅蓮鬼と紅風鬼を順番に指差し、不満と嫌悪に満ちた声で一笑に付した。
《⋯⋯何だってぇ!? 僕を馬鹿にしないでください!!》
《⋯⋯っ、この呪符ですら完全に舐められているッ!?》
百戦錬磨の紅蓮鬼と紅風鬼と言えども、この酒吞の氣と圧に呑まれ、今や完全に子供扱いされていた。
紅蓮鬼たちの抗いの声はまさに“焼け石に水”のように、更に酒吞の眼光に熱さと鋭さを注ぎ込む。
今すぐにでも三鬼に襲いかからんばかりの勢いで怒りを顕にし、更に鋭く睨みを利かせた酒吞が吠える。
《⋯⋯ふざけるなあぁぁぁッ!!!! ⋯⋯何故この最強の酒吞様が、あんな雑魚の紅皇鬼の下なんぞで手足のようにこき使われなきゃならねえんだ!? ⋯⋯えッッ!!!?》
しかし紅呪鬼は怯まない。
酒吞の荒ぶる唾の礫の代わりに静かに溜め息を返す。
《甘いな、酒吞よ。紅皇鬼様は七百年前とは比べものにならない程強くなられた。⋯⋯そして勿論この私もだ》
《⋯⋯何ぃぃぃ!?》
《⋯⋯酒吞、どうだ? 久しぶりの人間界。思う存分に暴れてみないか? そんな狭い封鬼牢に閉じ込められて、その間に殺めたのは紅挽鬼のみ。⋯⋯相当に鬱憤も溜まっているのだろう? この七百年余りの間に人間界は栄華を極め、更に堕落を増しているぞ? 地獄の伝説となった鬼、酒吞が久々に蘇り、華々しく暴れるのだ。映えある舞台に日本は相応しいとは思わぬか?》
《⋯⋯日本⋯⋯栄華に堕落、この酒吞様に相応しい場所だと!?》━━━━
━━━━それは酒吞の性格と単細胞を誰よりも知る、紅呪鬼ならではの、芳醇な美酒にも似た誘惑の言葉。
そして交渉の成否を握る、”鍵“となる一言だった。
賽の目は半丁どちらに転ぶかは分からない。
何の成功の確証も無い、一か八かの五分五分の賭け。
(《五分どころか、勝算は一分も無いかもしれんが》)
洞窟内には石礫ではなく、いつの間にか長い静寂の刻が舞い降りていた。
吉と出るか凶と出るか。
背後で見守る紅蓮鬼や紅風鬼にとっては、既に永遠とも思える程の長さの睨み合いを、紅呪鬼と酒吞は続けていた。
この心理戦。
優勢なのは、やはり圧で上回る酒吞か。
しかし一概にそうも言えない。
短気な酒吞がすぐさま拒否や攻撃に動いていない所を見ると、この段階では紅呪鬼の知力は、酒吞の殺気を抑え込む事に成功している、とも言えた。
そして賽は幸いにも一分以下の確率へと転がる。
酒吞の表情が僅かに緩む。
それが次なる駆け引きの合図だった。
紅呪鬼の思惑通り、酒吞は”乗ってきた“のだ。
酒吞は先程までの怒りや凶暴性、猜疑心に満ちた表情の代わりに、不可解な余裕、不気味な謎の笑みを見せ始める。
《⋯⋯ふっふふふ。⋯⋯ふん、上手く持ち上げる奴だ。その巧みで落ち着いた口ぶり、七百年前と何ら変わってはいないな。⋯⋯だが。確かに貴様の言う通り、妖気や邪気は七百年前とは段違いに増しているようだ。⋯⋯ふん、この酒吞様が牢の中で寝ているうちに、鍛え抜いたというわけか》
《⋯⋯⋯⋯》
《⋯⋯まあ、牢を出たばかり。こんなつまらん場末で暴れて、閻魔と殺り合い、手傷を負うくらいなら、憎き人間界を隅々まで破壊し尽くす。そんな戯事に向かうのも確かに悪くはない話だな。⋯⋯ふん。⋯⋯よし、紅呪鬼よ。⋯⋯そこまで言うならば一つ条件がある》
《条件だと? ⋯⋯何だ? 言ってみよ》
酒吞は妖しくにたりと笑う。
そして次に口にした言葉━━━━。
━━━それは紅呪鬼たち三鬼が誰一鬼として想像だにしてなかった、驚くべき条件だった。
《⋯⋯褒美が”自由“だけじゃあ物足りねえ。この酒吞様の自尊心が退かねえ。⋯⋯いいか。鎌足って女と役小角って爺。その人間二人を殺したあかつきには、この酒吞様を⋯⋯、⋯⋯━━━━再び紅鬼の総大将にしろ》⋯⋯
⋯⋯《⋯⋯ッ!?、な、何だと!?、此奴ッ!》
その言葉に紅蓮鬼の我慢が限界を迎えた。
いつもの気楽で穏やかな表情は一変し、珍しく明確な怒りや殺意を滲ませる。
全てを燃やし尽くす攻撃用の白い蓮の花びらが無数に舞い、そしてそんな白霞はすぐに紅の霞へと変わる。
それは火焔の渦。
白と紅、美と炎の美しくも恐ろしい花弁の舞だった。
《私ももう限界だ! ⋯⋯地獄谷の風よ、鬼封の風よ》
目を鋭く煌めかせた紅風鬼も紅蓮鬼に続いた。
呪符を左右に構えた詠唱。
込められた念に、洞窟内の空気がざわめく。
入り口から流れてくる風が、一段と荒く強くなる。
紅風鬼は外套を勢いよく外すと、身体と外套を素早く翻した。
そしてその流れ込む風を、外套に吸い込むように包み込み、耳飾りの片方を外して栓をする。
そのまま肩に背負った外套は、奇怪にも風を収めた巨大な袋と化していた。
風の氣流を纏った腰の刀に手をかけ、いつでも呪詛に満ちた風を放つ事のできる体勢。
これは風を司る鬼の鬼系に伝わる、”風神の構え“。
対 蒼鬼修羅戦を想定した、紅風鬼得意の型だった。
しかし紅蓮鬼と紅風鬼の物々しい宣戦布告の構えを他所に、当の酒吞は武器を持っていないにも関わらず、顎を掻きながら至って冷静。
何の警戒の氣も放っていない。
二鬼に応じて身構えるどころか、まるで余興の出し物を見ているように、にやにやと薄笑いを浮かべながら、若い二鬼を見下している。
《⋯⋯ッ! 待て! ⋯⋯御前たちが束になってかかっても、敵う相手ではない!》
紅呪鬼がすぐに両の腕を左右に広げ、背後の二鬼の戦意を制止する。
《⋯⋯で、ですが!? あの暴言、戯言はあまりにも!? ⋯⋯到底、看過できませぬ!》
《そうですよ、交渉決裂ですよ、紅呪鬼様! 総大将様の座を狙うなんて、流石の僕でも許せませんよ!》
紅風鬼と紅蓮鬼の続けざまの怒りの声。
一触即発の緊張を背にしながら、紅呪鬼は酒吞と向き直る。
窘められた紅蓮鬼と紅風鬼は、納得がいかない。
紅呪鬼は紅鬼軍の副将格。
いくら凶暴かつ危険な存在とは言え、総大将の紅皇鬼を卑下された事に対して、何故明確な怒りの態度を示さないのか。
紅蓮鬼と紅風鬼は、苦虫を噛みつぶしたような顔を浮かべている。
しかしそんな紅風鬼と紅蓮鬼たちにとって、続けざまに紅呪鬼の口から出た言葉は、酒吞の提案以上に想定外となる、驚きの言葉だった。
《⋯⋯よかろう、相わかった》
紅蓮鬼と紅風鬼は狼狽と共に目を丸くする。
そして自分の耳を疑った。
それはまさに天変動地。
その言葉の通り、日本と地獄が一気にひっくり返るのではないか。
そう思ってしまう程の、衝撃の一言だった。
紅蓮鬼と紅風鬼、二鬼共に慌てふためきながら紅呪鬼の背中に詰め寄る。
《あの、紅呪鬼様、流石にそれは!? 紅皇鬼様への相談も無しに⋯⋯、いや、そもそも相談なんて、僕にも誰にも出来るわけがない内容なんだけど、⋯⋯え⋯⋯はぁ!? そんなはっきり約束しちゃって大丈夫なんですか!?》
《どういう了見ですか。お答え頂きたい、紅呪鬼様!?》
紅呪鬼は酒吞と目を合わせたまま、ゆっくり数歩退いた。
そして背後の紅蓮鬼と紅風鬼のすぐ真横まで近付くと、この二鬼だけしか聞こえない小声で呟いた。
《⋯⋯聞け。酒吞は武には絶対の強さを誇るが、知には劣る。それが酒吞の最大の弱点。今は酒吞を油断させ、こう答える他は無い。この件は私が責任をもって何とかする。よいな、この話は他言無用。我々だけの秘密だ》
《⋯⋯えぇえ⋯⋯、それ、本当に大丈夫ですかぁぁ?》
《⋯⋯紅呪鬼様、秘密は分かりましたが、しかし⋯⋯》
紅呪鬼の二つ返事は、酒吞にも少なからず驚きを与えていた。
しかし酒吞はあくまで後の先を取る提案側。
紅呪鬼が提案に乗ってきた事に喜びの念が先に立つ。
酒吞は上機嫌に豪快に笑うと、紅呪鬼を指差しながら得意気に言い放った。
《ぐははははは! 聞いた、聞いたぞ、鬼の約束。⋯⋯地獄の掟により絶対だからな! 人間は嘘をついても舌を抜かれるだけだが、鬼同士が誓った約束を破ったら、そう簡単にはいかん。舌だけではない、例えその身体全てが引き千切られ、塵芥とされても文句は言えぬぞ? 紅呪鬼よ》
《⋯⋯分かっている。だがその代わりに御主が万が一に逃げ出したり約束を反故しないよう、常に監視は付けさせてもらう。出羽への追撃の作戦では、私の配下で封鬼の術に長けた二鬼、紅滅鬼と紅殺鬼。そして二十の羅刹、計二十二の紅鬼と供に行動してもらう、いいな? 酒吞》
紅呪鬼の束縛の提案にも、酒吞は鼻で笑い返す。
《⋯⋯ふん、その二鬼、御前自らが封鬼の術を授けた、紅鬼修羅らしいな⋯⋯、きっと妖術には長けているのだろう? ⋯⋯どうやら来たるべきこの酒吞様の解放の日に備え、着々と反抗の準備はしていたようだな。⋯⋯え? おい、⋯⋯流石は━━━“葬魂の術をこの地獄に創り出した開祖”、⋯⋯地獄一の狂わしき妖術使い⋯⋯、日本陰陽師殺しで名を馳せた、狂幻の修羅、紅呪鬼だ》
その言葉はお世辞ではない。
一つの真実。
約千年近くもの間、人間を欺き、大切な者の身体を奪い、苦しめ続けてきた鬼たちの使う“葬魂の術”。
その恐るべき術を無から生み出し、鬼たちの妖力を高める一つの術として確立。
地獄蒼紅全土に浸透させたのは⋯⋯。
この紅鬼修羅、━━━━紅呪鬼だった。
《近い内に日本の王となる、自由の紅鬼、酒吞様には到底呑めない提案⋯⋯、と言いたい所だが、この坂田某たち『六歌戦』の身体を手に入れ、強さを増しているのも、紅呪鬼⋯⋯貴様のおかげだからな。そんなちっぽけな提案の一つくらいは、聞いてやらなきゃなあ? ⋯⋯ふはははは、優しいだろう? 酒吞様は!》
酒吞の嘲り笑みに、紅呪鬼は目を細める。
そしてただ黙って酒吞をじっと見つめ続けていた。
《⋯⋯だがな、言っておくがこの酒吞様は、僅か七百年如きの付け焼き刃、しかも貴様自身ではない、手下の封鬼の術程度では斃せぬぞ?》
《⋯⋯だろうな。だが暫しの間でもその動きを封じるだけで十分だ。私や紅皇鬼様の妖力で後は何とかなる》
《⋯⋯それはどういう意味だ》
酒吞も紅呪鬼も互いに怯まない。
地獄に今も伝わる語り草、”酒吞の乱“。
⋯⋯その伝説の主役、凶悪凶暴の紅鬼、酒吞。
そして恐るべき“葬魂の術”、その開祖の妖術師。
⋯⋯現 紅鬼軍の副将格を担う紅鬼、紅呪鬼。
強者同士の見えない火花が散る。
目の前の緊迫の光景に、紅蓮鬼や紅風鬼は身動き一つできない。
二鬼共に若いながらも、地獄では既に武勇で名のしれた修羅。
しかしそんな二鬼と言えども、この紅呪鬼と酒吞の駆け引きにはただただ圧倒され、今はその交渉と勝負の行方を固唾を呑んで見守るしかなかった。
紅鬼洞における紅皇鬼との睨み合いでは、総大将の面子を立て、折れた紅呪鬼。
しかし今回は違った。
決して折れない。
そしてその酒吞にも劣らない程に濃い銀の瞳には、絶対に一歩も引かない、そんな固い決意が漲っていた。
そんな紅呪鬼の気迫を、酒吞は大好物の酒のように”飲み干した“のか。
それとも紅鬼洞の紅呪鬼のように、“折れた”のか。
それは酒吞にしか分からない。
ただほんの少しの沈黙の後、豪快に大笑いし、愉しそうに吠えたのは⋯⋯、酒吞の方だった。
《⋯⋯がはははは! 負けたぜ、紅呪鬼。面白い! 貴様には葬魂のこの身体だけじゃねえ、牢から出してくれた礼もあるからな。昔の好だ。貴様の企みに乗ってやる。その抹殺の命令、受けてやろう。元々遊びにも等しい容易い話。それだけの事で紅鬼の総大将に返り咲けるなら、日本の田舎くんだりまで出向く価値はある!》
《⋯⋯一つ言っておく。役小角は人間にしては類稀な術者。その力、京の陰陽師たちにも勝る程。『六歌戦』の名称が日本に生まれてからおよそ千年。小角の実力は過去歴代の全ての『六歌戦』の中でも、五本の指に入ると言っても良い。そして侮れぬのは忍の鎌足の方も同じ》
《⋯⋯そんなに強えのか。⋯⋯ふふふふ、それは楽しみだぜ。⋯⋯だが女の方は、全く興味が沸かねえな。貴様の物言いだと、この酒吞様が油断したら、その女に後れを取る可能性がある、っていうのか?》
《その鎌足と言う奴はな、女だてらに七十年前に我ら紅鬼軍を撃退した、伝説の封鬼の刃の半刃を持っている。⋯⋯その刃の名は━━⋯⋯『鬼切丸』。⋯⋯小角に鎌足、どちらも決して油断はならぬ》
《⋯⋯はっはっはっは! こいつは笑わせてくれるぜ。そして⋯⋯、ふざけるな。そもそも本気の酒吞様が、ただの人間の女や爺如きに負けると思うか? もう二度と酒の計略は通用しねえ、騙されねえ。⋯⋯いかなる術者であれ、封鬼の刀であれ、本気の酒吞様の前には、無人の荒野が広がるが如し!!》
《⋯⋯それと、些細な事を一つ言い忘れていた。鎌足は九人の仲間と共に出羽へ向かったらしい。また、役小角も多くの行者や修験者たちに守られているかもしれぬ。⋯⋯が、その取り巻きの者どもには用は無い。煮るなり焼くなり喰うなり、好きにするがよい。⋯⋯まあ、出羽は万年雪。⋯⋯煮る、焼くは無理かもしれんがな》
《⋯⋯ふはははははは。好きにしてよい、と言われたならば、喰うに決まってるだろう! 腹ごしらえにも丁度いい。ならば狙いの鎌足や小角と一緒に、そいつら雑魚どもも全員まとめて、まだ身体が冷え切らぬ内に五臓六腑を引きずり出して、血の滴る生肉を勝利の美酒の“つまみ”にでもしてやるわ!!!!》
酒吞は自信満々に豪快に笑い続けていた。
だが、ふとその笑いを止める。
そして紅呪鬼に近づいていく。
紅蓮鬼と紅風鬼に再び緊張が走る。
しかし酒吞の表情からは攻撃の意思は見られない。
紅呪鬼の顔をすぐ間近で覗き込み、改めて遠い昔を懐かしむように呟いた。
《⋯⋯それにしても、紅呪鬼。貴様が今の紅鬼の総大将ではないとはな、いささか意外だったぞ。⋯⋯七百年前、実力では貴様の方が、紅皇鬼よりは上だったはず》
酒吞の鼻息を肌に感じながら紅呪鬼は静かに答えた。
《⋯⋯私は紅鬼の頂点に立つ事などには微塵の興味も無い。術の探求に全てを捧げたかったのですよ、酒吞⋯⋯いや、我が古くからの紅鬼、紅酒鬼よ》
酒吞は紅呪鬼の瞳をまじまじと見つめ直す。
そして邪悪さを感じる、薄ら笑みを浮かべた。
《⋯⋯ふん、まあそういう事にしておいてやろう》
紅呪鬼から視線を外らした酒吞は、紅呪鬼の隣を横切り、依然警戒しながら左右に飛び退く紅蓮鬼と紅風鬼を横目に、ゆっくりと洞窟の外に向かって歩いていく。
酒吞の眼はただ前だけを、洞窟の出口だけを見据え、鋭い光を放ったままだった。
その濃銀の瞳には、七百年ぶりとなる日本の獲物⋯⋯鎌足と小角への殺意と敵意が早くも滲んでいる。
その去り行く酒吞の背中を、紅呪鬼の方もただ黙って見つめていた。
《⋯⋯⋯⋯》
紅呪鬼の口元は、ほんの僅かだけ⋯⋯。
⋯⋯愉しそうに妖笑っているように見えた。
《⋯⋯ちっ。この空、七百年前と何ら変わってねえ》
封鬼の洞窟の外、吹き荒ぶ風の中。
酒吞は七百年ぶりにその身体を、紅の地獄の中へと晒していた。
風と共に昂り荒ぶる魂は、狂わしき言霊へと変わる。
それは底が見えない程に滾る野望。
まさに自身以外の全ての人鬼に対する宣言布告。
その地獄中に聞こえるような咆哮は今、地獄谷の紅の岩壁や大地を通して、紅の地獄全土に轟く戦慄の地響きとなっていた。
《⋯⋯閻魔王、紅鬼蒼鬼ども、そして人間どもよ、⋯⋯よく聞け!! 地獄と日本、どちらをも支配する戦いの鬼神、七百年の刻を超えて、地獄谷に再び覚めたり!! ⋯⋯真の紅鬼が総大将、我が名は━━━━酒吞!!!!!!》━━━━⋯⋯
⋯⋯日本の北に、恐怖が迫る。
その恐怖の到来を、旅立つ鎌足はまだ、知らない⋯⋯━━━━。
第96話も最後までお読み頂きありがとうございました。
ブックマーク、☆評価、感想等よろしくお願いします。その優しさが新たな創作の励みに繋がります(*^_^*)。
次回第97話「京 裏路地にて」は、9月11〜13日頃投稿予定です。
引き続きよろしくお願い致します。
【改稿履歴】
改稿履歴は全て誤字脱字等や細部表現の訂正です。
過去話も誤字脱字を見つけ次第、訂正しています。
内容は全く変わっていませんので御安心ください。
(いつもたくさんの誤字脱字ばかりで、すみません)




