第31話 不知火 〜白〜
【登場人物紹介】
不知火綾麿━━━━
従三位中将。不知火流という恐るべき剣の使い手。謎の妖刀『村雨』を時の帝から拝領し、御所警備の西番を任されている。江戸の徳川政権を何故か激しく憎んでいて、鎌足たち御庭番衆の援軍を快く思ってはいない。御所を去る鎌足たちの影の中に、鬼の気配を察知する。
蒼炎鬼━━━━
蒼鬼の上級鬼『修羅』の一鬼。蒼鬼の総大将 蒼極鬼の命令で京都御所の番頭の実力を探る。地獄の蒼の火の山から召喚した蒼炎の秘術と剣技を使う。番頭の少将麒麟を急襲するが、それは麒麟ではなく綾麿だった。
━━━━蒼炎鬼が勝ち誇った笑みを浮かべ、次の標的として狙いを定めた御所に向かい歩み始めた、まさにその時。
⋯⋯「⋯⋯勝ち誇るのは早いぞ、蒼炎鬼。⋯⋯麿はまだ生きている」⋯⋯
《⋯⋯!? なにぃ!? この声は⋯⋯、まさか!?》
焼滅したはずの綾麿の声が何処からともなく響き、そして蒼炎鬼が身構えた瞬間だった。
村雨を懐に抱き、両腕と裾で顔を覆って身を屈めた綾麿が、猛る炎の海の中から飛び出してきた。
狩衣にまとわりついた、蒼炎の流星の火の粉が風に靡き、綾麿の身体を離れて飛散していく。
身を低くした綾麿は、草履を激しく滑らせながらも、何とか両足で無事に着地していた。
《⋯⋯ッ、あの波状攻撃全てを凌ぎ切ったというのか!?》
生還した綾麿の姿を見て、蒼炎鬼の顔が勝利の確信から一変、驚きに歪む。
しかしすぐにその顔はすぐに元の強気な表情に戻っていく。
《⋯⋯ふふふ、⋯⋯面白い、愉しくて身震いする、⋯⋯いいぜ、いいぜ》
蒼炎鬼の顔には、まだ余裕が残っていた。
まだ生きている綾麿のしぶとさやその体捌きに、感嘆の吐息を漏らしさえもしていた。
そして悦にふけった薄笑みと共に、綾麿に向けて再度拍手を送った。
《⋯⋯はははははは、⋯⋯おうおう、人間にしてはなかなかどうして、素晴らしい。⋯⋯これは外れなんかじゃない、大当たりだぜ、こんなに愉しめるとは思わなかった。⋯⋯人間にしておくには勿体無いほどのその動き、強さ。⋯⋯久々に良い魂に巡り会えた。葬魂を仕掛けて、俺の新しい身体として乗り換えたいくらいだ》
相手を小馬鹿にしたような、蒼炎鬼からの見下しの拍手、嘲笑。
そして舌舐めずりと共に、煌めく“略奪者”の目。
それでも綾麿は地に腰を屈めたまま、依然として無反応だった。
その顔は少し俯き気味で、その表情までは窺い知れない。
「⋯⋯⋯⋯⋯」
狩衣の袖や裾についた煤や焦げ跡を、所々に軽い火傷を負った手で、ぽんぽんと払い落としている。
《⋯⋯折角俺が讃えてやってるのに、だんまり、か。愛想が悪いな。人間、ってのは愛想良く泣き喚きながら、鬼に媚びへつらうもんだぜ。⋯⋯なら、これでもだんまりでいられるか?》
称賛の拍手から一転、不機嫌な表情へ変わった蒼炎鬼が、蒼炎が猛る両の掌を握りしめて拳を作り、その腕と拳を返す。
そして握られた両の拳に邪念を込めると、まるで五指を弾くように勢いよく掌を広げた。
左右の五指から放たれた新たな二つの蒼炎が、六十間(※約100m)程先の綾麿に向かって真っ直ぐに飛んでいく。
二つの蒼炎は間合いの三分の二⋯⋯残り四十間程に到達したところで、その一つの向きが突如として変わる。
左手から発した蒼炎は、急に弧を描いて上空高くにまで舞い上がり、炎が羽ばたいた。
右手から発した蒼炎は、そのまま地上低くを速度を増しながら、炎と共に駆けていた。
⋯⋯上空を羽ばたいた蒼炎は、まるで炎が命を宿したかのように、翼を広げた蒼き火炎の鳥に。
そして地を駆ける蒼炎は、野に放たれた蒼き火炎の獣に化していた。
《⋯⋯見たか! これぞ俺のとっておきの技、跋扈⋯⋯蒼炎獣!》
鋭い火炎の爪を立て、鷹のように上空から綾麿に襲いかかる巨大な蒼炎の鳥。
猛る火炎の牙を向け、狼のように地上から綾麿に襲いかかる巨大な蒼炎の獣。
地上の獣がまず先に綾麿に到達し、雄叫びと共に飛びかかった。
綾麿はその獰猛な蒼炎の牙を、身体に届く既のところで身を翻してかわす。
しかし牙をかわした直後、次は上空から蒼炎の爪が迫ってきていた。
綾麿が再び身体を素早く翻す。
綾麿の纏う狩衣の袖が、激しく風を切る。
⋯⋯間違いなく身体に食い込むと思われた空からの爪の襲撃も、綾麿は巧みに身体を回転させて、爪が身体へとかかる間一髪のところで避けきっていた。
しかしその時既に蒼炎の獣は、五十間ほど駆けた先で鋭く向きを変え、再び綾麿に向かって駆け出していた。
綾麿を掴み切り裂き損ねた蒼炎の鳥は、再び空に急上昇すると、綾麿の背後へとまわるように旋回する。
牙と爪の初手の攻撃を何とか避けた綾麿だったが、この二体の蒼炎の野獣に、再び前後から挟み撃ちにされようとしていた。
夜空の一部が昼間のように煌々と輝き、しかも翼を羽ばたかせて動いている。
この上空を自在に飛翔する奇怪な蒼い炎の鳥の出現に、道沿いの公家屋敷の中は、住人たち皆が夜空を見上げながら奇声をあげ、どの屋敷も大混乱に陥っていた。
(「ひゃあっ、炎の鳥じゃあ、鳳凰じゃあぁ⋯⋯!」)
(「もうおしまいじゃあ、誰か助けてたもぉ⋯⋯!」)
しかし、この蒼炎鬼の恐ろしい炎の秘術、今度は同時に迫りくる炎の鳥獣を前にしても、綾麿は相変わらず何も言葉を発しない。
やや視線を下げながら、その場に固まったように佇んでいる。
蒼炎鬼との戦いが始まってから、綾麿は手にした村雨をまだ一度も抜くことができていなかった。
村雨を抜こうとはしない、いや、手が震えて抜けないのか。
そんな綾麿の姿は、悪足掻きの果てにいよいよ勝負を諦めて、死を覚悟した者のように見えたのだろう。
蒼炎鬼の言葉に一気に殺意が込められる。
《⋯⋯さあ! 蒼炎獣よ。既に死を覚悟したその男を喰らうがいい! ⋯⋯肉だけでなく、その骨の髄までをも焦がし尽くせ!!》
天と地から同時に襲いかかる蒼炎の獣。
既に辺り一面、火の海。
今度こそ逃げ場はない。
蒼い炎の爪と牙が、綾麿に迫る。
蒼炎鬼は、綾麿の無残な死に様と愉しい余興の終わりを確信して、悦楽に満ちた蒼い瞳⋯⋯そして銀色の眼を見開いた。
⋯⋯しかし。
「⋯⋯大道芸は、それで終わりか」
今度も綾麿の瞳は死んでいなかった。
ゆっくりと目線を上げていく綾麿、その顔には御所で鎌足に見せていた、あの“不敵な微笑み”が浮かんでいた。
綾麿はこの戦いで初めて、鞘の柄に右手をかけた。
そして。
⋯⋯村雨を静かに抜いた。
刃を抜いた後の鞘。
それを、そのまま左逆手で握る。
数多の鬼の血を吸ってきたと伝えられる村雨の刃、そして鞘が、満月の光を受けて、力を宿すようにその輝きを増していく。
綾麿の左右の掌の中の村雨が、蒼く白く美しく煌めいた。
「鳳凰の化身⋯⋯村雨に、火遊びの鳳凰とは笑止」
《⋯⋯なにッ!?》
⋯⋯次の瞬間、綾麿の両腕から凄まじい速さで村雨が振り抜かれた。
右の村雨の刃は、地を迫る獣を。
左逆手で天空に振り上げた村雨の鞘は、空を舞う鳥を。
二匹の炎の鳥獣をほぼ同時に捉え、⋯⋯そして粉々に打ち砕いていた。
蒼い火の粉と化して飛び散る、鳥と獣。
蒼い血のような火の粉が振り注ぐ中、村雨の刃と鞘を持ちながら、綾麿は蒼炎鬼に妖しく微笑みかけた。
「⋯⋯戯れはそろそろ終いとしよう、⋯⋯来い、蒼炎鬼」
《⋯⋯ま、まさか⋯⋯!? 蒼炎獣が一撃で二体とも同時に粉砕されるとは!? ⋯⋯何という恐るべき奴⋯⋯ぐ⋯⋯ぐッ⋯⋯っふふふふふふ、⋯⋯面白い、ますますその力、身体⋯⋯、そしてその村雨も欲しくなったぞ!!》
蒼炎鬼の中に鬼としての生来の邪欲が沸き上がる。
蒼炎獣を一撃で粉砕された驚きは今、⋯⋯葬魂の術で魂を奪うに値する、魅惑の獲物を久しぶりに見つけた喜び、⋯⋯そんな鬼にしか分からない狂気の高揚感に満たされていた。
蒼炎鬼は、今度は左右の掌を、横ではなく縦に合わせた。
そしてその掌を上下に離していく。
上の掌と下の掌が広がるにつれて、生まれ出でた蒼炎が細く長く引き伸ばされる。
蒼炎鬼が生成した炎⋯⋯それは妖火を纏う蒼い炎の剣と化していた。
《⋯⋯これぞ地獄の蒼の業火で造られた俺の究極の奥義、烈火蒼炎剣⋯⋯、先程の蒼炎獣のような訳にはいかん。人間の貴様に果たして受け止められるかな》
蒼炎鬼がこの禍々しい邪剣⋯⋯蒼炎剣を掲げ、試し斬りでもするように左右に空を斬る。
たったそれだけで、周りの空気が焼き裂かれる音が響き渡った。
蒼炎鬼は炎の妖術の類だけではなく、剣技にも自信があるのだろう。
蒼炎剣の炎を熱く滾らせながら、村雨を左右に下げて構える綾麿の懐に飛び込んでいった。
《⋯⋯その魂、この俺が頂いた!》
綾麿は鞘を持ったまま、右の村雨の刃だけで応戦する。
刃と刃。
村雨と蒼炎剣。
まさに文字通りの火花が散る、激しい剣檄が何度も交差した。
蒼炎剣の蒼の炎は、今まで繰り出してきたどの火炎の技よりも凄まじかった。
綾麿に向けてふりかざすだけで、その刃から迸った蒼い火種や波動は、通りを越えて隣接する公家屋敷や木々にまで火の玉のように飛び火し、通りの何軒もの屋敷が更に炎に包まれていった。
何十度目かの村雨と蒼炎剣の激しいぶつかり合いの後、両者は刀を弾き、それぞれ後方に飛び退き距離を取った。
一進一退、勝負は互角。
⋯⋯のように見えた。
しかし、実際は互角ではなかった。
蒼炎鬼が明らかな動揺を見せ、狼狽し始める。
その顔からは完全に当初の余裕は消えていた。
《⋯⋯ッ!? な、何故だ! 相手は片手は鞘で塞がっているというのに、何故、俺の蒼炎剣が人間界の刀一本、押しきれない!? ⋯⋯何百万人、いや何億人と亡者を焼き尽くしてきた、地獄の炎が⋯⋯、何故この男には通じない!?》
「⋯⋯どうした? そこまでか? ⋯⋯麿の身体を葬魂の術で手に入れるのではないのか? 確か自分がつけた傷や痛みは、魂を奪って蘇れば消えるんだったな? ⋯⋯然らば、遠慮はしなくてもよいではないか」
《⋯⋯な、何ぃ!? くっ、生意気な! ⋯⋯だが、どうして葬魂の”痛み“の事を知る!?》
「⋯⋯ふっ、ついでだ、ならば麿も一つ二つ聞く。⋯⋯蒼の羅生門、その本道は京都の何処にある? ⋯⋯そして何故帝との評議や東西南北四番の配置を知る? 情報をどうやって手に入れた? ⋯⋯いや、”誰“から手に入れた?」
《⋯⋯ぐうっ、⋯⋯知っていても言うか!》
「⋯⋯そうか。⋯⋯羅生門はともかく、もう一つの質問はうっかり口を滑らすかと思ったが、⋯⋯まあ、よい。ならば麿も葬魂の術を知り得ている理由は明かさぬ。⋯⋯当初の番や評議の日取りを知りえる重要な立場にあり、今朝の変更を知らない御所外部の人間。⋯⋯そのような者はたった“五人”しかいない。その内の誰かだ。それだけ読めれば今は十分。⋯⋯情報提供、西番頭として心より感謝する」
《⋯⋯な、何だと!? ⋯⋯き、貴様、人間の分際で⋯⋯、西⋯⋯だと? 北と南だろう!? ⋯⋯たかだか警備の番頭如きの公家が、調子に乗りやがって!!》
「⋯⋯そうだ、ならば情報の礼として、逆に一つ良いことを特別に教えてやろう、⋯⋯麿は実は麒麟ではない。麒麟はこの麿よりも若く、小さく、そして何よりも小生意気な顔をしている。黙っていて悪かったな。⋯⋯そして蒼炎鬼よ、この戦い、御前の負けだ」
《⋯⋯な、何ぃ⋯⋯、き、貴様、麒麟ではないだと!? ⋯⋯それに、俺の負けだぁ!? 》
「⋯⋯我が不知火流は、言わば日本の生者の生命の炎を司る流派⋯⋯。そして鬼を斬るために生を受けた、この妖刀『村雨』は、生まれながらにして斬鬼の炎を刃と鞘に宿した、二本の剣⋯⋯」
綾麿が、左逆手に持つ鞘の鳳凰の彫りに、右手の刃を走らせる。
すると一筋の火の閃光が走り、刃と鞘⋯⋯”二つ“の村雨は、どちらも蒼と白の炎に包まれた。
この蒼と白の猛炎は、刃と鞘にうねるようにして纏わりつき、綾麿の左右の腕の動きに合わせて、刀と鞘と共に炎の渦を巻きながら猛り狂った。
「所詮は地獄の炎は“死者”の焔。この儚い現世で懸命に生きる、”生者“の命の火には勝てはせぬ」
⋯⋯それは蒼炎鬼の蒼を超えた、灼熱の”蒼白“。
目の前の蒼鬼を滅しようと燃え盛る、二本の焔の剣だった。
《⋯⋯がッ、⋯⋯そ、そんな、⋯⋯まさか!? 俺の炎よりも強く熱く⋯⋯!? そ、そんな事が⋯⋯、こ、ここは地獄ではない、人間界だぞ、⋯⋯そんな事が現実に起こり得るはずがない!!》
動揺と狼狽で、身体が勝手に後退りする蒼炎鬼⋯⋯。
⋯⋯その油断した懐に目がけて、綾麿は蒼白の焔が滾った村雨“二刀”と共に飛び込んだ。
それはまさに目にも止まらない速さ。
その攻撃の狙いは、蒼炎鬼の首筋。
綾麿の真刃と鞘刃が月夜に煌めいた。
蒼炎鬼もただ黙ってはいない。
咄嗟に蒼炎剣を翻し、村雨の蒼白の両刃を受け止めた。
三本の炎の刃が、再び激しくぶつかり合う。
しかし、炎の大きさ、強さ、そして生死を賭けた戦いを生き抜く“力”⋯⋯潜在妖力の差は歴然だった。
三本の刃、その内の一本が無残に砕け散った。
それは、蒼炎剣。
火の粉と化して飛散する蒼炎剣の雨の中。
右の村雨『真刃』で蒼炎鬼の左首に、逆手左の村雨『鞘刃』で蒼炎鬼の右首に、綾麿は蒼白の切っ先をそれぞれ当てがった。
《⋯⋯ば、馬鹿な!? 俺の無敵の蒼炎剣がァァァ!? ⋯⋯が、ぐぐ、そしてこれは何だ!? ⋯⋯く、首が⋯⋯左は俺の身体よりも熱く、右はこ、凍えるくらいに⋯⋯》
「⋯⋯この村雨の真刃は冷気を超えた灼熱の蒼火を、⋯⋯そして村雨の鞘刃は灼熱を超えた冷気の白火を、その身に纏っている。⋯⋯残念だったな、これで終わりだ。七十年前の紅鬼たちと同様に、蒼鬼たちにも日本への侵略は諦めてもらう」
《⋯⋯この俺が⋯⋯人間なんかに、⋯⋯負ける? 何の冗談だ⋯⋯、その剣の腕、強さ、地獄の炎を上回る技⋯⋯、それに麒麟では無いだと⋯⋯? ⋯⋯ならば貴様は一体何者だ!? ⋯⋯ッ、ま、まさか⋯⋯!?》
「⋯⋯この京都を⋯⋯日本を、悪鬼羅刹や修羅どもから護るが宿命、⋯⋯日本『六歌戦』が一人、不知火中将綾麿⋯⋯」
《⋯⋯ひ、ひっ、⋯⋯ちょ、ま、まて⋯⋯ろ、ろ、『六歌戦』!? ⋯⋯中将綾麿!? 御前は今頃は御所の当番のはず!? ⋯⋯ぐ、ぐおぉおぉぉぉお⋯⋯、これは夢か幻かぁ!?》
「⋯⋯そう、春の夜のひとときの夢かもな」
綾麿は両の手の刃に力を込めた。
「⋯⋯散れ」
真刃と鞘刃⋯⋯二つの炎の刃に挟まれた、蒼炎鬼の首が空を舞う。
そして首を失った蒼炎鬼の身体は、葬魂の術で奪われた人間の骨へと徐々に変わり、骨もまた時の流れが一気に動き出すように灰へと代わり、最後は転がる首も横たわる身体も蒼い霧となって、再び吹いた一陣の春の風と共に夜の闇の中に消えていった。
蒼白の焔が消えた二つの村雨を、綾麿はゆっくりと下ろした。
そして蒼炎鬼の消え行く最後の灰と霧を見下しながら、悠然と呟いた。
「⋯⋯安心しろ、相手が麒麟だったとしても御前は負けていた。⋯⋯羅生門を迷い出た時から、滅する運命は決まっていたのだ」⋯⋯⋯⋯
⋯⋯⋯⋯周囲の木々や屋敷を包んでいた蒼い炎も、蒼炎鬼の消滅により、その火勢全てが消え去っていた。
(⋯⋯背後にいた蒼の羅刹、残り一鬼の気配は既に消えている⋯⋯、是非もなし。⋯⋯さて、とりあえずは別邸に戻り、輝里を待つとしよう。⋯⋯鎌足のほうの蒼鬼を斃しに向かう準備を整えねば)
綾麿がふと横に目をやる。
其処には、公家屋敷の裏口の戸から綾麿を眺めている一人の少女が居た。
それは⋯⋯炎に慌てふためく親や屋敷の住人に隠れ、綾麿の蒼鬼との戦いをそっと覗いていた、あの少女。
少女は綾麿をじっと見つめながら、恥ずかしそうにもじもじとしている。
そんな少女に、綾麿は優しく微笑みかけた。
「⋯⋯もう大丈夫。⋯⋯安心して早く休みなさい」
それは、蒼炎鬼に見せていた⋯⋯戦いに生きる者の厳しい顔でもなく、鎌足に見せていた⋯⋯あの狂わしさと怒りと嘲りに満ちた顔でもなかった。
⋯⋯もう一つの綾麿の顔が其処に在った。
少女の顔が綻んだ。
「⋯⋯ありがとう、綾さま、村雨さま」
焼けた焦げた通りの地面が、艷やかに光る。
⋯⋯炎の代わりに、いつのまにか霧雨がその場を包んでいた。
「⋯⋯村雨、か。⋯⋯今宵も今、また何処かで、女子が哀しみの涙を流しているのかもしれんな⋯⋯」
村雨をそっと納刀した綾麿は、狩衣や袴に付いた煤や焦をぽんぽんと軽く払い落とし、どこか寂しげに深く一息ついた。
そしてまるで何事も無かったかのように、また別邸に向かってゆっくりと歩き出していった。
公家屋敷の裏口から、再び少女の声が聞こえた。
恐怖は全て遠くに消え去った、安心しきった穏やかな声だった。
⋯⋯その声は、去りゆく綾麿の背中に向けて、市井の流行り和歌で改めて感謝の言葉を伝えていた。
宵待ちの 霧に匂える 知らずの火
胸ぞ焦がれし 天の村雨_______
(日が暮れた後私は大切な貴方の帰りを待っています。霞んだ霧の向こうで鬼を斬る炎がぼんやりと見えます。あの炎はきっと今も村雨の刃で私を守っている証なのでしょう。離れた私の胸も熱く焦がされる程に、空を見上げては貴方を想い憧れた、そんな通り雨の一夜でした)
その昔とある”誰か”が詠んだ、綾麿を讃えた歌だった━━━━。
第31話、「不知火」の後半部分も最後までお読み頂きありがとうございました。
創作の励みになるので、ブックマーク、評価、感想等、お待ちしています!
改稿履歴は全て誤字脱字等の訂正です。内容は全く変わっていませんので御安心ください♪
次回、第32話「生と死」は、3月4日公開予定です。




