第38話 壺装束の女
【登場人物紹介】
伊賀の鎌足━━━━
江戸城の公儀御庭番伊賀組の小頭の女忍。伊賀流鎖鎌の使い手。幻斎に授けられた、七十年前に鬼を滅した伝説の刀『鬼切丸』を手に、鬼が現れた京都御所に援軍として派遣される。裏では朝廷側の探索の密命も帯びる。
平次━━━━
伊賀組の中忍。江戸からの援軍の四人の忍の一人。手裏剣の名手。全国各地の情勢に詳しく知識が豊富。お節介焼きな性格で、鎌足の身だしなみには特にうるさい。
大吾━━━━
伊賀組の中忍。江戸からの援軍の四人の忍の一人。まだ若くて実戦経験にも乏しく、武芸の腕もいまいち。真面目でひたむきな性格。京都では情報伝達が主な任務。
━━━━鎌足たちが暗殺されかけた毒の朝餉。
それから刻を遡り、その日の早朝、明け六つ過ぎ。
鎌足たちが滞在する宿、その母屋にあたる家屋の玄関前に、薄青色で華やかな柄の美しい着物を着た、髪の長い一人の女性が立っていた。
それなりに身分の高い女性なのだろう。
当時の高貴な女性の外出姿としてよく見られた姿⋯⋯市女笠を被り、その笠からは“虫の垂れ絹”と呼ばれる薄い真麻の布が垂れ下っている。
顔はその笠と布に隠されるように覆われ、口元が僅かに見えるだけ。
その表情の全てを窺い知る事はできなかった。
「あの⋯⋯、おたのもうします、⋯⋯おたのもうします」
女性は綺麗な透き通った声で、宿の戸口に向かって丁寧に、京言葉で挨拶を投げかけた。
しかし玄関の戸口に反応は無い。
「おたのもうします。⋯⋯おたのもうします」
女性は少しだけ声を強めた。
そして更に何度か、戸口に呼び掛け続けた。
人が動き出すにはまだ早い時刻だが、旅人の出入りする宿場の朝の始まりは、市井の中でも特に早い。
そして人通りもまだ少なく、喧騒前の静かな通り。
声が通りやすかったこともあり、幸いにもこの女性の呼び掛けは、宿の中の誰かの耳に届いたようだった。
戸口がゆっくりと開き、中から宿の女将と思われる一人の老婆が姿を見せた。
「⋯⋯はいはい、こんな早うから、どちら様どすか? 女将の婆どす」
女性は女将へ軽くお辞儀をすると、布の隙間から覗かせる口元を優しく緩ませた。
「あの⋯⋯、女将のお婆さん。⋯⋯此方に江戸から来た旅の方が、何人かお泊りになってはいませんか」
何処からやって来たのだろうか。
戸口への呼び掛けこそ京都風であったが、話し出した女性に京都特有の訛りは無かった。
言葉を発する微かな息吹きが、虫の垂れ絹をふわりと揺らめかせる。
その垂れ絹の隙間から、女性の身体の甘い香りが、心地よい風と共に女将の鼻にも伝わってきた。
この女性、齢は二十歳になるかならないか程だろうか。
その凛とした艶やかな立ち姿は、同じ女性の目から見ても惚れ惚れするくらいで、その表情は垂れ絹から薄っすらと透けて見えるだけだったが、相当に整った顔立ちをしていることは間違いなかった。
とにかく”妖艶な美しさ“を感じさせる女性だった。
「あらあら、珍しい。綺麗なお嬢さんやねぇ」
「⋯⋯あの、お名前は、⋯⋯鎌⋯⋯何とか⋯⋯と言う方なのですが。あとお連れの方が少なくとも一人⋯⋯」
「⋯⋯ああ、鎌足さん。江戸の方やね。おるよ、おるよ。でもあまり他の旅の方とは関わり合いになりなくないみたいでねぇ。此処じゃなく、あっちの奥まった離れの座敷を借りてはるよ」
女将は笑顔で、敷地内から続く小路の先を指差した。
その指差した方角⋯⋯少し離れた場所には、中庭の木々に囲まれた一軒の小さな家屋が見える。
「⋯⋯ああ、あちらにいらっしゃるのですね」
女性は嬉しそうに微笑んだ。
「⋯⋯良かった。お邪魔する宿を間違えてなくて。⋯⋯女将さん、申し遅れましたが、御所のとある高貴な身分の方からの遣いの者なんです。その江戸の方々に御用がありまして」
「⋯⋯御所から? それはそれは。いやあ、わざわざ御苦労な事で。⋯⋯で、何の用やろ?」
「⋯⋯この祝いの甘酒をお渡し頂きたいのです」
“祝いの甘酒”⋯⋯そう言うと、女性は垂れ絹を少しだけまくり、小さな徳利をそっと女将に差し出した。
再び甘い風がふわりと辺りに漂う。
差し出されたその徳利には、祝の熨斗が付いていた。
「⋯⋯江戸の方々は本日夕刻から、御所で大事な仕事に就かれるとの事。⋯⋯これは主からの通例のお祝いの贈り物にございます」
「へぇ⋯⋯、お祝いの。これまた御丁寧に」
「⋯⋯本来なれば、京都に参られた当日にすぐ御宿にお送りしなければならない所⋯⋯、あいにく当日は主が非番で、その鎌⋯⋯様にやっとお会いできたのが昨日になってしまったらしく⋯⋯、それでこれ以上は決して遅れぬように、一刻でも早く持って参るように⋯⋯と、昨日の夜からもう主にきつく急かされておりまして⋯⋯」
「⋯⋯それはそれは御大層なことやなあ。それでお嬢さんの主の方のお名前は何と言わはるの?」
「⋯⋯いえ、それは⋯⋯。実は⋯⋯、主は普段から奥ゆかしい性格。故に名を申し上げることは固く口止めされているのです」
「でも名を言わんと、鎌足さん、誰からの祝いの甘酒か分からずに困ってしまうんやないかねぇ? 飲めるものも飲めなくなってしまうよ」
「⋯⋯御所から、見知った男から⋯⋯、とだけ伝えて頂ければ、その鎌⋯⋯様や御仲間の方ならば、きっと誰からの心遣いかは自ずと分かりましょう。それに⋯⋯」
「それに?」
「⋯⋯それに女将さんや宿のお手伝いの皆さん、御所のお公家様たちの身分や家柄にはお詳しそう⋯⋯、主の素性が分かってしまって、ますます名を告げるのは恥ずかしいですわ。主の名を知るのは、このお酒を飲む鎌⋯⋯様たちだけにしておいて頂きたいのです」
「⋯⋯あぁ、私らに名を知られなくないんだね。どうやら私らが知ったら大騒ぎするような、高い位階の御方か名のしれた御方みたいやねぇ。⋯⋯そうねぇ、あれこれ騒いだら鎌足さんたちの耳に入ってしまうからねぇ」
「⋯⋯うふふ、そんな所です」
「そうかい、そうかい。綺麗なお嬢さんからのお願いや。聞いてあげなあかんなぁ。⋯⋯いやぁ、でもあの方々たち、きっと喜ぶなぁ。この一、二日は、大層に慌ただしくしてるみたいだったからねぇ。大事な日の祝酒は、何よりの馳走になるよ。⋯⋯あぁ⋯⋯何やったら、離れの中で直接会えるように声を掛けてこようかい? もう起きてはるかもしれないよ」
「⋯⋯いえ、疲れてお休みなされているかもしれません。それならかえって御迷惑。先程申した一言を添えて渡して頂くだけで結構です」
「⋯⋯主様に似て、あんたも恥ずかしがり屋さんやねぇ。⋯⋯分かりましたよ。御所の見知った御偉いさんと、そして美しいお嬢さんからのお祝いの品よ⋯⋯って、ちゃんと鎌足さんたちに伝えて、渡しとくさかい」
「⋯⋯嬉しい。これで主にも良い報告ができます」
「あ、そうそう、⋯⋯それとお嬢さん、この辺りも変な輩がうろちょろしたり、最近は本当に物騒やから、気をつけて帰りや」
「女将のお婆さん、色々とありがとう。では⋯⋯、きっと、おたのもうしましたよ」
女性はまた嬉しそうに口元を緩ませ、女将に向けて再度深々とお辞儀をすると、御所や公家たちの屋敷が並ぶ方向とは反対の道の方へと歩き出した。
女将は特段気にも止めず、甘酒の徳利を抱いたまま、女性の去りゆく後ろ姿を見ながら、溜め息混じりに呟いた。
「⋯⋯いやあ、⋯⋯久々に見惚れてしもうた。あんな大層な別嬪さん。弓削大社の小夜様を見て以来だよ」
女将は宿の外壁⋯⋯切妻破風(※屋根)のすぐ下の壁に飾られている、紋章のような装飾を仰ぎ見た。
その意匠(※図柄)は、『満月に囲まれた、杜若と三日月の弓』。
それはこの宿屋の家紋ではなく、格式の高い何処かの神社への信仰の象徴⋯⋯『神紋』のようだった。
信仰する者や家はかなり多いのだろうか。
近隣の家々や小さな神社にも、全く同じ神紋が飾られているのが多く見られた。
「⋯⋯あぁ、そうそう、甘酒、甘酒と⋯⋯、忘れないうちに渡してこないとねぇ⋯⋯。歳のせいで最近は物忘れが激しくてかなわ⋯⋯」
鎌足らの休んでいる離れへ向かおうと、女将が歩き出した⋯⋯。
⋯⋯その時。
すぐ傍に、無表情な平次と大吾が、いつの間にか並んで立っていた。
いつ近づいたのか。
二人には一切の気配が無かった。
「ひっ⋯⋯」
女将は驚き、手にした徳利を落としかけた。
「⋯⋯女将よ。どうなされた? それに今、誰かが来ていたようだったが? ⋯⋯どなただったかな?」
「⋯⋯あ、それ⋯⋯? まさか我々への祝いのお酒? ⋯⋯ですか? 朝餉にちょうど飲みたいなあって、思っていた所だったんですよ⋯⋯」━━━━。
━━━━美しい壺装束の女性が、宿の女将に甘酒の徳利を渡す姿、⋯⋯そしてまだ薄暗い道を一人で歩き帰る後ろ姿を、物陰から覗いている四人の男がいた。
いわゆる流れ者⋯⋯破落戸の男たちだった。
京都の治安は鬼の出現により以前より悪化し、騒動に便乗した一部の者たちによって、各所で強盗や誘拐など悪行が横行していた。
⋯⋯因縁をつけて大店から金を脅し取る。
⋯⋯旅人や通行人から金品を巻き上げる。
⋯⋯美しい女性を拐かす。
地獄に堕ちて閻魔宮で閻魔王の裁きを受け、蒼鬼紅鬼たちから虐げられる⋯⋯恐ろしい死後が待ち受けているとは露知らず、そんな悪行は日常茶飯事と化していた。
この覗き見をしていた破落戸たちもまた、同じ穴の狢が徒党を組んで、数多くの蛮行を重ねていたのである。
「おい、宿に因縁をつけるどころじゃねえぞ。見たか、お前等。いやあ、物凄い別嬪だぞ、ありゃあ」
「酒を持ってたな。婆に渡した以外にもまだ持ってるかもしれねぇ」
「いや、酒よりもあの身体だ。⋯⋯いいねぇ、身震いするくらいの上玉だぜ」
「もたもたしてると、お天道さんが昇って明るくなっちまうぞ。⋯⋯早く追いかけようぜ、廃屋にでも引きずりこんじまえ」
金品をも上回る、美しい獲物と報酬を前にして、四人の男たちは興奮を隠しきれない。
四人は思い思いに卑しい言葉を口走りながら、角を曲がっていく壺装束の女性の後を、小走りで追いかけた。
しかし、角を曲がっても、寂れた裏通りや分かれ道が見えるだけで、女性の姿は何処にも無い。
男たちは辺りを見回した。
「あれ? 居ねえ。何処に消えた?」
「⋯⋯向こうの道か? ⋯⋯いや、あそこの角をまた曲がりやがったのか?」
やはり女性の姿は見当たらない。
ただ、その場にはあの女性が確かにこの場所を通った、ある”証拠“が残っていた。
「⋯⋯焦るな。あの女の甘い匂いが道に残ってる。へへへ⋯⋯、これじゃ男を誘ってるのと一緒だ」
「あぁ、なんて芳しい香りだ。⋯⋯おおお、たまんねえな、これは雌の匂いだな」
「その雌の匂いは、こっちの町はずれに続く道の方に続いてるぜ、⋯⋯へへ、こいつは追っかけるのは楽だな、付いてこいって言ってるようなもんよ」
「行くぞ、絶対に見失うなよ」
男たちは匂いを辿って、山の方へと続く狭い路地を進んでいく。
そして暫く進むと、その視界が急に拓けた。
「お⋯⋯、居たぞ」
「あの女、何処に行く気だ?」
辺りはまだ薄暗い。
真っ直ぐ伸びた道の先は、寂れた峠道だった。
そのほんの少し先に、先程の壺装束の女性が一人、ゆっくりと優雅に歩いていた。
都合の良いことに、道の両隣には鬱蒼とした林が広がっている。
野蛮な破落戸たちがすぐ後ろに迫っている事に、女性は全く気づいていないようだった。
「おい⋯⋯、此処は鬼哭峠じゃねえか? 遥か平安の昔から、夜になると鬼の啼き声がする、っていう曰く付きの⋯⋯、何でまたこんな寂れた場所に女一人で?」
「そんな事知るか。いいか、びびるな。この峠ならよく知ってる。⋯⋯見ろ、峠沿いの林の中には拓けた場所もあったはずだ。其処に引きずりこんじまえば、外からは誰にもまず見られねぇ、⋯⋯へへ」
一人の男が腕で涎を拭き取りながら、にやにやと下品な笑いを見せた。
「⋯⋯よし、周りには誰も居ねぇ、今だ」
四人は足音を忍ばせて、女性に近寄っていく。
そして女性を背後から羽交い締めにして我が物にしようと、一人の男が飛びかかろうとした。
しかし、そう上手く事は運ばなかった。
女性はまるで背中にも目があるように、前を向いたままさっと身を翻して、男の襲撃をかわしたのである。
女性の身体に掠りもせず、男は勢いよく前のめりに転倒した。
ふわりと舞った市女笠の垂れ絹からは、女性の甘い香りが漂い、嗅覚が更に男たちの心を刺激する。
「お⋯⋯!? ⋯⋯ひひひ、何だ、歯向かうのか?」
「⋯⋯へへ、諦めな、男四人に敵うわけねぇだろ」
「おい、早いとこ四人がかりで林に連れ込んじまえ!」
「痛たた⋯⋯、やりやがったな、⋯⋯おい、女、黙って言う事を聞け。大人しくしてるなら殺しはしねえ」
女性に向けて飛ぶ、男たちの荒々しい脅しの決まり文句。
普通の女性ならば、まず間違いなく焦り、逃げ惑うはずのこの状況。
四人の男は、逃げられないように女性をぐるりと取り囲んだ。
しかし何故か、この壺装束の女性は逃げ出したりしようとはしなかった。
ましてや悲鳴を上げる事すらも無く、男たちと向き合って無言で毅然と佇んでいる。
まさかの女性の反応。
虚を突かれた四人は一瞬唖然としたが、そこはならず者の性。
すぐに良い方へ考えて気を取り直し、四人それぞれにぎらりと睨みを効かせたり、にやにやと笑いを浮かべたりしながら、その女性にゆっくりと近付いていった。
こうなってしまえば、普通の女性ならきっと尻込みして、何でも男達の言うことを聞いてしまうだろう。
しかし、この女性の反応はどこまでも普通とは違っていた。
毅然とした立ち姿のまま、垂れ絹から薄っすらと見える口元を緩め、近付いてくる男たちに向かって、にっこりと笑みを浮かべたのだ。
「⋯⋯うふふ」
笑顔だけではない。
男たちが想像だにしていなかった、まさかの言葉までも返してきた。
「⋯⋯お兄さんたち、この妾と遊びたいの?」
怯えるでもなく、嫌がるでもなく。
拍子抜けするくらいのあっさりとした反応に、流石の四人も面食らった。
ぽかんと口を開けて、返す言葉もない。
「⋯⋯うふふ、いいよ。あの林へいきましょう」
男たちの返事を待たずに、女性は自ら藪の中へと入っていく。
その姿に四人は我に帰る。
⋯⋯手を煩わせる事無く目的を果たせる。
その喜びをようやく実感して、互いに顔を見合わせながら、にやにやと笑いが止まらなかった。
「こいつはいいぜ、願ったり叶ったりだ」
「自分から誘うとは⋯⋯、高貴な女に見えたが、とんでもない好き者だったぜ。⋯⋯へっへへへ」
林に消えた女性の後を、喜び勇んで四人の男たちは付いていった。
鬱蒼と茂る林の中、女性はそんな木々や枝々を何ら苦にすることなく、すり抜けるようにしてすいすいと奥へと奥へと歩いていく。
男たちの方が、枝に引っかかったり、木の根に足をとられたり、進むのが一苦労といった具合だった。
「おい、あの女、上手い事言って俺たちから逃げようとしてるんじゃねえだろうな」
「いや、この林は先に行けば行くほど、木々が生い茂ってる。絶対に逃げられねえ。それに木々に行く手を塞がれて通れなくなる手前、確かもうすぐ広い場所に出るはずだ。⋯⋯へへ、⋯⋯そこでいよいよ、だ」
男の一人が先程言っていたように、やがて一時的に林の視界は拓け、広い場所へと出た。
其処は女性と男四人が居ても尚、まだ十数人は入れる程に広さには余裕があり、脇には大きな木も聳え立っていた。
「⋯⋯さあ、そろそろもういいだろう。ここいらでお楽しみといこうじゃねぇか」
男の一人が女性の後ろ姿に話かけた時だった。
全く同じ考えを抱いたのか、⋯⋯それとも。
女性は突然、くるりと男たちの方へ向き直った。
そしてこの林に入ってからずっと無言を貫いていた、その美しい口を初めて開いた。
「⋯⋯お兄さんたち、お楽しみ⋯⋯とやらの前に、前祝いにお酒⋯⋯甘酒でも飲みませんか? これ、私の手造りなの。⋯⋯それはもう、きっと美味しいですよ」
とろけるような魅惑の笑みと共に、女性は垂れ絹の隙間から、徳利を一つ、男たちに差し出した。
「お⋯⋯! ほうら、やっぱり持ってやがった」
元々酒に興味を示していた男の一人が、その徳利を奪うように受け取ると、注ぎ先を口に当てて一気に甘酒を喉に流し込んだ。
「⋯⋯ぷはぁ、この甘酒、美味えな。⋯⋯っ⋯⋯ぷはぁ、⋯⋯何杯でもいけるぜ、こりゃあ」
その男の余りの恍惚ぶりに、他の三人の男も釣られるようにして、順番に徳利を手に取り甘酒を味わった。
「本当だ⋯⋯、何て美味い酒だ」
「こんな味は初めてだな、何杯でもいけるな」
「美女を味わう前に酒を味わう⋯⋯か。最高だな」
いったいどんな造りをすれば、これほどまでに舌触りが良く、滑らかな美味が出せるのだろう。
すっかり御満悦な男の一人が、笑いながら問いかけた。
「おい女。お前が造ったとか言ってたな。出は杜氏の家の娘か? 酒造りを手伝った経験でもあるのか? ⋯⋯へへ、俺は酒には五月蝿いんだ。きっと隠し味に何か入れたりしてるだろう。何を入れた? 教えろ」
その何気ない問いかけの声が言い終わるや否や、女性は薄い垂れ絹の向こうで、手に口を当てた。
そして突然、大声で笑い出した。
「⋯⋯ふふ⋯⋯うふふふふふ、うふふふふふふふ!」
鬱蒼とした木々によって町中よりも更に薄暗い、この場所⋯⋯鬼哭峠独特の不気味で陰鬱とした景色の中、女性の突然の豹変とその笑い声の冷たさに、男たち四人は呆気にとられてたじろいだ。
我に返った男の一人が、すぐに声を荒げる。
女性のこの得体のしれない笑みを制止した。
「な、何が可笑しい!? ⋯⋯おい、止めろ! ⋯⋯笑うのを止めろって言ってんだ!」
女性は笑いを堪えながら、言葉を返した。
「⋯⋯何を入れた? と? ⋯⋯うふふ、これよ」
その返事の声は、あの宿を訪れた時のしおらしい優しい声ではなく、背筋がぞっとするような恐ろしい威圧と妖しい狂気を放っていた。
そして続けざま、垂れ絹から両腕を広げるように出されたその掌には⋯⋯、赤黒い肉のような”塊“が乗っていた。
その“塊”は女性の甘い香りとは真逆に、とてつもない異臭を放っている。
掌の指の間からは、その塊の色と同じ赤黒い液体がじゅるりと滴り落ちた。
その塊本体からも人間の髪の毛のような、細く長く黒い”何か“が、何十本も飛び出ている。
「⋯⋯うえっ、何だそりゃあ!?」
男たちは誰しもが青い顔を浮かべ、口々に狼狽する。
女性は狼狽を見渡しながら、愉しそうに答えた。
「⋯⋯妾の暮らす地獄にはね、亡者どもの腐った骸が常に山の様に横たわっているの。映えある侵略の祝酒。骸はきっと良い隠し味になるだろうなぁ。⋯⋯そう思って、心を込めて、砕いて、潰して、練って、混ぜて、造ったのが“毒酒”。⋯⋯毒酒はね、飲めば、“一つ”数える毎に、”十日“ずつ、残された命を削っていくの。⋯⋯“ずきずきじわじわ”、“死”を招いていく“毒”のお酒よ」
「⋯⋯っ、ど、毒!? ⋯⋯ぶはあっ⋯⋯」
”毒の酒“⋯⋯その言葉に、男たちは揃いも揃って飲みかけだった酒を噴き出した。
「⋯⋯何を入れた?⋯⋯と問われれば⋯⋯、その中身は⋯⋯⋯」
垂れ絹の奥で、女性の唇がゆっくりと動いた⋯⋯。
「⋯⋯⋯⋯━━━━⋯⋯⋯⋯」
「⋯⋯⋯⋯⋯⋯? ⋯⋯⋯!?!? ⋯⋯ぐえっ」
材料を聞いた男たちは、全員その場で⋯⋯、吐いた。
顔を顰め、口に手を突っ込み、飲み込んだ全てを吐き出そうと、苦悶苦闘する男たち。
それを愉しそうに見下しながら、女性は再びけらけらと妖しい笑みを見せた。
「地獄界でも人間界でも同じ。美しい妾の魅力は、自然と男を惹きつけるのね。⋯⋯いや、女⋯⋯あの汚婆ですらも、ね⋯⋯、⋯⋯うふふ。それにしても卑しき者ども。妾を抱くなんて以ての外。触れることすらも千年は早くてよ。これはお兄さんたちにはお仕置きが必要ね」
「⋯⋯は!? 地獄⋯⋯だと? ⋯⋯この女! く、狂ってやがるのか⋯⋯? ⋯⋯御前っ⋯⋯一体何者だ!?」
男たちの顔色が一気に変わる。
其処にあの当初の余裕で厭らしい笑みは微塵も無く、立場すらも逆転していた。
女性は四人の男を見下すように、更に言葉を尖らせる。
「妾がこの身体を手に入れて、人間界の刻の流れではおよそ九百年程になるけれど、そう言えば⋯⋯元の持ち主の人間の女子も、男どもに相当に虐げられていたわね。⋯⋯妾が身体と魂を奪う時、“やっとこれで楽になれる”⋯⋯そう泣いていた姿を思い出しちゃったじゃない、もうっ。⋯⋯その涙の理由が気になって、辿り、覗いた、忌まわしき記憶⋯⋯。その女子を玩具にしていたあの男どもも、お兄さんたちと同じ。下衆で汚らしい顔や目つきの者ばかりだった⋯⋯、⋯⋯はぁ、本当に人とは、男とは⋯⋯愚かで穢らわしい生き物ね⋯⋯」
「こ、この女⋯⋯、狂ってる⋯⋯、ひ、⋯⋯ひぃ!」
「⋯⋯お、おい、早くずらかろうぜ!」
「⋯⋯まあ、あの女子も楽になるどころか、もっと痛くて、辛くて、寂しい地獄の底に堕ちて、永遠に苦しむ羽目になるなんて⋯⋯、あの時、これっぽ〜っちも思いもよらなかったはずだけど⋯⋯、今もまだ無間地獄で泣き続けているかしら? ⋯⋯うふ、うふふふふ⋯⋯うふふふふふふ⋯⋯!》
女性は、魔性へと化していた。
その言葉や声や笑みから伝わってくる、男たちの目の前に迫っている圧倒的な狂気と危険⋯⋯。
その恐怖が、四人全員の“魂”に直接響いた。
逃げろ。
危ない。
死ぬぞ、⋯⋯と。
女性は両手でのれんを分けるようにして、初めて顔に掛かる垂れ絹をめくった。
そして被っていた市女笠を、ゆっくりと外した。
⋯⋯その顔は、
まるで天女のような、絶世の美しさだった。
だが、その目は蒼みを帯び、瞳は銀色に輝いていた。
そして、その額には。
⋯⋯角が二本、生えていた。
(⋯⋯この女、明らかに人間じゃない。⋯⋯鬼だ)
四人の男たちは、全身を恐怖で震わせながら、その絶望的な”事実“を悟った。
気づけば四人の男たちの頭上⋯⋯空には、竜巻や海の渦潮のような、巨大な蒼い渦巻が姿を現していた。
空気を切り裂き、ぽっかりと口を開け、遥か上の雲や飛ぶ鳥まで、空に存在する何もかもを吸い込む勢いで、禍々しく激しく回転している。
”吸い込む“だけではない。
この世界の全てを、“包み込もう”ともしているのか、⋯⋯その渦からは、不気味で邪悪な蒼い霧のような”何か“が吹き出し続けていた。
《⋯⋯うふふふふ、眼福なお兄さんたち。⋯⋯これぞ、この地━━鬼哭峠に古の時代より繋がる、秘密の蒼の羅生門”本道“。⋯⋯この世とあの世を繋ぐ地獄への入口よ。⋯⋯ふふ、もっと簡単に言うと、“お兄さん”たちじゃなくてぇ、”蒼、鬼、さ、ん“たちの⋯⋯通り道なの》
「⋯⋯ひ、ひいっ、で、でたぁ⋯⋯」
「⋯⋯空が⋯⋯空に穴がぁあぁ⋯⋯」
「⋯⋯鬼だ、お、⋯⋯鬼だぁぁ⋯⋯」
「⋯⋯あががが、こ、腰が抜け⋯⋯」
角を生やした女性⋯⋯鬼女の声に今、明らかな殺意や敵意が滲む。
《⋯⋯貴様ら下賤な人間どもには、滅多にお目にかかれる代物じゃなくてよ》
林の木々に響き渡る、鬼女の高笑い。
そして渦を巻く羅生門の異様な空を前に、男たちは我先にと競うように、その場から逃げだした。
⋯⋯だが、しかし。
逃げ出した四人それぞれの第一歩目が地に着くより前に、鬼女は既に空高くへと舞い上がり、大木の高い枝に飛び乗っていた。
《羅生門本道を見た者は、一人たりとて、逃さぬ⋯⋯》
枝の上で片膝を立ててしゃがみながら、鬼女が指で梵字の型に空を斬る。
するとこの閉ざされた林の中で、世にも恐ろしい怪異が起きた。
大木や林の木々の枝という枝、葉という葉、草という草から、次々と鋭い”刃“が芽吹いたのだ。
逃げようと踏み出した勢いそのままに、林や葉の刃に足をとられ、腕を切られ、男たちは全員がその場に激痛と共に倒れ込んだ。
「⋯⋯ぐぁああ、い、痛ぇぇ⋯⋯、足が、足がぁっ!」
「⋯⋯ひぃっ腕が、腕がぁああああぁあぁ⋯⋯!」
片方の足首が斬られている者。
片腕を失ってしまっている者。
腹部を無数に斬られている者。
そして愚かにも藪を掻き分けようとしたのか、指を全て無くしている者⋯⋯。
《⋯⋯うふふ》
此処はまるで、地獄の刀葉林。
そのままの光景が広がっていた。
そんな地獄の情景の再現、苦しみ悶える四人の男たちを、鬼女は木の枝に腰掛けながら微笑み、優雅に見下ろしている。
《⋯⋯現世 刀葉林。⋯⋯心逝くまで味わいなさい》
木の上から冷たく言葉を投げ捨てた鬼女は、その銀の瞳を妖しく煌めかせ、両の掌を重ね、再び陰を結んだ。
そして周りを取り囲む“林”に、何かを命じるように、邪悪な念を込め始める。
⋯⋯その念に、“林”は即座に呼応した。
木々がしなり、その枝先がまるで槍のように尖り、四人に狙いを定めた。
それだけではない。
別の木々の無数の枝は、まるで蛸の触手のようにゆらゆらと宙を伸び、空を乱れ舞いながら刃の鞭と化して、この四人の男に絡みついていった。
《随分と御無沙汰な生きた人間の玩具。⋯⋯毒で殺すなんて勿体ない。衆合地獄から召喚した刃で切り刻んであげる。⋯⋯後は死んじゃうだけだけど、でも悲しまないで。地獄でまたこの美しい妾と会えるわ。だ、か、ら、ほんのひとときのお別れよ〜⋯⋯⋯⋯なーんて言ってあげたいところだけど、残念でした。それは無理なの》
鬼女が嘲りに満ちた、仮初めの悲しい顔を見せる。
《一つ良いことを教えてあげる。⋯⋯葬魂の術を仕掛けられ、殺された人間は永遠に無間地獄を彷徨う。⋯⋯でもね、人間どもは知らないだろうけど、葬魂で魂を奪った身体を持つ鬼の手によって⋯⋯、⋯⋯すなわち妾によって殺された人間も、また同じく、未来永劫に無間の地獄を彷徨うことになるの⋯⋯。だから妾の美しい顔、今のうちにたっぷりと拝んでおきなさい。⋯⋯うふふ。そして⋯⋯さあ、永遠の苦しみの旅にお逝きなさい⋯⋯》
「⋯⋯ぐぅ⋯⋯、が⋯⋯た、たしゅ、け⋯⋯、て⋯⋯、ぐぅっ⋯⋯」
「⋯⋯くさ、⋯⋯が、⋯⋯えだが、⋯⋯からみ、つくぅうぅ⋯⋯」
無数の刃の鞭が、命乞いをする四人の全身をぐるぐると縛っていく。
刃の鞭が撓るたびに、四人の身体は無残に切り刻まれ、血が迸り滴り落ちる。
《蒼妖鬼に声をかけた事、地の底で永遠に悔いるのね》
鬼女⋯⋯蒼妖鬼が再び、愉しそうに笑みを浮かべた。
その微笑みと同時だった。
四人に向けられた木の刃先が、何に弾かれたような勢いで一斉に男たちに襲いかかり、四人の体中を串刺しにしていた⋯⋯。
⋯⋯風にざわめき、揺らめく、林の草木。
全ての仕置が終わった時⋯⋯、この鬼哭峠からは、蒼妖鬼の姿も、蒼の羅生門本道も、全てが影も形も無く消え失せていた。
その場に残るのは、傷だらけ穴だらけの四つの骸。
脱ぎ捨てられた市女笠。
そして地に転がる、飲みかけの徳利だけだった。
後はただ、沈黙の刻がゆっくりと流れる。
林の中にふと吹き込んだ北風が、鬼の啼き声に聞こえた⋯⋯、丁度その頃⋯⋯。
⋯⋯鎌足たち伊賀忍が泊まる宿では、もう一つの毒酒の徳利と共に、湯気立つ温かな朝餉が出来上がっていた━━━━。
第38話も最後までお読み頂きありがとうございました。
創作の励みになるので、ブックマーク、評価、感想等、良かったらぜひ♪
改稿履歴は全て誤字脱字等や細部表現の訂正です。内容は全く変わっていませんので御安心ください♪(いつも無数の誤字脱字ばかりで、すみません)
次回第39話「すれ違い」は3月18日昼頃投稿予定です。




