第89話 見えざる敵
【登場人物紹介】
不知火綾麿━━━━
従三位中将。帝と日本を守る『六歌戦』の一人。謎の妖刀『村雨』を時の帝から拝領し、御所警備の西番を任されている。村雨の真刃と鞘刃を使った不知火二刀流の使い手。江戸徳川政権を激しく憎み、鎌足を快く思っていない。現在は謹慎中の鎌足に代わり東番も務める。
伊賀の鎌足━━━━
江戸城の公儀御庭番伊賀組の小頭の女忍。伊賀流鎖鎌の使い手。七十年前に鬼を滅した伝説の刀『鬼切丸』を手に、鬼が現れた京都に援軍として派遣される。裏では極秘に朝廷の探索の密命も帯びる。綾麿配下の麒麟との戦いで負った傷を癒やしながら、現在十日間の謹慎中。
━━━━『くも』、そして、『ろっかせん』。
江戸の幻斎から届いた文に書かれていた、この二つの“かな文字”。
その内の一つに鎌足は聞き覚えがあった。
よく知るあの言葉以外には考えられない。
思い浮かぶのはただ一つ。
綾麿が属する、あの京都の守護者『六歌戦』だった。
(⋯⋯『六歌戦』!? ま、まさか綾麿が!? ⋯⋯だから第一の容疑者ということ⋯⋯? ⋯⋯いや、いやっ、それは無いっ。綾麿にそんな虐殺を企てているような素振りや言動はまるで無かった。第一、綾麿はほとんど御所やその周辺に居たもの⋯⋯)
鎌足は激しく首を横に振った。
そんな鎌足の脳裏に、あの鬼との戦いの夜に現れた“青龍”との会話が過る。
⋯⋯(「⋯⋯鎌足殿、私の後ろに控えるこの麒麟も含め、私たち直属の者は皆、綾麿様の配下です。⋯⋯鎌足殿の指示や願いを受ける義理等は有りません」)
(「⋯⋯え?」)
(「綾麿様がもし紅鬼を斬ろと命じるならば、紅鬼を斬り⋯⋯、蒼鬼を斬ろと命じるならば、蒼鬼を斬り⋯⋯、そして鬼切丸と鎖鎌を使う、憎き江戸の忍を斬ろ、⋯⋯と命じるならば⋯⋯」)
(「⋯⋯え、え?」)
(「何の遠慮も躊躇も無く、その忍を斬ります。言わばあの御方の命令だけが、私たちにとって絶対の存在なのです。⋯⋯鎌足殿。それをどうかお忘れ無く」)⋯⋯
⋯⋯”私たち“。
あの時、青龍は確かにそう言っていた。
(⋯⋯まさか。麒麟みたいな手下が他にも何人もいて、そいつらに虐殺を!? ⋯⋯っ、確かに初めて会った時、百地翁様の事は口にしていたけど⋯⋯。しかも凄く嬉しそうに⋯⋯)
奥座敷での綾麿との初めての会話。
あの時、鎌足はうっかりと思わず幻斎の事を口にしてしまっていた。
幻斎が生きている。
その事実を知った綾麿の顔は、普段の落ち着いた表情が嘘のように嬉々としていた。
会いに行かねばならない。
そんな事までも口にしていたような気がする。
(⋯⋯もしかしたら、百地翁様と過去に何かがあった? だからあんなに嬉しそうに⋯⋯、⋯⋯いや、待て待て、伊賀を憎んでいるなら、百地翁様が”生きている“ことを知って、あんなに喜ばないんじゃないか? それに肝心の百地翁様は綾麿とは一度も会ったことが無い、って書いてあったし⋯⋯)
そんな困惑の鎌足に歯止めをかけるように、文には少しだけ続きがあった。
『━━━━今、京にて流行りし、六つの歌
収集の命、下せしばかり也
御主の教養にて
解決できぬ事、明白 故
当、血文字が件
心に留めるのみにて
全て江戸に任せるべし
尚
得体知れぬ綾麿が目、在り
鬼斬丸、役小角、忍狩り、血文字の件
何れも京御所には秘密にするべし━━━━』
(⋯⋯暗に教養⋯⋯が無い、ってことだよな。⋯⋯解決できない、江戸に任せよ、か。⋯⋯確かに。⋯⋯頭を使った任務が苦手の私じゃ無理だ。⋯⋯は、はは)
鎌足は甚左や平次という知恵袋を失っている。
鎌足一人の思考や探索行動では、絶対にこの言葉の謎を解き明かすことは出来ない。
誰よりも鎌足の知識の限界を知る幻斎らしい、至極真っ当な”読み“だった。
(⋯⋯あぁ、その京都に居るのにぃ。謎が解けない、言葉の意味が分からないなんて、もやもやするなぁ。⋯⋯でも、そうか、歌か。六歌戦は歌に詠まれるから名が付いた六人、って言ってたっけ)
普段の鎌足なら放り出すような難題でも、今日は何故か諦めきれない。
いつのまにか熱い心の声は、口からも漏れ出ていた。
「⋯⋯あぁあ、でも歌は私は聞いても分からないんだよなぁ。歌じゃなくて、諺の六人だったなら、すぐに万事解決だったのになぁ。⋯⋯ろっかせん。⋯⋯あぁ、気になりすぎるよ。だって綾麿の有罪無罪がかかってるんだから。今度は私が御所での裁定の借りを返さないと」
自身もよく分からない使命感の中、鎌足はこの十日と少しの記憶を精一杯に辿った。
綾麿を思い浮かべては首を横に振り、そしてまた記憶を辿る。
そして文に書かれた”くも“と“ろっかせん”。
このたった七つの”かな文字“を凝視する。
ひたすらその繰り返しだった。
(⋯⋯うーん、⋯⋯やっぱり忍狩りの残虐な奴等の不可解な動きとまるで一致しない。⋯⋯うん、たぶん綾麿じゃない! ⋯⋯なら綾麿以外の『六歌戦』の誰か? ⋯⋯それもなあ。他の五人は誰一人知らないけど、帝や人々を守る誉高き『六歌戦』に、あの陰険で意地悪な綾麿以上に邪な剣客なんて、絶対に居るはずがないよ。⋯⋯それにもう一つの言葉だ。“くも”とは、空の雲か、糸を張る蜘蛛か、それとも人の名の一部? ⋯⋯っ、いや、そもそも『六歌戦』の名を悪用したり、貶めようとする誰かによる陰謀なのかも!? ⋯⋯うぅ、うーん⋯⋯)
座敷の窓から覗く空の雲。
そして座敷の天井の隅、八角の巣を作る蜘蛛。
鎌足は空と天井を交互に見比べる。
いっそのこそ綾麿に直接聞いてみれば良い。
そんな考えも頭を過った。
『六歌戦』の一人である綾麿。
その綾麿ならば、他の五人の『六歌戦』の中で、この謎の言葉”くも“と関わりのある者を知っているかもしれない。
いや、間違いなく知っているはずだった。
しかしその名案も鎌足の頭の中で弾けて消える。
誰に止められるでもなく、鎌足はすぐに自らの意思で首を横に振っていた。
(⋯⋯綾麿にだけは聞けない、聞けるもんか。私の意地もあるけれど、意地を曲げたって絶対に私を助けてなんかくれない。きっといつもの冷たい目で見下されて、“忍同士の事など関係無い”なんて一言で突っぱねられて終わりだよ。⋯⋯それに全部秘密にしろ、って書いてあるからなぁ、私、口下手だから上手く聞けないよ。“何故今そんな事を聞く?”みたいに逆に追求されても、返答に困るからなぁ⋯⋯)
そして最後に大きな溜め息をつくと、俯いた。
「⋯⋯それに私が綾麿を嫌うように、綾麿も私のことを嫌ってる⋯⋯。だって”鎌足のことが嫌い“⋯⋯綾麿自身もはっきりそう言ってたもん」
『━━━━最後に、鎌足よ
拙爺は常に御主の味方 故
心おきなく戦え
そして必ず勝つべし
江戸にてまた逢える日が楽しみ也
━━━━幻斎、半蔵』
鎌足との再会を願い、幻斎と半蔵の連名と花押をもって、文は締め括られていた。
(⋯⋯大和国に消えた、忍を狩る見えない敵、⋯⋯か。あの百地翁様がこんな切迫感を滲ませて書くくらいだから、これは私が思っている以上に伊賀存続に係る大事、いや、もしかしたら徳川の危難なのかもしれないぞ)
鎌足は手元の鬼切丸を改めて見つめた。
まだ見ぬ謎の敵。
解けない謎の二つの言葉。
加えて役小角がどんな人物であるのか。
今の鎌足には何もかもが想像もつかない。
ただはっきりと理解できるのは、ただ一つ。
新たな任務、出羽国遠征の厳しさだった。
慣れない編成で初めて訪れることになる極寒の地。
侵入者として小角の配下の修験者たちに襲われたとしても、相手は罪無き人間、簡単に斬り捨てるわけにはいかない。
修験者を一人として誤って殺害してしまっては、きっと小角の相当の怒りを買い、鬼斬丸を譲り受けることは難しくなってしまうだろう。
自身の命を守り、災いを退ける武力だけではない。
知力交渉力も問われる任務となるのは明らかだった。
そう考えると、最初は心強いと思っていた同伴の“九名”という数ですら、今は少なく思えてくる。
(⋯⋯九名。私を入れて十名か。もしかしたらだけど、あまりの過酷な任務のために、相当数の死者が出てもおかしくはない。だから百地翁様はその減数も見越した上で、最初から人数を多くしたのかもしれない)
任務遂行上における忍の落命は日常茶飯時だった。
鎌足自身も何人もの仲間を見葬ってきた。
ましてや今回は江戸や伊賀の危機になりうる事態。
これまで以上の鉄の忍の心が求められた。
(⋯⋯でもまさか、あの綾麿の最後の一言の通りに、御所警備に暫く顔を出せなくなってしまうなんて⋯⋯)
明日は久々の出仕が控えている。
幻斎の命令により、文に書かれた全てを伏せたまま、上手く誤魔化す必要がある。
明日は元々、大将の兼季には謹慎明けの挨拶に赴く予定になっていた。
改めて面会の申し出を請う必要は無い。
しかし問題はおおらかな兼季よりも、遥かに感の鋭そうな綾麿だった。
とは言え、警備番の日であれ非番であれ、夕刻から夜明けまでが主となる出仕の綾麿は、早朝から夕刻までの間は御所に居る可能性は低い。
明日は式典などの例外的な大きな行事も無い。
朝一番に動けば、まず間違い無く第二陣の件は綾麿抜きで説明できる。
そしてすぐにでも出羽国に旅立つことができる。
(⋯⋯しめた、ついてる、明日は大吉だぞ)
算段の組みやすい、またとない良日と思えた。
文の伝達を受け、様々に思いを馳せる鎌足の脳裏に、美桜や櫻、桜舞う京都御所の景色が浮かぶ。
(⋯⋯美桜、櫻ちゃん。⋯⋯鬼たちの魔の手から二人を守りたい、守るって約束もしたんだ。⋯⋯でも命令は絶対。私は出羽国に行かなきゃいけない。⋯⋯っ、どうしよう、本当に行っていいのか? 間もなく到着の援軍第二陣、きっと手練ればかりだとは思うけど⋯⋯、想い人の鷹乃宮様も凄く頼りになりそうだけど⋯⋯。あ、そうだ、麒麟もいた。⋯⋯あぁ、あいつ、美桜を虐めたり、また悪さをしないだろうか⋯⋯)
後ろ髪を引かれる思い⋯⋯とは、まさにこんな時に使うんだ。
文を丸めながら鎌足はそう思った。
そしてそっと目を閉じる。
美桜、櫻、兼季、麒麟、諸大臣、門番、案内役⋯⋯。
そして顔を合わせたばかりの霧人たちや、御簾の先の薄っすらとした帝の影まで。
鎌足の目蓋の裏で、京都で出会った全員の顔が次々と浮かぶ。
夢や幻なのか、まだ脳で見ている姿なのか、それとも目蓋の裏の残像なのかは分からない。
目を開けた鎌足の前に最後に現れ見えたのは、蒼白の灯火。
⋯⋯綾麿の顔だった。
鎌足の口が、願いを呟く。
「⋯⋯“ろっかせん”の血文字。⋯⋯綾麿、本当に御前じゃないよな? 青龍たち配下に命じて、非道な忍狩りなんて行っていないよな? 美桜は私の分まで守る。そう約束してくれただろ。⋯⋯御前のこと、本当に心から大嫌いだけど、約束だけは絶対に信じているからな⋯⋯」
⋯⋯その時だった。
遠くから大勢の叫び声が聞こえた。
宿の前の通りも急に騒がしくなる。
「⋯⋯おおい! 鴨川に大勢の死体があがったぞ!」
「⋯⋯女子供まで皆殺しだとよ!」
「⋯⋯まるで亡骸が山みたいになってるんだとよ!」
皆口々に叫びながら、鴨川の方へ駆けていく。
「⋯⋯っ、うるさいなあ。野次馬たちめ。⋯⋯今は考え中なんだ。静かにさせてよ」
文の到着や受取に喜ぶあまり、玄関の引き戸は全開のままになっていた。
この離れの家屋の玄関は、庭を挟んでいるとは言え、大通りに面している。
これが野次馬たちの雑音の原因らしい。
鎌足は面倒臭そうに土間に降りると、玄関の引き戸を閉めようとした。
ふと、その手が止まる。
(⋯⋯大勢の死体? ⋯⋯女子供まで皆殺し?)
⋯⋯謹慎中。
そんな言葉は一瞬にして鎌足の頭からは消え去り、後は考えるよりも先に身体が動いていた。
土間から草履のまま座敷に駆け上がり、鬼切丸を握りしめる。
そして疾風のように玄関を一足飛びで駆け抜けると、軒下に掛けてあった顔隠し用の”笠“を咄嗟に手に取る。
鎌足は鴨川の方へと疾走り出していた━━━━。
━━━━鴨川の河川敷は散々たる有り様だった。
そこら中に転がる骸、骸、また骸。
亡骸は川に流され打ち上げられたと言うよりは、何処か別な場所で惨殺され、わざわざ人目につくよう河川敷まで運ばれ、無造作に捨てられているようだった。
数にして数十人は居るだろうか。
その半分程は女子供だった。
どれもが無惨な傷を負っていた。
「⋯⋯これは、⋯⋯文字通りの皆殺しだ」
遠巻きの土手、野次馬たちの中。
他人の目を避けるように笠を目深に被った鎌足は、目の当たりにしたそのあまりもの惨たらしさに、悲しげに目を細めていた。
亡骸の傷は様々だった。
ある者は刃渡りが異常に大きい刃で斬られていたり、ある者は四方八方ありとあらゆる方向から刃の斬撃を受けていたり、またある者は強固な何かによって首の骨を叩き折られていた。
その傷の根拠だけで襲撃を行った者は複数人以上。
被害者の数からも想定するに、非道の殺戮者たちは相当の数の集団であったことが見て取れた。
中でも一際鎌足の目を引いたのが、大多数の男の亡骸が受けている細い網目状の傷だった。
顔や体の至る所が、焼いた網目状の細い金物か何かを押し付けたように斬り刻まれている。
その傷の線は直線だけではない。
空に弧を描くような放物線状であったり、直線から直角に急に曲がったり、不規則な痕を残していた。
首や四肢が完全に切断されている亡骸もあったが、その断面は綺麗かつ見事という他は無い程で、その網目状の全てが鎌足が未だかつて見た事が無い、衝撃的とも言える傷痕だった。
(なんて美しくて狂わしい傷なんだ⋯⋯。人が抵抗して体を反らす以上、刀でもこうは上手く斬れない。何で斬ったかも分からないけど、あの傷痕を生んだ刃を振るった者は相当の、いや、信じられない程の⋯⋯いやいや、そんな表現じゃ生温い。化け物とも言うべき使い手だ)
惨劇の瞬間を想像する鎌足の目の前、視界全体にまるで投網のように幾何学的な刃の幻影が迫ってくる。
鎌足は狼狽しながら、同時にある一つの事を確信していた。
それは多くの野次馬たちや亡骸を片付けている役人でも気付かない、鎌足だからこそ知り得る“事実”だった。
(⋯⋯この亡骸たちは忍だ。傍に転がる小さな鉄の刃物。あれは忍が使う苦無の欠片だ。それに男たちの胸元には一族の証である鶴の入墨。間違い無い、山城京都の忍、蒲生一族だ。戦乱を避けて人知れず忍里で暮らしてたはず。女子供まで⋯⋯何て酷い事を。しかも斬った者、襲った者も侍や野盗ではない。間違い無く、忍だ)
鎌足は目を伏せて手を合わせる。
そして鎮魂の合掌を終えた掌を、そっと胸元に当てた。
その胸元、指と指の隙間からは、麒麟から受けた十日前の傷が垣間見える。
十日経っているとは言え、その傷は明らかにこの河川敷の亡骸たちの傷の造りとは異なっていた。
(綾麿の村雨の焔による傷ではない。麒麟の天舞の傷口、この瘡蓋の下も荒々しい。でもあの傷痕はまるで違う。やはり綾麿たちの仕業では無かった。良かった)
鎌足はほっと胸を撫で下ろす。
しかしその一方、“敵は忍である”という事実と、他の虐殺との奇妙な不一致が、鎌足の背筋にぞっとした悪寒を走らせていた。
文に書かれていた他の忍狩り。
虐殺が行われた日は、全てが一日刻みだった。
文が江戸から送られてから、京都に届くまでには三日から四日を要する。
幻斎が文を書いた当日には、見えざる敵たちは既に文に記載された最後の虐殺の地である、大和国にまで戻っていたことは間違い無い。
しかし引き返したと思われる甲斐国と大和国までの距離に比して、此処京都の山城国から大和国までの距離はあまりにも短い。
それにも関わらず、この三日から四日で行われた虐殺はこの蒲生一族だけなのである。
当然に鎌足の知らない所で、何処か近隣の忍里が襲われている可能性はあった。
しかし、仮にそうであったならば、あまりにもこの数日の移動距離が短すぎる。
この違和感が鎌足はどうしても拭いきれなかった。
ある最悪の事態が頭を過る。
(⋯⋯大和国で止まってはいない。また大和国を本拠とする者たちの侵略でもない。⋯⋯見えざる敵の本隊は既に此処京都に入っている⋯⋯。ならば敵の本拠は⋯⋯此処、京都なのか? ⋯⋯っ、なら、何故一度この京都を離れながら舞い戻ったんだ? 京都で不測の何かが起きたからか? 誰かに何かに呼び戻されたか? まさか! あの御所の蒼鬼紅鬼の襲撃とも関係が!?)
鎌足は湧き上がる不安をも隠すように、笠を目元まで深く下ろした。
そしてそっとその場を離れようと、周りの人混みを掻き分けた。
改めて横目で見る蒲生一族の亡骸の山。
鎌足の瞳に最後に飛び込んできたのは、その陰惨な山の一番上に乗せられている、身体を”への字“に曲げた、腹掛けと股引(※軽装の下着)の男。
飛脚姿の亡骸だった。
「⋯⋯ッ!?」
驚いたのも無理はない。
鎌足はその亡骸の顔に見覚えがあったからだ。
江戸、京都、大坂間の文や重要荷物の運搬を依頼していた、伊賀の流れを汲む飛脚の男だった。
「⋯⋯え? ⋯⋯あの亡骸、百地翁様もよく文を依頼していた、江戸住まいの飛脚だ。⋯⋯でもついさっき、宿に来た飛脚は違う男だった、初めて見る顔だった⋯⋯」
更にその飛脚姿の男の亡骸は、腹掛け等の飛脚特有の衣装以外でも、一人だけ他の蒲生一族の亡骸たちとは異なる点があった。
舌が斬り裂かれ、額の上に置かれていたのである。
(⋯⋯ッ!? あれは! 市井の者には絶対に分からないよう、忍の者だけが読み解ける伝言。日本全ての忍の間での共通伝達手法の一つ!? ⋯⋯えっ、と、⋯⋯額に舌、意味は⋯⋯、確か、『死人にもう口は不要━━━
━━━何を企んでいるか、全て知っているぞ』)
鎌足は背筋が一気に凍りついた。
(⋯⋯なら、私に文を届けに来た飛脚は誰だ? ⋯⋯百地翁様のあの文、もう既に敵の忍の集団に見られている? ⋯⋯それか、まさか偽の文にすり替えられた? ⋯⋯いや、あれは間違い無く百地翁様の筆跡だ。⋯⋯でもそれなら何故、私の目に入る前に破り捨てなかった? 伊賀衆を、私を、まるで相手にもしていないと言う事か!? ⋯⋯何という恐るべき敵、余裕、そして自信!)
鎌足は御頭の半蔵の言葉を思い出していた。
この共通伝達手段が使われる時、仕掛けた忍たちは必ず近くで様子を窺っている。
それが常、忍の性である、と。
もしかしたらこの野次馬たちの中にも見えざる敵が紛れ込み、鎌足の一挙手一投足を今も何処かで窺っているかもしれない。
見えざる敵への緊張が、幻の視線を生む。
(⋯⋯うっ!? 錯覚!? いや、でも、⋯⋯ッ!!)
鎌足の五感が乱される。
誰かからの無数の視線を感じずにはいられなかった。
鎌足は人混みを即座にすり抜けると、笠を手で押さえながら、誰も付近には居ない後方へと飛び退いた。
そして周囲の往来を見渡した。
老若男女、大勢の野次馬たち。
新たに駆けつけてくる役人。
野次馬相手に商魂たくましい飴売り。
余所見一つせずに駆けていく駕籠かき。
亡骸に向けて念仏を唱え続ける托鉢の僧。
大きな風呂敷を背負った年配の行商人。
立ち話に花を咲かせている着物の女性二人。
人混みの最後尾から河川敷を眺める素浪人風情の男。
少し離れた橋から此方を眺めている若い男女。
視界に入る全ての人物が怪しく見える。
(⋯⋯っ、誰だ、誰が、見えざる敵なんだ!?)
笠の下から覗く鎌足の警戒の眼が、左右、右左、また左右と、何度も激しく動く。
「⋯⋯笠のあんた、邪魔だ! 退いた! 退いた!」
「⋯⋯ひっ!?」
突然近付いてくる大声に鎌足は更に飛び退いた。
宙を舞いながら、その手は腰に差した鬼切丸へ。
抜いて斬りかかる一歩寸前だった。
そんな臨戦態勢とも言える鎌足の横を、亡骸とは違う色形の腹掛けを纏った若い飛脚の男が、一目散に土手を東から西へと駆けていく。
(⋯⋯はぁ、⋯⋯はぁ、⋯⋯はぁ、だ、誰だ? あいつも、あいつも、あいつも、敵の忍かもしれないッ! ⋯⋯くそっ、私を見てるのは誰なんだよぉ!?)
鬼切丸を握りしめたまま、鎌足は道の傍の大木に背を委ね、更に激しく左右に眼を動かした。
季節はまだ四月中旬にも関わらず、鎌足の頬には真夏のように幾つもの汗の筋が滴っていた。
(⋯⋯っ、蒲生一族はもしかして、あの文がきっかけ!? 私を脅迫するためだけに、皆殺しにされた!? ⋯⋯え、ま、まさか、そんな、そんなことは⋯⋯、分からない、でも、⋯⋯一つだけは今、はっきりと言える)
鎌足の額から流れた汗が、乾いた唇の端から口の中へと入る。
汗と生唾を同時に飲み込んだ鎌足は、顔を顰めながら呟いた。
(⋯⋯敵はきっと伊賀も忍狩りの標的に入れている。江戸を狙っている、また必ず⋯⋯━━━━江戸に向かう)
次の瞬間、鎌足は宿へと全速で疾走り出していた。
(⋯⋯っ、美桜、櫻ちゃん、ごめん。私、やっぱり江戸に戻らなきゃならない。悔しいけど今は、二人の事は綾麿と鷹乃宮様に託すしか無い。⋯⋯っ、早く、早く! 一刻も早く! 出羽国に出立する準備をしなくては! 見えざる敵の侵攻の魔の手が、江戸や伊賀に襲いかかる前に! 必ず鬼斬丸を手に入れなくては!!)━━━━。
━━━それから暫しの刻が流れた。
鎌足が走り去り、人混みも消えた河川敷。
そのすぐ傍の土手の下、今にも壊れそうな民家の軒先で、三人の子供がお手玉をしながら遊んでいた。
昼間に河川敷で起きたあの酷い惨状も、今日を貧しく生きる者たちにとっては特段気にするような事件でもなく、苦しい生活の何かが変わるような大きな出来事でも無いのだろう。
子供たちはいつも通りに夕焼け空にお手玉を飛ばして遊びながら、軽やかな旋律に乗せて短歌を楽しそうに口ずさんでいる。
朝靄に 濡れて忍びし 葵花
今日来し証 土雲の囲糸━━━━
「⋯⋯さあ、そろそろ晩御飯やよ」
「⋯⋯あ、そうだ、ねえ? おっかあ、この和歌、どんな意味なん? いつも歌うてるけど、意味までわからへんかったわ」
一人の女の子が顔を出した母親に問いかける。
母親は得意気な顔でその意味を語りだした。
「なんや、あんた、意味も知らずに歌うてたんか? これはね、葵に青いが、雲に蜘蛛が掛かってるんよ⋯⋯
(朝の霧が立ち込める中、濡れた青い花が隠れるように咲いています。今日の明け方、貴方も密かに私を訪ねてくれたのでしょう。まるで貴方のように思える、土から這い出た蜘蛛が、空のような青い花に糸を囲い巡らせ、雲のように見える程の巣を作っていますから━━━━)
⋯⋯って意味や、覚えとき」
それを聞いていた父親が、苦虫を噛みつぶしたような顔で口を挟んできた。
「御前、違うわ、あほ。それは表向きや、本当はな、証は正しくは“赤い死“、血の事を言うてるんや、今日は狂うと書いて”狂“と読む。京都の京という意味もあるらしいで。土雲も元々は豪族に逆らう者たちの呼称や。だから土の字もな、反逆するって意味が含まれとるらしい」
「⋯⋯へぇ、あんた、見かけによらず物知りやね。⋯⋯なら、本当はどんな意味なんよ?」
「本当の意味は恐ろしいで、⋯⋯
(朝廷が抱く靄とした気持ち、人目を隠れ涙するのも徳川のせいだ。密かに忍ぶように葵の御紋を斬り、狂気に満ちた赤い血で死を飾ってやる。我ら反逆の蜘蛛たちが徳川を包囲する。意図は外さない、覚悟しろ━━━━)
⋯⋯って意味や。まあ脅迫とか宣戦布告の和歌やな。まあ、詠人の気持ちも分かる。徳川に迫害され、関東から逃げてきた“あの忍衆”の中の一人が、”一族“の復讐と再興の時が来はるのを願って詠んだらしいからなあ」
「⋯⋯そうやね、分かるわぁ。⋯⋯こんな物騒な話、人前ではなかなか言われへんけど、⋯⋯私もね、この京や帝を昔からあれこれ締め付ける江戸は、大嫌いやもんね。だからこうしてずっと童歌みたいに歌われ続けて、最近の流行り和歌にもなるんやねぇ。私もあの”御方“とあの”一族“には期待しとるんよ、本当に生意気な徳川に、一糸報いる日をねぇ」
「お母ちゃん、お腹空いた⋯⋯」
「⋯⋯私も」
「はよ、食べよぉ!」
「そうやね、御飯にしよか。それにもうすぐ暮れ六つ。和歌の葵花じゃなくて怖か蒼い鬼が出る出る」⋯⋯⋯⋯
⋯⋯⋯⋯子供たちの歌が消えたこの民家の軒先に、蜘蛛がひっそりと大きな巣を作っていた。
そしてその巣には、羽根を小刻みに震わせる、美しい獲物が掛かっていた。
浅葱色の斑目の紋様。
この季節には珍しい蝶だった。
今日もまた山際に沈んでいく陽。
その血のような赤色が混ざり、羽根の浅葱色は徐々に葵色へと染まっていく。
まるでその時を待っていたかのようだった。
音も無く蝶に近付いた蜘蛛は、その葵色の美しい羽根に向けて、そっと、夜の帷をまとわせた━━━⋯⋯。
第89話も最後までお読み頂きありがとうございました。
ちなみに今回の話と主に連動するのは、第72話「龍笛の男」です。ぜひ再チェックしてみてください。
ブックマーク、☆評価、感想等よろしくお願いします。その優しさが新たな創作の励みに繋がります(*^_^*)。
次回第90話「其々の思惑〜前編〜」は8月17日〜18日頃投稿予定です。次回もどうぞよろしくお願い致します。
【改稿履歴】
改稿履歴は全て誤字脱字等や細部表現の訂正です。
過去話も誤字脱字を見つけ次第、訂正しています。
内容は全く変わっていませんので御安心ください。
(いつもたくさんの誤字脱字ばかりで、すみません)




