第92話 其々の思惑 〜後編〜
【登場人物紹介】
不知火綾麿━━━━
従三位中将。帝と日本を守る『六歌戦』の一人。謎の妖刀『村雨』を時の帝から拝領し、御所警備の西番を任されている。村雨の真刃と鞘刃を使った不知火二刀流の使い手。江戸徳川政権を激しく憎み、鎌足を快く思っていない。現在は鎌足に代わって東番も務めている。
伊賀の鎌足━━━━
江戸城の公儀御庭番伊賀組の小頭の女忍。伊賀流鎖鎌の使い手。七十年前に鬼を滅した伝説の刀『鬼切丸』を手に、鬼が現れた京都に援軍として派遣された。裏では極秘に朝廷探索の密命も帯びる。文により伊賀の危機と鬼切丸の秘密を知り、一時御所を離れる決意を固める。
━━━━(⋯⋯あーあ、折角なら綾麿じゃなくて、美桜や櫻ちゃんに会いたかったなあ⋯⋯)
綾麿の呟きや樟羽の視線には何一つ気付かないまま、鎌足は御所の正面玄関を歩きながら呟いていた。
謹慎が明けた後の初の出仕。
その時は必ず会いに行く、
そう美桜と櫻が約束してくれていたからだ。
そして鎌足もまた固い約束の言葉を返していた。
必ずまた会おう⋯⋯、と。
座敷で兼季と話をしている間に、二人も御所に顔を出しているかもしれない。
もしかしたらと淡い期待を抱いていたが、残念ながらそれは叶わぬ願いだった。
すれ違った何人かの官吏の者に聞いてみたが、やはりまだ二人は来ていないようだった。
(⋯⋯残念だけど、まぁ、当たり前だよね、私が来るのは本来だったらもっと遅いはずだし。⋯⋯楽しみにしてくれてたんだろうな、⋯⋯でも、私は夕刻にはこの京都には居ない。ごめん、美桜、櫻ちゃん、大事な約束、蔑ろにしてしまって)
正門へと続く、あの戦いの舞台、玉砂利の中庭。
まだ記憶も新しいこの地を踏み締めると、鎌足の中に後ろ髪を引かれる想いが一気にこみ上げてきた。
前だけを見据えていたはずが、いつの間にか気付けば後ろを振り返っていた。
あの日の傷で癒えたのは、鎌足自身の身体だけ。
鎌足の視界に広がるのは、蒼鬼紅鬼の襲撃の爪痕傷痕がまだ生々しく残る、京御所の現実だった。
破壊された屋根や戸口、廊下、庭園の燈籠。
完全に折れて倒壊している、大鳥居の残骸。
玉砂利の白に混ざる、爆風で吹き飛んだ瓦の黒。
一面にあの日の記憶が残っていた。
しかしそれは新しい日本京都の始まりでもあった。
人々の願いと共に大修復も既に始まっている。
何人もの宮大工が屋根で庭先で、そして大鳥居の新たな柱となる木材の上で、汗を流して懸命に働いていた。
不思議な感覚だった。
記憶を無くした鎌足が持っているこの四年間の思い出に比して、まだほんの僅かの日数しか此処には居ない。
それなのに随分と長い間暮らしてきた。
そんな気がした。
それくらいこの二週間は、人も物も良しも悪しも、全てが鎌足にとって濃密な思い出となっていた。
鎌足は鬼切丸を手に取る。
そして目の前の御所の景色を食い入るように見つめ、記憶にしっかりと焼き付けた。
(⋯⋯絶対に強くなってみせる。大事な人たちの笑顔を、美しい景色を、今度こそ絶対に守り抜くために)
誰とでもなく、自分と固い約束を交わす。
それは鎌足一人だけの、旅立ちの式典だった。
改めて前を振り返れば、正門が見える。
紫宸殿などの厳かな場所も無数に見てきたが、鎌足の中ではやはり、御所と言えば正門。
伊賀の四人で集まった場所。
何度となく通ったり、裏門に回されたりした場所。
思い出の宝庫だった。
しかしそんな正門をくぐるのも暫くはお預けになる。
前へと再び歩き出した鎌足の視界の先に、朝は会う事ができなかった馴染みの門番の背中が見えた。
「あ、そうだ⋯⋯、最後の挨拶がてら聞いてみよう」
警備もやっと終わりを迎えたのか、陰陽衆の姿は見えない。
鎌足は遠慮無く門番の背中に歩み寄った。
「おはようございます!」
「⋯⋯おわわっ」
「頼もーう。⋯⋯はは、お久しぶりですね、門番さん。そして、ごめんなさいっ! ⋯⋯今日を最後に暫く会えなくなっちゃうんです!」
いきなりの挨拶だった。
御所の内から声をかけられ、手には鬼切丸の刃。
しかも別れの言葉が添えられた挨拶。
そんな鎌足の笑顔の奇襲に、門番は訝しげに渋い表情を浮かべる。
そして溜め息混じりに言葉を返した。
「⋯⋯ひゃああ、びっくりしたあ。そんな物騒な鬼切丸、またひけらかして。⋯⋯なんや、あんたはん、やっぱり江戸には帰らず、懲りずに出仕してきたんかいな。しかも知らん内に、もう中にも入ってたんか」
「⋯⋯にひひ。だから逃げない、って言ったでしょ」
「⋯⋯故郷の江戸に早う帰ったほうがええのに。御所はあんたはんには合わへんよ。それに会えんくなるとか言うたり、また謝っとる所を見ると、まさか⋯⋯」
「⋯⋯?」
「⋯⋯はぁ、またやってしもうたか。⋯⋯で? 今度は何をやらかしたんや?」
「⋯⋯やだなあ。違います違います、私用でちょっと遠くに行く事になっただけですよ。今しがた大将様に無理を言って、一月ほど休みを頂きました。⋯⋯あ、ちなみに私の代わりはちゃんと来ますからね、御心配無く」
鎌足が誰かとまた揉めたり、何か問題や罪を犯したわけではない。
それを聞いた門番の表情が安堵に変わる。
「⋯⋯何や、それなら良かったわ。⋯⋯いやな、てっきりまた、あんたはんが何か失敗したんやと思うてなぁ、こりゃ堪忍な」
「あはは、今回は大丈夫です。いくら何でも謹慎明け初日ですから。⋯⋯で、そうそう、ちょっと聞いてみるんですが、門番さん? 美桜姫様や皇子様の好きな食べ物を知りませんか? お土産を買ってこようと思って。お団子みたいなのが良いと思うんですが。(⋯⋯へへ、私も一緒に食べれるからね)」
「土産? あんたはん、やっと出仕したばかりやないか。何や、土産て? まさか旅にでも行かはるんか?」
「⋯⋯あ、⋯⋯えっと、それが会えなくなる理由なんですが⋯⋯、⋯⋯あはは、どうしようかな」
「何や、いい加減な話やなぁ。何処に行くんか聞かんかったら、土産なんて分かるわけないで?」
「⋯⋯え、と、⋯⋯出羽国です。⋯⋯あ、でも行先は姫様や皇子様は勿論、大将様はじめ他の人には絶対に内緒ですよ? お土産もびっくりさせたいから。此処だけの話にしてくださいよ」
「あぁん!? 出羽!? こりゃまた遠い所へ⋯⋯、春の京都とは違うて、出羽はまだ雪が根深く残ってはるで? ⋯⋯ひゃあああ、ほんまに一人で大丈夫かいな」
門番は顔を顰めて相当に驚いていた。
無理もない、京都からは相当の遠方。
しかもある日突然の、華やかな京都から寂れた僻地への旅路。
鎌足は頭を掻きながら、困惑顔の門番に事情を説明した。
「あ、ご心配なく。初めての地ですが、私含めて仲間たちと十人の大所帯ですから、何とかなると思います」
「⋯⋯ほぉお、何や、巡礼かいな。あれから鬼は全く姿を見せへんし、それに御所の警備も新たに陰陽衆たちがおる。だったら十人でわいわいと出羽三山へ物見遊山ちゅうわけやな。はぁぁ⋯⋯気楽でええなあ。最近は出仕が削られて暇や言うても、流石に出羽国までは息抜きに行けへんからなあ。羨ましいかぎりやで」
「⋯⋯すいません。でも遊びじゃないですよ。大切な相棒の片割れを見つける旅ですから」
「⋯⋯相棒の片割れ? ⋯⋯またよう分からん事を言うてはるわ。⋯⋯あぁ、そうそう、皇子様や姫様の好みまでは知らんけどな。出羽なら名物、雪饅頭が美味いとよく聞くわ。出羽の雪繋がりで、お土産は白あんの饅頭なんかはどやね? 後は草団子も有名や」
「⋯⋯へぇ、白あんのお饅頭、それと草団子かぁ。⋯⋯なるほど、よさげですね、そうします」
食べ物の話に釣られたのか。
二人の背後にはいつの間にか、一匹の野良犬が近づいていた。
余程に腹を空かせているのか、鎌足をじっと見つめながら涎を垂らしている。
「⋯⋯見い? 饅頭の話してただけで、はや野良犬まで食いついてきたよって。これなら人間様が食べたなら、美味しいと感じるのは間違い無い、な。⋯⋯ははは」
「そうですね、⋯⋯ははは」
「⋯⋯これ、しっしっ、あっちさ行け。出仕減らされてもうて、餌やる余裕も金も無いんや、わては。饅頭も団子も無ぇ」
門番は近くの棒を振り上げると、野良犬の前にぶんぶんとちらつかせた。
門番は野良犬相手に真剣に愚痴を言っている。
何だ、饅頭くれないのか、けちな門番だ。
野良犬の方も、そんな捨て台詞が聞こえてきそうだった。
物言わぬ物乞い犬はくるりと背を見せると、すぐに何処かへと走り去っていった。
そんな門番と野良犬のやり取りや動きは、鎌足の目にはたまらなく滑稽に見えて、自然と頬も緩む。
「⋯⋯あ、門番さん、しまった。ちょっと待って。よく考えたら、お饅頭もお団子も日持ちしないんじゃ? ⋯⋯持って帰る途中で腐っちゃったりしませんかぁ?」
「ありゃ。そうや、これは腐った団子、腐団子になる所だったわい。皇子様が腹を壊されてまうで」
「⋯⋯あ、それなら腐る前に私が食べればいいんですよ。私は食いしん坊で鍛えてますから、腹は強いですよぉ? 何なら毒団子だって食べちゃいますからね」
「何や、それやと、お土産は無しかいな」
「⋯⋯ははは、それか、空箱だったり?」
二人は顔を見合わせて、朗らかに笑い合った。
謹慎中にも季節は流れ、もう春も半ば。
すっかり散ってしまった桜の枝に、まだ春を忘れられない一羽の鶯が止まり、囀りを聞かせてくれている。
それは寒い雪の国へと旅立つ鎌足を祝うような、春の忘れ形見とも言える歌声のように思えた。
日差しも暖かい。
肌をなぞる柔らかな優しい風が吹く。
見送りは門番だけしかいないものの、鎌足の旅立ちは今、和やかな笑顔と穏やかな景色に彩られていた。
「⋯⋯気持ちいい。旅立ちにはもってこいの景色だぁ」
「⋯⋯本当に美しい国やで、日本は」
「こんな平和が百年先も千年先も、ずっと続いてほしいなぁ。⋯⋯このまま鬼なんてもう出なければいいのに」
「⋯⋯ん、鬼か? ⋯⋯せやな」
其処には異形の鬼の存在をまるで感じさせない、幸せな刻が確かに流れていた。
鎌足は門番に今までの感謝と、改めて暫しの別れを告げる。
そして⋯⋯。
「━━━━では、行ってきます」
大きく手を振りながら御所を後にしていった。
「⋯⋯また必ず帰ります! どうかお元気で! 門番さんのお土産も必ず買ってきますから!」
「⋯⋯⋯気をつけて行かはるんやー!」
鎌足は遠くからずっと手を振り続けた。
門番もまた鎌足の背中が見えなくなるまで手を振り、温かく見送ってくれていた。
段々と小さくなっていく鎌足。
その腰には大切な相棒。
鬼を斬る伝説の刀”鬼切丸“が、陽の光を刃に映し、いつまでも妖しく美しく、そして力強く煌めいていた。
⋯⋯享保十三年、四月二十三日 巳の刻前。
伊賀の鎌足、出羽国に向け、御所を旅立つ━━━━。
━━━━(⋯⋯あ、そういえば。結局、帝の顔、一度も見れなかったなあ⋯⋯)⋯⋯
⋯⋯そんな鎌足の呟きと姿は今、御所から見える景色の中から完全に消えていた。
見送りを終えた門番はひとり溜め息をつく。
「行かはったか⋯⋯」
門番は往来に背を向けると、ゆったりとした足取りで門番詰所の中へと戻っていった。
「⋯⋯やれやれ、すっかり勤務も削られて、正門もやりにくうなってきたわ。こっちもそろそろ故郷に帰る頃合いかもしれへんなあ」
詰所の中には、他に誰も人は居ない。
戸口を閉めた室内は、ひんやりとした空気に包まれている。
「⋯⋯間近で見るあの鬼切丸の氣、想像以上や」
門番はもう一度、大きな溜め息をついた。
「そして出羽国。京御所を離れて仲間と共に十人での旅路⋯⋯か。あの鬼切丸とも関係する、江戸絡みの何か大きな理由がありそうですね。⋯⋯見過ごせないなあ」
門番は自分の顔にゆっくりと掌を当てた。
「⋯⋯鬼なんてもう出なければいい⋯⋯、か」
⋯⋯そして。
この詰所に世にもおぞましい事が起こった。
門番は右掌の爪を立てて顔面を鷲掴みにする。
すぐに爪下から滲み流れる血に染まっていく掌。
その五指を捻り絞るように回転させ、一気に自分で自分の顔の生皮を剥がしたのである。
⋯⋯ジュルッ、⋯⋯ゴトッ━━━━
━━━━足元に皮が落ち、血肉が滴り落ちる。
桜はとっくに散ってしまった。
そのはずなのに、その時ふと何処からか、ひらりと花弁が舞う。
それは桜の花弁ではなかった。
この場所には咲くはずのない、蓮の花弁だった。
顔の皮を無くし、ただの血と肉の塊の容姿。
⋯⋯となったはずの門番。
その口元が妖しく緩む。
⋯⋯だが、顔は、まだ、⋯⋯あった。
生皮が剥がれた顔の下には、奇怪にもまた別な顔。
そして血よりも濃い、生来の紅に染まる二本の角。
「⋯⋯残念ながら。その望みは叶いません。⋯⋯さて、と。⋯⋯そろそろ僕たち、“鬼”の出番ですね」
顔の皮下のもう一つの顔、声。
それは紅鬼修羅、紅蓮鬼だった━━━━。
━━━━その日の暮れ六つ過ぎ。
陽が陰る御所内の奥の一室では、中納言の霧人と、少納言の樟羽がくつろいでいた。
既に陽は西へほとんど沈みかけ、座敷の中央には蝋燭一本だけが灯っている。
上座に悠然と座すのは霧人。
向かって右側の下座には、蝋燭の灯りに妖しく眉麿を煌めかせた樟羽。
そして樟羽の正面から見える庭園には、夕焼け空の下で天音が鞠をつき、愉しそうに童唄を口ずさんでいた。
(⋯⋯とおりゃんせ、とおりゃんせ
ここはどこの、ほそみちじゃ
てんじんさまの、ほそみちじゃ
ちっととおして、くだしゃんせ
ごようのないもの、とうしゃせぬ
このこのななつの、おいわいに
おふだをおさめに、まいります
いきはよいよい、かえりはこわい
こわい、ながらも
とうりゃんせ、とおりゃんせ⋯⋯)
あの櫻から貰った鞠だった。
「⋯⋯準備は着々と進んでいるようだな、樟羽」
天音の笑顔を眺めながら、脇息に肘をついた霧人が樟羽に話かけた。
「はい⋯⋯、ただ中将だけは、何かとこちらの動きを警戒している様子」
「⋯⋯ふむ、綾麿か⋯⋯」
「先程、座敷から不意に放たれた殺気、視線も然り。あれも立ち去った鎌足の残像に向けてなのか、物陰の私に気付いての警告なのか⋯⋯。何れにしても、流石は霧人様と肩を並べし『六歌戦』。これは思っていた以上に、容易ならざる相手かもしれません」
「⋯⋯ふっ、そう案ずるな。奴等に見える死相、一度纏わりついた死の運命から逃れるのは容易では無い。⋯⋯来たるべき死刻まで、ゆるりと待てばよい」
霧人の笑みに静かに微笑み返しながら、樟羽は座したままに腰の白銀の刀の鍔に手をかけた。
「私が直接斬るか、呪殺しても宜しいのですが⋯⋯」
その持ち手、刀が一瞬だけ動く。
そして閃光が煌めく。
しかし端からは樟羽が鞘から刀を抜いたようには見えない。
ただ刀を鞘ごと少し動かしただけ。
そう見えた。
しかし刃は確かに抜かれていた。
その証拠に樟羽の目の前の蝋燭が、四つに分かれて座敷の宙を舞う。
先端の炎の部分は二つの炎に斬り分けられ、左右に散りながら畳に落ちていく。
また畳に落ちた蝋燭の四つの断片も様々だった。
溶解していたり、粉々に砕けていたり、黒く淀んでいたり、萎んでいたり。
異様な有様を呈している。
蝋燭の灯火を失い、僅かな闇が座敷に舞い降りた。
炎を含めて五つに斬られた蝋燭の残骸を、霧人は変わらず脇息に肘をかけたまま淡々と眺めていた。
そして薄ら笑みを浮かべながら呟く。
「⋯⋯相変わらず気が早く、そして恐ろしい剣腕だ」
「⋯⋯うふふ、性格はともかく、剣腕は霧人様程では」
「⋯⋯そう急かずともよい、樟羽。我らは武力を極めただけに非ず、比類なき知力をも極めている。今は更に位までもが備わった以上、綾麿はじめ配下の青龍や麒麟どもがどう動こうが、所詮は我ら陰陽衆の敵ではない」
舞い降りた闇以上に重々しく黒く、そして冷たさを感じる霧人の言葉だった。
にも関わらずその声や内容は、庭で遊んでいた天音にとっては、童唄の鞠遊びよりも、この上なく興味深いものに聞こえたらしい。
樟羽よりも先に庭から、天音が嬉しそうに反応した。
「くらい、いいな、わたしも、くらい、ほしい」
「⋯⋯ん? そうか。⋯⋯そうだな、樟羽よ。確か早良大納言は綾麿寄りの立場だったな?」
「はい。何でも蒼鬼から命を救われた事があるとか。それからは何かと中将の後ろ盾にもなっている様子」
「⋯⋯ふむ、では遅かれ早かれ、⋯⋯これ、だな」
霧人は不敵な笑みを浮かべながら、畳に転がる蝋燭の残骸に目をやった。
その細やかな動きに、樟羽も優雅に妖しく頷き返す。
霧人も言葉の代わりに口角を上げ返すと、瞳をきらきらさせて返事を待つ天音へ優しく言葉を返した。
「⋯⋯では私が中納言なら、天音は大納言の位でも狙うとするか? 何と、私や樟羽よりも上だぞ?」
そしてにこりと微笑んだ。
しかし天音は首をぶんぶんと横に振る。
「いや、⋯⋯だいだいなごん、がいい」
「⋯⋯ははは、大大納言か。⋯⋯いいだろう、天音よ。我らが念願の表舞台、陰から陽への大願成就の暁には、天音はこの国の大大納言だ」
大大納言の官位は天音のもの。
期待通りの霧人の返事に、天音は両手を上げて満面の笑顔で喜んだ。
「わあい、やったあ、あまね、だいだいなごん」
しかも鞠を抱き抱えながら、嬉しさで庭園中を走り回っている。
何とも愛らしい光景、その最中だった。
不意に小さな影が、庭園を横切った。
植木の陰から姿を覗かせた、その”何か“に天音が気付く。
「⋯⋯あ、ほうげんの、わんわん」
それは一匹の野良犬だった。
腹でも空かせているのか、低い唸り声を上げながら天音の方へと近寄ってくる。
そんな野良犬の真上を、また別の小さな影が横切った。
それは野良犬よりも遥かに小さく遥かにすばしこく、しかも空を飛ぶ影だった。
その小さな影が身を潜めた先は、高い庭木の枝。
背伸びをして上を見上げながら、天音は楽しそうに呟いた。
「こっちも、ほうげんの、ほけきょ」
天音が見上げた先、夕闇に照らされる枝葉には、一羽の鶯が羽根を休めていた。
樟羽が穏やかに呟く。
「⋯⋯霧人様、法眼の念呪を受けた犬と鳥が、座敷から出た後の鎌足について探ってきた様子」
「⋯⋯そう言えば鎌足の動きも気になると言っていたな。なるほど、法眼に探りを入れさせたのか」
「はい、勝手ながら。⋯⋯断りもなく失礼致しました」
「いや、構わぬ。⋯⋯天音よ、犬鳥の心を読め」
「うん、わかった、おやかたさま、⋯⋯じゃなかった、ちゅうなごんさま」
天音は臆する事無く、唸る野良犬に近づいていく。
「あまね、わんわん、はなす、こころよむ」
天音は野良犬の前で腰を落とすと、じっとその野良犬の目を見つめ始めた。
すると不思議な事が起きる。
あれだけ唸っていた野良犬が、何かに魅入られて心を奪われたように、一切の動きを止めたのである。
「⋯⋯ふむふむ、それで、⋯⋯ふむふむ」
天音はぶつぶつと何かを呟き、何度か頷く。
そして座敷の霧人の方を振り返ると、幾つかの言葉を口にした。
「かまたり、なかま、あつまる、じゅうにん⋯⋯」
言い終わった天音は立ち上がると、今度は木の枝に止まる鶯を見上げた。
「つぎ、ほけきょ」
そして野良犬の時と同じように、鶯の目をじっと見つめ始める。
鶯もまた野良犬と同じだった。
見えない何かに心が吸い寄せられているのか。
羽ばたき一つすら無く、囀りの口さえも閉じて固まったまま、天音の瞳だけをじっと見つめ返していた。
「⋯⋯ふむふむ、ふむふむ、ふんふん、ふんふん」
頷いた天音は、また幾つかの言葉を断片的に呟く。
「かまたり、きょうと、ばいばい、むかった⋯⋯」
その言葉に樟羽が身を乗り出した。
「⋯⋯何? 何処へ? 何処へ向かったのです?」
天音はゆっくりと霧人と樟羽の方を振り返ると、無邪気に微笑みながら答えた。
「⋯⋯でわのくに」
天音が口にしたのは意外な行き先だった。
樟羽が訝しげな表情を浮かべる。
「出羽? 何故今更京都を離れ、そんな遠方の僻地に行くのか⋯⋯、全く解せませんね。天音、その犬鳥は本当にそう言ってるのですか?」
「わんわん、ほけきょ、うそついた? ⋯⋯、あまね、うそ、きらい!」
⋯⋯嘘をつかれた。
天音はそう思ったらしい。
野良犬と鶯の方を物凄い剣幕で振り返り、そして今度は目を鋭く細めた。
すると睨まれた野良犬と鶯は、先程とは全く違う様子を見せ始める。
あれだけ大人しかった野良犬は急にそわそわとし始め、あれだけ動きを無くしていた鶯は激しく羽をばたつかせる。
明らかに怯えた姿を見せ始めたのだ。
この時の眼光鋭い、天音の眼。
それはつい先程まで無邪気な笑顔を見せていた子供とは思えない程に、恐ろしい妖気を放っていた。
「⋯⋯あまね、うそ、だいきらい!」
そして声までが違っていた。
それは低く、大人びた、威圧を感じる声。
野良犬はぎゃっと宙に跳び上がると、きゃんきゃんと鳴きながら、逃げるようにその場から走り去っていく。
鶯も同様だった。
翼をばたばたと慌ただしく羽ばたかせながら、夕焼けの空の彼方へと飛んでいく。
それでもまだ天音の背中は小刻みに揺れ続けている。
そんな天音の心を宥めるように、樟羽が優しく語りかけた。
「⋯⋯天音、落ち着きなさい。陰の力は無闇に使ってはなりません。それにあの犬鳥は法眼の念を送られています。もって数日の命。虐めてはいけませんよ」
天音は背中を向けたままだった。
しかし樟羽の声にはこくんと小さく頷き、そしていつものあどけない声で呟いた。
「⋯⋯でも、たしかめた、でわのくに、ほんと、⋯⋯わんわん、ほけきょ、うそ、ちがう」
その時。
樟羽がふと何かを思い出したような表情を見せる。
「⋯⋯っ、霧人様、出羽国と言えば、一つ心当たりが。⋯⋯役小角では?」
「⋯⋯なに」
「御存知かとは思いますが、その現第十八代目は七十年前の『六歌戦』の一人にして、日本の歴史に名を残す程の相当の術者です。此度の鎌足の出立、⋯⋯もしや、小角と何か関係があるのではないでしょうか?」
「ふむ、役小角か⋯⋯、老いたとは言え、その妖力は今も侮れぬ。厄介な術者よの⋯⋯」
霧人は言葉を止めた。
何か策謀を巡らせているようだった。
少しの沈黙の後、霧人が不敵に微笑む。
そしてその口から語られたのは、樟羽を再び驚かせる意外な言葉だった。
「樟羽よ。鎌足の出羽行きの話、⋯⋯綾麿の耳に入るように計らえ。⋯⋯怪しまれぬよう、刀の事には触れずに行き先だけを、下々の者から然りげ無く、⋯⋯な」
「⋯⋯何も知らない中将⋯⋯綾麿に、敢えて鎌足の行き先を伝える、と言うのですか? その御心は?」
「⋯⋯聞いたことがある。小角は万年雪に閉ざされた秘境に七十年前に鬼を滅した刀を封印している⋯⋯、と。恐らく鎌足の狙いはその刀」
「鬼を滅した刀!? 鬼切丸とはまた違う刀が存在している、そう仰るのですか? ⋯⋯しかし綾麿に、鎌足の出羽国行きを伝える事と、どのような繋がりが?」
「これは私の見立てだが、綾麿は鎌足の鬼切丸に相当に警戒の念を抱いている。鎌足が向かった先は出羽国⋯⋯、その事を知れば、綾麿も自ずと役小角が目的である事に辿り着くはず。そして必ず鎌足をそのまま放ってはおくまい。『六歌戦』の集結を控え、自らは動けずとも、間違い無く誰か追っ手を差し向けるはずだ」
「⋯⋯なるほど。御心、読めましてに御座います」
「北南の番を務める麒麟は別として、綾麿の子飼いの四人のうち一人や二人でも出羽に差し向けてくれれば」
「この京都での私たちの計画も進めやすくなる⋯⋯、というわけですね?」
「ふふふ⋯⋯、そうだ」
「流石は霧人様。私などが到底及ぶ所では御座いません。⋯⋯畏まりました。直ぐに手配を致します」
樟羽はそっと頭を下げた。
そして微笑みながら呟いた。
「⋯⋯必ずや陰陽の掌上で転がしてみせましょう。⋯⋯出羽国も、そして京御所も」━━━━。
━━━━既に夜の帳は下り、辺りは深い闇に包まれていた。
霧人は相変わらず脇息に肘をついたままだった。
そして座敷の樟羽と庭の天音、二人に向けて愉しそうに語りかけた。
「⋯⋯どうだ? 日々日本の未来や厄災を占うのが本来の責務の我々だが、たまにはひとつ気楽な戯れとして、生まれ持った凶星の不運に囚われている鎌足とやらの、出羽国での吉凶を占ってはみぬか?」
「⋯⋯それは面白そうですね、占ってみましょう」
「あまね、うらなう! かまたり、でわのくに!」
月の光と闇が交差する世界。
三者三様に影が蠢く。
樟羽は左袖から鈴緒を取り出し、神秘的な音色を凛と奏でていた。
そして闇に右手の人さし指と中指で九字を切る。
「臨、兵 闘、者 皆、陣 烈、在 ⋯⋯前」
一方、庭園の天音は櫻から貰った鞠を、まるで丸水晶のように見立てていた。
じっと鞠を睨み、大人びた妖気と共に陰陽衆の梵語を唱える。
「あまねく、そらと、だいちの、みたまよ、⋯⋯唵、 阿 毘 羅 吽 欠 娑 婆 呵」
そんな”動“の二人とは正反対に、“静”を保ち、目を閉じていたのは霧人だった。
瞼の裏に見えたのは、まるで小道のような細い光。
そして二つの色、蒼と紅。
霧人の口元が僅かに動く。
(⋯⋯行きはよいよい、⋯⋯帰りはこわい、か)
そしてゆっくり目を開けた。
「⋯⋯見えた、なるほど」
「ちゅうなごんさま、みえた」
「私も見えましてに御座います、霧人様」
「⋯⋯ならば、三人同時に言ってみるとでもするか」
鹿威しの竹が、夜の闇を切り裂く。
その鳴響が、邪に微笑む二人と、無邪気に笑う一人の合図となった。
三人は声を重ね、鎌足の吉凶を告げ合った。
「⋯⋯、大凶」「⋯⋯、大凶」「⋯⋯、だいきょう」━━━━。
第92話も最後までお読み頂きありがとうございました。
葬魂の術の展開、予想していた方は居たでしょうか? ちなみに入れ替わり時期ははっきりしていて、その前と後で“とある”表現に違いを付けて書いていました。気になる方は是非、過去の会話を見返してみて、いつから入れ替わっていたのか、探してみてください♪ 鬼の気持ちで過去台詞を見返してみると楽しいかもしれません?
ブックマーク、☆評価、感想等よろしくお願いします。その優しさが新たな創作の励みに繋がります(*^_^*)。
次回第93話は、8月27日〜29日頃投稿予定です。
いよいよ次回からの数話で、綾麿の思惑や第二鐘の展開が見えてきます。引き続きよろしくお願い致します。
【改稿履歴】
改稿履歴は全て誤字脱字等や細部表現の訂正です。
過去話も誤字脱字を見つけ次第、訂正しています。
内容は全く変わっていませんので御安心ください。
(いつもたくさんの誤字脱字ばかりで、すみません)




