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デザイアトロフィー

デザイアトロフィー当日。


舞台は東都競駆場。距離も、コースも、翌年のトリプルクラウン初戦である雨月賞とまったく同じ。

そのため、毎年このレースは、来年の雨月賞を占う一戦として大きな注目を集める。


二歳の頂点を決めるだけではない。

翌年の主役候補を見極める場所でもある。


そんな一戦で、ベルアマードは一番人気として出走することになった。


競駆場の空気は、デビュー戦の時とはまるで違っていた。


観客の数も、記者の数も、向けられるカメラの数も増えている。

ベルアマードの名を呼ぶ声も多い。

だが、その声の中には、やはり別の名前も混じっていた。


アマルティア。


レース前のインタビューで、ベルアマードは今まで以上の注目を浴びた。


一番人気。

無敗。

アマルティアとウインドベルの初子。

そして、デザイアトロフィーの有力候補。


聞かれることは、いくつもあるはずだった。


今日の状態。

このレースへの意気込み。

逃げるのか、控えるのか。

翌年のリュニークを意識しているのか。


だが、実際に向けられた質問は、また同じだった。


『アマルティアさんもここで勝ちましたが、何かアドバイスはあったのですか?』


ベルアマードの目が、わずかに冷めた。


別の記者が続ける。


『アマルティアさんも二歳時にこの舞台で存在感を示しました。お母様と同じように、ここから時代を作る意識はありますか?』


アマルティア。

アマルティア。

アマルティア。


母の名前ばかりが響く。


出走するのは自分なのに。


今日、ターフに立つのは自分なのに。


彼らが見ているのは、また母だった。


デビュー戦では答えた。

次のレースでも、何かしらの言葉は返した。


だが今回は、何も言う気になれなかった。


ベルアマードは、答えを待つ記者たちと観客を静かに見回した。


それから、一礼だけした。


深くはない。

だが、はっきりとした礼だった。


そして、そのまま何も答えずに場を去った。


一瞬、場が静まった。


次に、ざわめきが広がる。


質問を無視した。

答えなかった。

機嫌を損ねたのか。

やはり気難しいのか。


記者たちが慌てて声をかけるが、ベルアマードは振り返らなかった。


その様子を少し離れたところで見ていた武田トレーナーは、額に手を当てた。


「……また面倒なことを」


デビュー戦の時よりも、さらに扱いづらい沈黙だった。


ベルアマードは、通路を歩いていた。


顔には怒りがある。

だが、それ以上に冷たさがあった。


もう、答えない。


母の話を聞きたいなら、母に聞けばいい。


今日走るのは、自分だ。


ベルアマードは、胸の奥でそう吐き捨てるように思った。


そしてそのまま、デザイアトロフィーの舞台へ向かっていった。


暗い通路を抜け、ターフへ足を踏み入れた瞬間、ベルアマードは思わず息を呑んだ。


そこは、これまで走ったレースと違っていた。


同じ芝。

同じコース。

同じように設けられたゲート。


けれど、空気が違う。


今日は一日の中でも特別な位置づけにあるメインレースだった。

二歳駆人の頂点を決めるGR、デザイアトロフィー。

その名にふさわしく、観客席はこれまで経験したどのレースよりも大きな熱を帯びていた。


スタンドを埋める人々。

掲げられる旗。

ざわめくスタンド。

無数の視線。


ただターフへ入ってきただけなのに、熱のこもった声が身体にぶつかってくる。

歓声というものは、音でありながら重さを持つのだと、ベルアマードは初めて知った。


これがGR。


二歳の駆人たちにとって、初めて触れる大舞台。

来年のリュニークへ向かう者たちが、自分の存在を世に示す場所。


他の出走者たちも、それを肌で感じているようだった。まだゲートの前に行ってもいないのに、表情には硬さがあった。肩に力が入っている者、何度も足元を確かめる者、深く息を吐いて平静を保とうとする者。


ベルアマードも、圧倒されなかったわけではない。


胸の奥がざわめいていた。

耳に入ってくる声の多さに、少しだけ身体が浮くような感覚もあった。

心臓の鼓動は速く、指先には熱が宿っている。


それでも彼は、すぐに顔を上げた。


緊張よりも、強いものがあった。


ここで勝てば、きっと認めてもらえる。


アマルティアの子としてではなく。

伝説の女王の初子としてでもなく。

自分自身を。


ベルアマードという駆人を。


その思いが、緊張も興奮も押し固め、ひとつの力へ変えていた。


ベルアマードは平然とした顔で、最後の調整へ向かった。

足元の芝を確かめる。

風の向きを見る。

身体の軽さを感じる。

呼吸を整えようとする。


トレーナーはすぐ傍で、いつもより低い声で確認を続けていた。


「入りは大事だ。前へ行くなら行け。ただし、無駄に飛ばすな。後ろとの距離を見ろ」


ベルアマードは頷いた。


「分かってる」


「本当に分かってる顔か、それは」


「勝てばいいんだろ」


トレーナーは眉間にしわを寄せたが、それ以上は言わなかった。

今さら言葉で抑え込める段階ではないことを、彼も分かっていた。


やがて係員の指示が出る。


出走者たちは、ゲート前へ移動し始めた。


ベルアマードも歩き出す。


一歩進むごとに、観客席のざわめきが変わっていく。

近くなる。

重くなる。

そして、鋭くなる。


ゲートの前へ着いた時だった。


まるでその瞬間を見計らっていたかのように、ファンファーレが鳴り響いた。


GR専用の、厳かで豪華な音色だった。


高く、重く、澄んだ音が競走場全体に広がっていく。

その音が響いた瞬間、それまで満ちていた歓声がすっと引いていった。


誰もが、ゲートを見た。


観客も、記者も、関係者も。

すべての視線が、始まりの場所へ集まる。


雑音が消える。


残ったのは、レースへの注目だけだった。


ベルアマードは、その独特の緊張感を全身で受け止めた。


係員に誘導され、ゲートへ入る。


狭い空間だった。


外からはまだ熱が伝わってくる。

けれど、そこに入ると音が少し鈍くなり、自分の呼吸がやけに大きく聞こえた。


周囲の出走者たちの気配もある。

誰もが同じように、開く瞬間を待っている。

その緊張が、狭いゲートの中へ入り込み、空気をさらに重くしていた。


長くいられる場所ではない。


早く出たい。


早くレースへ。


早く、この閉じられた空間から飛び出して、誰もいない前へ行きたい。


ベルアマードは、はやる心を抑えながら、前を見つめた。


このレースで証明する。

自分の存在を。

自分の走りを。

自分の名を。


そして、ゲートが開いた。


その瞬間、ベルアマードの中に溜まっていたものが、一気に外へ放たれた。


抜群のスタートだった。


他の駆人たちも悪くない。GRに出てくるだけの力を持つ者たちだ。誰も簡単に遅れるような相手ではない。


だが、ベルアマードはそれを上回った。


一歩目が速い。

二歩目でさらに前へ出る。

三歩目には、すでに先頭を奪っていた。


観客席が一気に沸き上がる。


ベルアマードはそのまま逃げ始めた。


スタートから完璧だった。

自分が思い描いていた通り、いや、それ以上に身体が動く。足が軽い。風を切る感触が気持ちいい。前が広い。


誰もいない。


誰も、自分の前にはいない。


その事実が、ベルアマードをいつも以上に昂らせた。


後ろを見ることを忘れていた。


トレーナーと組んだプランでは、後続との距離を見て、無駄に脚を使いすぎないように運ぶはずだった。

先頭に立つ。

だが、飛ばしすぎない。

相手を見ながら、勝負どころまで余力を残す。


そう言われていた。


だが、今のベルアマードには、その言葉が遠かった。


前の景色に夢中だった。


誰もいない光景を、自分の脚で切り開いていく。

風を真正面から受ける。

観客の声を背中に置き去りにする。

自分がレースを引っ張っている。


その感覚は、これまでのどのレースよりも強烈だった。


たまらなかった。


ベルアマードは、ぐんぐんとスピードを上げていく。


後続との差が開く。

スタンドの声がさらに大きくなる。


だが、GRに出走している駆人たちも、ただ慌てて追いかけるだけではなかった。


彼らはベルアマードの逃げを頭に入れていた。

無敗でここまで来た逃げ馬。

アマルティアとウインドベルの初子。

前へ行くことに強いこだわりを持つ駆人。


その情報は、当然共有されている。


だから後続は、無理には動かない。


各々が自分のペースを守りながら進む。

今追えば、自分が崩れる。

勝負どころまで耐え、直線で仕掛ける。


そう決めているようだった。


けれど、ベルアマードは気づいていなかった。


いや、気づいていたとしても、今はそれを重要だとは思っていなかった。


先頭にいる。

誰にも邪魔されない。

誰も前にいない。


それだけで、十分だった。


向こう正面に入っても、ベルアマードの脚色は落ちなかった。


風が強く当たる。

先頭だからこそ受ける抵抗。

それでも、彼は進む。


父は、ずっとこの景色を見ていたのだろうか。


ふと、そんな考えがよぎる。


テレビで見たウインドベルの大逃げ。

誰もいない前方。

後ろを振り返らず、ただゴールへ向かっていく背中。


今、自分はその場所にいる。


そのことが、ベルアマードの身体をさらに前へ押した。


最終コーナーが近づく。


後続の気配が、少しずつ変わった。


ここだ。


そう言うように、後ろの駆人たちが一斉に動き始める。

ペースが上がる。

勝負所を待っていた者たちが、ベルアマードを捕まえるためにスパートをかける。


観客席の声が、さらに熱を帯びる。


ベルアマードは先頭でコーナーを回った。


視界の先に、最後の直線が広がる。


後続は迫っている。

それでも、まだ距離はある。


普通なら、ここから苦しくなる。

先頭で風を受け続け、序盤から飛ばしてきた駆人は、最後に脚が鈍る。

後ろで我慢していた駆人たちが、一気に差を詰めてくる。


だが、ベルアマードは落ちなかった。


むしろ、その背中にはまだ熱があった。


この景色を、ずっと見ていたい。

誰にも譲りたくない。


そう聞こえてくるような走りだった。


直線。


ゴールが見える。


観客の声が爆発する。


後ろから必死に追ってくる気配がある。

だが、ベルアマードは振り返らない。


前だけを見る。


父のように。

いや、父のようにではなく。


自分の走りとして。


一完歩ごとに、芝が後ろへ流れる。

風が頬を叩く。

身体は熱い。

呼吸は荒い。


それでも、先頭は譲らない。


ベルアマードは、最後まで速度を落とさず、ゴールへ駆け抜けた。


大歓声が競駆場を揺らした。


後続は届かなかった。


圧巻の逃げ切りだった。


二歳駆人の頂点を決めるデザイアトロフィー。

その大舞台で、ベルアマードは最初から最後まで先頭を譲らず勝った。


観客は魅了された。


ただ速いだけではない。

ただ勝っただけでもない。

前へ行き、誰にも捕まらず、そのままゴールまで走り切る。


その姿は、父ウインドベルの大逃げを思い出させる者もいた。

同時に、母アマルティアの子にふさわしい勝負強さを見た者もいた。


だが、後ろを走った駆人たちに残ったのは、もっと単純な感覚だった。


届かない。


あの背中には、届かなかった。


ベルアマードはゴールを過ぎ、ようやく少しだけ息を吐いた。


観客の声が、遅れて耳に戻ってくる。


勝った。


デザイアトロフィーを勝った。


これで少しは、自分を見ただろうか。


アマルティアの子ではなく、ベルアマードの走りを。


彼は胸の奥に残る熱を抱えたまま、ターフの先を見つめていた。


そこには、誰もいない。


先頭の景色だけが、まだ広がっていた。


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