第106話 黎明
【登場人物紹介】
伊賀の鎌足━━━━
江戸城の公儀御庭番伊賀組の小頭の女忍。伊賀流鎖鎌の使い手。七十年前に鬼を滅した伝説の半刃『鬼切丸』と共に、鬼が現れた京都に援軍として派遣された。裏では極秘に朝廷探索の密命も帯びていたが、”見えざる敵“の侵攻による伊賀危機の報に、一時御所を離れる事を決断する。鬼切丸の残りの半刃を求めて出羽へ旅立つ。
道中訪れた怪村での事件を経て、『六歌戦』燈十郎と知り合い、遂に“見えざる敵”の正体を知る事となる。
御影燈十郎━━━━
浪人笠を被り、背中に般若の割面の絵柄の羽織を纏う剣豪、かつ日本『六歌戦』の一人である人格者。あらゆる剣客武人の頭領の証と名高い、『国士無双正宗』が愛刀。百八の流派の剣技を会得し、京御所から「鬼狩隊」隊長として鬼を遊撃する任を帯びている。基本寡黙だが口を開けば饒舌、笠の下から明朗な笑顔を覗かせる。
━━━━⋯⋯どこまでも広がる暁の大海原。
微睡みの中の瞬きのように、遥か彼方の水平線に今、海と空を二つに割くようにして光が走り、その仄かな線は少しずつ厚い光の帯へと化していく。
此処日本の海に一番近い場所では、そんな朝ぼらけの光を合図に、早くも威勢の良い掛け声が轟いていた。
「おーぃ! 皆の衆ぅー! 一番船が見えたぞ━!!」⋯⋯
人々を照らす日の出は、新しい“今日”の始まり。
そしてそれは、慌ただしい”いつもの一日“の始まりを告げる、海の神である大綿津見神や、太陽の女神である天照大神からの、神々しく美しい挨拶でもあった。
「⋯⋯おーい! ぼやっとするな! その荷物はこっちじゃないぞ、あっちの東行きの船に積むんだ!⋯⋯」
「これはこれは、備前屋の番頭さん。いつも毎度ご贔屓に。今日は良き船日和でよろしおますなぁ⋯⋯」
「今しがた積んだのは米で、こちらに下ろした積荷は赤穂の塩、⋯⋯一、二、三⋯⋯、五百両と⋯⋯」
「⋯⋯全部積み込んだか! 船は待ってくれねえぞ! ⋯⋯っと、おおーい! また別な船が来たぞー!」
「⋯⋯ほど良き追い風だ! さあ、船に帆を掛けよ!」━━━━⋯⋯
⋯⋯━━━━夜が白白と明けていく⋯⋯。
⋯⋯日本の西の経済の中心地。
「天下の台所」大坂港━━━━。
その呼び名が示す通り、港には今日も日の出と共に、樽廻船を中心として様々な商船が出入りしていた。
日本一賑やかで騒々しいと言われるこの大坂の波止場は、人馬に酒や米等の食料、日用品や嗜好品、果ては南蛮の舶来品に至るまで、様々な荷に彩られている。
船乗りや仲買人たち、荷役の手伝いの人足たちの、“いつもと同じ”熱気と活気で満ち溢れていた。
だがこの日に限っては、様子がおかしい。
”いつもと違う“光景が見られた。
船にとっての玄関、波止場は通常は仕事に追われる者たちで慌ただしくごった返している。
しかし今、そんな慌ただしさの最前線に二列で整然と陣取るのは、この喧騒と活況の場にまるで似つかわしくない、落ち着き払った風体の者たちだったからだ。
数にして十数人。
港で下働きするような、低い身分には到底見えない。
その全員が大店の商人風の立派な身なりで、貫禄を携えている。
そしてその表情は誰もが何処か堅く、不思議な緊張感を漂わせていた。
大勢の人足たちを使い、港のありとあらゆる場所から船の入港を確認させているのだろうか。
この商人風の集団には、監視役からの伝達が絶える事はなかった。
「⋯⋯お待ちの船団、まだ姿を見せません!!」
「⋯⋯まだ、まだ御方は到着致しません!!」
代わる代わるやって来ては深々と低頭する伝達役の男たちは、その誰もが同じ報告を告げていく。
⋯⋯“待ち人”も、“待ち船”、も、未だ来ず。
そして伝達役の誰もが、この謎の集団に対する忠節や畏敬の念と、到着を待つ“何者か”に対する緊張の色を垣間見せていた。
この大坂港では当然に船の来航は日常茶飯事。
数隻の船団の入港も、まばゆいばかりの豪華な船の来港も、さほど珍しい話ではない。
にも関わらず、この大勢の商人風の男たちは、何の船を、何処の誰を、こうして大勢の手間までかけながら、熱心にひたすら待ち続けているのか。
周りで働く人足や船乗りたちは、誰もが疑問に思っていた。
自ずと視線はその謎の集団の方へと向けられ、そしてまじまじと訝しげな目を送る。
そして覗き見たその全員が、驚きで目を見開いた。
「⋯⋯げえっ、あれは大坂一の豪商、近江屋さんだ」
「よく見たらあれは俺の雇い主の高砂屋さんやないか」
「あちらの方は大坂商人の総元締、浪速屋さんだぞ」
「周りに居並ぶ人たちも皆名のしれた大商人ばかりだ」
「あれほどの面子が揃いも揃ってご丁寧に出迎えとは珍しい。一体何を、どんな船を待っているんだ?」⋯⋯
⋯⋯口々に噂話が飛び交っていた、この時━━━━。
━━━━⋯⋯「⋯⋯あっ」
見張りの高台で南蛮縁りの双眼鏡を覗き込んでいた航行監視役の男が、得体の知れない”何か“を視界の海に捉え、小さな声を上げていた。
それは昇りゆく陽の光を背にしながら。海と空の境界線辺りをゆらゆらと漂っている、見慣れない船団。
蜃気楼のような無数の船の影だった。
「⋯⋯ん? あれは何だ? 三隻⋯⋯いや、四⋯⋯五隻、いや、まだいる。六、七⋯⋯、十、まさか⋯⋯、もっとだ。二十隻以上の大船団だ!?」
いくら栄えに栄えている大坂港とは言え、二十を超える一船団が一気に来航するのは珍しい。
開港以来、初めての出来事だった。
ともすれば“大事件”とも呼べる光景だった。
しかもこの大事件の前触れを知るのは、この広い大坂港に於いて、まだ自分一人しか居ない。
男の額や掌からは、緊張の汗が止まらない。
双眼鏡を落とさないよう、男は何度も手の汗を拭う。
(⋯⋯落ち着くんだ。正体を確かめなくては)
男は大きく息を吸うと、意を決した。
双眼鏡を掴む指をまだ動揺で激しく震わせながら、改めてその謎の船団を左右の硝子の向こうに覗き込んだ。
「旗を全て隠している。樽廻船ではない。菱垣廻船でもない。商人の船特有の旗なら隠す必要も無いし、ましてや民間船ではない。そして外国船の形でもない⋯⋯。とするとあれは⋯⋯、あれだけの数の船団となると⋯⋯」
その時、その船団の先頭を航行する一際大きな船が、初めて旗を掲げ、風に靡かせた。
その旗印は、━━━━海に刺さる神剣。
男は心を落ち着かせるために一呼吸間を取ってから、生唾を飲み込む。
そして呟いた。
「⋯⋯海賊船だ。⋯⋯瀬戸内海の女海賊、摩耶の船だ」
━━━━この当時、瀬戸内海では商船を襲う海賊たちが傍若無人に暗躍、暴れ回っていた。
その海賊たちの起源は、戦国時代の瀬戸内海における絶対的支配者、”村上水軍“に遡る。
無類の強さを誇ったこの水軍の残党たちは、刻の流れと共に幾つもの派閥に枝分かれし、この瀬戸内の海で競い合うように、各々が独自の武装組織を作っていった。
そしてその果てが海の盗賊団、即ち”海賊“。
海を通る弱者から富を強奪する、海の無法者を生業とするようになっていったのだ。
その残党海賊団の中で特に恐れられた巨大勢力は、狙った獲物の船には容赦を見せない、荷だけではなく乗員の命までも根こそぎ奪う、残虐非道で知られた『熊野水軍』。
この恐るべき水の一族を筆頭に、常日頃から貿易や運搬中の商人の船を度々襲う数多の海賊団は、瀬戸内海の運行の大きな脅威となっていた。
だがそんな強奪者である彼等とは正反対に、商人の船を襲うのでは無く、他の海賊から護る役を担う事で大坂商人たちと太い関係を築き、瀬戸内海や大坂港周辺沿岸に一大勢力を築いた者も在った。
それが、”摩耶“という名の謎の女海賊が支配する、『神凪水軍』と呼ばれる海賊団だった。
略奪を受ける害は無いとは云え、やはり海賊は海賊。
その動向は神出鬼没、しかも主な活動拠点は瀬戸内の海上のため、一雇われ船乗りが願っても、港でも海でもそうおいそれと目にする事ができる船団ではない。
だから尚更に、女ながらに恐れ知らずの猛者揃いの海賊たちを束ねている首領の摩耶は、海を制したその剣の腕や統率力も含め、その存在自体が既に伝説と化しているくらいだった━━━━。
現れた二十隻を超える大船団の中には、軍艦と言って良い程に武装された船も幾つかある。
商人の船を護っている者たちとは言え、相手は海賊。
その大船団の威風堂々とした入港を受けて、大坂港は一気に色めき立ち、騒がしくなる。
そして誰しもが波止場から船を見上げ、その荘厳で重々しい船団に感嘆と驚きの声を上げていた。
船団を率いる中央に位置する船は、特に豪華かつ重装備だった。
刀や弓を手にした大勢の海賊たちの乗船が見えるのは勿論、船を覆う防御用の鉄甲、甲板から覗く攻撃用の弓矢や火砲の数の多さなど、この大船団の中で一際強烈な異彩を放っていた。
普段見慣れている商船とは、何もかもがまるで違う。
大坂港で働く下々の者たちにとっては、この来航はまさに”青天の霹靂“、“寝耳に水”どころか、”寝耳に海“ 程の衝撃だった。
船団二十隻の全停泊を受け、波止場では先程の商人たちの集まりもすぐさまに反応を見せていた。
⋯⋯“待ち人”、“待ち船”、遂に遠方より来たれり。
覚った誰もが皆、揃って襟を正す。
そして緊張と歓迎の面持ちで、船から降りてくるであろう”待ち人“の登場を、今か今かと待ち受けていた。
停泊した船団中央の主船、その甲板の開口部が開く。
すぐさまに海賊たちが忙しなく動き、船の甲板横の開口部と波止場との間に、長い板が架けられていく。
そして船板が架け終わると共に、いよいよその時はやって来た。
数人の配下の海賊の男を引き連れ、件の摩耶と思われる女性が、その“生きる伝説”の姿を覗かせたのだ。
その途端、波止場で覗き見をしている野次馬たちから、一斉にどよめきが起きた。
それは想像通りの厳つさへの感嘆、伝説を目の当たりにできた歓喜⋯⋯、ではなかった。
むしろ反対の意味でのどよめきだった。
現れた女性の背後に立つ数人の配下は、各々が刀や槍や斧を装備し、中には南蛮渡来の見慣れない歪な武器を手にしている者も居る。
厳つくて荒々しい、まさに屈強な海の男の姿。
そんな”いかにも“な彼等に比べて、その女性は海賊とは思えない程に小柄な体躯をしていて、若い⋯⋯と言うよりも、むしろ幼く見える。
“屈強な海賊たちを束ねる女首領”としての貫禄を、何一つも感じ取れなかったからだった。
大坂港でもあまり見慣れない西洋風の外套を羽織り、袴を膝上あたりまで短くしたようなひらひらな衣を纏った、和洋折衷の出で立ち。
外套の首後ろに付いた頭巾を頭からすっぽりと被っているため、その表情の全ては窺い知れない。
しかしその頭巾の中からちらりと覗かせる顔は、両耳に洒落た翠色の小さな耳飾りを付けていて、また両の肩口から垂れ下がる髪から察するに、頭巾に隠れた頭髪は左右で二つ結びにしているように思われた。
「⋯⋯見てください、船長。波止場の皆、早くも船長の美貌と貫禄に惚れ惚れしてますぜ」
「まさに開いた口がふさがらない、って感じだな。違えねぇ。うちの船長は日本一の海賊だからな」
海賊の男たちが口々に女性を持ち上げて讃える。
「⋯⋯⋯⋯。⋯⋯あ」
その時、海風のいたずらが起きた。
女性の頭巾が捲れ、二つ結びの髪がふわりと靡く。
⋯⋯海賊団の首領、海賊船団の船長。
⋯⋯そして神凪水軍の、生きる伝説。
頭巾の下の女性の素顔は、そんな堅く仰々しい肩書きがまるで似つかわしくない、まるで”蝶よ花よ“の可憐な美しさ。
しかしこの若い女性こそが、紛れもない、波止場で控えていた商人たちの目当ての、“待ち人”。
海賊船団『神凪水軍』首領━━━━神凪 摩耶。
その人だった⋯⋯。
「京都からの海風に乗って、蒼鬼紅鬼の臭いがする。⋯⋯やっぱり海の上の澄んだ潮風のほうがいいや」
甲板の船縁から久々の大坂の地を見渡しながら、頭巾を被り直した摩耶は溜め息混じりに呟いた。
そして何かの臭いの元を辿るように鼻をひくひくとさせると、眼下で出迎えている商人たちの集まりや、その傍に集まってきている大勢の人間たちの顔を見渡した。
「⋯⋯ねえ、ちょっといいかな」
摩耶が後ろに控えている配下の男に声をかける。
「船長、何でしょう?」
今しがた見渡したばかりの波止場の群衆へ向けて、摩耶は黙って人差し指を掲げた。
「あそこに見える細面の真面目そうな番頭風の男。⋯⋯それと端でにこにこ笑ってるふくよかな蓬衣の女。⋯⋯あの二人、鬼だから」
そして感情に乏しい声と共に、左に右に腕を動かし、男女二人を相次いで指し示した。
「分かりました。また葬魂の蒼鬼ですね?」
「⋯⋯男の方が化けるの下手だね、蒼鬼だね。⋯⋯珍しい、女は紅鬼。紅鬼は肌が人間の血に似ているからね、蒼鬼よりは上手く化ける。⋯⋯まあどっちでもいい話なんだけど。⋯⋯上手く騙して船に連れ込んで。縄か何かでぐるぐる巻きにして、後はいつも通りで。任せたよ」
「⋯⋯はい。抜かりなく。でも、蒼鬼紅鬼が港に潜んでる⋯⋯という事は、我々がこの港に今日の日の出と共に着く事を、前もって知っていたという事でしょうか?」
「⋯⋯だろうね。私が今日この時間に来る。それを浪速屋さん経由で陸の人間に伝えてもらったのは昨日の夜以降のはずだし、召集に出席する他の五人の誰かか、もしくはその伝達役が、前もって情報を漏らした⋯⋯、そうとしか考えられない」
「⋯⋯用心に用心は重ねていたんですがねぇ」
「会合に私は初めて出席するからね。どんな奴が来るのか。蒼紅どちらの鬼も興味津々なんでしょ。こうして偵察を送り込むくらいだから」
摩耶が口にする言葉はどれも淡々としていた。
そして頭巾の下から見える摩耶の顔は、晴れ渡る空とは対照的にどんよりと曇っていた。
「⋯⋯それにしても、内部から裏切り者まで出るなんてね。それに前来た時よりも、鬼の臭いが増しているし。初めて会う人たちばかりだけど、何をしてたんだ? 他の五人は。五人もいれば大丈夫だと思ったのにな。⋯⋯ん、会いたくないな。⋯⋯あぁ、やっぱり帰ろうかな」
船を降りる事を渋り始めた摩耶に、背後の配下の一人がやれやれ顔で話しかけた。
「船長、またですか? もう、自分勝手で我儘なんだから。もう着いちゃいましたし、今更引き返せませんよ」
「⋯⋯誰にも頼めないよねぇ。⋯⋯私が行かなきゃだよねぇ。⋯⋯出迎えも浪速屋さんだけだと思っていたのに、あんなにたくさん人が居るし。⋯⋯はぁ」
「船長、子供みたいにそんな駄々こねたら駄目ですよ。いい歳なんですから。もう三十⋯⋯」
その言葉の最中、朝日ではない光が煌めいた。
と同時に、年齢を口にしかけた配下の男の頬を掠めるようにして、摩耶の投じた西洋小刀が甲板の柱に突き刺さっていた。
摩耶は不機嫌そうに口元を歪めている。
「⋯⋯ひィッ!?」
「⋯⋯歳は禁句。⋯⋯いつも言ってるでしょ?」
「⋯⋯し、失礼しましたぁ! せ、船長、わ、分かった、分かりましたから、許してくださいぃぃ⋯⋯」
「⋯⋯分かれば、いいんだ。⋯⋯摩耶の秘密は、海よりも深いものと知り、尊ぶべし⋯⋯。肝に銘じておく事」
「⋯⋯か、畏まりましたぁあ!」
「⋯⋯ふぅ。⋯⋯で、やっぱり降りなきゃ駄目みたいだね。⋯⋯はぁ。⋯⋯行くしかないか」
深い溜め息の後、摩耶は頭巾を目深に被り直しながら、躊躇っていた一歩をようやくにして踏み出した。
逞しい男たちを六人も引き連れて船板を渡り降りてくる摩耶の姿は、意気揚々と歩く背後の男たちとはまるで真逆だった。
まるで無気力、歩みにも力が無い。
しかも頭巾の下からちらりと覗くその顔には、早くも疲れが滲んでいる。
瀬戸内海にその名を轟かす神凪水軍、その大船団を率いる者としての威厳は、第一印象同様にやはり何一つ感じられなかった。
「⋯⋯あれが本当に噂やあの和歌の、海賊の”摩耶“?」
「全然海賊に見えないぜ。他の海賊団に人質になっていて解放された、子供の捕虜か何かかもな?」
「⋯⋯たぶんそうだよ。見てみな、あんなにしょぼくれて疲れ果てちゃって。余程怖かったんだろうねぇ」
波止場に降り立つ摩耶の姿をちらちらと見ながら、野次馬たちはひそひそと好き勝手にささやき合っている。
(⋯⋯ほらね、だから陸は尚更に嫌なんだ)
摩耶は今度は鼻ではなく、耳をひくつかせていた。
しかし待ち受けていた商人の集まりだけは、緊張と礼節を崩さない。
恰幅の良い、齢五十程の男が一人、前に出る。
代表して“いの一番”に摩耶に話しかけたこの男こそが、大坂総元締を務める浪速屋だった。
商売人の鑑、此処にあり⋯⋯、そんな親しみに溢れた満面の笑顔で、浪速屋は摩耶を出迎えた。
「これはこれは、摩耶様。お久しぶりです。無事に到着されて何より。私たちの商売が上手くいくのは、海運の無事を護ってくれる摩耶様や『神凪水軍』あってこそ。このように大坂の名だたる商人たち総出で、摩耶様の御訪問、大坂来港を心より歓迎致します」
大坂港の誰もが諂い恐縮するような、大坂の経済を牛耳る権力者。
そんな浪速屋を前にしても、甲板で手下と話す時と同様に、摩耶の淡々とした感情の希薄な口調は変わらなかった。
「大層な出迎え、ありがとう。正確には大坂じゃなくて京都に行くんだけどね。それにあまり会いに来れなかったり、こうしてまた顔を隠したままで、逆にすまない」
「それはいつもの事。お気になさらないでください」
「生来の臆病な性格、と思ってもらって全然結構なんだけど、私の特別な嗅覚や京都朝廷の役目柄、鬼にも人にも、常に命を狙われてもおかしくなくてさ。秘密の根城の外には、一歩たりとて出たくないくらいなんだ」
「そのお気持ち、察しますよ。⋯⋯それにしても流石の大船団ですな。まさか全軍で大坂に来て頂けるとは」
「全軍じゃないよ。今この時でも皆さんの商船の警護は必要でしょ? 半分の船は瀬戸内海に残してあるんだ。むしろそっちが本隊かな? 手練れの配下は皆そっちに残してきたし、むしろ今は手薄だよ」
「⋯⋯えっ、⋯⋯これで半分!? 手薄とは。⋯⋯いや、流石は摩耶様だ」
「別に凄くも何ともないよ。私の京都行きを仲間たちが心配してくれてね。私を攻撃しようとする変な敵が出ないように、まず先に力を見せつけて驚かせたほうがいいって提案し始めて、どうしても譲らなくてね。だからこんな仰々しい入港になってしまった。⋯⋯それより」
摩耶は一瞬少し言い辛そうな素振りを見せる。
そして急に小声に変わると、浪速屋だけに聞こえるように言葉を続けた。
「⋯⋯ねえ、浪速屋さんの後ろの列の左から三番目、あの商人さんは誰でしたか」
「⋯⋯え? ああ、あの方は木材問屋の遠州屋さんだ」
「船の上から気になっていたんだけどね、近づいたからはっきり分かる。あの方自身は人間だけど、少しだけ蒼鬼の臭いがするな。つい最近、鬼と長い時間接触してる。鬼の臭いは一度付くとなかなか取れないんだよね」
「⋯⋯えっ!? という事は鬼たちの仲間、だと?」
告げられた想定外の言葉に、浪速屋が目を丸くする。
「いや、そうとも限らないよ。身内に誰か鬼の葬魂を受けている者が潜んでるのかもしれない。出迎えてくれた御礼もしなきゃだしね、何なら京都に向かう道すがら、あの方の店に寄ってみようか?」
「それは助かります。摩耶様にとっては煩わしい話かもしれませんが、我々にとっては一大事。是非にお願い致します。当人にも後で話はしておきます」
「わかったよ。⋯⋯はぁ、羅生門の開門以来、最近は浮浪鬼が増えているみたいだからね。市井に潜り込み、のうのうと人間のふりをして生活し、夜な夜な人を喰らう。一斉蜂起の際にはちゃっかり正体を現すし、浮浪生活が気に入ってるのならそのままでも良し⋯⋯。中にはそうやって長い間を根城で隠遁して、地方の鬼物語や伝承として語られる鬼達も出てきたりするんだよね。⋯⋯本当に気まぐれで自分勝手で、お気楽な鬼達だよ」
摩耶は深い溜め息をついた。
「⋯⋯まあ、私も蒼鬼紅鬼の事、言えないけどね」
浪速屋たち商人は形式だけの挨拶だけではない。
摩耶たちが京都へと向かうための、駕籠や馬までも手配してくれていた。
「ささ⋯⋯、摩耶様、お供の水軍の皆様。手配済の駕籠や馬などは此方です。御案内致します」
「至れり尽くせり、本当にいつもすまない」
「⋯⋯それにしても。摩耶様の鼻こそ流石ですな、どんな些細な鬼の残り香でも見事に嗅ぎ分けてしまう」
「どんな⋯⋯でもないよ。精度は場所や人の密度によっても違ってくるからね」
「それでも凄い事には変わりありませんよ」
「⋯⋯さっきも少し言ったかもだけど、普段の厄介な御所の役目柄、鬼が恐れるくらいの強い神力の影響を受けていてね、まぁ、平たく言えばこの刀のせいかな」
摩耶は歩きながら外套の裾を捲った。
僅かに露わになった外套の内側。
其処には左右に二本の刀が差されていた。
そのうちの右の一本を、摩耶は隣を歩く浪速屋だけに見える角度でちらつかせた。
「⋯⋯っ、こ、これが、⋯⋯あの」
刀を一瞥した浪速屋が、生唾を飲み込む。
「そうだよ、流石に心配で根城には置いてこれなくてさ。浪速屋さん、私がこの刀持ってきてる事、絶対に誰にも言っちゃ駄目だよ? もし誰かに知れたら浪速屋さんが漏らした事になるからね、その時は⋯⋯、先に謝っておくね。ごめんなさい」
「⋯⋯何故謝るのです? もし漏らしたら?」
その問いかけに、摩耶は相変わらず淡々と、さも当たり前の事を呟くように答えた。
「人として口を軽くしようが、鬼として記憶を盗まれようが、浪速屋さんには死んでもらいますから」
そして今度は、もう一方の左腰に差す刀を握る。
その仰々しい動作を、摩耶は敢えて浪速屋に見せた。
「⋯⋯これは穏やかな話ではありませんなあ。大丈夫です。誰にも言いません。鬼にも十分気をつけますよ」
「うん、そう願ってる」
「いやはや、相変わらず摩耶様は手厳しいですな。⋯⋯あぁ、そう言えば」
緊迫した空気を変えるため、浪速屋は別な話題を切り出した。
「⋯⋯摩耶様は今回、何故に参加されるのですか? 言葉はあれですが、御所周辺の任務は他人事。他の方々に任せっきりのはず」
「そんなに変かな?」
「いえ、変という事はありませんが。⋯⋯いつものように私どもに委任状を代筆させないばかりか、特に嫌がる素振りも無く、二つ返事で参加すると決められた。⋯⋯そう繋ぎの者から聞きましてね。今までとはまるで正反対。いささか驚きでもあったのです」
「会合自体には全く興味は無いよ。何が話し合われても、どんなに揉めても、ほとんど喋らないつもりだし。他の五人の意見に合わせるよ。⋯⋯ただ」
「⋯⋯ただ?」
「⋯⋯ちょっとした潮風の噂を聞いてね。⋯⋯どうしても会ってみたい人間がいるんだ」
「⋯⋯ほお。会ってみたい人間? ⋯⋯ですか?」
「⋯⋯うん。会いたい刀、と言ったほうが良いのかな」
二人が話し終えたちょうどその時、摩耶たち一行は目的の場所⋯⋯港の離れへと辿り着いていた。
摩耶たちは浪速屋たちが手配してくれた七つの駕籠と、七頭の馬を前にした摩耶は、何ら迷わずに馬の方を選んだ。
そして七頭の内の唯一の白馬の傍に近寄っていく。
「⋯⋯馬で行かせてもらうよ。駕籠はあまり好きじゃないんだ。海の広さに比べたら駕籠は⋯⋯、でしょ?」
「はははは、確かにその通り、駕籠は無粋でした」
「本当は人のいない屋根の上を、一人で気ままに歩くのが好きなんだけどね。でも京都はまだ遠いから。不審人物として捕まりたくないからね」
「⋯⋯屋根の上ですか。ははは、それは楽しそうですが、確かに京都の町奉行は見逃してはくれませんなあ」
「屋根の上くらい、見逃してくれたって良いのにな。誰にも迷惑はかけてないのにさ。⋯⋯まあ、数日の間はこの馬を思い切り愛でることにするよ。⋯⋯さてと、とりあえずは遠州屋さん。そして⋯⋯」
摩耶は白馬の頭を優しく撫で終わるや否や、地を跳ねて軽々と白馬に飛び乗った。
浪速屋は最後の礼として、笑顔で頭を下げる。
そんな浪速屋に向けて摩耶もまた最後に軽く会釈をすると、外套を風に靡かせながら、真っ直ぐに京都へと続く目の前の道を仰ぎ見た。
(京都からの向かい風。⋯⋯やはり鬼の臭いが凄まじいな。⋯⋯七十有余年前、鬼を封じた伝説の刀の半刃、『鬼切丸』、そして鎌足という江戸から来た忍か⋯⋯。会えるのが楽しみだな)
付き人の海賊の男たち六人も、既に栗毛や鹿毛の馬に跨り、出立の準備は整っている。
摩耶は六人の仲間に向けて、あどけなく微笑んだ。
「⋯⋯さあ、皆。⋯⋯行こうか」
摩耶は手綱を固く握りしめると、馬の脇腹を静かに叩き、旅立ちの合図を送る。
そして京都へと向かう道を、仲間の男たち六人と共に颯爽と駆け出した━━━━⋯⋯。
⋯⋯━━━━摩耶を先頭に去り行く七つの馬群。
その後ろ姿を見ながら、馬番がふと呟いた。
「⋯⋯伝説の神凪水軍の首領。初めてお目にかかりました。でも信じられないなあ。私よりもあんなに若くて、可愛らしい女子がねぇ」
「⋯⋯若い? はははは。御前は歳は幾つだったかな」
「⋯⋯え? 今年で二十八ですが」
「ははは。あの摩耶様は御前よりも幾つかは歳上だよ」
「⋯⋯えっ! ⋯⋯そうは見えなかったなぁ。⋯⋯何だ、結構頑張って若作りしてたんですねぇ」
「こら。若作りなんて言うもんじゃない。若く見えるのはあの摩耶様の心がそれだけ純粋な証拠だ。ああいう我が道を行く浮世離れした性格だから、よく誤解もされるんだが、あの頭巾の下の素顔は、海のように深く澄んだ心で溢れている。本当に、本当に素晴らしい御方だよ」
「⋯⋯はい、失礼しました、旦那様。⋯⋯あぁ、でも、でもですよ。あの人がまさに今、港や町で流行りのあの和歌で詠われている”その人“だなんて、未だに信じれません。⋯⋯っと、何でしたっけ。⋯⋯ああ、そうそう、思い出した。⋯⋯『海神の⋯⋯」
馬番は記憶を辿り、“とある和歌”を口ずさみかけた。
その動きかけた口を、浪速屋がすぐさまに止める。
「おっと、だめだめ。そこまでだ」
「⋯⋯えっ」
「あの六つの流行り和歌。その中でもその海神の和歌だけは、軽々しく口ずさんではならないよ。あの和歌にはあの摩耶様のひみ⋯⋯っと、いけない、いけない⋯⋯。軽口は儂の命が無くなるんだった。⋯⋯わははははは、くわばら、くわばら」
「⋯⋯? はぁ⋯⋯? 旦那様、どういう意味です?」
「⋯⋯ははは、和歌の事は勿論、齢の事も。私は知らぬ存ぜぬ。あの摩耶様の秘密は海よりも深いからな。⋯⋯はっはっはっは」
馬番はひたすらに首を傾げる。
そんな浪速屋たち見送りの者を他所に、摩耶たちはゆっくりと朝陽の中に包まれるように消えて行く。
そんな凛とした美しい情景を、浪速屋や馬番、そして多くの商人たちはいつまでもずっと眺めていた。
その全員の顔に滲むのは、摩耶や神凪水軍への感謝と畏敬、そして旅路の無事を心から願う祈りの声だった。
浪速屋が心の中でそっと呟く。
(⋯⋯摩耶様。日本を、大坂を、京都を、どうかお頼み申します。遥か鎌倉の時代よりこの日本の海を守る神凪一族の唯一人の末裔として。そして日本防衛の最後の砦『六歌戦』の映えある一人として⋯⋯)━━━━⋯⋯。
⋯⋯━━━━その頃。
摩耶の口にした鬼切丸を掌に、鎌足は近江の山中を歩いていた。
食い入るように鬼切丸を見つめながら、切迫した表情で呟く。
「⋯⋯風魔が蠢いていると分かった以上、早く、早く、この相方の刃を手に入れなくては!」
先程からずっと同じ言葉を鎌足は呟いていた。
”見えざる敵“の正体を知ってから、何処をどう歩いたのかも覚えていない。
その目は熱を帯びながらも、不安で押し潰されそうな程に虚ろさも纏っていた。
その様子を背中越しに窺っていた燈十郎が、穏やかに声をかける。
「⋯⋯鎌足殿、見えたぞ。この山の頂だ」
刻が経つのも忘れていた。
周りの景色は黒から灰色へ。
いつの間にか夜は明けていた。
二人が登り切った山頂には、見晴らしの良い絶景が広がっていた。
遠くに広がる山々を一望でき、眼下には鬱蒼とした山や森が広がっている。
山頂からは麓へと下りる開けた山道が見えた。
その道の遥か先には、薄っすらとだが“青”が見える。
それはどこまでも果てしなく広がる、大海原。
そして水平線や山際からはまた“今日”という名前の陽が少しずつ少しずつ、今まさに顔を出そうとしていた。
「⋯⋯わぁ、日の出だ。⋯⋯綺麗だなぁ」
その美しい情景に、鎌足は見惚れていた。
「⋯⋯何だろう。この胸に込み上がってくる感覚は。⋯⋯この試練や苦難に向き合い立ち向かい、そして戦い抜く。そんな勇気が貰えたような気がする」
雄大な大自然を前に、鎌足は感動で自然と涙が出た。
そして魂が震えるのを感じた。
この山頂と登る道すがら、鎌足の前をずっと歩いていた燈十郎。
そんな燈十郎も今は、鎌足の後ろからその背中を押すように、優しく力強く語りかけてくれた。
「⋯⋯この山の反対側、下りの道からは近道になっている。今までの街道と同じく足元は少し険しいが、抜けてしまえばこちらの道の方が、中山道よりは断然早く日本海、北陸に出られる。急ぎ旅には、時には“急がば回れ”ではなく、“急がば回る”だ」
「⋯⋯えっ」
「話の件以外にもな、この道も是非に鎌足殿に、こっそり教えたくてな。だから山登りしてもらったのだ。⋯⋯ははははは」
「⋯⋯ぅぅっ、ありがとうございます、燈十郎様」
鎌足は腕を目に擦り付け、そして今度は自然と溢れてくる嬉し涙を拭いた。
「⋯⋯でも、燈十郎様。”急がば回れ“、じゃなくて、“急がば暴れ”ですよ?」
「⋯⋯ん? あば? はて、そうであったか?⋯⋯ん?」
「そうですよ。急いでいる時は、とにかく暴れるくらいに刀を振り回せば何とかなる。⋯⋯剣客としての常識を言い表した、有名すぎる諺ですよ。⋯⋯えっへん。私、こう見えても、諺はかなり得意なんですから」
「⋯⋯ことざわ? ⋯⋯何だ、それは。世の中は広い。拙者が知らぬ、そのような格言、道理があるとは」
「⋯⋯にひひ」
⋯⋯陽は沈み、また昇る。
⋯⋯月は消え、また浮ぶ。
⋯⋯出羽へ、京都へ。
鎌足と燈十郎。
二人の旅立ちと別れの時も、すぐ間近に迫っていた ━━━━。
第106話も最後までお読み頂きありがとうございました。ブックマーク、☆評価、顔文字、感想等、良かったらぜひよろしくお願いします。その優しさや応援が新たな創作の励みに繋がります(*^_^*)。
※神凪摩耶の名前の一部が私の名前と被っていますが、特に重要な意味はありません(^_^;)。
次回第107話「旅立ちの朝 〜前編〜」は10月25〜26日頃の投稿予定です。
序鐘9話、第一鐘「京都六歌死闘編」100話、全109話。
1月から始まった連載も、次回からの3話(107〜109話)で一区切りとなります。そして110話にあたる第一鐘の番外の予告編1話を挟み、111話からはいよいよ第二鐘「出羽白雪血風編」の幕開けとなります。
引き続き『羅生門怪鬼譚』をよろしくお願い致します。
【改稿履歴】
改稿履歴は全て誤字脱字等や細部表現の訂正です。
過去話も誤字脱字を見つけ次第、訂正しています。
内容は全く変わっていませんので御安心ください。




