第91話 其々の思惑 〜中編〜
【登場人物紹介】
不知火綾麿━━━━
従三位中将。帝と日本を守る『六歌戦』の一人。謎の妖刀『村雨』を時の帝から拝領し、御所警備の西番を任されている。村雨の真刃と鞘刃を使った不知火二刀流の使い手。江戸徳川政権を激しく憎み、鎌足を快く思っていない。現在は鎌足に代わって東番も務めている。
伊賀の鎌足━━━━
江戸城の公儀御庭番伊賀組の小頭の女忍。伊賀流鎖鎌の使い手。七十年前に鬼を滅した伝説の刀『鬼切丸』を手に、鬼が現れた京都に援軍として派遣された。裏では極秘に朝廷の探索の密命も帯びる。幻斎からの文により伊賀の危機と鬼切丸の秘密を知り、一時御所を離れる決意を固め、その報告の為に御所へ向かったのだが⋯⋯。
近衛兼季━━━━
従二位大将。武官最高位の大将として、清涼殿だけを警備する御帝親衛隊を指揮する。鞍馬一刀流の使い手で、性格はおおらかで実直。鎌足にも親しみを見せる。
━━━━(やっぱり今日は厄日かもしれない)
目を丸くしながら鎌足が呟く。
この男にだけは会いたくなかった。
⋯⋯またか。
心が項垂れる。
謹慎前のあの日、いざ美桜から帝の話を聞き出せると思った時もそうだった。
顔を上げた鎌足の目の前。
早くも笑顔を見せてくれる兼季の隣には、今回もまた同じ邪魔者。
乏しい表情の綾麿が座していたのだ。
頭の中は混乱したままだが、鎌足の心は正直だった。
どうやらあからさまに不機嫌な表情を浮かべていたらしい。
「⋯⋯どうした? その顔は?」
「⋯⋯へ? ⋯⋯あ、ま、まだ青痣残ってますか?」
「⋯⋯否。傷の痕の事ではない。不服そうなその顔色について問うている」
「⋯⋯べ、別に。何でもありません。⋯⋯まさか、今日は中将様もいらっしゃるとは、思っていなくて。⋯⋯あ、あは、あはははは」
「⋯⋯⋯⋯」
「⋯⋯あは、あは、あはは、⋯⋯はは⋯⋯っ⋯⋯」
作り笑顔が自身でも虚しかった。
鎌足は心の中で深い溜め息をつく。
(⋯⋯綾麿、何で? まずい、計算外だ)
綾麿からの返事は無い。
問いかけの声の冷静さ。
加えてこの沈黙。
⋯⋯不気味だった。
自身の考えを全て見透かされているのではないか。
そんな不思議な気分に囚われてくる。
焦った鎌足はこの場を適当に誤魔化し取り繕うため、逃げるように兼季へと目線を移した。
「⋯⋯ははは。中将が居て驚いたみたいだな、鎌足殿。いや、中将はな、先日の親衛隊の全滅も受けて、怪我をしていた私を心配してくれ、昼間はなるべく私と行動を共にするよう、配慮してくれているのだ」
「⋯⋯(聞いてないよぉ⋯⋯)、そうなんですね、びっくりしました。⋯⋯あ、大将様、御機嫌麗しゅう。先般の寛大な処分、改めて本当にありがとうございました」
兼季には流暢で心のこもった挨拶ができる。
しかし後に続く綾麿に対しての挨拶は、どうしてもぎこちなくなってしまう。
「⋯⋯ち、ちゅちゅ⋯⋯中将⋯⋯あや、綾麿、さまも⋯⋯東番、代わり、⋯⋯あ、ありがとう、でした」
「⋯⋯⋯⋯」
笑うでもなく、貶すでもない。
突っ込みどころ満載な挨拶にも関わらず、それでも綾麿は無言のままだった。
そんな綾麿とまるで正反対なのは兼季だった。
兼季は久しぶりとなる鎌足の顔をまじまじと見つめ、再びにっこりと爽やかな笑顔を見せる。
「⋯⋯うむ、顔の傷もかなり癒えた様子。⋯⋯女子の顔の傷だ。かなり心配していたが本当に良かった。気分一新また今日から東番の任に励んでほしい」
「⋯⋯え。⋯⋯あ、⋯⋯はい」
「なに、あの大掛かりな侵略の失敗、鬼たちも余程に堪えたと見える。この十日はあの騒ぎがまるで嘘のように平和そのものだ。新任の中納言も居る。また至る所に陰陽衆の目も光っている。鬼たちと言えどもきっとお手上げ状態、もしかしたら羅生門が開く事は二度と無いかもしれぬ。二回目以降の東番は、気を楽にして相務める事が出来よう」
兼季は声も表情も自信満々だった。
既に鬼との戦いは勝利したも同じ、そんな余裕すらも覗かせていた。
そんな兼季の姿は慢心に映ったのか。
綾麿が釘を差すように重々しく呟く。
「⋯⋯大将殿、くれぐれも油断は禁物⋯⋯」
「⋯⋯ん? ⋯⋯おお、それもそうだな。気分が良い故のうっかり。失言だった、いや面目ない、ははははは」
「⋯⋯⋯⋯」
「⋯⋯ははは、いやなに。実はな、委任状を送ってくるだけのあの欠席の常習者、あの者からついさっき連絡があり、何と此度の会合にはやって来るらしいのだ」
「⋯⋯⋯⋯」
「すなわちこの御所にやっと六人全員が集結する。⋯⋯警備を預かる大将としては、これ以上の力添えは無い。想像しただけで不思議と自身までが強くなった気分でな。まだ二人しか集まっていないのに、だ。⋯⋯ははは、恥ずかしながら早もう百人、いや千人の力を得たような気持ちになっていたのだ。⋯⋯確かに慢心だな、中将よ、すまなかった。許せ」
「⋯⋯いえ、お気になさらず」
(⋯⋯?)
鎌足が一瞬首を傾げる。
綾麿と兼季が最後に口にしていた言葉。
聞き慣れない言葉が飛び交っていたが、それは果たしてどんな意味だったのかは分からない。
だが今日の兼季はすこぶる機嫌が良いらしい。
それだけは何となくは伝わってきた。
「⋯⋯ほれ、鎌足殿、見られよ。崩れた屋根の下敷きになってできた私の傷もこの通り、まだ青痣や傷跡が残っている。かなりの血も出たぞ、ははは。それに引き換え鎌足殿は若いから肌も瑞々しく、傷もすぐ治る。回復力が甚だ羨ましいかぎりだ。⋯⋯ははははは」
袖を捲り、先日の腕の傷を見せてきたりもする。
しかし一方の綾麿はまるで違った。
鎌足を見るでもなく、積極的に話かけるでもない。
伏し目で無表情のままだった。
(⋯⋯綾麿の目があるお陰で尚更に言い難いなあ、⋯⋯何で重要な話をしようとする時は、決まって私の周りにちらちらと現れるんだよ、邪魔だなあ⋯⋯)
「鎌足殿、⋯⋯で、今日は私をこんな早くからわざわざ呼び出してどうされた? 何かの希望や要望が有るならば遠慮はいらん。何なりと言ってくれ」
元々口に出しにくい話題なのは百も承知だった。
思考が読めない寡黙な綾麿とは正反対に、長年の友人のように気さくに明るく話しかけてくれる兼季の笑顔。
それだけが頼りだった。
鎌足は膝の上の拳を握りしめ、意を決する。
「⋯⋯近衛大将様、申し訳ございません! ⋯⋯さすれば一つ、たった一つ、重要な伝達事項がございます!」
「⋯⋯ん? 重要な伝達?」
「⋯⋯⋯⋯」
「⋯⋯あの! 江戸からの援軍、その第二陣が━━」
鎌足はいよいよ本題を切り出した━━━━。
⋯⋯⋯⋯
━━━━が。
⋯⋯結果は拍子抜けする程に意外なものだった。
「⋯⋯なるほど、第二陣。鎌足殿は一時的に一月程、内裏を離れると言うのだな? ⋯⋯相わかった」
兼季のこの一言で全ては簡単に終わっていた。
兼季は二つ返事で鎌足の希望をあっさりと認めてくれたのだ。
「⋯⋯本当に良いのですか?」
「⋯⋯ん? 良いのですか? ⋯⋯とはどう言う意味なのだ? 第二陣をきっかけに更に次の第三陣の準備を整える。素晴らしき事ではないか。それに鎌足殿よ、多くを語らずとも理由は分かるぞ。私などよりも遥かに強い鎌足殿とて、やはりまだうら若き女子。十日も戦場を離れ、ゆったりと英気を養っておれば、剣気も抜けきり、もう暫く休養を取りたい、一度江戸に戻りたい、などと想い願う心が芽生えてくるのも至極当然だ」
あれこれと第二陣に至った経緯を追求される、そう思って相当の覚悟で身構えていた。
しかしどうやら杞憂だったらしい。
真意の全ては秘密のまま、難なく一月にも及ぶ不在は認められそうだった。
「⋯⋯御心遣い、心より感謝致します」
「なあに、此処にちょうど中将も居る、話は早い。第二陣の到着、そして日の分担が決まるまで、引き続き鎌足殿の東番はこの中将に暫く任せるとしよう。⋯⋯というわけだ、問題は無いな? 中将よ」
「⋯⋯⋯⋯」
「⋯⋯ん、どうした、何か納得できぬ点があるのか?」
「⋯⋯一つだけ、願いをお聞き届け頂きたい」
「ん? 何だ、言ってみよ」
「⋯⋯夜は少々調べたき事がある故、東西の二番は若干の重荷。よって無官ではありますが一人、補佐役の入所を大将様の御力で是非お許し頂きたい。そして麿とその者、“どちらか”が東番と西番の各夜の警備を担当する。それでよければ、臨時の東番、今暫くお受け致します」
「無官の補佐役? ちなみにそれは誰だ?」
「⋯⋯麿が直属の配下。⋯⋯白虎と申す者」
「おお、あの音に聞こえた豪の者、爪牙刀白虎か!」
「⋯⋯はい」
⋯⋯爪牙刀白虎。
鎌足が耳をそばだてる。
鎌足も武の世界に身を投じる者。
諸国の名の知れた武芸者たちの名ならば、ある程度は知識がある。
しかしその記憶の中には、白虎の名は無い。
綾麿や青龍や麒麟同様に初めて耳にする名だった。
「⋯⋯中納言にそなたに少将に陰陽衆、さらに爪牙刀白虎か。これはこれは真に心強い。良いだろう、特別に入所を許す。中納言には私から伝えておこう」
「⋯⋯是非に」
綾麿は相変わらず伏し目のまま、小さな低い声で軽く頷いた。
そんな綾麿の隣で、兼季はそっと鎌足に目配せする。
(⋯⋯あ、兼季様。⋯⋯気を使ってくれたのかな)
もしかしたら、と鎌足は思った。
下級の公家や官吏は別として、皆の前で刃を交える程に揉めに揉めた麒麟を筆頭に、御所の高官たちと鎌足との関係は今、最悪と言ってよい程に冷え込んでいる。
言い方は失礼かもしれないが、”鈍感“な兼季と言えども流石に気付いているに違いなかった。
その現状を考慮した上での二つ返事。
些細な疑問などは一切黙認したのかもしれない。
(⋯⋯それと後は中納言の鷹乃宮様と陰陽衆、新体制の布石の強化を考慮したのかもしれないな。話しぶりからして兼季様は鷹乃宮様をかなり頼りにしているみたいだ。確かに格好良いし頼りになりそうだからなあ。⋯⋯まあ、とりあえずは良かった。嘘をついているみたいで心苦しいけど、綾麿の前だ。このまま終わってくれ)
何れにしても事は上手く進んでいる。
先程の白虎が一体何者なのか、そんな小さな疑念は鎌足の頭からはすぐに消えていた。
兼季は終始笑顔のまま。
どうやら鬼斬丸や出羽国などの秘密事項は、この二人には何一つ告げる事無く終わりそうだ。
そう鎌足が安堵しかけた時だった。
⋯⋯視線を感じる。
それは笑顔の兼季の隣。
鎌足の右前方から放たれている。
⋯⋯また綾麿だった。
最初は全く目線を合わせなかった綾麿。
それがいつの間にか今は、じっと睨むように鎌足を見つめている。
「⋯⋯⋯⋯」
「⋯⋯⋯⋯う」
しかも相変わらず言葉は無い。
暫しの別れを惜しみ、兼季が色々と鎌足に話しかけている最中も、この綾麿の刺すような鋭い視線は遠慮なく続いた。
(⋯⋯っ、私、何か怪しい変な事でも口にしたっけ? ⋯⋯凄い睨まれてる。な、何だよ、『もう来なくていい』なんて言っていたくせに⋯⋯。言葉通りに大嫌いな私は暫く御所には来なくなるじゃないか。願ったり叶ったりだろ。⋯⋯なのに何故、そんなに厳しい目で睨むんだよぉ⋯⋯、綾麿)
何かを勘付かれたのかもしれない。
そんな疑念すら鎌足が抱き始めた時、綾麿の口が動いた。
「⋯⋯多少痛みはあっても、傷自体は癒えたのだな」
「⋯⋯へ?」
「傷は治ったのか」
「⋯⋯あ、⋯⋯は、はい。治りましたけど」
「嘘偽り無いな。四肢は問題なく動かせるな? 以前と何ら変わらず、鬼切丸を振るう事ができるな?」
「⋯⋯(何だ、綾麿、やけにしつこく聞いてくるなぁ。そんな事を確認するために睨んでいたわけ?)、⋯⋯な、治りましたよ。ほら、両腕もこんなぴんびんと。それが何か?」
「ならば、約束は”此処“までだ」
「⋯⋯はぁ? 約束? 約束なんてしていませんよ?」
「⋯⋯此方の話だ。関係は無い、忘れるがよい」
「はぁ!? ⋯⋯何ですか、一体!?」
鎌足の傷が治った事━━━、それによって綾麿は心の中で何かの“線引き”をしたようだった。
しかし鎌足の方は全く意味が分からないばかりか、そもそも約束などした覚えも無い。
やはり綾麿の追求や思考は得体が知れない。
何が飛び出すか想像もつかない、意図も読めない。
出来る限り早く座敷を出たほうがいい。
鎌足の直感がそう言っていた。
「⋯⋯一月後、必ずやまた御所に戻ります故。伊賀を代表して馳せ参じる第二陣の顔触れ、剣腕はきっと間違いございません。二、三日程で到着するかと存じます。引き続きどうぞよろしくお願い致します。⋯⋯ではでは、今日はこれにて⋯⋯⋯」
鎌足は矢継ぎ早に会話を切り上げると、兼季と綾麿に改めて深々と頭を下げる。
すぐに中腰のまま、そそくさと障子の方へ。
通常の二倍程の速さで障子を開けると、さっと廊下へと身を投じ、次は通常の三倍程の速さで障子を閉める。
そして足早にその場を離れようとした⋯⋯。
⋯⋯所に、唐突に障子越しで声がかかった。
「⋯⋯待て。⋯⋯それと」
(⋯⋯げっ)
またも綾麿の声だった。
「⋯⋯一月もの間、何処へ行く?」
(⋯⋯ぬおっ)
思わず変な声が出かけた。
言葉を耳にした瞬間、ぞわぞわと鳥肌が立ち、全身を雷に打たれたように震えが走る。
それは聞かれたくなかった、恐れていた一言だった。
この時、まるで刻が止まったかのように、前傾姿勢の鎌足の身体は完全にぴたりと止まっていた。
動揺が隠せない。
鎌足の返す言葉が乱れる。
「⋯⋯あ、いえ、そんな。せいぜい江戸に一度帰って、養生してくるだけですよ。まだ私も子供なんですねぇ、江戸の皆が恋しくなって、顔も見たくなりまして。⋯⋯ははは、それだけですよ」
しどろもどろな返事。
障子に映る影もぎこちない。
そんな鎌足に向けて、綾麿は更に追い打ちをかけた。
「⋯⋯何か厄介な事にでも巻き込まれたのか」
(⋯⋯ひゃあっ)
次の問いかけも怖いくらい的を射ていた。
鎌足が“どもり”出す。
「⋯⋯え、わ、あ、⋯⋯あはは、そ、そんな事、な、ないですよ。⋯⋯い、いつも通り、そう、⋯⋯いつも通り、ってやつです。はは、⋯⋯あは、ははははははは」
「⋯⋯⋯⋯」
斜めになった背中、中途半端に突き出した腕。
それだけではない。
踏み出しかけていた一歩目の右足も、そのまま完全に宙を彷徨っていた。
鎌足の背中を嫌な汗が伝い、頭がくらくらと逆上せてくる。
どんな返事を返されるのか。
そして次は一体何を問われるのだろうか。
極限の緊張状態のまま、鎌足は綾麿の反応をじっと待った。
「⋯⋯⋯⋯」
(⋯⋯⋯⋯)
しかし警戒に反して、障子の向こうからは何の反応も返事も無い。
刻が再び流れ出すような感覚と共に、鎌足の緊張が解けていく。
鎌足の右足、その指の先が恐る恐るゆっくりと廊下の床に触れ、ようやく踵が身体を支える。
(⋯⋯⋯⋯、⋯⋯よし、とりあえずは納得したみたいだな?)
しかし幻斎の命令を懸命に守っていたこの時。
鎌足の脳裏に、そんな命令と反目するある一つの考えも過っていた。
それは伊賀を脅かし忍を狩る謎の集団、その唯一の手掛かりとなる、武田の忍が残した”くも“、“ろっかせん”の血文字。
綾麿にその謎を問いかける事だった。
今は丁度去り際。
大事な件に関しては既に兼季との話は済んでいる。
もしこの互いに姿が見えない状態で綾麿に怪しまれたとしても、このまま廊下を突っ走って逃る手を使えば、何とかなるかもしれない。
そしてあの血文字の謎、その明確な答えも知り得る事ができるかもしれない。
答えは障子の向こう、すぐ傍にある。
一度は断念していた想いが沸々と湧き上がってくる。
「⋯⋯あ、あや、⋯⋯あの、く⋯⋯(も⋯⋯っ))
「⋯⋯⋯⋯」
綾麿の影が動き、何か息を呑む音が聞こえた⋯⋯。
⋯⋯気がする。
気付けばつい言葉が出かけていた。
しかしすぐに幻斎の言葉と顔を思い出し、零れ落ちそうになった言葉を既の所で呑み込んだ。
そして軽々しい自分を戒めるように、握り拳を作る。
(⋯⋯いけない、いけない。危険すぎる。勘ぐられて江戸の危機や弱体を悟られたら駄目だ。⋯⋯何せ綾麿は私たちを憎んでいるんだ。忍狩りが綾麿じゃなかったとしても、配下の青龍って人やさっきの何たら白虎って名の奴に命じて、江戸に不利となる一手を打ってくるかもしれない。百地翁様もきっとそれを恐れているんだ。⋯⋯御坊さんの諺、“触れる髪はあまり無し”って諺だ)
どうやら鎌足は「触らぬ神に祟りなし」と言いたかったらしい。
だが、そうと心が固まれば二歩目からは速かった。
鎌足は黙って一目散。
歩幅もいつもの倍、逃げるように廊下を後にする。
(⋯⋯それにしても本当にびっくりしたあぁぁ。冷や汗が出た。⋯⋯綾麿、人の心が読めるのか? ⋯⋯でも面と向かって聞かれなくて良かったぁ、障子越しで。⋯⋯ふふん、しめしめ、上手く誤魔化せたぞ)
座敷から五歩は離れた。
此処まで距離を取ればもう大丈夫だろう。
鎌足は正真正銘、安堵する。
心も脚も既に出羽国、廊下の角を曲がってしまえば、後は北への旅路の空の下へ、想いを飛ばすだけだった。
(⋯⋯よしっ、宿に荷物を取りに戻って、そのまま出羽国に出発だ)
廊下を遠ざかっていく、ぴょんぴょんと跳ねるような軽快な足音。
足早に去っていった鎌足の姿に首を傾げている兼季の隣で、綾麿は座したまま微動だにしない。
そして一度やれやれとばかりに軽く溜め息をつくと、兼季にも聞こえない程の小さな声で呟いた。
「⋯⋯嘘の下手な奴め」
そして自嘲の笑みを浮かべた。
(⋯⋯俺もどうかしているな。“鬼”について何か心当たりはないか、思わず口に出かけたわ)
鎌足が血文字の謎を問いかけようとしたこの時、実は綾麿もまた障子越しに、鎌足に一つの問いを投げかけようとしていた。
今しか聞く機会はない。
去り行く鎌足を前にして、あの襲撃の夜から抱いていたある不可解な疑念が、ふと頭を過ったからだった。
(⋯⋯あの時。この京御所の空に現れたのは、蒼鬼紅鬼其々に二十三にも及ぶ、羅生門邪道⋯⋯。紅鬼にとっては七十年前に一旦閉ざされ、無に帰したはずの道。地獄と現世の双方に仲間の蒼鬼紅鬼が居なければ、狙った場所にあれだけ的確に邪道を開くことは出来ぬはず)
予てから現れていた蒼鬼はまだ説明がついた。
一月以上前からの侵略で、邪道は既に開通している。
しかし紅鬼はどうやって邪道を開く事が出来たのか。
(⋯⋯姿を現した紅鬼の邪道の渦は確かに二十三。あの鬼たちは全員、”導かれて“現れた。紅影鬼ではない。紅影鬼はその前に鎌足に討たれていた。⋯⋯ならば何処かに存在する紅鬼本道。それを通った紅鬼が、あの日かその前からか、少なくともあと一鬼は居たという事になる。 しかもあれ程までの数の渦を一気に導くとは。⋯⋯手引きをしたのはまず間違い無く、⋯⋯修羅)
綾麿は考え込むようにゆっくりと目を開じた。
(⋯⋯まあ、よい。鎌足が知っているはずがない。鎌足の今しがたの“抜けよう”ならば、その身に今まで”何か“が起きていたとしてもまず気付くまい。己自身すら知らぬ者に鬼の話を問うなど、刻の無駄というもの。⋯⋯十日以上動きの無い紅鬼修羅も、一時地獄へ戻ったと見るべきだろうな)
真っ暗な綾麿の瞼の裏に、鎌足と刃を交えたあの時の光景が浮かび上がる。
鬼切丸を手に妖しく笑う、鎌足の豹変した姿。
あれはまさにこの現世を生きる邪悪。
”修羅“の化身に見えた。
そして綾麿は再び目を開ける。
その鋭い警戒の瞳は今、来たるべき計画の大きな障害となりうる物者、その幻影に対して向けられていた。
(⋯⋯鬼の出現すらも止めている、あの紫宸殿からの謎の光。⋯⋯弓削に蠢く魔性の巫女、小夜。⋯⋯そして、鬼切丸。⋯⋯しかし、鎌足め、本当に何も気付いてはいないのか。己の身体に宿している恐るべき力を⋯⋯)
綾麿は障子の先、廊下の方へ再び目を流した。
鎌足の消えた廊下は他に誰の気配も無く、しん⋯⋯と静まり返っている。
⋯⋯しかしこの時。
綾麿や兼季からは見えない、廊下に面した中庭の先の離れ。
その柱の物陰に、この最後の障子越しの綾麿と鎌足、二人の会話をずっと密かに覗いていた、妖しい薄ら笑みが在った。
「⋯⋯うふふふふ」
それは⋯⋯。
⋯⋯中納言に就任した『六歌戦』鷹乃宮霧人の配下、少納言の樟羽だった━━━━。
第91話も最後までお読み頂きありがとうございました。
ブックマーク、☆評価、感想等よろしくお願いします。その優しさが新たな創作の励みに繋がります(*^_^*)。
次回第92話「其々の思惑〜後編〜」は8月23日〜24日頃投稿予定です。この90〜92話は三話一体で完結する話になります。引き続き次話もよろしくお願い致します。
【改稿履歴】
改稿履歴は全て誤字脱字等や細部表現の訂正です。
過去話も誤字脱字を見つけ次第、訂正しています。
内容は全く変わっていませんので御安心ください。
(いつもたくさんの誤字脱字ばかりで、すみません)




