帰る場所の祝福
デビュー戦を勝利で終えたその日の夕方、
ベルアマードは風杜へ帰ってきた。
競駆場で浴びた歓声は、まだ耳の奥に残っていた。
初めてのターフ。
初めてのレース。
初めての勝利。
先頭に立ち、そのまま誰にも譲らず駆け抜けた感覚が、まだ足の裏に残っている。芝を踏んだ感触も、風を受けた重さも、ゴール前に広がっていた誰もいない景色も、すべてが身体の中で熱を持っていた。
けれど、風杜の玄関の前に立つと、その熱は違うものに変わった。
ここは競駆場ではない。
歓声も、記者の声も、カメラの光もない。
いつもの古い戸。
少し軋む玄関。
庭の木々を抜ける秋の風。
ベルアマードは戸へ手をかけた。
開けた瞬間、真っ先に飛び込んできたのは、小さな声だった。
「お兄ちゃん!」
妹のベルフレアだった。
彼女は待ちきれなかったように玄関まで駆けてきて、ベルアマードの前でぴたりと止まった。目を輝かせ、頬を紅潮させている。まるで自分が勝ったかのような顔だった。
「勝ったんでしょ! すごい!」
ベルアマードは一瞬、どう返していいか分からなかった。
競駆場では、勝った瞬間に歓声があった。
記者もいた。
見知らぬ観客たちが叫んでいた。
だが、目の前のベルフレアの喜びは、そのどれとも違っていた。
近かった。
真っ直ぐだった。
「……まあな」
ベルアマードは少しだけ得意げに答えた。
その後ろには、翠子が立っていた。
彼女もまた、柔らかく微笑んでいた。だが、その目元にはうっすらと涙が浮かんでいる。
「おかえり、ベルアマード」
翠子は静かに言った。
「よく走ったわね」
その言葉に、ベルアマードは少し背筋を伸ばした。
褒められることに慣れていないわけではない。
だが、翠子の言葉には、順位や着差とは違う重みがあった。
勝ったから偉い、というだけではない。
自分が初めての舞台に立ち、無事に帰ってきたことを、心から喜んでくれている声だった。
「うん」
短く答えると、ベルフレアがすぐに横から覗き込んできた。
「どんな感じだった? いっぱい人いた? 速かった? 怖くなかった?」
質問が一度に飛んでくる。
ベルアマードは少し面倒そうに眉を寄せたが、嫌ではなかった。
風杜の中へ入ると、さらに温かい空気がベルアマードを包んだ。
食堂の方から声が聞こえた。
廊下の奥から誰かが顔を出す。
風杜の子どもたちや職員たちが、次々と「おめでとう」と声をかけてくる。
そして、その中心にアマルティアがいた。
彼女は最初、腕を組み、どこか落ち着いた顔を作っていた。
母として、寮長として、あまり浮かれすぎないようにしている。
そう見えた。
「初戦としては悪くなかったわね」
アマルティアはそう言った。
ベルアマードは少し眉を上げた。
「勝ったけど」
「だから悪くなかったって言ってるでしょ」
「それだけ?」
「それだけって何よ。勝ったくらいで調子に乗るんじゃないわ。競駆はここから――」
そこまで言ったところで、アマルティアの表情が崩れた。
冷静に振る舞おうとしていた顔が、もう持たなかった。
次の瞬間、彼女はベルアマードの肩を掴み、ぐっと引き寄せた。
「でも、よくやったわ!」
声が弾んでいた。
「初戦であれだけ逃げて勝つなんて、なかなかできることじゃないわよ。最後まで先頭で走り切ったじゃない!」
ベルアマードは目を丸くした。
母がここまで喜ぶとは思っていなかった。
アマルティアは、いつも大きな存在だった。
自分が比べられる相手。
越えなければならない目標。
記者たちが何度も名前を出す、伝説の女王。
その母が、今はただ自分の勝利を喜んでいる。
母として。
誰よりも近い場所で。
それが、ベルアマードには少し不思議だった。
自分は母を越えたいと思っている。
母の名前で見られることに苛立っている。
母の影から抜け出したいと思っている。
それでも、この瞬間だけは単純に嬉しかった。
「……そんなに喜ぶんだ」
ベルアマードがぽつりと言うと、アマルティアは当然のように言った。
「当たり前でしょ。私の子が勝ったのよ」
その言葉は、ベルアマードの胸に残った。
アマルティアの子。
普段なら少し引っかかる言葉だった。
だが、この時だけは違った。
その言葉は重圧ではなく、祝福のように聞こえた。
デビュー戦後も、ベルアマードはトレーニングを続けた。
一度勝ったからといって、練習が楽になるわけではない。
むしろ、周囲の目はさらに厳しくなった。
初戦で逃げ切った。
父ウインドベルを思わせる走りだった。
アマルティアの初子として、やはり大物なのではないか。
そんな声が増えていく。
ベルアマードは、それを聞くたびに顔をしかめた。
それでも、走ることそのものへの熱は冷めなかった。
風杜のグラウンドで、彼は何度もスタートを繰り返した。
先頭に立つための一歩。
先頭に立った後、力みすぎず進む感覚。
追われても乱れない呼吸。
武田トレーナーは厳しかった。
「前へ行くのはいい。だが、前へ行くだけなら誰でもできる」
ベルアマードは汗を拭いながら、むっとした顔をする。
「じゃあ、何がいるんだよ」
「最後まで前にいることだ」
その言葉に、ベルアマードは黙った。
父も同じようなことを言っていた。
逃げることは、ただ飛び出すことではない。
最後まで先頭でいること。
その意味を、ベルアマードは少しずつ身体で覚え始めていた。
そして次戦。
ベルアマードは、再び勝った。
もちろん、逃げて勝った。
スタートから迷わず前へ出る。
誰にも先頭を譲らない。
途中で少し後続が詰め寄ってきても、ベルアマードは崩れなかった。最後の直線に入っても、彼の脚は止まらない。
自分が目指す走りを、そのまま体現するような勝利だった。
これで二戦二勝。
その名は、さらに広まっていった。
そして、冬が近づいてきた。
燃えるように色づいていた木々は、少しずつ葉を落としていった。
赤や黄色で賑わっていた風杜の庭も、次第に落ち着いた色へ変わる。朝の空気には冷たさが混じり、天気予報では、近いうちに雪が降るかもしれないと伝えられていた。
一年の締めくくりの季節。
競駆界にとって、冬は最も熱を帯びる時期でもあった。
年末の大一番、東都記念。
一年を代表する駆人たちが集まり、自分の全てをターフに刻む名レース。
だが、それに負けず劣らず注目を集める舞台がある。
二歳駆人にとって、初めてのGR。
中でも、二歳世代の頂点を決めるレース。
デザイアトロフィー。
翌年のリュニークへ向かう者たちにとって、避けては通れない大舞台だった。
そして、そのデザイアトロフィーに、ベルアマードの出走が決まった。




