第86話 霧人 〜中編〜
次回予告では今回は「後編」となっていましたが、長くなったので二つに分けて、「中編」としました。
後編も明日明後日には投稿する予定です。
【登場人物紹介】
不知火綾麿━━━━
従三位中将。帝と日本を守る『六歌戦』の一人。謎の妖刀『村雨』を時の帝から拝領し、御所警備の西番を任されている。村雨の真刃と鞘刃を使った不知火二刀流の使い手。江戸徳川政権を激しく憎み、鎌足を快く思っていない。昨晩起きた蒼鬼と紅鬼の御所侵攻を退ける。
伊賀の鎌足━━━━
江戸城の公儀御庭番伊賀組の小頭の女忍。伊賀流鎖鎌の使い手。七十年前に鬼を滅した伝説の刀『鬼切丸』を手に、鬼が現れた京都に援軍として派遣される。裏では極秘に朝廷の探索の密命も帯びる。少将の麒麟との戦いで手傷を負うが、美桜の看病を受け、元気に回復中?
美桜━━━━
京都御所を訪れた鎌足が出会った、桜色の髪飾りと着物の可愛い少女。鎌足とは歳も近く友達だと思っている。怪我をした鎌足を看病介抱する。命の恩人、新しい中納言に就任する鷹乃宮霧人に密かな想いを寄せる。
━━━━”あまね“⋯⋯自らそう名乗った謎の少女は、驚き怯える櫻に向け、無垢な笑みを浮かべていた。
その笑みからは悪意や邪念は微塵も感じられない。
得体のしれない”何か“魔が憑依したような占術の時の顔とは打って変わって、年相応の無邪気な笑顔だった。
しかしその幼い口から告げられたのは、見た目からは想像もつかないような悍ましい予言。
⋯⋯死、⋯⋯ばらばら、⋯⋯真っ赤。
誰のことを、何を、言っているのかはわからない。
しかし明らかに誰か“人”の死や破滅を連想させる言葉に、告げられた側の櫻が今にも泣き出しそうになった。
⋯⋯その時。
救いを求めるような櫻の潤んだ目に飛び込んできたのは、廊下の門を曲がって現れた二つの人影。
美桜と綾麿の姿だった。
「⋯⋯あ、櫻ちゃん、こんな所に居たの? 探したわ」
何も知らない美桜が櫻に微笑みかける。
そして縁側の櫻に向かって手を振った。
「⋯⋯っ、お姉ちゃん!」
美桜が言葉を言い終える前だった。
櫻は駆け出していた。
そして感情に任せて、美桜の懐に飛び込んだ。
式典に出るために整えた冠はころころと乾いた地を転がり、美桜に抱きついた櫻の手は小刻みに震えていた。
「⋯⋯ど、どうしたの? 櫻ちゃん?」
「⋯⋯あの子が」
「あの子?」
櫻は美桜の着物に顔を埋めたまま、ほんの少しだけ後ろを振り返る。
そして震える指で恐る恐る中庭を指し示した。
美桜と綾麿の視線が動く。
⋯⋯その中庭にはあの少女。
綾麿と美桜が急に現れても、この謎の少女の様子は先程から何も変わらない。
櫻のお気に入りの赤い鞠を両掌の上に乗せ、美桜と櫻の方をじっと見つめながら親しげに微笑み続けていた。
「⋯⋯わ、わああっ」
すぐに美桜の着物へと顔を埋め直した櫻は、美桜の傍から離れようとしない。
少女を頑なに拒絶するように、美桜の袖や帯の端をぎゅっと固く握りしめていた。
普段とはまるで違う行動や表情を見せる櫻に、美桜も戸惑いを隠せない。
それでも櫻の心が少しでも落ち着くようにと思い、美桜は冠が取れて乱れた櫻の髪を優しく撫でながら、出来る限りの優しく穏やかな声で問いかけた。
「⋯⋯あの子と鞠で遊んでいたのね。どうしちゃったの? 喧嘩でもしたの?」
「⋯⋯違うよ、遊んでない。あの子とは遊びたくない」
「⋯⋯どうして? 可愛らしい子じゃない? 歳も同じくらいだし、一緒に遊んであげたら?」
「⋯⋯あの子、こわい」
「⋯⋯え?」
櫻の顔が再び陰影を纏った、その時。
子供の喧嘩には興味が無いのか、何故か押し黙って静観している綾麿の背後で、結んだ髪の毛の束がひらりと揺らめいた。
「⋯⋯にひひ」
そして櫻の耳に確かに聞こえたのは、何処かで聞いたことのある特徴的な笑い声。
櫻がその正体に気付いた次の瞬間、綾麿の背後から、その髪と声の主がひょっこりと顔を出した。
「⋯⋯へへ、櫻ちゃん、久しぶり!」
満面笑顔の鎌足だった。
「あっ! 鎌足さんだ!」
突然に訪れた、予想外の再会だった。
どんよりと曇り空だった櫻の顔は、雲間から突然に陽の光が差したように、明るさを取り戻していた。
櫻は今度は鎌足の元へ駆け寄り、そして美桜以上に思い切り鎌足に抱きついていた。
「⋯⋯わっ、な、何だ、何だ、一体どうしたんだ?」
「⋯⋯こわい。こわい子、悪い子がいるんだ」
必死に恐怖を訴える櫻が鎌足を見上げる。
その櫻の目に、改めて鎌足の左目や左頬の痛々しい傷が飛び込んできた。
「⋯⋯あ、鎌足姉ちゃん? ⋯⋯えっと、何か顔が、左の方が凄く腫れてるよ⋯⋯? 大丈夫?」
「⋯⋯え、あ、こ、これ? ははは、大丈夫、大丈夫。(うぅっ、痛い。強く抱きつかれると胸の傷が⋯⋯)」
抱きつかれた鎌足も美桜と考えは同じだった。
数日前とはまるで違う櫻の表情。
経緯はよく分からないものの、櫻にこれ以上の不安を与えないようにしなければいけない。
そう直感的に感じた鎌足は、込み上げる痛みを必死に堪えながら、ぎこちない最高の作り笑顔を見せていた。
「良かったわね、櫻ちゃん。鎌足さんにまた会えて。⋯⋯うふふ、少しは元気を取り戻したみたい」
いつもの櫻を僅かでも見ることができた美桜は、とりあえずはほっと胸を撫で下ろしていた。
しかし、どうしても先程の櫻の言葉が気になって仕方がない。
美桜はもう一度視線を中庭の方へ向け、謎の少女の姿を瞳に映した。
「⋯⋯こわい? あんなに可愛いのに。何かの見間違いとかかな? ⋯⋯でも、あの子、確かに見かけない顔。何処の誰かしら」
そして記憶を探るように首を傾げる。
「⋯⋯⋯」
そんな美桜の動きに追随するように、綾麿もその少女に目を送っていた。
しかしその目は顔や手の鞠ではなく、少女が纏っている不思議な儀式用の白い衣や冠に向けられていた。
「⋯⋯あの衣は」
綾麿が呟く。
二つの疑念の視線に気付いた少女が、綾麿と美桜に微笑み返した。
⋯⋯その時。
美桜たちが向かっていた紫宸殿へと繋がる廊下。
その反対側から、綾麿や鎌足たちの居る此方に向かって歩いてくる、二つの人影があった。
その足音に気付いた途端、少女の視線と笑顔は綾麿たちから離れ、その二つの人影へと向く。
そして瞳を輝かせて、嬉しそうに呟いた。
「⋯⋯あ! おやかたさま」
しかし表情が急変したのはこの少女だけではない。
(⋯⋯あ、⋯⋯あれは)
何故か美桜も同じだった。
見るからに頬を赤らめ、顔も少し俯き気味で恥ずかしそうにしている。
そして半ば無意識で、美桜は吐息混じりの小さな声で呟いた。
「⋯⋯運命の、⋯⋯赤い糸」
「⋯⋯え?」
すぐ近くに居た鎌足の耳だけが、その美桜の囁きを拾っていた。
聞き覚えのある”赤い糸“という言葉。
咄嗟に反応した鎌足が、美桜の方を振り返る。
そして美桜の視線の先を追いかけるように、鎌足の目もまた、悠然と並び歩いてくる二人を捉えていた。
烏帽子を被っていることから、公家であることはまず間違い無い。
しかし二人とも、鎌足が今まで見たことのない不思議な白い衣を纏っていた。
全身から放たれる高貴さと、自信に満ちた表情が印象的な前を歩く男は、歳はまだ相当に若い。
綾麿と同じ、二十代前半から半ばくらいだろう。
一言二言で形容するならば、“美しく凛々しい”。
そんな表現が似合う公家だった。
金色の刺繍が施された白衣。
五芒星の金色の丸紋の飾られた烏帽子。
背中でひとつ結びにした長髪の束が颯爽と風に靡き、その結んだ髪や前髪の中には、魅惑的な黒に加えて所々に青、赤、黄、白の四色に染まった部分も見える。
加えて腰に差したきらびやかで豪華な金色の宝剣からは、この男の格式や権威の高さも垣間見えた。
落ち着いた高貴さと知的さ、そして洒落た優雅さをも纏うその表情と佇まいは、何処か現実離れした独特の妖気すら醸し出している。
そしてその隣、向かって右を歩くもう一人の公家は、前を歩く男同様にまだ二十代前半に見えた。
⋯⋯立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花。
そんな巷の流行り言葉がそのまま当てはまるような、白拍子や舞台役者に見えるくらいの”華“と”美“を備えた、おっとりと物静かな雰囲気が漂う女性だった。
銀色の淑やかな刺繍が施された白衣に、靭やかにすらりとした細身。
公家特有とも言える、太い殿上眉。
烏帽子から伸びる、長く艶のある黒髪。
そしてそんな黒髪に映える、青、赤、黄、白、黒の五色の色とりどりの花の髪飾り。
そのどれもが華やかで目を引く。
麒麟と同じような白鞘の刀を腰に差しているが、その刀の装飾の豪華さや漂う純白の気品は、麒麟のありきたりな外見の模造の白鞘とは比べ物にならない。
そんな二人も中庭に少女の姿を捉えると、目で合図を送るように爽やかに微笑んだ。
少女は鞠を手にしたまま、先程”おやかたさま“と口にした前を歩く凛々しい男の方へと、駆け寄っていく。
男は腰を沈めると、少女と目の高さを合わせて優しく声をかけた。
「⋯⋯天音、物珍しさは分かるが、あまり御所内を動き回っては駄目だぞ。迷子になる」
「まいご、なった」
「⋯⋯だから言っただろう。よいな、二度と迷子にはならぬよう、この新しい住処、京御所に早く慣れるのだ」
「はあい」
「⋯⋯ん、おや? その鞠はどうした?」
少女の掌の中の鞠の存在に男が気付く。
少女は櫻や美桜の方を指差して答えた。
「⋯⋯いっしょに、あそんでた」
「⋯⋯ほう?」
男がその指の先に視線を送る。
その目に真っ先に飛び込んだのは、綾麿の姿だった。
綾麿と男の目が合う。
この時。
男の口元には、少女に向けていた優しく涼やかな微笑みとはまるで違う、別の妖しい綻びが浮かんでいた。
「⋯⋯これはこれは。誰かと思えば。お久しぶりです。不知火中将、綾麿殿」
「ああ⋯⋯、久しぶりだな。霧人」
この時、綾麿が口にした“霧人”の呼び名。
鎌足はその名前に覚えがあった。
(⋯⋯ん? この二人は知り合い? ⋯⋯ん、ん? 待てよ、今、霧人と言ったか?)
鎌足が横目で美桜を見る。
美桜は明らかに動揺していた。
綾麿の陰に隠れるようにして、その顔はほんのりと紅色に染まっている。
鈍感な鎌足とは言え、何となく状況は察することができた。
(⋯⋯ははーん)
美桜の着物の袖を引っ張った鎌足は、その耳元で問いただした。
「⋯⋯ねえねえ。美桜? さっき言っていた鷹乃宮陰陽頭霧人って、⋯⋯この人?」
「ひゃっ⋯⋯あわわわ」
美桜の反応は分かりやすかった。
鎌足の耳元で美桜もそっと囁き返した。
「そうです。あの御方が、陰陽師の方々が集う陰陽寮の長官をお務めになっている、鷹乃宮様。まだあんなにお若いのに、歴史上の伝説の陰陽師様たちをも凌ぐ、神力霊力を身につけている⋯⋯、そう皆に噂されているくらいの天才陰陽師様なんですよ」
「えっ、陰陽師って、あの、ただの紙を人に変えたり、空を飛んだり化け物を召喚したりする、あの陰陽師!?」
「⋯⋯ふふふ、鎌足さん、それはあくまで物語や昔話の世界のお話です。確かに結界を張ったり、特別な神力を求められる時もあるんだけど、実際は天文学の研究や暦の作成、祭祀の際の吉凶の占術が主な御仕事なのよ」
「何だ、そうなのか、へぇ⋯⋯」
「でもね、あの鷹乃宮様はね、今まで朝廷に仕えてきた”文“を重視する陰陽師様たちとは違って、”武“にも力を入れているの。私も詳しくは知らないんだけど、⋯⋯陰陽道と剣術を組み合わせた、新たな流派、御所防衛の術式。その開祖である上に、更に日々その剣技を研鑽されているそうなの」
「わあ、なるほど。それで剣の腕の方も超一流なのか。新しい流派、陰陽道と剣術か。凄くかっこいいなあ、私の美桜を惚れさせるだけのことはあるよ、うん。⋯⋯にひひ、これは応援しがいがあるぞ」
「わ、ちょ、ちょっと! 鎌足さん、からかうのは止めてください⋯⋯」
美桜は頬を紅潮させ、困ったように即答する。
しかし満更ではなさそうだった。
そんな鎌足や美桜の恋話には目もくれず、綾麿は霧人に向かって淡々と語りかけていた。
「⋯⋯霧人よ、霊山の山中の陰陽寮に籠もり、鬼を封じる術を探究する役目を負っていたはずの御主が、まさか従三位中納言への一気の昇進が叶うとはな⋯⋯、聞いた時はいささか驚いたぞ、大きな後ろ盾でもできたか」
「どうやら綾麿殿は、陰陽頭の私率いる陰陽衆が、この京都御所内、警備にまで台頭してくるとは思いもよらなかったと見えますね⋯⋯、此度の御所の不手際と惨事が憂慮され、『武だけではなく、文武の知をもって鬼を鎮め、封じよ』との諸大臣殿たちの意向で、我々が呼ばれたのです。後ろ盾などはありませんよ。⋯⋯そういう由にての事、これからは綾麿殿ら武官や警備の皆々様には、微力ながら我ら陰陽衆もお力添え致しまする」
「⋯⋯⋯⋯」
「⋯⋯っと、私としたことが。今しがた”不手際“と申しましたが、それは綾麿殿では無く、鎌足殿という江戸の援軍の御方が起こした不手際でしたね。⋯⋯ふふふ、綾麿殿の落ち度ではなかった、失礼致しました。⋯⋯そう、江戸の援軍と言えば、昨日から今日に会合式典が延びたのも、その鎌足殿の不手際や揉め事が原因とか」
「⋯⋯すみません、ここに居ます。不手際の張本人が」
霧人の言葉に続けるようにして、鎌足が申し訳なさそうに、綾麿の陰から顔を覗かせた。
「⋯⋯おやおや、これは、まさか、御一緒でしたか。重ねて失礼を。悪気はない故、どうか許して頂きたい」
そんな唐突に現れた鎌足にも、霧人は爽やかな笑みを浮かべる。
そして身分が遥かに下の鎌足に対しても頭を下げた。
御所の公家たちの不遜な態度を、この数日で鎌足は嫌という程に知っている。
そんな鎌足にとって、この霧人の対応は、まさに聖人君子のように映っていた。
(わぁ、何てできた人なんだ。生意気な綾麿とは全然違う。これは美桜が好きになるのが分かるよ。うんうん)
鎌足は腕組みをしながら、隣の綾麿をちらちらと見つめていた。
綾麿の今までの言葉を思い出しながら、心の中で綾麿と霧人の二人を比較する。
そして霧人に軍配を上げ、何度も何度も頷く。
そんな鎌足の自問自答の動きや表情を、霧人の足元に寄り添う天音は怪訝そうにじっと見つめている。
そして鎌足の顔の腫れを指差して呟いた。
「おやかたさま、みてみて、かお、ぼこぼこ、⋯⋯まかふしぎ、⋯⋯しびとが、うごいてる」
(⋯⋯ふぐぅっ!?)
死人扱いをされる程に、鎌足の左頬や左目は腫れていたらしい。
鎌足が心の中で握り拳を作る。
そして湧き上がる感情全てを、苦笑いで圧し殺した。
(⋯⋯お、落ち着け。落ち着くんだ、怒るな。相手は子供だ⋯⋯。しかも美桜の想い人と深い関係のある子みたいだ。多少の暴言、子供の戯言は我慢しろ、鎌足)⋯⋯
⋯⋯「⋯⋯ん? おや、其処に居るのは、もしかして美桜姫様ではないですか?」
鎌足が怒りを堪えて顔を紅潮させる中。
綾麿の陰に隠れて赤面する美桜の存在に気付いた霧人は、ふわりと白衣の袖を靡かせていた。
綾麿の横を抜け、美桜のすぐ前まで近付く。
手を伸ばせば霧人の優しい笑顔に触れることができる程に今、霧人と美桜、二人の距離は縮まっていた。
今にも噴火するのではないかと思うくらい、顔を真っ赤にした美桜が、辿々しく初々しく口を開く。
「⋯⋯た、鷹乃宮様⋯⋯、お久しぶりで御座います、本日もご機嫌麗しく⋯⋯」
「⋯⋯やはり! 美桜姫様、お久しぶりです。いや⋯⋯すぐに姫と気付かない程、暫く見ぬ間に、これはまた一段と更にお美しくなられた御様子」
「まあ、そんな⋯⋯。あ、あの⋯⋯、鷹乃宮様、中納言就任、本当におめでとうございます。⋯⋯私、自分の事の様に嬉しいです。中納言様としてこの御所に鷹乃宮様が常駐して頂けたら、どんなに心強いことか⋯⋯。あの⋯⋯、これからは今までよりも数多くお会いできたりするのでしょうか?」
美桜の言葉の間、霧人は美桜の瞳をずっと真っすぐに見つめていた。
そして甘く優しい声で答えを返した。
「今日の式典が終われば一旦は陰陽寮へ戻りますが、それは御所常駐への用意を整えるため。十日もすればまたこの御所に戻って参ります。暫くは内裏と陰陽寮を行き来するかもしれませんが、それでもきっとこれまで以上に美桜姫様とはお会いできましょう」
「本当ですか。⋯⋯嬉しい」
⋯⋯御所常駐。
⋯⋯これまで以上に会える。
そんな霧人の返事に美桜の表情が今日一番に輝いた。
うれしい。
それはたった四文字の返す言葉。
姫という立場を自覚しているのか、口調は遠慮がちに穏やかだったが、その四文字の響きには溢れんばかりの幸せが滲んでいる。
霧人に秘めた特別な想いを隠す、そんな美桜の乙女心が鎌足には垣間見えていた。
「⋯⋯あの、鷹乃宮様、あと、その可愛らしい子は?」
美桜が目線を下げる。
「⋯⋯ああ、天音ですか。この子は物心が付きし頃から占術に優れ、それを気味悪がった親に捨てられてしまった孤児なのです。神仏の御導きによる縁がありまして、我ら陰陽寮にて引き取り、妹のように思いながら世話をしているのですよ」
「まあ、なんとお優しい。流石は鷹乃宮様ですわ。⋯⋯ふふ、自己紹介がまだだったわね。私は美桜よ。よろしくね、天音ちゃん」
「よろしく、みお」
美桜は天音に優しく微笑む。
天音もまたそんな美桜に可愛く微笑み返した。
「櫻ちゃん? 聞いたでしょ? 意地悪しちゃ駄目よ」
美桜の呼びかけにも櫻は答えない。
鎌足の後ろに隠れて、天音の方は見ようともしない。
その時、鎌足や美桜たちにそっと近付く者があった。
それは今まで黙って佇んでいた、もう一人の若く美しい女性の公家だった。
「陰陽頭様。天音も見つけましたし、そろそろ式典の束帯に着替えなければいけない時間かと⋯⋯」
「そうだな、もう頃合いか、樟羽」
”樟羽“と呼ばれたその女性は、美しい見た目からの想像と違わず、穏やかでおっとりとした透き通るような声をしていた。
間近で見るその顔や黒髪は、ただただ“美しい”と言うより他は無く、鎌足も思わず感嘆の溜め息を漏らす程だった。
鎌足が心配そうに美桜の耳元で呟く。
「⋯⋯あの女の人、綺麗だよね。あの人も陰陽師かな? 美男美女だよ、美桜。心配じゃない? あの女の人に鷹乃宮様を取られちゃうかも、って」
「⋯⋯ふふふ、鎌足さん、大丈夫ですよ」
「⋯⋯え? 何で?」
「だって、あの樟羽様は、殿方よ」
「⋯⋯ふーん、そうなんだ。⋯⋯なら大丈夫だよね⋯⋯って⋯⋯⋯⋯⋯えええええええええええええええっ!?」
思わず大きな声が出た。
美桜は笑い、綾麿は怪訝そうに睨み、そして櫻は心配そうに鎌足を見つめている。
「御名前を春日目樟羽様、と言ってね。春日目様も高名な陰陽師よ。陰陽寮で陰陽助って役職を務められていて、陰陽頭の鷹乃宮様に次いで偉い御方なのよ。⋯⋯そして新しい少納言様でもあるの」
「⋯⋯ふええええ、そうなんだ。新しい少納言様? ⋯⋯陰陽師、陰陽寮って、何か凄いなああぁぁぁ」
驚きで目が点になっている鎌足と、”五月蝿い“とばかりに鎌足を睨む綾麿。
そんな二人を他所に、霧人が白衣を翻す。
「⋯⋯では。我々は先に紫宸殿に失礼致します。美桜姫、また後日改めてゆっくりと⋯⋯」
「は、はい。⋯⋯ぜひまた、必ずや」
最後まで美桜は赤面していた。
そんな美桜の隣で天音はまだ櫻の鞠を持っている。
その鞠に気付いた樟羽は、天音の肩に手を置きながら優しく穏やかに声をかけた。
「天音? その鞠は返さないといけませんよ」
「⋯⋯うん、くずは⋯⋯、まり、かえす」
櫻のお気に入りの鞠だが、天音もこの赤い鞠が余程気に入っていたらしい。
残念そうに呟くと、鎌足の隣の櫻へと近寄っていく。
そしておずおずと鞠を差し出そうとした。
「ひいっ⋯⋯」
あの占いの光景や言葉を思い出した櫻の顔が、一瞬にして怯えた表情に戻る。
差し出された天音の手を弾き、鎌足の背中に隠れ直すと、震えながら声を絞り出した。
「いらない⋯⋯、あげる、いらない」
冷たく突き放すような言葉だった。
転がっていく鞠を見ながら、天音は目を丸くして驚いた顔をしている。
「⋯⋯こ、こら、櫻ちゃん! 何て酷いことを⋯⋯、天音ちゃんに謝らなきゃ駄目じゃない」
「嫌だ、この子には謝らないっ、鞠もいらないっ」
美桜が慌てて天音と樟羽の方へと向き直り、その場を取り繕ろう。
「⋯⋯あ、あの、違うんです、この子、悪気はなくて、あの、大人の会合に出るの慣れていなくて⋯⋯、緊張してるんです。普段はこうじゃないんですけど⋯⋯。失礼は本当にごめんなさい。その鞠はどうか持っていってください。天音ちゃんの遊び道具として使ってください」
そして申し訳なさそうに、櫻の代わりに深々と頭を下げた。
転がった鞠を樟羽が拾い上げる。
樟羽は鞠の汚れを払い、天音の前に差し出すと、穏やかな笑みを浮かべながら優しく囁いた。
「⋯⋯聞きましたね? 折角です。頂いておきなさい、天音。大事にするんですよ」
「うん、もらう、ありがとう⋯⋯」
天音は鞠をもう一度両手の掌の上に大事そうに乗せ、そして無邪気に嬉しそうに笑っていた。
⋯⋯この時。
この一連の流れを、不可解な妖しい薄ら笑みを浮かべながら、眺めている者が在った。
霧人である。
その霧人の隣に突然、綾麿の束帯が翻る。
「⋯⋯⋯⋯」
「⋯⋯⋯⋯」
再び交錯する二人。
霧人の鋭い流し目の視線が綾麿を捉える。
そんな霧人へ向け、綾麿が淡々と口を開く。
「⋯⋯先日の鬼の襲撃。霊山の頂にある陰陽寮からは、音は聞こえずとも、御所の火の手や大鳥居の倒壊は見えたはず。何故すぐに動かなかった?」
「⋯⋯確かその時刻は、陰陽衆たちと日本の行く末を占う大事な加持祈祷の真っ最中。⋯⋯私としたことが、外の様子までは気が回りませんでしたね」
「⋯⋯そうか、また“私としたことが”、か。⋯⋯未来を見通す霊力を持つ、千年に一人の天才陰陽師とまで謳われる御主にしては、失態ばかりだな? 霧人」
「⋯⋯何が言いたいのです? 綾麿殿」
「⋯⋯今日はこれまでとしておく。⋯⋯近い内、久々に我々六名の召集が決定した事、御主も既に大将殿より聞いているはずだ。⋯⋯その日その時、他の四人と共に、改めて今後の日本の行く末、そしてそなたの考えについて、じっくりと話を聞かせてもらう」
綾麿の言葉を冷静な表情で黙って聞き終えた霧人は、得意気に薄笑みを浮かべながら言葉を返した。
「⋯⋯ふふ、何を言い出すかと思えば。こちらこそお手柔らかに。此度の合議、全員の賛成を要する決まりの通り、“全会一致”となれば良いですね。⋯⋯ふむ、その御顔から推察するに、さぞや奇想天外な打開策を考えている御様子かと。綾麿殿の革新的な意見や思想が、”私も含め“、皆の前で通る事を、心より願っていますよ?」
そして霧人もその陰陽師の白衣を颯爽と翻すと、綾麿に背を向けて歩き出した。
⋯⋯⋯⋯霧人と樟羽、そして天音。
三人はそれぞれ三者三様に微笑みながら、この場を立ち去っていく。
遠ざかる二つの背中、一つの小さな背中。
この時、霧人と樟羽は廊下を歩きながら、綾麿たちには決して聞こえない程の声で密かに囁きあっていた。
(⋯⋯天音、櫻皇子、そして我々の出現、⋯⋯全てが偶然。奴等の目にはそう見えたはず。⋯⋯なぁ? 樟羽)
(間違い無く。何の不審も抱いてはおらぬでしょう)
(⋯⋯綾麿や鎌足とやらが現れたのは想定外だったが、まあよい。役者は多いほうが面白い。我々の仕掛けもまだまだ宵の口。本当の闇も、お愉しみもこれからだ)
(⋯⋯ええ)⋯⋯⋯⋯
⋯⋯⋯⋯「⋯⋯⋯⋯」
そんな三人の後ろ姿を、綾麿は黙って見つめていた。
霧人への仄かな恋心を抱く美桜もまた、霧人の去りゆく背中に見惚れて、幸せな余韻の中に浸っていた。
鎌足は美桜の横顔を眺めてみる。
恋がどんなものかを知らない鎌足には、美桜の全てがきらきらと輝いて見えた。
(恋⋯⋯かあ、どんなものなんだろう)
そんな鎌足や美桜の耳には、あの最後の綾麿と霧人の会話は届いていなかった。
鎌足の心の中は今、ただ一つの事だけ。
それだけを切に、心の底から祈っていた。
(⋯⋯どうか、どうか、美桜の運命の赤い糸。この恋が成就しますように⋯⋯)━━━━。
第86話も最後までお読み頂きありがとうございました。
ブックマーク、☆評価、感想等よろしくお願いします。その優しさが新たな創作の励みに繋がります(*^_^*)。
次回第87話「霧人〜後編〜」は、8月7日〜8日頃の投稿予定です。次回もどうぞよろしくお願い致します。
【改稿履歴】
改稿履歴は全て誤字脱字等や細部表現の訂正です。
過去話も誤字脱字を見つけ次第、訂正しています。
内容は全く変わっていませんので御安心ください。
(いつもたくさんの誤字脱字ばかりで、すみません)




