第73話 幻惑
【登場人物紹介】
不知火綾麿━━━━
従三位中将。帝と日本を守る『六歌戦』の一人。謎の妖刀『村雨』を時の帝から拝領し、御所警備の西番を任されている。村雨の真刃と鞘刃を使った不知火二刀流の使い手。江戸徳川政権を激しく憎み、鎌足を快く思っていない。帝の命を守るため、清涼殿防衛に向かう。
伊賀の鎌足━━━━
江戸城の公儀御庭番伊賀組の小頭の女忍。伊賀流鎖鎌の使い手。七十年前に鬼を滅した伝説の刀『鬼切丸』を手に、鬼が現れた京都に援軍として派遣されるが、裏では朝廷の探索の密命も帯びる。帝の命を狙う鬼達の襲撃の中、綾麿が死んだと勘違いし、更なる闘志を燃やす。
樋ノ口麒麟━━━━
従四位下少将。紙垂付きの白鞘の刀を手にする少年公家。謎の剣技を操り、御所警備の北番と南番を務める。執念深く自己中心的かつ残虐な性格で、自分よりも位が下の者には容赦は無い。些細な出来事をきっかけに鎌足に因縁をつけ、暗殺のために御所にふらり現れる。
近衛兼季━━━━
従二位大将。武官最高位の大将として、清涼殿だけを警備する御帝親衛隊を指揮する。鞍馬一刀流の使い手で、性格はおおらかで実直。鎌足にも親しみを見せる。
蒼妖鬼━━━━
京都御所を襲撃する蒼鬼の修羅。『刀葉林』と呼ばれる刃の木の上で亡者を誘う、絶世の美女鬼。薙刀型の『妖凛刀』を操る。帝の命を狙い、御所内部に侵入中。
━━━━僅かに時を遡る。
⋯⋯まだ綾麿と紅閃鬼が戦闘真っ只中だった頃。
清涼殿最深部、長い回廊を抜けた先。
綾麿が戦う廊下と、帝の寝所である夜御殿とを繋ぐ、長い通路でのこと。
その通路の中間地点に当たる場の片隅に、まるで御所建屋の心臓の鼓動を確かめるように、壁に掌を付け、何かを探るような仕草をしている侵入者の姿が在った。
《⋯⋯うーん。この辺りも昔からの陰陽師の結界の名残がある。この残留の具合だと巨大な物体の召喚や操りは影響を受けそうね。刀葉林の召喚は難しいか》
⋯⋯蒼妖鬼だった。
《⋯⋯外より力はちょっと落ちちゃうけれど、妖凛刀と霞幻夢の派生技での仕掛けしかないわね。⋯⋯まあ、追いかけてくるのはどちらも男。決して妾には敵わない》
蒼妖鬼は何を思ったか、自身の唇を指でなぞった。
そして廊下に一定間隔で在する、一本の柱へと近付いていった。
指に付着した口紅。
その妖艶な赤で柱に梵字のような印をつけ、続けて吐息を吹きかけて念を込める。
息吹を受けた梵字は、一瞬だけ蒼く明るく煌めいたものの、すぐに壁に溶け込むように輝きを消していった。
その一連の何かの呪術的な動きは、一本の柱だけでは終わらない。
四箇所を線で結ぶと長方形を描くように、蒼妖鬼は全く同じ動きを、すぐ近くの三箇所の柱でも施していた。
謎の儀式の最後として、蒼妖鬼はこの四本の柱よりも先へと進んだ位置へと立つ。
そして妖凛刀の刃の反対側の先端、石突の部分でなぞるように床に再び梵字を描いた。
《⋯⋯うふふ。これでよし、⋯⋯と》
全てを終えた蒼妖鬼が微笑む。
《妾の仕掛けた罠。男ならば絶対に突破できなくてよ》
この時。
空を仰ぐことができない蒼妖鬼は、まだ気付いてはいなかった。
蒼鬼軍の生き残りが、蒼妖鬼ただ一鬼のみになっていたこと。
そして⋯⋯⋯⋯。
⋯⋯━━━━この京都御所に黒雲が近づいていた。
今、青龍が仰ぎ見る御所の空。
その空には今宵の十六夜の月と共に、既に多くの雲が集まってきていた。
しかしその群れは、今はまだ墨の色ではなく、何とか灰の色を保っている。
これも風水の何かの占術の一環なのか。
青龍は目を細め、何かの気配を感じ取るように、雲間の稲光を凝視していた。
そして目線をゆっくりと下げると、鎌足に向かって話かけた。
「⋯⋯鎌足殿。先程のお話であれば、たった今、帝は“紅鬼”に襲われている⋯⋯。そう申されましたね?」
「⋯⋯えっ、あ⋯⋯っ、は、はい⋯⋯」
共闘を呆気なく即座に断られた鎌足。
その頭はまだ動揺していた。
そんな中で急に振られた問いかけに、鎌足は一言二言返すのが精一杯だった。
青龍は今度は空を指差しながら、鎌足に語りかけた。
「⋯⋯空を見てください」
「⋯⋯えっ、空⋯⋯?」
鎌足もまた空を仰ぎ見る。
「⋯⋯空、っていきなり言われても。一体何があるんですか⋯⋯、鬼の蒼渦が一つに⋯⋯、えっ⋯⋯と、⋯⋯ん、あれ? ⋯⋯⋯⋯あっ」
その時、鎌足は思い出した。
御所を襲撃した蒼鬼軍と紅鬼軍。
⋯⋯そのどちらもが得体の知れない鬼の呪法によって、空に浮かぶ蒼紅の渦と命を連動させていることを。
鎌足は戦いに集中するがあまり、戦況を映す空の仰ぎ見ることも、その渦数を把握する余裕も失っていた。
そしてその連動すらもすっかり頭から飛んでいた。
「⋯⋯ない。⋯⋯紅の渦が! 紅の羅生門が、無い!?」
四十を超える蒼紅の羅生門邪道。
あれだけ夜空を我が物顔で蒼紅二色で染めていた怪異が今や、羅刹よりも一回り大きい修羅の蒼渦、鎌足の瞳に映るただ一つを残すのみとなっていた。
「⋯⋯ない、ない、ない。蒼の渦が一つしか無い! ⋯⋯あ、紅の渦が無いってことは⋯⋯!」
「⋯⋯そうです。私の占術であの蒼渦から噴き出す氣を読みました。あの渦には鬼たちの中で妖気を操ることに長けている者のみが使える、”邪道混命”と呼ばれる秘法が掛かっています。⋯⋯紅渦が消失した、これ即ち紅鬼軍の全滅を意味するはずでは?」
「⋯⋯じゃあ、あの紅閃鬼は消滅して、帝は無事、ってこと⋯⋯か。⋯⋯で、でも誰が!? ⋯⋯御帝親衛隊? でもいくら選りすぐりの人たちでも、あんな強い奴を相手にして、刀や槍が簡単に通用するとは思えな⋯⋯、あ」
鎌足が息を呑む。
続く言葉を理解している青龍が微笑みながら呟いた。
「だから言ったでしょう。あの御方は負けない、と」
「⋯⋯じゃあ、じゃあ! やっぱり綾麿は死んでないっていうこと!? ⋯⋯あいつ、ちゃんと生きていて、紅閃鬼を斃して、そして帝を守った、ってこと!?」
鎌足の呟きに頷く代わりに、青龍がもう一度微笑む。
それを見た鎌足の緊迫が、ゆっくりと解けていく。
「⋯⋯っ、帝。⋯⋯無事で良かった。⋯⋯あと⋯⋯、綾麿⋯⋯も、一応、良か⋯⋯、⋯⋯あ、ああっ!」
鎌足が突然に目を見開いた。
喉から舌にまで湧き上がっていた安堵の念は、すぐに胸の奥底に引っ込んでしまっていた。
鎌足は急いで近くの篝火の松明を手に取る。
そして高々と掲げると、慌てて小走りで駆け出した。
鎌足が松明で、庭園の随所を照らす。
既に完全に陽は落ちている。
満月を一日過ぎただけの月夜の晩。
通常よりも光はある。
しかし灰色の雲が鎌足の邪魔をする。
腕を前に伸ばして松明をいくら高くに掲げても、庭園の隅々までは肉眼では全てを確認できない。
それでも鎌足は人が闇の中に潜んでいそうな場所に出来る限り近づき、そして最後に改めて全方位をぐるりと見渡した。
「⋯⋯いない、いない、いない。”あいつ“がいない!」
鎌足の顔が曇っていく。
(⋯⋯しまった、紅閃鬼ばかりに気を取られすぎていた。大きな蒼渦が一つ残っている。と言うことは⋯⋯)
空に残る、ただ一つの蒼渦。
鎌足は今、その蒼渦と繋がる命の主が誰であるかを悟っていた。
そして血の気が一気に引いていた。
(⋯⋯いない。間違いなく居ない。あの蒼渦。地獄の木や草を操り、人々を惑わす幻術を使う、あの壺装束の草婆⋯⋯蒼妖鬼とかいう女鬼の蒼渦だ)
「⋯⋯どうしました? 鎌足殿?」
焦燥感に包まれている鎌足の傍に、青龍が歩み寄ってきた。
⋯⋯綾麿からの命令があったならば、鎌足ですら躊躇無く殺す⋯⋯。
優しそうで穏やかな外見に似ず、この青龍は先程そう断言していた。
いつもの鎌足ならば、青龍にも警戒を強めるはずだっただろう。
しかし今は思わぬ第二の非常事態。
考えるより先だった。
「⋯⋯まだ、⋯⋯まだ終わってないッ! 木や草を操る蒼鬼の女がまだ生きてる! 帝の命を狙ってる!」
「⋯⋯あの浮かぶ蒼渦と繋がる鬼、ですか」
「そうです! 蒼妖鬼はまだ御所の中なんだ!」
「⋯⋯蒼妖鬼」
「⋯⋯私はやっぱり行く。一人でも行きます。あの男を惑わす謎の幻術も、女である私には効かないみたいだから。⋯⋯っ、もしかしたら綾麿もあの幻術に屈して、もうこの世にはいな⋯⋯い、いやっ、それも清涼殿に行けば、自分の目で確認できる!」
「⋯⋯⋯⋯」
鎌足は青龍にまた助けを求めたのではない。
自分の信念をはっきりと伝えたい。
固く熱い一念を口にすることで、自らを鼓舞するためでもあった。
鎌足は青龍の次の言葉を期待して待つのではなく、その目はしっかりと大鳥居が沈んだ御所を見つめていた。
「⋯⋯次会うときは戦場か、敵か味方かも分からないけれど、⋯⋯それじゃあ、また」
別れの言葉の後すぐ、鎌足が颯爽と駆け出そうとした時だった。
青龍が今日一番に力強く、そして凛とした声で、鎌足の背中を呼び止めた。
「⋯⋯鎌足殿。一つ聞きます。帝の夜御殿に入れば貴方は死罪ですよ。それを分かっているのですか」
その問いかけに鎌足は足を止めた。
そしてすぐに青龍を振り返り、真剣な表情で青龍を見つめ、揺るぎない意思を告げた。
「⋯⋯承知のうえです! それにこの鎌足、東番を勤め上げること叶わず、清涼殿、夜御殿に鬼の侵入を許し、帝の御命を危険に晒してしまいました。⋯⋯よって既に”死“は受け入れています!」
鎌足の目はどこまでも澄んでいた。
そして深かった。
鎌足と青龍の視線が真っ正面からぶつかり、心が絡み合う。
そんな中でも麒麟だけは、鎌足と青龍に背を向け、一人あくびをしていた。
そして心の中で呟いた。
(⋯⋯あーあ、綾麿の奴、本当にくたばってくれないかな。ついでに兼季の大将も居なくなったら本当に最高なんだけどな。青龍たちは官職とは無縁の余所者。実力的に言って、村雨の後継者も『六歌戦』の後釜も、きっとこの俺だ。⋯⋯へへへ⋯⋯っと、⋯⋯っと、まてまて。欲張るな。まずは少将の地位を守らないと)
麒麟は生存している警備兵たちを見渡した。
そしてにやりと醜悪に微笑んだ。
(ふん、生き残りの警備兵も全員、後でたっぷりと脅すとするか。今宵の失態の全責任は鎌足だ、と。そしてあわよくば大鳥居の倒壊の責任も、な。⋯⋯ざまあみろ、鎌足。切腹でも斬首でも磔でも、刑の執行役は俺が進んで買って出てやるよ)
そんな背中の麒麟の黒い企みに気付いているのか、いないのか。
ひとときの沈黙の後、青龍は鎌足の瞳だけを真っすぐに見つめ、優しく芯のある声で呟いた。
「⋯⋯鎌足殿。お気持ちは分かりました。しかし今は私を信じて、暫し、あと暫しだけ待ちなさい」
「⋯⋯えっ」
「今宵、東から来し者、八つ以降、夜御殿に近づくは、凶なり。私の風水にそう出ています。それに清涼殿内は迷路のように入り組んでいます。案内人は居らず、しかも貴女は初めて。もう一度言いますが、どちらにしても“貴女”に今、出来ることはもう何もありません」
「⋯⋯っ」
「待つのです。そして信じるのです。『六歌戦』不知火中将綾麿を。そして吉凶の運命の巡り合わせを⋯⋯」━━━━。
━━━━その頃。
京都御所、清涼殿、最深部。
鎌足の想いを嘲笑うように、堅く閉ざされた一段と重厚な扉のすぐ近くに、蒼妖鬼は立っていた。
蒼妖鬼が妖しく微笑む。
その眼前には、最後に蒼妖鬼の前に立ちはだかる人間たちが数名居た。
御所の外に居ても、嫌でも聞こえてくる鬼の咆哮、金砕棒の激突音、大鳥居の倒壊の轟音。
この否応無しに耳にする”音“により異変を察知して、裏門の非常用の扉から駆け付けた者たち。
非番だった御帝親衛隊数名である。
《⋯⋯ふうん。まだ居たんだ。⋯⋯このその扉の先がいよいよ帝の寝所ね、蝿みたいに五月蝿い鉄扇の紅閃鬼か、むっつり無愛想な『六歌戦』の綾麿か⋯⋯。どちらかがやって来る前に、先に御開帳といきましょうか》
「⋯⋯くそっ、魔性の鬼め! この寝所の門だけは死んでも通すものか!」
「⋯⋯そうだ! 女鬼め! 俺たちを斃してから通れ!」
「⋯⋯大将殿も今必死に援軍の声かけをしておられる! 戻られるまでは此処は我々で守り抜くんだ!」
各々に刀を構え、蒼妖鬼を牽制する。
この人間たちが見せる最後の細やかな抵抗と言葉に、蒼妖鬼は煩わしそうな表情を浮かべた。
そして手に持った妖凛刀を一回転させ、目の前に力強く立てると、男たちに向けて冷たく言い放った。
《⋯⋯なら、死ねば?》
蒼妖鬼が妖凛刀の刃を、人さし指の爪で軽く弾く。
それは本当に軽い、軽い爪弾きだった。
しかし奇怪にも妖凛刀の刃には、その弾かれた部分から無数の“ひび”が入っていった。
“ひび”はあっという間に蜘蛛巣状に拡がる。
次の瞬間、妖凛刀の刃はまるで硝子細工が割れるように、粉々に砕け散っていた。
そして宙を飛散する細かな欠片その一つずつが、次はまるで明確な意思を持っている空飛ぶ刃のように、親衛隊員たちに襲いかかった。
「⋯⋯⋯ぎゃあああああああああっっっっ⋯⋯!」
欠片の刃が、親衛隊員たちの体中のありとあらゆる場所に突き刺さっていく。
男たちの身体は、数十枚という鏡の中に頭から突っ込んだ後のような無残な有様だった。
あっという間に全員が絶命していた。
そしてその場に呆気なく崩れ落ちた。
欠片はそんな亡骸から自然と抜け落ち、蒼く光りながら宙を浮遊する。
役目を終えた無数の刃の向かう先は、切っ先を無くしている妖凛刀の先端。
集まる欠片を一つ、また一つと纏うたびに、妖凛刀の先端が元の刃の形に強い蒼の光を放つ。
そして全ての欠片が集まり終えた時。
妖凛刀はまるで何事も無かったように元通りの鋭い刃へと戻っていた。
《⋯⋯うふふ、さてと。現世の帝の御顔、蒼鬼紅鬼達の中で”いの一番“に拝ませてもらおうかしら?》
蒼妖鬼は嬉々として、通路の奥に見えた一際豪華な造りの部屋の扉の前に立った。
そして扉に掌を付けた。
《⋯⋯居る、居る。感じる。中に一人。⋯⋯これは人間の気配。⋯⋯わぁ。帝に違いないわ》
鬼の侵攻を受けての最後の抵抗を図ったのか。
その扉は大きな錠前で固く閉ざされていた。
そしてその観音開きの扉は、蒼妖鬼の想像していた以上に“分厚”かった。
どう見ても何枚も扉を重ねて強固さを増した、牢獄用とも言える扉だった。
《⋯⋯あらっ。思ったより厳重ね。地獄の牢獄並みに凄いわね。いつもこうなのかしら。⋯⋯うふふ。でも意味は全然無くてよ。すぐに開けちゃうんだから》
蒼妖鬼が扉と錠前に触れる。
そして氣の流れを読む。
《⋯⋯この扉と錠前は特別。鬼の妖力による破壊を防ぐ、陰陽仕様かぁ。⋯⋯ふーん。⋯⋯なるほど。蒼鋼鬼の金砕棒でも破壊は無理ね。これなら妖力に任せて”斬る“よりも、力技で強引に“引いて”、物理的に破壊した方が確実ね》
蒼妖鬼の脳内には今、粉々に砕け飛ぶ錠前の輪と共に、軋みを立てて開いていく扉が鮮明に見えていた。
⋯⋯その時だった。
蒼妖鬼の嬉々とした表情が、突然に曇る。
《⋯⋯ッ、感じる。⋯⋯背後から》
すぐ近くまで迫ってきている、燃え上がるような殺気を帯びた蒼白の氣。
蒼妖鬼が目を細めて呟く。
《⋯⋯ふうん。⋯⋯この氣。⋯⋯隠したくても隠せないくらいに、この妾の侵入に怒っているみたい。⋯⋯どうやら蒼炎鬼の炎に続き、紅閃鬼の鉄扇も通用しなかったみたいね、⋯⋯うふふ。いらっしゃい、『六歌戦』綾麿ちゃん。⋯⋯でも残念ね。間に合わない。この勝負、“詰み”はもう目の前。妾たち蒼鬼の勝ちよ》
蒼妖鬼は氣の流れから、綾麿が罠の地に足を踏み入れた事を悟っていた。
《⋯⋯男の貴方に、妾の残り香⋯⋯幻影の罠を、果たして打ち破ることができるかしら?》
蒼妖鬼は凛々しい表情へと戻ると、衣を翻した。
徐ろに左右の腕を交差させる。
そして掌を広げ、胸の中に抱く妖凛刀に吐息を吐きかけた。
その吐息で妖凛刀が、”芽吹”いた。
妖凛刀の刃と柄の間から、蠢く無数の蔓刃がまたたく間に伸び始める。
この触手のような蔓刃は、倒れている親衛隊の刀二本に巻き付き拾い上げると、その刀に上下から圧をかけて”コの字“に折り曲げた。
そして宙をゆらゆらと漂い、この仕立てた“コの字の二刀”を、錠前がかかっている分厚い扉の取っ手の左右にはめ込んでいった。
それはまるで”新たな取っ手“だった。
この左右に設けられた“コの字”刀の取っ手に、蔓刃は更に幾重にも巻き付いていく。
《これならば妖力は直接には伝わらない。妾でも十分に開けてよ》
蒼妖鬼は交差している手首を、ゆっくりと元に戻していく動きを取った。
すると蔓刃がその動きに呼応する。
まるで蒼妖鬼の”手“のように、左右に動いたのだ。
錠前ごと、こじ開けるように。
新たにできた刃の”取っ手“を、蔓刃は左右から強く引っ張っていく。
恍惚の笑みと共に、少しずつ少しずつ両手両腕を戻していく蒼妖鬼。
蔓刃の強烈な引きの力によって、扉と錠前の輪がみしみしと音をたてる。
《⋯⋯うふふ。楽しみね、⋯⋯帝に会えるの》
禁忌の開門は既に時間の問題となっていた━━━━。
━━━━その頃、件の綾麿は、帝の元へと急ぐその足を止めていた。
自身や紅閃鬼の先を進む、強力な蒼鬼の氣。
清涼殿に足を踏み入れた時から、綾麿はずっとそれを感じ続けていた。
此処に至るまでの戦況から判断しても、それは蒼鬼の羅刹ではなく、修羅。
蒼妖鬼か蒼刃鬼。
このどちらかであることは間違いは無かった。
綾麿が足を止めた理由。
それは五間(※約10m)ほど先に、その蒼妖鬼が妖凛刀すら持たず、丸腰のまま佇んでいたからだった。
綾麿を見つめる濡れた瞳、乱れた長い髪。
はだける着物、露にした両肩辺り。
妖艶な女の色香を放ちながら、誘惑めいた笑みを浮かべていた。
「⋯⋯先を行っていた謎の鬼の氣は御主の方か。確か蒼妖鬼と言ったな。⋯⋯其処を退け」
綾麿は納刀した村雨の鞘を翳し、鋭い眼光で蒼妖鬼を睨み付けた。
そんな綾麿の攻撃的な瞳を解そうとでも言うのか。
蒼妖鬼は深く息を吸うと、甘い吐息を漏らした。
この閉ざされた廊下の一面に、妖艶で甘美な誘惑の香りが充満する。
⋯⋯その瞬間。
綾麿の眼の中で、異変が起こる。
蒼妖鬼の姿が陽炎のように五重に揺らめいたのだ。
「⋯⋯⋯⋯」
《⋯⋯うふふ、うふふ、うふふ、うふふ、うふふ》
蒼妖鬼の影は、耳に残る甘美な高笑いで綾麿を誘った。
背中から抱きしめるように、左と右から。
腕や手や腰に抱きつくように、脚の左と右から。
気付けば四鬼の蒼妖鬼が、綾麿に纏わりついていた。
しかも正面にはまだもう一鬼。
最初に見た蒼妖鬼は、先程の位置に変わらず立っている。
「⋯⋯五鬼。⋯⋯分身術か」
耳からは妖艶な甘い声と吐息。
腕からは指でなぞられる感触。
蒼妖鬼は今、四方から綾麿を桃源郷の世界へと誘っていた。
分身した四鬼の”自分”に取り囲まれる綾麿を愉しそうに見つめながら、正面に立つ蒼妖鬼が妖しく微笑みを浮かべる。
そしてその微笑みは殺意に変わった。
背後に隠していた妖凛刀を、後ろ手で密かに取り出す。
「⋯⋯小賢しい真似を」
綾麿は村雨の刃を抜き、横に薙ぎ払った。
蒼白の焔が迸る。
しかし綾麿に纏わりついていた四人の蒼妖鬼は、まるで蝶と舞を戯れているように、優雅に身体を翻し、妖しく微笑みながら後ろに飛び退いていた。
そして床を音も無く歩き、綾麿を前後左右の四方から再び取り囲んだ。
「⋯⋯人を惑わし虜にする、あの衆合地獄、刀葉林の妖術、幻術の類か⋯⋯」
五鬼の蒼妖鬼による美貌の誘惑と色香の幻惑、高らかな微笑み。
この魔性の幻想の中、綾麿は目を閉じて村雨に意識を集中させる。
そして静かに息を吐いた。
「色即是空⋯⋯」
綾麿は村雨の真刃を眼前に縦に構えた。
「空即是色⋯⋯」
逆手の村雨の鞘刃。
それを先に構えた真刃と重ねるようにして、二刀を前後に構える。
綾麿の眼前で、熱気と冷気が混じり合う。
真刃と鞘刃の蒼白の波が猛り狂った。
その猛る蒼白の波動に包まれながら、綾麿が再び目を開く。
そして眼前の重なる二刀を離すと、右に真刃を、左に鞘刃をだらりと下げ、そのまま正面の蒼妖鬼に向かってゆっくりと歩き出した。
《かかった》《かかった》《かかった》《かかった》
《⋯⋯うふふ、妾の色香の術中に堕ちた》
蒼妖鬼はこの隙を逃さない。
綾麿を取り囲んでいた四鬼の蒼妖鬼が動いた。
甘い吐息、すがるような目。
綾麿に近づいていく。
差し出される八本の誘惑の手。
この四鬼全員が綾麿の死角で、様々な凶器を掴んでいた。
腰の帯に忍ばせていた脇差を手にする、背後の蒼妖鬼。
髪飾りに仕込んだ簪状の針を手にする、左の蒼妖鬼。
袖の中に隠し持っていた短刀を手にする、右の蒼妖鬼。
はだけた胸元に挟んだ小刀を手にする、正面の蒼妖鬼。
四重葬の誘惑と殺意が、綾麿を包囲する。
⋯⋯しかし、この時の綾麿の眼は、決して幻惑されている男の惚けた眼ではなかった。
「⋯⋯他の男はいざ知らず。この俺に妖し惑しの類は通用せぬ。⋯⋯我が心、既に無念無想。⋯⋯眼は色を、鼻は香を、耳は音を、舌は趣を。今一時だけ、この蒼白の村雨の焔に移した。⋯⋯今の俺に残るはただ一つ。⋯⋯目の前の女鬼の“幻”を斬る事。この一念のみ!」
綾麿が村雨の二刀を旋回させ、身を翻す。
そして近付く四鬼の蒼妖鬼を、目にも留まらぬ速さの剣閃で、容赦無く次々に斬り捨てていった。
悲哀に満ちた四つの声が響き渡る。
《⋯⋯ひぃっ! きゃああぁああああぁぁぁっ⋯⋯!》
後方の蒼妖鬼が熱炎に包まれ、壁にもたれかかるようにして消えていく。
またその隣では、冷気に傷口を凍らされた別の蒼妖鬼が、激しく震えながら床に倒れ込んで消えていく。
前方の二鬼の蒼妖鬼もまた同様だった。
炎に包まれた蒼妖鬼と凍らされた蒼妖鬼が逃げ惑う。
そして抱き合うようにぶつかり合うと、蒼白の焔に包まれながら、二鬼ともがまるで霞のように消えていった。
その正面で燃え上がる蒼白の焔を斬り裂くように、村雨真刃が炎の中から姿を現す━━━━。
━━━━残る正面の蒼妖鬼に向け、綾麿は続けざまに真刃を投げつけていた。
そして次の瞬間。
魔性の誘惑を跳ね除け、風を斬り、蒼白の焔を纏いながら飛んだ真刃は、残る蒼妖鬼の胸の真ん中に深々と突き刺さっていた。
《きゃああああああああああぁぁぁぁぁぁぁっ⋯⋯!》
最後に残る蒼妖鬼の壮絶な断末魔の叫び声が、廊下に木霊する。
胸を押さえて苦しむ蒼妖鬼の身体は、綾麿の目には再び幾重にも重なって見えた。
そしてその身体もまた朧気に色を薄める。
綾麿が再び目を流した時には、正面に居た蒼妖鬼は、人の背丈ほどの妖凛刀へと変化を遂げていた。
投じられた村雨真刃は、この妖凛刀の中央部分の木目を完全に貫いていた。
妖凛刀の石突からは枝が伸び、床に根を張っている。
その床の根の隙間から覗くのは、僅かに蒼く輝きを残す、床に描かれた梵字の跡だった。
「やはり思った通り幻影。暫しの刻を稼ぐのが目的か」
綾麿は妖凛刀にゆっくりと歩み寄ると、刺さっている真刃を一気に引き抜いた。
妖凛刀の傷からは、ひび割れが一気に拡がっていく。
そして妖凛刀の刃も柄も何もかもが、先の蒼妖鬼たちと同じく霞のように、綾麿の目の前から消えていった。
「⋯⋯この薙刀も幻影か。⋯⋯しからば本物の蒼妖鬼はこの先に間違いなく潜んでいる。しかし紅鬼と蒼鬼、どちらも今の帝の命を本気で狙うとなれば、やはり⋯⋯」
突然⋯⋯、綾麿の言葉が止まる。
「⋯⋯!?」
綾麿は誰もいない廊下で表情を強張らせ、村雨二刀を強く握りしめ、そして何故か身構えた。
「⋯⋯ッ!? ⋯⋯この氣の乱れは!?」
そして四方に目を流し、警戒を強めた。
「⋯⋯外からではない。背後からでもない。⋯⋯前方か。⋯⋯近い。これは夜御殿からか」
綾麿は廊下の先を凝視した。
この先には目指す場所、帝の寝所。
夜御殿しかない。
しかし、何かがおかしい。
前方から立ち込めてくる、異質な氣の流れ。
綾麿はいち早く、その違和感に気付いていた。
「⋯⋯蒼妖鬼よ。最深部に辿り着いた喜びのあまりか。この禍々しさを纏う氣の乱れに気付かず、開けるのか! ⋯⋯あの、帝の禁じられた御簾を」━━━━⋯⋯。
⋯⋯━━━━その頃。
綾麿の呟きと時を同じくして、帝を守る最後の防御壁は、蒼妖鬼の妖力ずくの前に完全に屈していた。
強固な錠前の輪。
それが扉の取っ手ごと粉々に砕け散っていた。
錠前だけではない。
夜御殿の扉もまた今、ぽっかりと大きな口を開けている。
それはむしろ、この不測の侵入者を逆に歓迎しているようにも見える程だった。
《⋯⋯わわわ、やったわ!!》
妖凛刀を脇に構えた蒼妖鬼は、弾む心をそのまま映したように、跳ねるようにして部屋の中へと飛び込んだ。
その時だった。
蒼妖鬼の脳裏に、雷が走るように一つの残像が過る。
《⋯⋯え。⋯⋯はぁ!? ⋯⋯嘘でしょ!?》
感情が思わず口に出る。
蒼妖鬼が脳内に見たもの。
それは綾麿に破られた、幻影たちが最期に見た景色。
綾麿の瞬速の剣閃。
そして目前に迫り来る村雨の刃だった。
《⋯⋯うぅ、⋯⋯亡者たちの憧れの的の妾が、人間に触れたり肌を見せるなど、数百年ぶりだと言うのに。⋯⋯な、何て無粋な奴なのよ⋯⋯。それに本物の妾より美しさは相当劣るとは言え、幼気な分身たちを問答無用で虐めるとは⋯⋯。あの綾麿は色恋や乙女心というものが、まるで解らない駄目男ね》
蒼妖鬼が不機嫌に頬を膨らませる。
しかし刻の猶予は無い。
今にも綾麿は追いつき、夜御殿に乗り込んでくる。
蒼妖鬼は後方から近づく氣を警戒しながら、急いで寝所の中を見渡した。
(《⋯⋯駄目男は放っといて。今はまず帝よ、帝》)
目の前の一段高くなった寝床には、二重の御簾が掛かっていた。
その先に誰かが座している。
⋯⋯人影が薄っすらと見えた。
(《居た! これで蒼極鬼様に良い報告ができる! きっと今まで見たこと無い程に喜んでもらえる!》)
蒼妖鬼の口元が涎でも垂れそうな程に緩む。
想像するのは、蒼鬼総大将である蒼極鬼に褒めちぎられ頭を撫でられ、至福の笑みを浮かべている自分の姿。
(《⋯⋯ああああ。蒼極鬼様に頭を撫でられるなんて⋯⋯、え、もしかして初めて夜のお誘いを受けちゃう!? ⋯⋯ああああ、地獄に居ながらも極楽浄土。鬼なのに大往生ね。⋯⋯っと、いけない、いけない。蒼極鬼様も見ているんだったわ。変なこと口走っちゃう前に、まずは首、首っと》)
蒼妖鬼は心を鎮め直すと、妖凛刀の刃先を妖しく光らせた。
そして二重の御簾越しにその人影の前に立った。
《ふふ⋯⋯はじめまして、日本の帝さん。その凛々しい御顔を見せてくださいな、妾の名は蒼妖鬼。現世の最後の伽は妾が相務めましょう、どうぞ御心安らかに⋯⋯》
二重の御簾の先。
帝からの返事は無い。
しかし氣を探る能力に長けている蒼妖鬼には分かっていた。
⋯⋯居る。
⋯⋯間違いなく、居る。
⋯⋯この御簾の先に、誰かが居る。
《⋯⋯さあ、妾と共に地獄へ参りまし⋯⋯》
殺意を帯びた銀色の瞳を輝かせる。
嬉しそうに微笑んだ蒼妖鬼が、妖凛刀を振りかぶり、御簾を上げた━━━━⋯⋯。
⋯⋯人影が動いた⋯⋯
⋯⋯━━━━その時。
蒼妖鬼の目の前が、一瞬にして黒の世界に包まれた。
《⋯⋯え?》
蒼妖鬼の刻が止まる。
無音で何かが爆発したような、凄まじい閃光。
そして全身を襲う衝撃。
真正面からの直撃だった。
光の波が蒼妖鬼を飲み込んでいた。
⋯⋯そして。
蒼妖鬼は一瞬にして後方の宙に激しく、そして大きく吹き飛ばされていた。
その飛ばされた身体と様子は、例えるならば、見えない巨大な掌に鷲掴みにされ、遥か遠く天高くへと思い切りぶん投げられた⋯⋯、小さな雛人形のようだった━━━━。
第73話も最後までお読み頂きありがとうございました。
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次回第74話「死闘の終焉」は、6月24日もしくは25日に投稿予定です。
【改稿履歴】
改稿履歴は全て誤字脱字等や細部表現の訂正です。
過去話も誤字脱字を見つけ次第、訂正しています。
内容は全く変わっていませんので御安心ください。
(いつもたくさんの誤字脱字ばかりで、すみません)
【その他】
↓創作して頂いたオリジナルEDです!
ED①https://suno.com/s/UDlzMnlrwuPI3Apg
ED②https://suno.com/s/dKiO9ljefO0sG1RT
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