第36話 毒の罠
【登場人物紹介】
伊賀の鎌足━━━━
江戸城の公儀御庭番伊賀組の小頭の女忍。伊賀流鎖鎌の使い手。幻斎に授けられた、七十年前に鬼を滅した伝説の刀『鬼切丸』を手に、鬼が現れた京都御所に援軍として派遣される。裏では朝廷側の探索の密命も帯びる。担当となった東番前日、御所からの帰りに、葬魂の術で仲間の甚左に成りすました紅鬼⋯⋯紅影鬼に襲われる。
平次━━━━
伊賀組の中忍。江戸からの援軍の四人の忍の一人。手裏剣の名手。全国各地の情勢に詳しく知識が豊富。お節介焼きな性格で、鎌足の身だしなみには特にうるさい。東番の前日、大吾と共に蒼鬼の群れに襲われる。
大吾━━━━
伊賀組の中忍。江戸からの援軍の四人の忍の一人。まだ若くて実戦経験にも乏しく、武芸の腕もいまいち。真面目でひたむきな性格。京都では情報伝達が主な任務。東番の前日、平次と共に蒼鬼の群れに襲われる。
━━━━東番初日の朝、鎌足が床を離れた際、時刻は既に辰の刻(※9時)を大きく回っていた。
まだ寝巻姿の鎌足を上座に、右に平次と大吾が並び、三人は大吾が作った朝餉の膳を囲む。
味噌汁の湯気が立ち昇り、食欲をそそる美味しそうな匂いが座敷の中にゆらゆらと漂っていた。
時間は少し遅くなってしまったが、”いつも“の朝の風景。
だからこそ、“いつも”より一人足りない食事に、その場に居る誰もが胸を締め付けられていた。
鎌足の左には、大吾が用意した四人目の膳⋯⋯居ない甚左の分が、”いつも“の様に置かれている。
大吾の心配りだった。
(⋯⋯昨日までは此処に甚左も居たんだよな)
鎌足の膝上の拳が、寝巻を握りしめる。
膳だけが置かれている“がらん”とした左側を見ると、どうしても思い出されるのは、甚左の笑顔だった。
「⋯⋯ねえ、平次、大吾、あのさ、⋯⋯ちょっと聞いてみるんだけど、一昨日の暮れ六つに甚左と一緒に居た?」
鎌足がふと呟く。
「⋯⋯ん? どうしたのですか、小頭」
そのあまりにも唐突な問いかけに、平次が首を傾げた。
「⋯⋯あのさ、紅影鬼は、何時から甚左に成りすましていたか、言ってくれなかったんだ。百地翁様が言っていた通り、鬼達は本当に記憶までも奪うんだよ⋯⋯。細工した羽織袴まで、あたかも紅影鬼が用意したみたいに言い放ったんだ⋯⋯。だからやっぱり気になっちゃって。何時まで、甚左は甚左だったんだろう、って⋯⋯」
俯き気味な鎌足の呟きに、その場に沈んだ空気が流れた。
鎌足が淡々と言葉を続ける。
「⋯⋯ほら、綾麿から暮れ六つが人と鬼の境目だって聞いた、って言ったじゃない? それ自体が本当の話かまだ確証は無いけど、もしそうなら、一昨日の暮れ六つはどうだったんだろう⋯⋯って考えずにはいられなくて」
「⋯⋯甚左殿の死の責任を感じておられるのですか」
鎌足の心を見透かしたように、平次が静かに言葉をかけた。
「⋯⋯うん、それもある。⋯⋯私が暮れ六つまでに御所の外に戻っていたら、こうはならなかったかもしれない。その後悔は一生背負っていくつもりだ。それは散々泣いて覚悟はできてる。⋯⋯ただ今、心にまだ引っ掛かってるのは、”あの笑顔“なんだ」
「⋯⋯あの笑顔?」
悲しげな表情で、今度は大吾が聞き返す。
鎌足は目線を下に、言葉を続けた。
「⋯⋯昨日、暮れ六つ過ぎに私が御所から出てきた時、甚左は一人で裏門の方から遅れてやって来たじゃない? ⋯⋯きっと、あの時はもうすり替わってはずなんだ。たぶん甚左は、昨日裏門に回った時に襲われたんだと思う。⋯⋯だから、御所に入る時に見送ってくれた甚左の笑顔が、今のところ私が見た最後の甚左なんだよ」
「⋯⋯小頭」
「⋯⋯⋯⋯」
鎌足の言いたいことが伝わった大吾と平次は、返す言葉に詰まった。
「⋯⋯あの笑顔、今も瞼に鮮明に残ってるんだ。⋯⋯あれはいつもの優しい甚左の顔だった、間違いない。⋯⋯絶対に間違いない、けれど、⋯⋯自信がないんだ。⋯⋯怖いんだよ。あの笑顔まで、本当は紅影鬼だったんじゃないか、って。⋯⋯記憶を辿ってみたら、昨日はほとんど一緒にいた。御所の偵察の準備をしていた⋯⋯、昨日はすり替わる事はできなかったはずだ、⋯⋯だから⋯⋯一昨日の暮れ六つが⋯⋯知りたい、って思ったんだ」
その言葉は明らかに悲しみを帯びて、辿々しかった。
情緒不安定で、今にもまた泣き出しそうな鎌足⋯⋯そんな心の痛みを悟ってか、場の空気を変えるために、平次は“ぽん”⋯⋯と大きく自分の膝を叩いた。
「さて⋯⋯と、どうだったかな。その時分は確か⋯⋯、暮れ五つ過ぎに御所から出てきた小頭を出迎えて、三人で宿に帰ってすぐくらいか。⋯⋯甚左殿は一緒に居たかな⋯⋯、どうだ? 大吾は何か覚えているか?」
「⋯⋯うーん、一昨日ですよね、確か⋯⋯、暮れ六つ頃か、⋯⋯あ、あっ、私、甚左さん、見かけました! その時、甚左さん、妙草薬を一生懸命に作ってましたから! ほら、小頭の頬の傷に付けた薬ですよ! その時、遠くの寺から暮れ六つの晩鐘が聞こえてました!」
大吾がまるで大手柄を立てたように、鎌足に向かって朗らかに微笑んだ。
その自信満々の笑顔に、鎌足の厳しい顔がようやくにして綻んだ。
「⋯⋯本当?」
「ええ! 間違いありません!」
「⋯⋯わ⋯⋯良かったぁ、⋯⋯あの笑顔はやっぱり甚左だったんだ」
鎌足は頬にそっと手をやった。
即効性の傷薬が効いたのだろう。
この時、麒麟から受けた傷口は、ほとんど傷と分からないくらい塞がっていた。
「⋯⋯甚左、私のために、最後まで力になってくれて、本当にありがとう」
目に涙が滲む鎌足。
鎌足の穏やかな声の隣で、その姿に心動かされた平次が、溜め息と共に険しい表情を見せる。
「⋯⋯おのれ、それにしても、絶対に許せんな、憎き紅鬼め。小頭の、人間の⋯⋯大切な“心”を弄びおって。⋯⋯葬魂、何と卑劣極まりない術だ」
鎌足の瞳に霞みながら見える平次の顔は、葬魂の術を用いた紅影鬼への怒りで満ちていた。
「⋯⋯まあまあ、⋯⋯小頭、平次さん。気分を変えて。しんみりはもう止めましょうよ。⋯⋯ほら、甚左さんも早く食べたがってますよ? それに折角、腕によりをかけてこしらえたのに冷めちゃいますよぉ。⋯⋯さあ、食べましょう、食べましょう! ⋯⋯そして少しだけ、飲みましょう!」
そんな鎌足の悲しみや平次の怒りを解すように、大吾は敢えて明るい声と笑顔で振る舞ってくれた。
大吾の前向きさは、こういう時に大いに役に立つ。
⋯⋯京都遠征の仲間に入れて良かった。
鎌足は心からそう思った。
「⋯⋯ん、そうだね、折角のこんな美味しそうな料理が冷めちゃうね、⋯⋯にひひ、よしっ、食べようか!」
鎌足も、そんな大吾の気持ちに応えた。
この場に吹き溜まる悲しみや怒り、その全てを吹き飛ばそうと、懸命の作り笑顔で、わざと大きな音を立てて割り箸を割る。
「にひひ⋯⋯」
「ははは⋯⋯」
悲しみを乗り越えようと全力を尽くす二人の姿に、険しかった平次の顔も、まるで雪が融けるように柔らかな表情へと戻っていった。
「⋯⋯そうだ、そうだな、大吾の言う通りだな。⋯⋯腹が減っては戦はできぬ。今は体力を付けることが一番。夜の東番へ向けて、大吾自慢の御馳走、皆で早速食べるとしましょう」⋯⋯
⋯⋯三人は改めて食膳に向き直った。
「⋯⋯あっ、甘酒まである」
大吾が気を利かせてくれたのか。
食膳には甚左が生前大好きだった、甘酒まで用意されていた。
まだ酒の旨みが分からない年齢。
普段は酒は全く飲まない鎌足だったが、今日は東番を初めて務める大切な日。
まずはそれぞれ小さなお猪口を手に取り、一気に甘酒を喉に流し込み、東番の成功を誓う。
そして亡き甚左を偲んで、黙祷を捧げた。
この追悼の甘酒が、悲しみの苦味を少しだけ、甘くしてくれたのかもしれない。
(⋯⋯どれだけ泣いても、もう甚左は居ない、戻っては来ないんだ。⋯⋯今日は綾麿も麒麟も居ないはず。この三人で今日の大役、そして百地翁様の密命、何とか頑張らなきゃ)
幻斎の影響で甘いものは大好きな鎌足は、おかわりの甘酒を何杯も飲み干しながら気持ちを入れ直し、改めて東番を務め果たすことへの決意を胸に誓った。
気付けば誰一人として、昨日の昼から何も食べ物を口にしてはいなかった。
自然と鎌足の箸も進む。
焼き魚や山菜の漬け物に腹が満たされ、鎌足はやっといつもの前向きな笑顔を取り戻し始めていた。
「⋯⋯やっぱり大吾の料理、美味しいな。大吾は良い女房になるよ。うん、間違いない」
「はは、小頭、⋯⋯照れるなあ、そんな揶揄わないでくださいよ。今日は少しだけ京味に変えてみたんです、気に入ってもらえて良かった」
鎌足の褒め言葉に、気恥ずかしそうに大吾は頭を掻いた。
「いや、お世辞抜きで本当に美味い。京都の風味を感じながら、伊賀の味もしっかりと。⋯⋯いや、江戸を出てまだ何日しか経ってないのに、伊賀がこれほどまでに懐かしく愛しく思えるとは」
朝餉を一口一口噛み締めながら、平次は味覚の向こうに江戸の景色や匂いを感じ、懐かしんでいるようだった。
身体の疲れ、心の痛みは消えてはいない。
しかし傷ついた鎌足にとって、この二人の笑顔は、何よりも大きな“癒し”だった。
鎌足は、傍らの鬼切丸や鎖鎌を改めて眺める。
(⋯⋯もしまた三、四匹の鬼の群れが出たとしても、この鬼切丸や皆の力を合わせれば、きっと大丈夫だ)
箸の進みと共に、不思議と胸の高鳴りが増していく。
その胸の鼓動の早まりにもつられて、暮れ六つからの来たるべき東番に向けた気合も、自然と高まっていった。
「⋯⋯さあさあ小頭、もっと食べてください。せめて我々の三倍は食べてもらわないと。なあ大吾?」
「そうですね、小頭、どうぞ遠慮無く。食いしん坊な小頭を見ているだけでお腹いっぱいになれますから」
「ふふ。⋯⋯もぐもぐ。⋯⋯ありがとう。⋯⋯さっきから胸のどきどきが止まらないくらい、美味しさに震えてるよぉ。⋯⋯にはは。⋯⋯なら御言葉に甘えて遠慮無く、もう一杯貰おうかなあ、味噌⋯⋯」
漬物を齧りながら、”おかわり“を言いかけた鎌足の口が止まった。
突然の目眩に襲われる。
喉、胸も何かがおかしい。
身体の中から沸き上がってくる、臓腑が焼けるような感覚。
「⋯⋯あ、あれ⋯⋯? ⋯⋯⋯⋯、⋯⋯っぐ、⋯⋯⋯ぅぐぅッ!?!?」
それは唐突に起こった。
鎌足は突然、大量に吐血した。
そして真っ赤な鮮血が滴る口を両手で抑えながら、その場に倒れ込みうずくまった。
茶碗と食べかけの朝餉が、畳に飛び散らばる。
「⋯⋯!? 大丈夫ですか、小頭!?」
「⋯⋯ッ? どうしました!? 小頭!?」
意識朦朧としながら横たわる鎌足の頭に、平次と大吾の声が響く。
(⋯⋯な、何が⋯⋯、え⋯⋯?)
何が起こったのか困惑の中にいる鎌足に、苦痛の第二波、第三波が襲いかかった。
肘を支えにして何とか上半身を起こした鎌足だったが、既にその顔面は蒼白。
目は血走り、赤い糸をひく唇を震わせながら、焼けるような喉の痛みに胸を掻きむしった。
「⋯⋯はぁっ、⋯⋯はあっ、⋯⋯はおっ」
荒い呼吸音を響かせて、鎌足は鬼切丸を握りしめて身構えた。
その苦悶と困惑の血眼は、この朝餉を用意した張本人⋯⋯仲間である大吾に向けられていた。
「⋯⋯ッ⋯⋯ぁあ⋯⋯? だ、大吾⋯⋯、な、何で⋯⋯? 何を⋯⋯入れた!?」
苦悶と困惑だけではない。
ともすれば疑惑や憎悪すらも明らかに込められた鎌足の言葉と突き刺さるような鋭い眼差しに、「自分は知らない、何が起きたか分からない」⋯⋯そう言っているかの様に、大吾はぶんぶんと首を横に振った。
その大吾の顔もまた鎌足に劣らず、激しく動揺していた。
⋯⋯その時だった。
「⋯⋯っ、⋯⋯っう⋯⋯ぐふうっ」
平次もまた鎌足と同じように急に口を抑え、激しい嗚咽と共に苦しみ始めた。
口に当てた平次の手⋯⋯その指の隙間から血が流れ滴り落ちる。
「⋯⋯ど、⋯⋯どく、⋯⋯毒だ」
鎌足から漏れ出た言葉、⋯⋯“毒”。
その声の先か後か。
鎌足の目線の先⋯⋯大吾もまた胸を押さえ、鎌足と平次と同じ様に前のめりでばったり倒れた。
そして七転八倒、畳を掻きむしりながら苦しみ出した。
(⋯⋯は!? ⋯⋯ぐ、⋯⋯一体、な、何が⋯⋯!?)
次々と押し寄せる波のような、激痛、苦痛。
真っ白な痛みに脳内を支配された鎌足は、自分たち三人の身体に一体何が起こっているのか、今だに理解が追いつかなかった。
臓腑で沸騰した血が、喉を逆流する。
咳と共に吐血が止まらない。
焼けるような痛みを伴う喉、そして腹。
鬼切丸を持つ右腕が激しく震える。
左掌で喉や胸を掻きむしった後、腹を押さえながら鎌足は再び崩れ落ちた。
そして唸り声と共に畳の上をのたうち回った。
(⋯⋯が、う、ががが⋯⋯がぁ⋯⋯があああっ」
呼吸は荒々しく、目は更に細かく血走り、苦しみの涙が止まらない。
そして声にならない絶叫⋯⋯意味不明な何かを叫んだ後、そのまま土間へと転がり落ちた。
鎌足たちは機密性を重視して、本来の宿の建物や大通りからは離れにある、一軒家を借りていた。
この時刻では他の宿泊客たちは、ほとんどが旅路へと出発しているはずだった。
大声で助けを呼ぼうにも、その声は耳の遠くなりかけている年老いた女将にも届かない。
むしろ喉の激痛で、普段のように声を発することすらもままならない状態だった。
「⋯⋯み、みず、⋯⋯水ぅ」
焼ける喉を少しでも潤そうと、鎌足の身体は水を欲していた。
水を貯めている、板場(※調理場)の端に置かれた円筒状の大きな水瓶へと、震える手を伸ばす。
そして力を振り絞って懸命に這っていく。
普段なら何のことはない、ほんの僅かな距離。
しかし今の鎌足にとっては、その僅かな距離でも、数十間もの長さに感じずにはいられなかった。
ようやくにして水瓶の元に辿り着いた鎌足は、水瓶に飛びつき抱きつくようにして、急ぎ慌てて蓋を外した。
⋯⋯だが、しかし。
水瓶内に水は一滴も残されていなかった。
(⋯⋯え!? 何で⋯⋯? 昨日⋯⋯いや、ついさっきまでは⋯⋯あんなにたっぷりあったはずなのに⋯⋯、朝餉の支度で⋯⋯使っちゃったのか!?)
水が無ければ、喉や臓腑の洗浄はできない。
想定外の光景に、唖然呆然とする鎌足。
そんな鎌足を、また新たな痛みの波が襲う。
「⋯⋯がッ⋯⋯、あ⋯⋯ぐうううッッッッ!!」
⋯⋯意識の混濁と激痛のために、この時の鎌足は全く気付いていなかった。
水瓶の裏側の底横には、小さな穴。
自然とひび割れたものではない。
鋭利な何かで、”意図的“に、空けられた穴。
水瓶は明らかに、人知れず中の水を抜くために、何者かの手によって細工を施されていた。
今、水瓶の中には、鎌足たちの命を繋ぐ”水“は無く、瓶にはただ“絶望”という言葉しか残されてはいなかった━━━━。
第36話も最後までお読み頂きありがとうございました。
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改稿履歴は全て誤字脱字等の訂正です。内容は全く変わっていませんので御安心ください♪(いつも無数の誤字脱字ばかりで、すみません)
次回の第37話は、明日、3月12日投稿予定です。




