第16話 村雨
【登場人物紹介】
伊賀の鎌足━━━━
江戸城の公儀御庭番伊賀組の小頭の女忍。伊賀流鎖鎌の使い手。幻斎に授けられた、七十年前に鬼を滅した伝説の刀『鬼切丸』を手に、鬼が現れた京都御所に援軍として派遣される。裏では朝廷側の探索の密命も帯びる。
━━━━鎌足の向かい正面の壁、二間(※約4m)程の高さに刺さった鬼切丸は、紫宸殿から一切の雑音を奪い取っていた。
つい今しがたまで、鎌足に対してやんややんやと騒ぎたてていた公家たちも、ぽかんと大きく口を開いたまま、今は誰一人として言葉を発しようとはしない。
下座の鎌足の位置からは、滑稽にも御歯黒の歯茎だけが、左右にずらりと列を成しているように見える。
紫宸殿の中は、圧倒的な静寂に包まれていた。
⋯⋯どれ程の刻が流れただろうか。
永遠に続くと思われた静寂を破り、一人の公家が声と肩を震わせながら、恐る恐る言葉を発した。
「な! な、何という大胆で恐れ多い事を⋯⋯、し、神聖なる紫宸殿で麿たちを面と向かって罵ったばかりか、帝を⋯⋯、日本に、刃を向けるとは!」
(⋯⋯⋯⋯、はっ)
日本に刃を向ける⋯⋯、その言葉を耳にして、鎌足の荒ぶっていた意識も、長い静寂の旅路から紫宸殿へと再び戻ってきた。
鎌足は、はっと我に返った。
(⋯⋯しまった、怒りに任せてやってしまった)
冷静さを取り戻した鎌足の心に、唐突に後悔の念が湧き上がってきた。
(あ、まずい。は、早くも⋯⋯、全てが終わった⋯⋯)
壁に突き刺さり、凄まじい軋みを見せた鬼切丸のように、鎌足の脳内には今、“任務失敗”の文字が幾重にも響いていた。
「御使者殿よ、今しがたの蛮行、そなた何をしでかしたか分かっておられるかや? この国を揺るがす大問題ぞ! まさに帝への反逆行為。⋯⋯帝よ、この下賤な不埒者への即刻の捕縛をお下しくだされ」
(((⋯⋯沈黙の刻は、もう終わりだ⋯⋯)))
(((後はこの無礼な使者、鎌足の処罰だ)))
鎌足を恐れて口を閉ざしていた公家たちの中に、そんな仕返しの空気がじわじわと湧き始め、紫宸殿内が再びざわつき出した。
(ああ、これはもう駄目だ。最悪、死罪かも。良くて隠岐か佐渡あたりに流刑か⋯⋯、甚左ぁ、平次ぃ、大吾ぉ、⋯⋯ごめん、もう会えないかも)
項垂れた鎌足が、顔面蒼白で覚悟を決めかけた時だった。
「━━━━皆々様、静まられい!」
凛とした力強い声が飛び、一瞬にして再び紫宸殿に静寂が戻った。
(⋯⋯っ!?)
その声の先は、居並ぶ公家たちの最上位、上座。
御簾の外、帝に一番近い位置に座している、武官と思われる男からだった。
「皆々様、戯れはいい加減にしなされ。先程から黙って聞いておれば、悪ふざけが過ぎますぞ。⋯⋯この紫宸殿で刃を抜くは、確かに許されざる行為。それが誰であっても、この近衛大将兼季、決して見逃すことはできませぬ。⋯⋯だが、⋯⋯此度御使者が刃を抜いたは、此処に居並ぶ皆々様の度を越した悪ふざけの言葉が原因。⋯⋯ならば、この言葉の刃の咎もまた見逃すことはできぬ」
整った顔立ちやきりっとした眉が印象的なその男は、他の公家たちとは異なり、白粉や御歯黒はしていない。
そして飄々と弱々しい他の文官の公家たちとは違い、力強く凛とした風格を醸し出していた。
(⋯⋯今、大将と言ったか? 歳もまだ二十半ばから後半のように見える。かなり若いのに武官の長なのか?)
鎌足を揶揄しかけていた空気が一変したことから、口にした大将という役職の位の高さや、その発言力の強さが見てとれた。
「江戸の御使者殿、大変に失礼した。この度のこれらに並ぶ文官たちの御無礼の数々、この近衛大将兼季が代わりに謝りまする。今程の刀の件は不問に致す故、どうか平に御容赦を。互いに水に流しましょう」
「あ、はい、勿論。鬼切丸を投げてしまった事をお許し頂けるのなら、水にでも川にでも何でも流します。全て近衛大将様のお考えに従います」
(良かった、渡りに船。どうやら助かった⋯⋯)
鎌足は心の底から安堵した。
そんな鎌足と兼季のやり取りを、文官の公家たちは、指を噛んだり眉をひそめたり、挙って苦々しく見つめていた。
「⋯⋯御使者殿、改めてになるが、姓名は何でしたかな?」
「あ、伊賀の鎌足と申します」
「鎌足殿か。女子の身でありながらもこのような大儀。心から感謝致しまする。鎌足殿は既に御存知かと思うが、此処京の都は古より格式高き神社仏閣が集まっている影響なのか、千年もの前から何度も鬼の侵略を受け続けている。七十年前に一度抑え込んだ鬼たちだが、この年明け頃から徐々に天が乱れ始め、更に一月半程前から目に見える怪異も起こり始めた。この内裏や京の町の周辺に散発的に蒼鬼が現れては人を喰らい町を破壊し、帝や人々を震え上がらせているのだ」
「はい、大体のことは江戸へ届いた親書を読ませて頂き、存じあげております」
「⋯⋯一月半。たったの一月半ながら、既に多くの警備兵や町の人々に犠牲が出ている。広い内裏に広い京の町。正直な所、何処から現れるか分からぬ鬼に対抗するのは、人手が全く足りないのだ。それ故に私は、内裏の警護を預かる責任ある者として、正真正銘に心からの助けを願っていたのだ」
「そうだったのですか、なるほど。辛い胸の内、お察し致します」
「本日の急な謁見の儀、帝の遅延も本当に失礼致した。本来四月十三日の予定だった所を、宿へ送った親書をしたためた者から、『”十“の二本線を間違えて縦に分けて並べてしまい”八“と書いてしまった、隣の”三“の三本線もうっかりと書き忘れてしまった』との報告が急にあってな。私も帝も予定を調整するのに一苦労。それ故に慌ただしい参上になってしまったのだ。その親書をしたためた者へは、二度とこのような非礼が無きよう、厳重に注意を致した故、この件もどうか許して頂きたい」
(⋯⋯そんな間違い、ある? 嫌がらせじゃないの!?)
などと声を荒げることなど出来るわけもなく。
鎌足は心の声を我慢しながら、平静を装った。
「十を、八と⋯⋯、あと三本線の書き忘れですね。⋯⋯わ、わかりました。誰にでも間違いはあります、気にしてはおりません」
大将という高い地位ながら、兼季は下座の鎌足に頭を下げていた。
その姿からは、真摯な謝罪の気持ちと、実直な性格が伝わってくる。
(この大将の兼季という方。嫌がらせの主では無いな、それだけは分かる。⋯⋯どうやら嫌がらせの首謀者は、此処に居る文官、皆らしいな)
鎌足はこの京都への旅の最中、甚左から聞いた話を思い出していた。
今の帝は従来通り文官の家柄は重んじつつも、武官に関しては門戸は開放し、日本広くから武芸や先見の知に優れた人材を集め、積極的に登用しているらしい。
また位を高低を問わずに武官や文官に対しても、内裏で漫然と地位や権力に甘んじることが無いように、他国諸藩での剣の修練や知識の習得も推奨している、とのことだった。
(まあ、此処に居る文官たちが率先して何かを学ぼうとしているとは、到底思えないけど)
もしかしたら、この兼季という名の武官大将は、全国から集められた優秀な剣士、そして向上心にも富んだ武官の一人なのかもしれない。
(この方は文官みたいな独特の公家訛りがあまり感じられない。生まれか育ちは京都以外なのかもな。それか諸藩での剣の修業の過程で、訛りが落ちたか。何れにしてもこの列席する得体の知れない御歯黒どもよりはまともな人間。話がわかる御方だ。良かった)
「⋯⋯鎌足殿。ちなみに剣の腕前のほうは? 忍という事だが、江戸を代表してお越し頂いているという事、そして先程刀を投げた身のこなしの素早さから推し量るに、その剣腕、かなりのものと見た。どうであろう?」
「将軍家御留流、柳生新陰を多少は嗜んでいます。⋯⋯が、本家の柳生新陰流の方々や、江戸城での御前試合で十人抜きをされる程の達人など、天下に名を轟かしている剣豪は大勢いらっしゃるので、あまり大口は叩けません。⋯⋯とは言え、伊賀忍に伝わる鎖鎌の技ならば、誰にも負けない自信があります」
鎌足の力強い言葉を聞いた兼季は、嬉しそうに微笑んだ。
「それは素晴らしい。真に助かる。忍の鎖鎌か。きっと鬼との戦いにも役に立とう。⋯⋯改めてお願い致す、当御所の警備に是非とも加わってはくれぬか、鎌足殿」
「はっ、ですが此処にいらっしゃる高家の皆様が、どう仰るか⋯⋯」
鎌足は再び左右に目を移し、居並ぶ公家たちの顔をじろりと眺めた。
「あひゃっ」「わわっ」「ぎゃぎゃっ」「ひええっ」
公家たちは口々に狼狽しながら、全員が鎌足から目を逸らしている。
そんな公家たちを愉しそうに一瞥した兼季は、笑顔のまま明るく言葉を続けた。
「⋯⋯なに、御心配めされるな。帝からは内裏の武官や警備役の人員配置の全ての権限を任されている故、私の決定は帝の御意思でもある。そう思って、ぜひこの京都御所を共に全力で守ることに御同意頂きたい」
鎌足の表情も朗らかに緩む。
「⋯⋯はっ、この伊賀の鎌足と忍の仲間たちで、御帝のお役に立てるならば。謹んでお引き受け致します」
低頭しながら言葉を返した鎌足は、その時思い出したようにあることに気付いた。
(あれ? そう言えば、帝は先程からまだ一言も声を発していないや。此処に居る公家たち同様に私を疎んでいるのか、興味が無いのか。それとも無口なだけなのか?)
鎌足は頭を上げながら、兼季の隣、上座の御簾に改めて視線を向けた。
御簾の先の帝の影。
その輪郭は相変わらずぼんやりとしている。
頭にちらりと浮かんだ猜疑心を、鎌足は一旦胸の奥に仕舞い込んだ。
(⋯⋯まあいいか。正式に警備の役に就任できたら、帝に会える機会もあるだろうし。今は深く考える必要はないな、言葉を発しないのは、きっと私が身分が低いからだろう。一時はどうなることかと思ったけど、とりあえず上手く御所には潜りこめそうだし、第一関門は突破出来た。結果としては全て此方の思惑通りの良い方へ転がっている。此方の真意にも気づかれてはいないはずだ)
朝廷側の兼季には悪いとは思ったが、思惑通りの結果に鎌足は内心ほくそ笑んでいた。
「⋯⋯ところで鎌足殿、今程投じられたあの刀だが」
兼季が壁に刺さったままの鬼切丸に視線を向けた。
「あ⋯⋯(鬼切丸、すっかり忘れていた)」
「あの刀、かなり歪な。⋯⋯歴史を感じるさせる業物とお見受けしたが、あの刀の銘を聞いてもよろしいか?」
「あ、はい、鬼切丸と言います」
その言葉を聞いた瞬間、それまで眉間に皺を寄せて、厳しい目をしながら黙りこくっていた公家たちが、口々に反応した。
「⋯⋯あ、あ、あれが伝説の鬼切丸かや?」
「呪われし刀じゃ、鬼を呼ぶ刀じゃあ」
「古の魔剣じゃ、嗚呼、恐ろしきかな」
鎌足の眼前、左右の列の至る所からざわめきが起こる。
漏れ聞こえてくる声の多くが、鬼切丸を畏怖するものだった。
しかし、その中で幾つか違う言葉も鎌足の耳に入ってきた。
「あの村雨と、果たしてどちらが上じゃろう」
「なんの、村雨よりは劣るわ。村雨こそが真に鬼を滅する刀よ」
「そうじゃそうじゃ、村雨こそが日本一の刀じゃ」
⋯⋯その時、鎌足の頭にふと、昨日の茶店の近くの雑踏の中で耳にした、母子の会話の記憶が蘇っていた。
(⋯⋯ん? あれ? 何処かで聞いたことがあるな。鬼を滅する刀? ⋯⋯昨日の町中だったっけ、⋯⋯むら、さめ。⋯⋯急な強い通り雨とかを意味する、“村雨”?)
脳裏に微かに残っていた記憶。
鎌足がその記憶を辿り始めるのとほぼ同時だった。
申の刻を迎えた時と同じ、近隣の寺院からだろう。
酉の刻━━すなわち暮れ五つを告げるための、内裏でも町中でもありふれた五つの響き、鐘撞き堂の撞木で梵鐘を突いた、第一の鐘の音。
その鈍く振動する轟音が、この紫宸殿内に再び鳴り響いた。
気づけば謁見が始まってから、既にかなりの時間が経っていた。
その第一の晩鐘に、居並ぶ公家たち全員の表情があからさまに一変する。
「ぎゃああ、酉の刻、暮れ五つじゃ!」
「おおお、羅生門がもうすぐ開く⋯⋯」
「嗚呼、恐ろしや、嗚呼、恐ろしや⋯⋯」
「はよ、はよ、御所から早う離れねば!」
公家たちは狼狽しながら、一斉に立ち上がった。
その誰もが、暮れ五つの鐘の音に”畏怖“していた。
そして我先にと出口へ殺到し、足早に紫宸殿を出ていこうとする。
渡殿へと繋がる紫宸殿の扉は、通る隙間もないくらい公家たちでぎゅうぎゅう詰めになっていた。
その間も鐘の鐘は、第二、第三とその鈍い音を重ねていく。
離れた鎌足からもはっきりと見てとれる程に、つい今しがたまで熱弁していた兼季の顔にも、明らかな緊張が浮かんでいた。
「⋯⋯っ、帝! 早く寝所、清涼殿へとお戻りください。私が付き添い、案内致します!」
兼季は御簾の中にぼんやり浮かぶ人影に向かって声をかけると、下座を振り返って鎌足にもこう告げた。
「⋯⋯鎌足殿よ、思いの外に謁見の儀が長くなってしまい申し訳ない。あと半刻(※1時間)も経たぬ内に”暮れ六つ“を迎えてしまう」
「“暮れ六つ”? それが何か? 何か重要な意味があるのですか⋯⋯?」
身を乗り出した鎌足の問いかけに、兼季は厳しい表情のまま答えた。
そしてそれは、鎌足がこの謁見の儀において、最後に耳にした言葉となった。
「夜の帳が降りると共に、鬼たちが最も活発に動き出す夕刻となる。⋯⋯本日の謁見の儀はここまでとさせて頂きたい。帰りの案内役をすぐに呼ぶ。本日の所はお引き取りを。⋯⋯当御所の護衛の番に関しての詳細は、明日にでも改めてまた御連絡致そう」━━━━。
━━━━五つの晩鐘が鳴り終えた後、紫宸殿は、今度こそ永遠とも思える静寂の刻を迎えていた。
仄かに紅く染まり、薄っすら蒼い月が浮かびゆく空。
京都の町にも此処御所にも、兼季や公家たちが恐れ慄く夜の帳がそっと忍び寄り、もうすぐ今日という日の終わりを告げる、“闇”と言う暗幕を下ろそうとしていた。
紫宸殿に座しているのは、鎌足だけになっていた。
あの賑やかさや煩さが嘘のように、左右の席も上座もがらんとしている。
帝は兼季に守られるようにして、参上した時と同じように、屏風や薄垂れ幕で囲まれた通路を通って退席していた。
⋯⋯ように見えた。
鎌足は結局一度もその姿を見ることはできなかった。
今はただ、帝が立ち去った上座の御簾だけが、夕風に吹かれて、かたかたと僅かに揺らめいている。
一人残された鎌足には、その光景はまるでこの世の人間全てが、一瞬にして消え去ってしまった、⋯⋯いや、鬼に喰われてしまったように思えてならなかった。
壁に刺さったままの鬼切丸。
鎌足は立ち上がり、鬼切丸をじっと見上げた。
(⋯⋯帝、⋯⋯鬼、⋯⋯羅生門、⋯⋯暮れ六つ、そして村雨⋯⋯、か)
鎌足は様々な考えを巡らせながら、春の夕風が吹き込み、様々な謎が渦を巻く紫宸殿に、暫くの間ただ一人、立ち尽くしていた━━━━。
第16話も最後までお読み頂きありがとうございました。
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★次回第17話「中将綾麿」は1月24日に公開予定です。




