第82話 邂逅
【登場人物紹介】
不知火綾麿━━━━
従三位中将。帝と日本を守る『六歌戦』の一人。謎の妖刀『村雨』を時の帝から拝領し、御所警備の西番を任されている。村雨の真刃と鞘刃を使った不知火二刀流の使い手。江戸徳川政権を激しく憎み、鎌足を快く思っていない。昨晩起きた蒼鬼と紅鬼の御所侵攻を退ける。
樋ノ口麒麟━━━━
従四位下少将。白鞘の模造刀を手にする少年公家。天舞と呼ばれる剣技を操り、御所警備の北番と南番を務める。性格は執念深く自己中心的。人によって態度ががらりと変わる。些細な出来事から生じていた鎌足との確執は根深い。鎌足との戦いの不覚を綾麿に叱責される。
━━━━⋯⋯今を遡ること、三年。
この京都御所内では、その年もまた毎年恒例の春の宴席が開催されていた。
帝や関白をはじめとして左大臣以下、御所に出仕する全ての文官が一堂に会する。
桜を愛でながら春を祝う、習わしの祝賀の会だった。
そのめでたい宴席の場に、皆の楽しい笑い声を打ち消すような、公家や女官の悲鳴が唐突に木霊していた。
その悲鳴の先は上座のすぐ近くだった。
大臣たちが座している席の前。
その地だけが、春にはまるで似つかわしくない紅葉色の赤で染まっていた。
刀を固く握りしめたまま、一人の髭面の中年の男が、異形な出で立ちで倒れていた。
⋯⋯異形。
そう見えたのには理由があった。
一人なのに、身体が二つあったからだ。
即ちその男は、鋭い刀剣によって脳天から真っ向唐竹割りを受けたような状態で、真っ二つに斬り裂かれていたのである。
そしてその傍には、一人の少年が立っていた。
まだ齢十二、三歳だろう。
その中年男の異形の亡骸を、冷ややかな眼差しで見下ろしながら、無言のまま仁王立ちしている。
少年の手には、桜の木の枝。
しかしその掌に咲く桜は誰もが愛でる桃白ではない。
真っ赤な薔薇のような、生々しい鮮血の滴りに彩られていた。
少年は何処となくだが、微笑みを浮かべている。
そして沸き上がる何かの感情を、一人じっと噛み締めているようにも見えた。
ざわめく参列の公家たちや、上座周辺に続々と駆けつけてくる警備兵。
そんな焦燥の彼等にはまるで構うこと無く、この謎の少年に向けて仰々しく盛大な拍手を送る、赤ら顔の一人の公家の姿が在った。
それは上座の列席者の中でも、特に位階上位の高官。
久我右大臣だった。
右大臣の両手には酒の徳利と、なみなみと注がれた盃が握られている。
その顔色からも、既に相当に泥酔しているのは明らかだった。
「⋯⋯ひっく。⋯⋯ん、おうおう、本当に斬りよった。真っ二つ、文字通り真っ二つじゃあ」
右大臣は称賛の言葉を口にしながら、手にした盃の酒を一気に喉へと流し込んだ。
嬉々とした右大臣の拍手や酔いどれの笑顔とは裏腹に、血の惨劇を目の前に宴席の空気は凍えきっていた。
静まり返った宴席の中を、少年が歩き出す。
そして唯一自分を讃えてくれた右大臣のすぐ目の前に近寄ると、礼を尽くすようにゆっくりと跪いた。
「おお、よしよし、天晴天晴。約束通り帝の御側衆、従六位侍従に取り立てて進ぜよう」
「⋯⋯はっ。ありがたき幸せ。久我右大臣様」
両膝を突いた少年は、地に頭を擦り付けるようにして右大臣に平伏していた。
そんな少年を改めて讃えるように、右大臣は再び盛大な拍手を送る。
沈黙の宴席の中、鳴り止まない右大臣の一人拍手。
初対面にも関わらず、度を過ぎている主従の光景。
上座だけ、右大臣だけが、空気を異にしていた。
そんな怪訝か光景は、参列している公家たちの“ひそひそ話”の格好の的となっていた。
(御帝や関白殿たちが来賓の見送りに退席した途端に、この乱痴気じゃ。右大臣殿はほんに酒癖の悪い御方じゃのう。こうなっては手がつけられぬぞ)
(⋯⋯しかし事の経緯はよく見てはおらなんだが、あれは何事ぞ? 余興にしては酷すぎる。桜吹雪に血飛沫とは。おうおう、折角の酒が不味くなったでおじゃる)
(剣舞の余興で呼ばれた、師匠と弟子だそうじゃ。それにしてものう。自らの剣の師をあんな桜の枝で真っ二つとは⋯⋯。まさに鬼じゃ。鬼の強さじゃ。春の香りに誘われて、子鬼が迷い出たのじゃ。⋯⋯おお、怖い怖い)━━━━。
━━━━この時。
離れの控えの間では、笛の余興の準備をする二人の男の姿が在った。
異なる二つの笛の音色。
落ち着いた優しい響きと、静の中に動を感じる不思議な響き。
異なる旋律が絡み合い、心地良く、厳かに春を纏う。
宴席の喧騒を離れて響くこの澄んだ音色は、桜の枝の鶯の鳴き声とも重なりながら、穏やかな刻の流れをひっそりと謳っていた。
そんな笛の音が、突然に止まる。
刻の流れを元に戻し、控えの間に吐息も荒く駆け込んできたのは、伝達役を担う警備兵だった。
「⋯⋯少将綾麿様! 大変です! 此度剣舞の余興に呼ばれた剣客が一名、斬られ、落命⋯⋯!」
少将。
警備兵はそう口にした。
笛を吹いていた二人の男。
それは三年前、まだ少将だった頃の“綾麿”と、あの謎の男”青龍“だった。
篠笛を唇から離した綾麿が、背中で報告を聞く。
その隣では龍笛を手に、青龍が静かに座していた。
綾麿がゆっくりと警備兵を振り返る。
「⋯⋯事の詳細は?」
その声は笛の音と同じく、冷静で落ち着いていた。
「はっ⋯⋯、此度の宴席に呼ばれた天衣無縫流とかいう流派の、いかにも見窄らしい出で立ちの剣客とその弟子が、離れた場から刀の波動だけで桜の枝を斬るという奇怪な芸を見せましたところ、酒に酔いました右大臣殿が、『この折れた桜の枝で師弟同士で斬り合ってみろ、相手を殺し勝った方を御側衆に取り立ててやる』などと戯れ言を申しまして、その言葉を一人が真に受け⋯⋯」
驚いた青龍が間髪を入れずに問いかける。
「⋯⋯何と。桜の枝で人を斬れ、と⋯⋯? そんな事が名も無き一介の剣客に出来るとは思えませんが。⋯⋯で、師匠が己の出世のために弟子を斬ったのですね」
警備兵は首を激しく横に振った。
「いえ、それが⋯⋯、斬られたのは師匠の方です。しかもその弟子の少年は、刀は一切使わずに本当に桜の枝で、師匠の男を一刀両断。頭から真っ二つに⋯⋯」
「なんと⋯⋯! 弟子が⋯⋯、しかも少年とは」
「はっ、まだあどけなさ残る齢十二、三の少年です」
青龍は隣の綾麿の顔を窺った。
「⋯⋯綾麿様、どうなされます? これは我々の篠笛と龍笛の響演どころではなくなりましたね」
綾麿は黙って目を閉じ、警備兵の話を聞き入っていた。
そしてほんの少し間を置いてから、ゆっくりと目を開き、淡々と呟いた。
「⋯⋯剣の才能に溢れた少年か。⋯⋯来たるべき戦いに使えるかもしれん。これも何かの縁。一度会ってみるとしよう」━━━━。
━━━━右大臣はとにかく上機嫌だった。
酒を次から次へと胃に流し込み、酔いによる増長の度は増すばかりだった。
「⋯⋯もう女や雅楽はよい、いらぬいらぬわ! ⋯⋯誰か! この鬼神のように強い子供を打ち負かす者はおらんのかや! この子供は見ての通り、小汚く見窄らしい衣。明らかに腹を空かせた貧乏の極致。しかも桜の枝しか持っておらんのだぞ? ⋯⋯そうや、何なら真剣で立ち向かってもよい、のう? 構わぬな? ⋯⋯っと、名前は⋯⋯、はて、何じゃったかな」
「麒麟⋯⋯、に御座います」
「⋯⋯麒麟! あの伝説の霊獣の麒麟と同じ名か! ほほほ⋯⋯、名前負けにも程があるのう。⋯⋯こんな小さい姿形をして、麒麟かや? ⋯⋯ほっほっほ、愉快愉快」
「⋯⋯勿論、相手は真剣でも構いません。貧しく卑しい私は、この枝桜の美しさを身に纏えるだけで十分です」
「⋯⋯ほほほ、ふはっははは! 聞いたか各々方! この媚び諂いながらの、謙虚な自信。下々の者の鑑じゃ! ⋯⋯どうだ? 誰も居らぬのか!? ほんに臆病な者ばかりじゃのう。情けないことじゃ。ほっほっほっほ⋯⋯」
触らぬ神に何とやら、だった。
(⋯⋯我等は武官ではない、文官ぞ。分かっておってからに。そんな危ない真似、麿たちに出来るはずがない)
(⋯⋯麿は真剣はおろか、笏よりも重たいものなど、持ったことはおじゃらぬよ)
(⋯⋯ああ、くわばら、くわばら。見て見ぬふり、聞かぬふりじゃ。酔いが覚めるまでの辛抱じゃ)
公家たちの誰もが俯いていた。
右大臣や少年から目線を外し、愛想笑いをしていた。
「⋯⋯ひっく、⋯⋯だらしの無い奴等よのぉ」
右大臣が呆れ顔で呟いた、その時。
居並ぶ公家たちの末席の向こう。
臨時の衝立の壁を除け、宴席に向かって歩いてくる二つの人影が見えた。
その人影のうち一人は、左右に分かれた宴席の真ん中を大胆にも通り抜け、そのまま右大臣と麒麟の前に悠然と歩み出た。
そして右大臣に向けて、凛とした言葉を告げた。
「⋯⋯右大臣殿。そのお相手、麿が相努めましょう」
それは左手に篠笛を手にした、綾麿だった。
「おお、少将が相手をか? これは面白い!」
思わぬ大物の参戦に右大臣が歓喜する。
一方、麒麟も若くても武に生きてきた者。
相手の剣氣や闘気を察知する能力には長けていた。
目の前でただならない氣を放っている、この男。
少将と呼ばれた公家。
恐らくは武官の何者かなのだろうが、その素性が気になって仕方がない。
麒麟はすぐさま右大臣に問いかけた。
「⋯⋯右大臣様。⋯⋯あの男は? 何者ですか?」
そんな麒麟に右大臣が耳打ちする。
「あの者は九条少将綾麿と言ってな、その名と剣の腕は、既に京都中に知れ渡っておる。その強さと誉故に、年内には帝から禁忌の妖刀『村雨』を授かるのではないかとか、次の『六歌戦』に指名されるのは確実だとか、⋯⋯まぁ、武功の噂はとんと尽きぬ男じゃ」
そして最後に手にしていた扇子の面で、麒麟の頬を軽く叩いた。
「⋯⋯ほほほ、間違いなくこの御所内で一番強いぞな」
「⋯⋯少将、⋯⋯村雨、⋯⋯『六歌戦』⋯⋯」
綾麿を見上げながら、麒麟が呟く。
その目はまるで獣のように鋭かった。
そして何故か身体を小刻みに震わせ、歯軋りをしていた。
そんな麒麟の姿を一瞥した右大臣は、にやにやと酒臭い息を漂わせながら、麒麟に再び囁いた。
「何じゃ、悔しいのか。劣等感、というやつかの。⋯⋯ほほほほほほほ。御前の田舎臭い曲芸の剣。しかも枝桜で、あの手強い少将に勝てる自信があるか? ⋯⋯ん? もし勝てたならば、この久我右大臣の直属の配下に取り立ててやってもよい」
「⋯⋯え、ま、真ですか」
「小綺麗な衣を着て、美味い食べ物を毎日食べれることができるのだ。今まで貧乏な師匠の下、散々苦労をしてきたのじゃろう? ⋯⋯地位と名誉を勝ち取るのは今じゃ。⋯⋯のう? 霊獣の麒麟ではなく、ただの野良犬として産まれた、名前負けの小童、麒麟よ」
右大臣は麒麟の顔に唾を吐いた。
発破の意味合いもあったのかもしれない。
それとも、単なる酔いの悪態や悪ふざけの一つだったのかもしれない。
しかし麒麟はその唾を拭おうともせず、綾麿をただ真っすぐに睨み続けていた。
その瞳には激しい憎悪の炎が宿っていた。
「ありがたき幸せ⋯⋯。必ずあの公家の男を倒します。そしてその暁には、是非とも右大臣様の配下に」
右大臣に忠誠の一礼をした後、麒麟は音もなく立ち上がった。
その手には、まだ血の滴る桜の枝を握りしめている。
そして凄まじい殺気を放ちながら、綾麿と向かい合った。
「はじめまして。私は天衣無縫流、麒麟と言います」
「⋯⋯九条少将、綾麿だ」
「⋯⋯ふん、貴方は相当に強いらしいですね。位が高く人望があって、自信満々な顔⋯⋯か。⋯⋯私が一番嫌う人間の部類です。⋯⋯出世のため、師匠同様に、貴方には此処で死んで頂きます」
麒麟の得意気な宣戦布告が終える前だった。
綾麿はすぐ傍に真っ二つにされて横たわる、中年男の亡骸に目をやった。
亡骸の身体には、春風に散った桜の花弁が無数に降り注いでいた。
「⋯⋯そうか。その歳で天衣無縫流とやらを極め、更に師匠よりも高みを目指すつもりか。⋯⋯一つ聞こう、御主、父や母は居るのか? 兄妹は?」
綾麿の問いに、麒麟は他人事のように淡々と言葉を並べた。
「母は私を産んですぐに死にました。妹が二人いましたが、一人は飢えで死にました。もう一人は野盗に殺されました。残った父は男手一つで私を育ててくれましたが、その父も死にました」
「⋯⋯それでその後、剣の師匠に拾われていたのか」
「いえ。父は今しがた死にました。其処に斃れてます」
まさかの言葉だった。
まるで感情を感じないその言葉に、余興をけしかけた右大臣をはじめ、参列していた公家たちから一斉にどよめきが起きた。
「⋯⋯ッ! ⋯⋯こやつ、鬼畜か」
綾麿の後方、二人のやり取りを眺めていた青龍が狼狽した。
しかし綾麿は一言も発しない。
憐れみを感じる物悲しい視線だけを、麒麟に送り続けていた。
そんな綾麿の眼差しは、麒麟にとって不快以外の何物でもなかった。
沸き上がるのは、反吐が出る程の嫌悪感。
そして劣等感。
負の感情を振り払うように、麒麟は綾麿へと鮮血の桜の枝を翳していた。
「⋯⋯お喋りはもういいでしょう? ⋯⋯あれ、真剣はどうしました? 私みたいに貧しくて、刀も持てない買えない、ってわけじゃないでしょうに」
綾麿は刀を差していなかった。
左手に篠笛を持っているだけだった。
「⋯⋯麿はこれでよい。この笛で十分だ」
「⋯⋯なッ!? 笛で天衣無縫流と戦う⋯⋯、だと?」
淡々と話していた麒麟が、初めて動揺を見せた。
「麿にとっては、笛も鞘も、そして刃も、その実は変わらぬ。⋯⋯言うなれば麿の不知火流もまた、そなたの使う天衣無縫の流れを汲んでいるのかもしれんな」
綾麿は左手を右肩の位置にまで上げていく。
高々と構え直した綾麿の笛。
それは麒麟の目には、まるで本当の鞘のように、そして真剣のように、妖しく鋭く光り輝いて映っていた。
「⋯⋯麒麟とやら。もし麿が勝ち、その身が地に打ち据えられたなら、その時は御主、麿の直属の配下となれ」
「⋯⋯なッ!?」
今度は麒麟が驚く番だった。
綾麿の口から出た、まさかの言葉。
目を見開いて驚きの表情を浮かべる麒麟を横に、青龍は眉を顰めながら、思わず綾麿の傍へと歩み寄っていた。
「⋯⋯綾麿様。⋯⋯この麒麟とか申す者。私の占術の眼によれば、この後明らかに綾麿様や日本の災いの種になると思われます。この場で斬り捨ててしまった方がよいかと⋯⋯。今程の発言はどうか再考を⋯⋯」
青龍は珍しく厳しい表情を浮かべていた。
その言葉の意味。
それは綾麿も理解していた。
だが綾麿は涼やかに、その進言を一笑に付した。
「⋯⋯青龍よ、分かっている。九分九厘、そなたの申す通りだろう。だが死人をこれ以上無駄に増やすのではなく、一人の人間として残りの一厘に賭けてみたい。⋯⋯案ずるな。もし賭けが外れ、想いが届かなかったならば、その時は麿が責任を持って、この者を斬る故⋯⋯」
綾麿は改めて麒麟に向き直った。
「⋯⋯麒麟とやら。御主はまだ若い。改心の余地もあろう。後々に人になるか邪になるか。今は分からぬが、その天賦の才、此処で散らしてしまうのは惜しい⋯⋯」
“惜しい”、その言葉の後だった。
それまで冷静を貫いていた、麒麟を見つめる綾麿の瞳が、妖しい煌めきを放つ。
その瞳の変化に麒麟も当然に気付いていた。
まだ何一つ刃は交わしてはいない。
しかし綾麿から放たれる視線は、まるで見えない刃のような鋭さを秘めていた。
(⋯⋯気に食わない)
麒麟は明らかに苛立っていた。
「⋯⋯ッ!? さっきから黙って聞いていれば⋯⋯! 何をごちゃごちゃと言ってるんですか!」
青龍は呆れ顔だった。
軽く溜め息をつく。
しかしその声は、表情や吐息に反して穏やかだった。
「⋯⋯ふっ。⋯⋯綾麿様。⋯⋯分かりました。其処までの御覚悟ならば、もうお止め致しません」
「⋯⋯すまんな、青龍。麿の”気まぐれ“を許せ」
「やれやれ、綾麿様らしい。でも念のため⋯⋯、どうかお気をつけて。あの者の剣は今は紛う事無き邪剣故に」
「⋯⋯案ずるな。それに麿は今年の七夕に必ず迎えに行くと約束をした者が居るからな。此処ではまだ死ねん。もし約束を違えたら怖いからな」
「⋯⋯はは、確かに」
この状況下に於いても、綾麿と青龍は軽く目を合わせ、爽やかに涼やかに微笑んでいる。
そんな二人とは真逆に、麒麟だけは爽やか涼やかどころか、背中に恐れにも近い薄ら寒さすら感じていた。
綾麿から発する巨大な氣と妖しい瞳の力。
その鋭い圧を前に、麒麟は未だかつて味わったことのない戦慄を覚え、完全に飲まれていた。
「”気まぐれ“だとぉッ!? ⋯⋯それよりもこの凄まじいまでの剣氣⋯⋯、初めてだ⋯⋯、く、⋯⋯くそぉっ!」
「⋯⋯さあ、いつでも良い、かかってこい。⋯⋯一つ言っておくが、麿は強いぞ。⋯⋯そなたが今まで戦ってきた、どの者たちよりも、だ」
「⋯⋯うぐうぅうッ!?」
麒麟は焦っていた。
余裕を無くした心が、考えるよりも先に身体に命を下す。
急く心が求めるのは、この不快な圧を叩き潰すこと。
天舞の技を活かした先手必勝だけだった。
(⋯⋯潰す、潰してやる。その得意顔もその自信も。俺は出世するんだ、絶対に成り上がるんだ。⋯⋯そして今まで俺を見下して罵り笑ってきた奴等を、今度は俺が見下して罵って、心の底から嘲り笑ってやるんだ!!)
麒麟の想いが弾けた。
麒麟が攻撃に転じる。
桜の枝を持つ右手を撓らせた。
「⋯⋯喰らえ! 天舞麒麟剣、⋯⋯柘榴!!」
「⋯⋯真空の刃。⋯⋯鎌鼬の亜流か」
綾麿の目の前で煌めく、一筋の閃光。
しかしこの時、綾麿は避けるでもなく退くでもなく、ましてや飛ぶでもない、麒麟の想定外の動きを取った。
篠笛を持つその左手を撓らせ、麒麟と同様にまるで円を描くように回転させたのだ。
ただ唯一違ったのは、その回転の“向き”。
綾麿は麒麟とは逆回転となる、左回りに手首を撓らせていた。
「⋯⋯な、何故だ!? 天舞の刃が! どうしてあんな笛如きを削れない!? そればかりか否され弾かれている!?」
物理学的には、左回転の方が右回転よりも力が強いと言われている。
その理を綾麿は知ってか知らずか。
麒麟の手の右回転から放たれた鋭い刃の波動は、逆回転で左から渦を巻く綾麿の篠笛の、滑らかな流水のような動きを捉えきれない。
その全ての衝撃が、綾麿の左側へと弾かれていった。
「⋯⋯天舞の太刀筋、既に読めたり」
綾麿の口元が微かに動いた。
「⋯⋯くそぉっ!? ならば⋯⋯!」
そして麒麟が次の技に移ろうと、地を蹴り、空高くに飛び上がった⋯⋯。
⋯⋯その瞬間。
既に綾麿は、麒麟よりも高く天を舞っていた。
「⋯⋯あ」
地を蹴り、空を舞い、唸り声をあげた伝説の獣麒麟。
その麒麟の遥か頭上。
今、天高くを舞い、颯爽と両翼を羽ばたかせ、鋭い爪を煌めかせながら麒麟に襲いかかる、伝説の鳥鳳凰。
自分に向かって舞い降りる、袖を靡かせて篠笛を翳した綾麿の姿は、麒麟には確かにそう見えた。
「⋯⋯鳳凰が、⋯⋯羽ばたいている⋯⋯」
呆然と呟いたまま、空を見つめ続ける麒麟。
その右肩に向け、綾麿は篠笛での一撃を見舞っていた━━━━⋯⋯。
⋯⋯━━━━(あの時、肩の骨が砕けて、気付いたら俺は地に這いつくばって、泣き喚いていたっけか⋯⋯)
降りしきる大粒の雨の中。
傷ついた右腕を押さえて俯きながら、麒麟はふらふらと歩いていた。
ふと自分の右手、指先に視線を下ろす。
その視線の先は小刻みに震えていた。
(畜生ッ⋯⋯! まだあの眼にびびってるのか俺は!)
その麒麟の遥か後方。
雨に霞みながら、綾麿や美桜の姿が見える。
(⋯⋯くそっ! もう少し産まれる時が違っていれば⋯⋯! もう少し早く御所に入っていれば⋯⋯、そもそもあんな貧しい家に産まれなければ⋯⋯! 今頃は俺が中将や大将、いやそれ以上の地位に着いて、村雨も拝領して、そして映えある『六歌戦』にも選ばれていたはずなんだ⋯⋯、俺が、この俺が⋯⋯、畜生ッ!)
麒麟は邂逅のあの日と同じように激しく歯軋りする。
(俺は綾麿がいる限り、ずっと綾麿を妬み僻み恨み羨み、そして恐れながら生きるのか⋯⋯!? 麒麟は一生、鳳凰には届かないのか⋯⋯!?)
麒麟の脳裏に今、浮かぶもの。
それは綾麿の自信に満ちた笑み。
そして⋯⋯━━━━
━━━━⋯⋯(「そんな!? 記憶に無い、っていうのはどういうことですか!! 昨日、師匠を桜の枝で斬ることができたなら、帝の御側衆、従六位侍従に取り立ててくれる、って約束してくれたじゃないですかぁ!!』)
(『そんなことを言われてものう。記憶に無いものは記憶に無い。麿はな、酔っぱらっておったのじゃ。宴席に酔いの戯言は付き物じゃ』)
(『⋯⋯なッ!!!? ⋯⋯わ、私は実の父を斬ったのですよ!? それなのに⋯⋯、ッ、記憶が無いで済まされるなど納得がいきません!!』)
(『これ、身分をわきまえなさい。⋯⋯鏡を見よ。御前のような見窄らしい出で立ち、品の無い物言い、貧しく汚い溝の中にも等しい生まれで、内裏に入るなど。⋯⋯ほほほ、しかも従六位侍従などの位階を授かれるわけがなかろうて。⋯⋯おほほ、それにその痛々しい肩の傷よ。負け犬にはこの華々しい御所に居場所など無い』)
(『⋯⋯ッ!? 溝の中に等しい生まれだってぇ!?』)
(『⋯⋯なんじゃ、その目は。本当の野良犬みたいに噛みつきおって。犬なら犬らしく生きてみよ。尻尾を振って愛想よく近寄れば、野良犬とて思わぬ御馳走にありつける時もある。⋯⋯おほほほほ』)
(『⋯⋯ッ、だ、騙したな、よくも騙したなあぁ!!』)
(『人聞きの悪い。これ、警備兵よ。何を黙って見ている? この者を早くつまみ出せ。今日は刀も桜の枝も無い。あまり暴れるようならば咎人として牢に入れよ』)
(『⋯⋯ち、畜生!! 畜生ッ!! 離せ、離せよぉぉ!!』)
(『⋯⋯お待ちください、久我右大臣殿』)
(『⋯⋯ん? おぉ、少将、綾麿か。何ぞ用かな?)
(『⋯⋯しょ、少将!? ⋯⋯あや、まろ』)
(『⋯⋯無礼にも右大臣殿に罵声を浴びせしこの者。昨日、麿との約束、戦いの結果により、麿の直属の配下になることが決まっております。よってこの者の処分は、主である麿にお任せ頂きたい』)
(『⋯⋯ほほほ、約束とな。⋯⋯ほほ、そうか、よかろう。煮るなり焼くなり好きにしや。⋯⋯あまりにもしつこくてのぅ、はたはた困り果てておったのじゃ。⋯⋯ならば後は任せたぞ少将。麿はこれからまた宴席じゃ。春は良い。くれくれと鶯のように煩く鳴かずとも、酒が向こうからやって来ておじゃる。⋯⋯ではの』)
(『⋯⋯はっ、畏まりました』)
(『⋯⋯う⋯⋯ぁ⋯⋯何処、何処行くんだよ、⋯⋯戻れよ、帰ってこいよ。⋯⋯帰ってきてくれよ⋯⋯』)
(『⋯⋯麒麟とやら』)
(『⋯⋯っ! 何だよ、負けた俺を笑いに来たのかよ。それとも下働きとして雇って、俺が死ぬまでずっと蔑んだり罵ったりするつもりなのかよ⋯⋯、ふざけるな』)
(『⋯⋯話は最後まで聞け。麿は帝の護衛も務めていてな。丁度、剣腕のたつ補佐役を探していた所なのだ』)
(『⋯⋯だから、だから⋯⋯何だよ』)
(『帝の御側衆ではない。⋯⋯が、その少将補佐の位階は、従六位侍従。⋯⋯どうだ、引き受けてみたくはないか?』)
(『⋯⋯ッ!? ⋯⋯え⋯⋯わ、私に位階を!? 従六位侍従を!? ほ、本当ですか? あや⋯⋯いや、中将様!』)
(『⋯⋯ああ。麿は誰かとは違い、嘘は言わぬ。⋯⋯律令を逸脱した例外ではあるが、この抜擢、必ず通してやる。⋯⋯それならば御主の心も晴れよう』)
(『⋯⋯は、はい! もし、もしそのお話が許されるのならば、御言葉に甘えとう存じます!』)
(『⋯⋯よかろう。ただし』)
(『⋯⋯ただし?』)
(『⋯⋯何時か真に“選ばれし者”になるため、心正しき”人“としての徳を積め。そして今後は無益な殺生は二度とするな。⋯⋯そして、”来たるべき時“には、それこそ麿の手となり足となり、時には野良犬となってでも、その天舞の秘剣で存分に働いてもらう。⋯⋯良いな』)
(『⋯⋯っ! ⋯⋯き、来たるべき時? それは!?』)
(『⋯⋯今はまだ言えぬ。だが近い内にこの日本は大きく揺れ動く可能性がある。そのために麿は今、『六歌戦』にも打ち勝てる力や才を持つ仲間を、何人か集めている、⋯⋯とだけ言っておこう』)
(『⋯⋯⋯⋯』)
(『⋯⋯⋯⋯、麒麟よ、喉が渇いたか』)
(『⋯⋯は、はい?』)
(『⋯⋯御主、今。⋯⋯この場は適当に口裏を合わせ、位階を授かることができればそれでよい。後はどうとでもなる。約束など知ったことか。この綾麿にとりあえずは媚び諂い、日本と言う名の川の流れに乗って、何時かこの綾麿よりも高い地位に、上流に上り詰めてやる。そしていつか浴びるほどに日本の川の源泉を飲み、この喉の乾きを潤してやる。⋯⋯そう、考えたであろう?』)
(『⋯⋯え!?⋯⋯い、いえ、決してそのような事は』)
(『⋯⋯ふん、今はそれでもよい。それも織込み済で、麿は御主の剣腕と改心に賭けてみたのだ。⋯⋯だが』)
(『⋯⋯は、はは、⋯⋯だ、だが?』)
(『⋯⋯どうせなら右大臣殿の口にした、鬼神の“ような”強さではない。鬼神を遥かに”超える“力を身につけろ。⋯⋯そして力に見合う“心”もまた鍛えるのだ。そうでなくば、御主はこの先、麿の眼の光る日本では生き残れぬ。地獄の鬼にも、麿にも、⋯⋯決して勝てぬ!!』)
(『⋯⋯ッ!? ⋯⋯ぐ⋯⋯う⋯⋯ぅ⋯⋯ぅ⋯⋯』)⋯⋯━━━━
━━━━⋯⋯(⋯⋯あの眼。全てを見透かしているようなあの眼。⋯⋯ッ、綾麿の配下となったあの日あの時から、天舞の剣も更に磨いてもっと強くなった⋯⋯。綾麿の口添えで樋ノ口の家の養子にもなれた⋯⋯。あの時の綾麿と同じ少将の地位を得る事もできた⋯⋯。でも⋯⋯でも、それでもまだ俺の喉の渇きは潤わねえ!!)
麒麟の脳裏には、あの日の綾麿の眼差し、そして村雨とその刃に纏わりつく蒼白の焔が浮かんでいた。
(⋯⋯何が徳を積め、だ。何が無益な殺生はするな、だ。何が来たるべき時、だ。ふざけんな、俺は俺だ。麒麟だ。天賦の才をもって生まれた、”神“に選ばれし人間。⋯⋯天を自由に舞う霊獣の化身、麒麟なんだ!!)
しかし今、そんな綾麿と村雨の焔の残像を打ち消し吹き消すように、麒麟の心に巨大な風が巻き起こる。
風は触れるもの、何もかもを破壊していく。
御所も、京都も、日本も、そして麒麟の心に物悲しく薄暗く秘めていた、全ての靄も。
全てが一瞬で無に帰していた。
その風を巻き起こしたのは、一振りの刀。
それは昨日見たあの”閻魔刀“だった。
(⋯⋯違う。俺の心が望んでいた物は、地位や名誉とかそんな陳腐なものじゃない。やっと分かってきた。⋯⋯この日本で俺が真に望むのは、邪魔な何もかもを吹き飛ばす、あの絶大な力。鬼が秘めている魔性の強さだ!)
雷鳴が轟く。
雨の中、麒麟は垂れていた頭をゆっくりと上げる。
その顔は今まで邪な“何か”を決意していた。
そして妖しく禍々しく、⋯⋯微笑んだ。
(⋯⋯見てろ。今にこの日本の頂点も、そして姫、美桜様の心も、俺が必ず奪い取ってやる! 綾麿にも他の『六歌戦』にも、勿論鎌足にも邪魔はさせねえ。⋯⋯必ず、必ずこの日本を支配してやるからな!!)━━━━。
第82話も最後までお読み頂きありがとうございました。
3連休中に2話、出せればいいなと思っていたので、無事に投稿することができて良かったです。
ブックマーク、☆評価、感想等よろしくお願いします。その優しさが新たな創作の励みに繋がります(*^_^*)。
次回第83話「鎌足と美桜」は、7月24日〜26日頃の投稿予定です。次回もどうぞよろしくお願い致します。
【改稿履歴】
改稿履歴は全て誤字脱字等や細部表現の訂正です。
過去話も誤字脱字を見つけ次第、訂正しています。
内容は全く変わっていませんので御安心ください。
(いつもたくさんの誤字脱字ばかりで、すみません)
【その他】
↓フォロワー様に創作して頂いたオリジナルEDです!
ED①https://suno.com/s/UDlzMnlrwuPI3Apg
ED②https://suno.com/s/dKiO9ljefO0sG1RT
こちらも良かったらぜひ聴いてみてください♪
どちらもお気に入りです!ありがとうございます!




