第100話 鎌足、道に迷う
【登場人物紹介】
伊賀の鎌足━━━━
江戸城の公儀御庭番伊賀組の小頭の女忍。伊賀流鎖鎌の使い手。七十年前に鬼を滅した伝説の半刃『鬼切丸』と共に、鬼が現れた京都に援軍として派遣された。裏では極秘に朝廷探索の密命も帯びていたが、何者かの侵攻による伊賀の危機の報に、一時御所を離れる事を決断する。鬼切丸の残りの半刃を求め、出羽へと一人旅立つ。
━━━━京都からおよそ一五里(※60km)程離れた、近江国彦根付近、中山道と繋がる人里離れた森の山道。
既に半刻前に陽は西の空に沈み、時刻も酉の刻(※20時)を過ぎていた。
深い森の中から聞こえてくる音と言えば、虫や梟の鳴き声だけ。
夜の帷が下りた細い山道には、当然に往来を行く人の姿は皆無だった。
折しも新たな月の周期も近づいている。
この森に鬱蒼と茂る木々を前にしては、今宵の新月間近の弓月の灯りはあまりにも儚く、心許なすぎた。
前後左右、何処を見渡しても、黒また黒。
この物寂しい深閑の森には今、ただ漆黒の深い闇だけが海のように広がっていた。
そんな静かの海に、不意に足音の波が立った。
森の奥から続く山道。
南西の方角から響いてくる、”何者か“が落ち葉を踏みしめ、枯れ枝を踏み割る、力強い音。
⋯⋯ざく⋯⋯、⋯⋯ざく⋯⋯、⋯⋯ざく⋯⋯。
その音はまさに禅問答の”看脚下“を連想させた。
不確かな視界、黒い闇の世界。
足元だけに心を集中させ、一歩ずつ一歩ずつゆっくりと着実に、前方の地を踏みしめる。
その足音の出処は、この無人の夜の山道を北東の頂に向けて歩みを進めている、小さな人影だった。
腰から覗かせる、五寸(※15cm)程の出っ張った影。
それは半刃の薄い柄。
そして右脚には、夜の闇に溶け込んだ黒鉄の鎖が幾重にも巻かれている。
足音と人影の正体、それは⋯⋯。
(⋯⋯ああ、お腹空いたなぁ。昨日食べたあの団子、非常食用に五十本くらいは買っておけば良かった⋯⋯)
⋯⋯北へ向かう旅路の最中の鎌足だった。
(⋯⋯昨日の昼まで京都に居たんだよな。あの京都のきらびやかな御所や街の華やかさが、まるで嘘みたいだ)
昨日の午後早々、鎌足は不安と期待を胸に意気揚々と京都の町を出立していた。
目的地は遠く離れた北の地、出羽国。
そして役小角、鬼斬丸。
鎌足の計画では、まず中山道を通り大津を過ぎた後、北近江の彦根から北上、日本海側の北陸街道へと出る。
そして更に北上する。
そんな長い旅路の、今日はまだ二日目だった。
(夜は流石に走れないなぁ。九人と落ち合うまでまだ十三日ある。けれど山間部や雪道も想定されるから、早めに先に行くに越したことはない、少しでも先へ急ごう)
この鎌足の歩みと時を同じくして京都の裏路地では、あの綾麿と朱雀との密談、鎌足暗殺の命令が今まさに下されようとしていた。
しかし秘密裏に旅立つ事ができたと思い込んでいる鎌足は、背後の京都から密かに追手が差し向けられ、自身に危難が迫りつつある事など露とも考えてはいない。
京都裏路地に於いて、綾麿は鎌足をこう評していた。
⋯⋯(「人目につき行き先が分かる関所をわざわざ抜けて向かうような、救いようの無い馬鹿ではない」)⋯⋯
霧人の計略を見抜く程の、綾麿の眼力。
しかしそんな綾麿でさえ、実は鎌足の思考だけは見誤っていた。
(⋯⋯あぁ。逢坂の関所近くにも団子屋が出てたなぁ。なんであの時、買わなかったんだろう。この御庭番衆小頭、伊賀の鎌足。一世一代の失態だよ)
兼季への報告を上手く切り抜けた安堵。
そして旅への熱い気持ちが先走り、十分な警戒など吹き飛んでいた鎌足。
⋯⋯”通ると行き先が、筒抜けになる“⋯⋯
はずの逢坂の関所を、何と無謀無策にも何も考えず、普通に通過していたのだ。
⋯⋯(「関所の皆さん、ご苦労さま。五つの色を付けている所を見ると、鷹乃宮中納言様のご配下の方々ですね。私の名は伊賀の鎌足。通行手形は無いですが、大将様には許可を取っています。これが私の身分を正式に示す御所警備東番頭の任命状です。どうぞお改めを。⋯⋯にひひ」)⋯⋯
綾麿の見立て通り、逢坂の関所は確かに陰陽衆たちの手が回っていた。
しかし関所からの鎌足通過の情報は、実は全て嘘偽りの無い本当の事だったのである。
甚左や平次たちが居れば絶対に諫めていたはずの鎌足の行動も、今は止める者は誰もいない。
再びの敵と戻った綾麿、そして命令を下した百地の想像以上に、鎌足は抜けていた。
馬と鹿にしっかりと縁があった。
しかし当の鎌足は無知の知、至って前向き。
まだ見ぬ出羽の地だけに思いを馳せ、僅かな提灯の灯火、そして夜目と自身の野性の勘だけを頼りに、暗く寂しい山道を黙々と歩き続けていた。
⋯⋯ざく⋯⋯、⋯⋯ざく⋯⋯、⋯⋯⋯⋯⋯⋯。
そんな鎌足の足が止まる。
そして落ち葉を踏み締める音の代わりに、口からは吐息が漏れた。
目の前に延々と広がり、先に進めば進む程、今吐いた溜め息以上に深くなっていく闇の世界。
いくら向こう見ずで負けず嫌いな鎌足と言えども、この自然という名の大きな存在には敵わない。
流石に頭を抱えるしかなかった。
(初めて通る道⋯⋯ってのもあるけれど、甚左が最短の抜け道を教えてくれた東海道とは勝手が違うなあ。⋯⋯しかもこの山道。中山道の割には険しすぎないか? ⋯⋯もしかしたら途中で道を違えたかもしれない)
実際の所、鎌足のこの一日半での移動距離は、まだ二十里にも満たなかった。
甚左たち仲間と共に僅か三日で駆け抜けた、先の東から西、江戸から京都への長旅。
その時の移動速度とは比べ物にならない。
この一日と少しで進む事ができた距離は、その時のせいぜい半分程度に留まっていたのである。
しかも山道は鎌足の想定以上に、どんどん狭くなっていく。
暗闇の中での歩き故に、知らず知らずの内に脇の獣道へと迷い込んでしまった可能性すらあった。
もしそうだったとしても陽が昇ればまだ対処は効く。
しかし今は闇の夜。
打てる手立ても限られていた。
(しかもこの森⋯⋯、他の様々な森に比べて、何となくだけど夜の訪れは早いし、闇も深い気がする。地形とかが影響しているのかな)
無駄と分かりながらも、鎌足は辺りを見渡した。
(当たり前だけど誰も歩いてくるはずはないし、人や民家の気配もまるで無いや。⋯⋯うーん、やっぱり無茶をしないで、さっきの宿場に泊まるべきだったかなあ)
そんな鎌足の頭に浮かぶのは、山道に入る前の賑やかな宿場街の景色。
寂しい一人の道中だからこそ尚更に、あの強引な客引きの女の声が鮮明に蘇ってくる。
⋯⋯(「⋯⋯ちょっとぉ! 其処を行くお兄さん!
(「おに⋯⋯い、さん⋯⋯?」)
(「そう、あんただよ、あんた。今から山越えなんて無茶だよぅ? どんな慣れた旅人だって誰もそんな無謀はしないよ。道に迷っちまうから、朝になってから越えたほうが賢明さ。それに⋯⋯、なんせあの森には、恐い“鬼”が出るからねえ」)
(「⋯⋯鬼?」)
(「鬼がね、現れて村人を喰っちまった⋯⋯。そんな言い伝えが古くからある森なんだよ」)
(「⋯⋯何だ、⋯⋯昔話かあ」)
(「あんた、あたいの話、全然信じてないね? あんたみたいな若いのを、鬼は一番好むんだよ。⋯⋯だから、ね。お兄さん、悪い事は言わないからさ、うちの宿に泊まっておいきよ? 今なら特別に安くしとくよ!」)
(「⋯⋯宿は結構です。先を急ぎますもので。折角なので提灯だけください。⋯⋯あ。あとですね⋯⋯、言っておきますが、こう見えても、私は━━━━」)⋯⋯
鎌足は再び溜め息をつく。
(⋯⋯はぁ。⋯⋯お兄さん、じゃなくて、お姉さん、でしょ? ⋯⋯声も変えてなかったのに。日暮れだったから、暗くて見間違えたのかな。⋯⋯まあいいけどさ)
昨日の夜は、街道脇の炭焼き小屋で野宿。
今日はまた今日で、昼間からほとんど休息は無しで、中山道を歩き通しだった。
京都で受けた脚や胸や肩の傷も、まだ完全には癒えてはいなかった事もある。
鎌足自慢の忍の脚力にも強気な顔にも、明らかに疲労が滲んでいた。
目の前に続く険しい勾配の山道を前にして、鎌足は困り顔でぽりぽりと頭を掻く。
(⋯⋯ふぅ、今日は此処まで。この辺りで少し仮眠でも取ろうかな⋯⋯。⋯⋯っと、何処か⋯⋯身体を預けられる木の切株とかはないかな⋯⋯?)
鎌足はじりじりと山道の際まで寄り、小さな提灯を森の中へと掲げる。
そして闇の中に目を凝らし、休息を取れそうな場所を探してみた。
しかし辺り一面には、身体を伸ばせる理想の場所や自然の情景どころか、黒以外の色は無い。
鬱蒼と茂る木々の陰影を辛うじて感じるだけで、この狭い山道から一歩外れた闇の世界が一体どうなっているのか、見当もつかなかった。
(ひゃあ。こんな深い闇なんて初めてだなあ。道の端、その先がどうなっているのかすらも全然見えないや)
目の前や後ろだけではなく、鎌足の覗き込んだ先にも、闇はぽっかりと大きな穴を空けていた。
この深い闇は、このまま日本の地の底にまで繋がっているのではないか。
そんなぞわぞわした感覚と共に鳥肌さえ立ってくる。
此処があの華やかな京都や住み慣れた江戸と同じ、日本だとは到底に思えない。
それはまるで本当に鬼でも迷い出てきそうな、人が地獄に堕ちていく間際に見る悪夢。
そう呼ぶに相応しい、漆黒の“異世界”だった。
「⋯⋯うわぁ、この闇。まるで奈落の底に堕ちるみたいだ。⋯⋯懐かしいなぁ」
⋯⋯懐かしい。
それは思わず口に出た、言葉だった。
初めて、なのに、懐かしい。
不思議な感覚だった。
(⋯⋯あれ? 何でこんな事、口ずさ⋯⋯)
⋯⋯その時だった。
(⋯⋯ッ!?)
感じたのは、背後からの視線━━━━。
━━━━鎌足は咄嗟に振り向いた。
「⋯⋯ッ!? ⋯⋯誰か、居る⋯⋯!」
山道脇を照らしていた提灯を、今歩いてきたばかりの南西の闇へと翳す。
提灯の灯火の奥で、睨みを利かせる鎌足の瞳が四方八方へと激しく動いた。
後ろ手で腰の鬼切丸にも手をかけ、そしてゆっくりと抜いていく。
鎌足は半ば無意識で、提灯と交差させるように鬼切丸を眼の前を構え、脚に巻いている鎖もいつでも解ける“臨戦”体勢を取っていた。
(⋯⋯⋯⋯)
しかしそんな鎌足の警戒を他所に、目の前の闇の中からは、虫と梟の鳴き声しか聞こえない。
先程から唯一変わった事と言えば、遥か遠くの山から野良犬か狼の遠吠えが微かに聞こえただけ。
後は不変の闇の世界が広がっていた。
鬼切丸を構えたまま、鎌足も不動を貫く。
鎌足の額から伝う嫌な汗と共に、虫と梟の声に彩られた緊迫と静寂の刻もまた流れていく。
闇の中に動きは無い。
それでもまだ鎌足の本能は警戒を怠らなかった。
敵を迎え撃つ鉄則である十分な間合いを求めていた。
(⋯⋯っ? ⋯⋯気配が、消えた?)
後ろに一歩退きながら、鎌足が呟いた、その時⋯⋯。
⋯⋯鎌足の身体がふわりと浮く。
そして視界に唐突に弓月が飛び込んできた。
(⋯⋯あ、あれ? 空だ。⋯⋯し、しまっ⋯⋯)
鎌足は山道から足を踏み外していた。
その身体は深い闇の中へ。
先程感じた”奈落の底“へと吸い込まれていく⋯⋯。
⋯⋯固い斜面に、背中から落ちる。
⋯⋯そして、滑る、転がる。
後は訳が分からないまま、ただ視界がぐるぐると回る。
森の陰影、頬に当たる草木の感触、土の臭い、そして何度かの弓月の夜空。
斜面をどれだけ“転がり”、どれだけ”落ちた“のか。
気付いた時、山道から相当に下った平地に、鎌足は大の字になって横たわっていた。
(⋯⋯痛たたたた、⋯⋯足元、見てなかった)
崖を滑り転げ落ちながらも、鎌足は無事だった。
上半身を起こし、身体の節々をさする。
(⋯⋯どれくらい滑り落ちたんだ?)
幸いにして意識ははっきりとしている。
頭を打ちつけることもなく、身体も軽い擦り傷程度ですんでいるようだった。
大事な相棒、鬼切丸も固く掌の中に握られている。
ただ残念ながら、新入りの旅仲間である提灯だけは、転げ落ちる最中に見事に迷子になってしまったらしい。
(⋯⋯うわ、やっちゃった。⋯⋯提灯が無い)
闇の先の滑り落ちた斜面、山道の方を見上げてみる。
落ちたはずみで火も消えてしまったのか。
鎌足の視界の中には残り火は何一つ見えない。
相変わらずの闇の色だけが広がっていた。
そして先程背後に感じた違和感も、今はもう無い。
落ちる間際に鎌足が感じた通り、あの謎の気配は完全にこの場から消え失せていた。
鎌足はゆっくりと警戒を解いていく。
(⋯⋯もう何も感じない。⋯⋯うーん、気配、一体何だったんだろう?)
一瞬感じた気配。
それは大きな氣だった。
しかし殺気や闘気ではない。
何の感情も無く、ただ鎌足を見つめているだけ。
鎌足が今まで感じた事の無い、得体のしれない氣の類だった。
(⋯⋯鳥か獣? ⋯⋯まあ、きっと気の所為だろうな。夜の山越えで、思っている以上に身体が疲れているのかもしれない)
泥だらけのはずの見えない忍装束を、鎌足は気休めにぽんぽんと手で払う。
そして鬼切丸を背中の帯に納めると、手探りでその場から数歩進んでみた。
(⋯⋯お? さっきの山道より足元がしっかりしてる)
暗中模索の不確かな数歩は、すぐさまに確かな十数歩へと変わる。
山道の下のこの平地は、意外にも妨げとなる木々や丈の高い草木は無かったのだ。
しかもどうやら思っていた以上に広いらしい。
鎌足の顔にも少しばかり安堵が滲む。
(⋯⋯それにしても、痛たたぁ、腰打ったよおぉ。⋯⋯あぁ、こういうのをまさに、“去る者、木から落ちる”って言うんだな。何処かを去る時は、気を確かに持っていないと油断大敵、必ず何処かから落ちちゃう。昔の人は上手く言ったよなあ。⋯⋯まぁ、私の場合は木じゃなくて、山道の崖だったけど)
鎌足は自称得意の諺を心の中で呟く。
しかしまだ此処が何処かは分からない。
不安が解消されたわけではなかった。
「まずはどうにかして中山道に戻らないと。でもこの闇じゃ無理だなぁ。朝が来るまで野宿して待つしかない」
不安が心の声から言葉に変わる。
何処かに座れたり横になれる場所はないか。
鎌足は改めて辺りを念入りに見回した。
「⋯⋯あ、⋯⋯灯り」
そんな鎌足の視界に、遥か遠くにぼんやりと光る灯りが見えた。
それは上の山道からは決して見えなかったはずの、小さな小さな灯火だった。
「⋯⋯民家かな。⋯⋯こんな山奥の寂れた地に人が? ⋯⋯でも灯りが点いてる、⋯⋯って事は誰か居るんだろうな。夜が明けるまでなら、休ませてもらえるかなあ」
灯りにはまるで動きが無い。
どうやら人が歩き持つ提灯ではなさそうだった。
民家ならばこれ以上に有難い事は無い。
一晩の宿と共に中山道へと戻る道も聞く事ができる。
あれこれと考えるよりも先に、鎌足の足は自然と灯りの方角へと歩き出していた。
⋯⋯段々と灯りが大きくなっていく。
灯りに一歩また一歩と近付くにつれ、鎌足の視界もほんのりと明るく開けていく。
と共にその灯りの元が何であるのか、それも次第にはっきりと見えてきた。
「⋯⋯わわ、灯りはあの一番奥の屋敷からだ。しかも周りには光の灯っていない民家が幾つも並んでいる。⋯⋯これは、⋯⋯村だ」
江戸や京都を問わず、この当時の山間の谷には、このような数十軒規模の村、土地の形状を利用した稲作等で細々と生計を立てている集落が、多数存在していた。
どうやら鎌足はそんな村の一つに辿り着いたらしい。
ただどうにも腑に落ちない不可解な点もあった。
何軒もの家の数に比して、灯りの数が一つしかなく、まるで人の目を避けるように、仄かに小さく揺らめいているだけだった。
しかも昼間に山道から目を凝らしたとしても、この村の家屋も屋根も、その存在は木々に隠れて何一つ見えないかもしれない。
そんな辺境の谷間に、この村は存在していた。
世を忍び、迫害を逃れてきた人々の村ではないか。
鎌足は思った。
もしかしたら隠れ切支丹が拓いた地かもしれない。
それならば合点がいく。
(⋯⋯だけど。隠れ切支丹の村だったとしても、日暮れとは言え不思議⋯⋯いや、不気味な程に静かだ。⋯⋯誰も居ないのかな)
しかも通りを行く鎌足の左右に建ち並ぶ、灯りの無い民家らしき家屋。
その軒先には、鍬や蓑や笠など人が生活している証は薄っすらと見えるものの、肝心の家屋には人や生き物の気配はまるで無い。
寝静まるにはまだ少しばかり刻は早い。
子供の騒がしい声、犬猫の鳴き声や、牛馬の蹄の音。
そんな村自体の息吹が、もう少し聞こえてくるのが普通ではないのか。
鎌足は沸き上がる疑問の数々に首を傾げながらも、今はただぼんやりと浮かぶ頼りの灯り、その先に待つ休息だけを求めて、前へ前へと進んでいった━━━━⋯⋯。
⋯⋯━━━━そして辿り着いた、灯りの出処。
それは高い塀に囲まれた、この村の中でも一際大きく立派な屋敷だった。
(⋯⋯妙だな。この屋敷にだけ、中には煌々と灯りが点いている? 他の民家はあんなに真っ暗だったのに)
ありがちな木製の引き戸ではなく、大きな鉄製の開き扉の門。
屋敷の由緒や歴史を感じさせるその古さや形、そして村の中の家屋の位置からして、この門の向こうは村長の屋敷と思われた。
また鎌足を導いてきた灯りは、扉の隙間から漏れ出る光だという事も分かった。
隙間でもこの光量なのだから、きっと中は昼間のような明るさなのかもしれない。
鎌足がそんな推測や思案をしかけた時だった。
春夜の涼やかな風に乗り、屋敷の中から大勢の人々が話し合う声が、微かに聞こえてきた。
しかし不思議な事に、何故か時折、声の中には怒号が混じっている。
(何だ何だ? この屋敷に皆で集まって、難しい会合でもしているのかな?)
格式を感じる大層な門構えに加えて、この怒号。
自ずと声をかけにくい雰囲気が漂う。
しかしこのままでは埒が明かない上に、夜もすぐには明けない。
闇の中を折角に此処まで歩いてきた意味も無い。
鎌足は意を決し、そして中の人間たちにも聞こえるように、扉を強めに叩いた。
「たのもー!!」
そしてすぐに一度、その手を止めた。
「⋯⋯流石に、たのもー、じゃまずいよね、⋯⋯っ⋯⋯えっ⋯⋯と、⋯⋯す、すみませーん!」
言葉を変えた鎌足は、何度も何度も扉を叩いた。
しかし反応は無い。
心無しか先程まで聞こえていた怒号はおろか、話し合う声までが止んだような気がする。
(⋯⋯あれれ、やっぱりお邪魔⋯⋯だったかな)
自身の場違い感と共に、申し訳無さが頭を過る。
それでも鎌足は扉を叩き続けた。
「⋯⋯すみませーん! 誰か、誰かいませんかー!」
十数回目だった。
小さな物音がしたかと思うと、屋敷の扉が古めかしい摩擦音を立て、人の顔一つ分程開く。
そして中から一人の若い男が顔を覗かせた。
当たり前と言えば当たり前だが、その顔は何処か怪訝な表情をしている。
「⋯⋯どなたでしょうか? こんな夜遅くに」
「⋯⋯あの、あのですね。怪しい者ではありません。旅の最中の者なのですが、夜明けまでの間だけで構いませんので、何処か休む場所をお貸しいただけないでしょうか。⋯⋯多少であれば路銀の持ち合わせもあります」
「⋯⋯その声は女子⋯⋯かい?」
「⋯⋯はい! はい! うら若き女子です! いやあ⋯⋯お兄さんは客引きの姐さんと違ってお目が高⋯⋯いや、耳が達者で」
女子と呼ばれ、鎌足の顔がにんまりと綻ぶ。
門から顔を出したその男は、満面笑顔の鎌足の顔や衣を一頻り見回した後、脚に巻いている鎖、そして腰に差している鬼切丸の柄に視線を向けた。
「⋯⋯鎖。⋯⋯御客人様、⋯⋯随分とお若いようだが、何者かね?」
「⋯⋯わ、⋯⋯こ、これは、さっき脚を怪我して、たまたま道で落ちていた鎖をですね、⋯⋯痛めた脚を固定するために使って⋯⋯、⋯⋯あぁっ、痛いなぁ、⋯⋯山道の崖からも落ちたし、脚が痛いなぁ」
鎌足は出鱈目な作り話と、有りもしない痛みの仕草で、わざとらしく誤魔化す。
その嘘の巧い下手は別として、嘘は村人を怖がらせないようにと考えた、鎌足なりの悪意の無い配慮だった。
しかしこの鎌足の必死の三文芝居にも、当たり前と言えば当たり前に男は怪訝な表情を崩さない。
「⋯⋯御客人様、怪我をなされてるのは本当かね。⋯⋯そうは見えんけど」
「⋯⋯は、はい。⋯⋯本当です。⋯⋯い、痛たたたた。この上の崖から落ちたばかりで、歩くのも辛い程に脚が痛くて痛くて」
「⋯⋯崖の。なるほど。⋯⋯では、その背中に差している刀。御客人様はもしかして、お侍さん⋯⋯かね?」
鎌足の背中からひょいと顔を出している鬼切丸の柄を、男は続けざまにじっと睨みつけていた。
「⋯⋯刀? ⋯⋯あ⋯⋯いえ、違います、趣味で剣を少し嗜む者です。⋯⋯ほら、刀もこんな半分に折れていて。弱っちいから刀も折られちゃって。⋯⋯あ、はは。大事な刀だし、なかなか捨てられないんですよねぇ」
鎌足は男を安心させるため、鬼切丸を扉の灯りの前に差し出すと、ぶんぶんと振って薄い刃を風に撓らせる。
そして今度は、“趣味”“弱い”という言葉を使う。
年相応の女子を装い、伊賀の忍である事は勿論、京都での東番頭の役職も伏せた。
その方が互いに気兼ね無く、一晩を過ごせる。
鎌足は咄嗟にそう考えたのだ。
普通の刀ではない、傍目には折れていて役に立たない刀ように見える、鬼切丸の刃。
それを直に確認できた男の表情が、少しだけ和らぐ。
「⋯⋯休む場所を探している。⋯⋯それだけかね?」
「⋯⋯勿論、納屋とかでも構いません。朝までで良いのです。朝になりましたらすぐに御暇致しますので」
鎌足は深々と男に頭を下げた。
「御客人様、少しお待ちを⋯⋯」
男は誰かに相談しに行ったのだろうか。
唐突にまた扉が閉まっていく。
そして暫らくの静寂が流れた。
⋯⋯そのままどれ程の刻を待っただろうか。
何の前触れもなかった。
唐突にまた門の扉が開いていく。
先程は頭一つだった扉の隙間。
同じ場所から今度は夜の闇を吹き飛ばす程に、眩いばかりの光が鎌足に降り注いだ。
「⋯⋯お待たせしました、どうぞ」
しかもあれだけ怪訝な顔をしていた男の態度も、まるで真逆だった。
今は扉の外にまで出て、満面の笑みで鎌足を手招きしてくれている。
「奥様から許しが出ました。さあ、どうぞ、遠慮なく」
「⋯⋯わわ、ありがとうございます、助かりました。ではでは御言葉に甘えまして」
微笑む男の横を、鎌足は飛び跳ねるようにして通る。
喜び勇んで、この光の門をくぐった。
扉が閉まっていく錆び付いた古い音と共に、門に堅く鍵をかける甲高い音が響く。
そんな二つの音を背中で聞きながら、鎌足はこの大きな屋敷の全容を目の当たりにしていた。
想像していた通り、幾つもの部屋がありそうな広さがあり、そして古さと厳かさを感じる、立派な屋敷。
しかし鎌足の目に真っ先に飛び込んできたのは、庭の長い飛び石の先にある玄関前の屋根だった。
其処には、この屋敷の家紋だろうか。
満月と杜若、そして三日月の弓が重なった仰々しい紋が彫られていた。
彫られた満月と三日月の中には、煌々と蝋燭が何本も灯されている。
遠くから近くから、鎌足が感じていた光。
その真の出処は、軒行灯と装飾が一体となった、この家紋からだったのだ。
しかし鎌足が気になったのは、その異質な豪華さでは無かった。
過去の記憶との奇妙な一致だった。
(⋯⋯あ、あの家紋は。不思議だなあ。此処まで豪華な造りじゃないけど、京都の宿にも確か同じ紋が飾られていたぞ。 ⋯⋯隠れ切支丹の村じゃないのかな)
不思議そうに屋根を見つめる鎌足に案内の男もすぐに気付く。
そして肩越しに話しかけてきた。
「⋯⋯あの彫りの紋、そんなに気になりますか?」
「⋯⋯え? ⋯⋯ええ。ちょっと」
「あれは三百年前、この屋敷に住まわれていた村長様が当時信仰されていた、神社の神紋の名残なんですよ」
「⋯⋯へぇ。この家も彫物も三百年も前から?」
「何でも、神社の有る京にお参りに行けない時でも、その御利益に縋るために、村長様が屋敷の至る所にあの紋を彫ったり飾ったりしていたとか」
「⋯⋯ほえぇ、⋯⋯歴史のある御屋敷、村なんですね」
話の半分は鎌足が何となく推測していた通りだった。
隠れ切支丹ではなかったものの、今の神紋の話から、この屋敷はやはり村長の家らしい。
しかも三百年以上前からこの屋敷が在るという事は、村自体も相当に古くから在る事は間違いない。
「⋯⋯どうぞ、御客人さま、屋敷の廊下は長く、少し薄暗いですが、今から御案内する広間は多くの行灯が灯っております故、暫しは蝋燭で御容赦を」
「⋯⋯あ、⋯⋯大丈夫です、お気になさらず」
玄関を抜けると、男の話の通りに奥へと続く、長く薄暗い廊下が鎌足を出迎えてくれた。
歩く度に床が軋む音が響く。
そんな古びた長い廊下を、ほんのりと灯る燭台を手に、男は鎌足を先導していった。
鎌足は怪我をしているという建前上、鎖を巻き付けた右脚はわざとらしく引きずりながら、男の後に続いた。
やはり会合でもしているのだろう。
大勢の人が話している賑やかな声が、段々はっきりと聞こえてくる。
「私はこの屋敷の下男なんだが、いやはや今夜は珍しく来客日和。実は貴方だけではないのですよ。御客人は」
「そうなんですか? 私の他にも道に迷った方が?」
「ええ。先に来た御客人さまも旅の途中で。⋯⋯確か、京都に向かっている途中、と言ってましたかな」
「⋯⋯あ、なら私とは逆方向ですね。私は京都から出てきて、北陸道から出羽に向かう途中なんです」
「出羽? それはまた遠くへ⋯⋯。脚も痛めて疲れている所を、さっきはなかなか出れずにすまんね。ちょっと今夜は色々あって、大変面倒な事が起きましてね」
「面倒な事?」
「⋯⋯ええ。⋯⋯実は、⋯⋯その先に当家を訪れた御客人が、この屋敷で大変な事をしでかしまして。それで今、その御客人をどうするべきか。村人総出で話し合っていたのですよ⋯⋯」
「⋯⋯へぇ、それで他の家々には灯りが灯ってなかったのか。⋯⋯で、その客人を皆で問い詰めていると?」
「⋯⋯そうそう、同じ御客人の立場として、貴女にも是非、立ち会って頂きたいんですよ、この談合の場に」
「⋯⋯へ? ⋯⋯な?」
”何故見ず知らずの私が?“
鎌足は思わずそんな問いを投げかけそうになったが、既の所で口を閉じた。
一晩の宿を二つ返事で受け入れてくれた村長。
このぶつしつけな話には、何か特別な理由や目的があっての事かもしれない。
詳しい内容も聞かずにいきなりの拒絶や否定で応えるのは、親切な村長の感情を損ないかねない、失礼な態度に当たると考えたからだった。
「⋯⋯ん、それくらいは別に構いませんが⋯⋯。と言うか、そもそもその客人は一体何をしでかしたんです?」
鎌足にしてみれば、些細な何気ない問いかけだった。
しかし前を行く男は、唐突に立ち止まった。
薄暗い廊下の中、振り向いた男の顔の陰影が、蝋燭の灯火に気味悪く照らされる。
そして暗く沈んだ、鬼気迫る表情と低い声で、鎌足にこう答えた。
「⋯⋯その御客人、村長を殺しちゃいましてね」
「⋯⋯は?」
「⋯⋯しかもその御客人、⋯⋯鬼、だったんですよ」
「⋯⋯え?」━━━━⋯⋯。
記念&新展開となる第100話も、最後までお読み頂きありがとうございました。
ブックマーク、☆評価、感想等よろしくお願いします。その優しさが新たな創作の励みに繋がります(*^_^*)。
次回、第101話「鬼の村」は、9月30日〜10月1日頃の投稿予定です。
引き続き『羅生門怪鬼譚』をよろしくお願い致します。
【改稿履歴】
改稿履歴は全て誤字脱字等や細部表現の訂正です。
過去話も誤字脱字を見つけ次第、訂正しています。
内容は全く変わっていませんので御安心ください。
(いつもたくさんの誤字脱字ばかりで、すみません)




