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初めてのターフ

 デビュー戦当日。


空は高く澄み渡っていた。


夏の名残はもう薄く、陽射しは強すぎない。空から降り注ぐ光は、熱ではなく、軽やかな明るさを運んでいた。風は涼しく、競走場の周囲に植えられた木々の葉を静かに揺らしている。青い空の下、遠くからは観客たちの声が絶え間なく流れてきた。


秋晴れだった。


競駆人生の始まりを迎えるには、あまりにも整いすぎた日だった。


ベルアマードは、会場近くの宿泊施設で目を覚ました。


まだ朝の光は柔らかかった。窓の外には、競駆場へ向かう人々の姿がちらほら見える。いつもより少し早く動き出した街の空気が、今日という日が特別であることを知らせていた。


ベルアマードはベッドの上で上体を起こし、しばらく黙って自分の手を見つめた。


今日から始まる。


ようやく、自分の競駆人生が始まる。


これまで風杜のグラウンドで何度も走ってきた。武田トレーナーに怒られ、父の背中を追い、母の視線を感じながら走ってきた。


だが、今日からは違う。


練習ではない。

遊びでもない。

正式な競駆の舞台だ。


ベルアマードの胸の奥には、ずっと決めていることがあった。


母よりも高みを目指す。


それは、誰かに言われたからではない。

むしろ、言われ続けたからこそ生まれた思いだった。


入寮してから、いや、デビューが決まる前から、彼はずっと比べられてきた。


アマルティアの子。

伝説の女王の初子。

母のように勝つのか。

母のように強いのか。

母の再来になるのか。


新聞を見ても、テレビを見ても、そこには自分の名前があった。


だが、ベルアマードには分かっていた。


あれは自分を見ているわけではない。


皆、自分の向こうに母を見ている。

自分を通して、アマルティアを思い出している。

自分の走りではなく、母の伝説の続きを期待している。


それが、嫌だった。


母が偉大なのは知っている。

最強だったことも知っている。

誰もできなかったことを成し遂げたことも。


けれど、自分は母ではない。


自分には、自分の走りがある。


父のように前へ行きたい。

誰よりも先頭で風を受けたい。

後ろから全部を抜くのではなく、最初から誰にも前を譲らず走りたい。


そのために、今日までやってきた。


ベルアマードはベッドから下り、窓の外を見た。


遠くに競駆場の屋根が見える。


胸が高鳴る。


怖さはなかった。

ただ、早く走りたいという気持ちだけがあった。


やがて時間になり、ベルアマードは競駆場へ入った。


初めて正式な出走者として入る競駆場は、これまで見てきた場所とは違って見えた。観客席のざわめき。関係者の足音。通路を行き交うスタッフたちの声。遠くから聞こえる実況の調整音。


すべてが、これから始まる一戦へ向かって動いている。


ベルアマードはウォームアップを始めた。


軽く身体を動かし、足の感覚を確かめる。

地面の硬さ。風の向き。身体の軽さ。

今日の自分がどれだけ前へ行けるかを、ひとつひとつ確かめるように走った。


武田トレーナーはその様子を見ながら、落ち着いた声で指示を出していた。


コースの確認。

スタート位置。

最初の入り。

無理に力みすぎないこと。

先頭に立つなら、そこからどう走るか。


ベルアマードは頷いていた。


けれど、完全には集中できていなかった。


心が、もう先へ行っていた。


あと少し。


あと少しで、憧れ続けた競駆の世界に踏み込める。

あと少しで、自分がただのアマルティアの子ではないと示せる。


武田はその様子に気づいていた。


「ベルアマード。聞いているか」


「聞いてる」


武田は小さく息を吐いた。


「気持ちが前へ行きすぎると、身体がついてこない。逃げたいなら、なおさら冷静でいろ」


ベルアマードは少しだけ不満そうにしたが、言い返さなかった。


言葉の意味は分かっている。


だが、胸の高鳴りを完全に抑えることはできなかった。


レース前、出走者たちにはインタビューが行われる。


それは単なる確認ではなかった。

今日の調子はどうか。

どんな走りをするのか。

レースに向けて何を思うのか。

観客もそれを見聞きしレースの展望を予想する。競駆の楽しみのひとつである。

 

インタビュアーの問いに答えるその姿も、観客や記者たちに見られる。走る前から、そこではすでに注目の差が生まれていた。


一人、また一人と出走者が呼ばれていく。


そのたびに、拍手や歓声が起こる。

だが、ベルアマードの番が近づくにつれ、周囲の空気は明らかに変わっていった。


記者たちが前へ詰める。

カメラが向きを変える。

観客席の一部から、ざわめきが広がる。


ベルアマードにも、それは分かった。


自分が注目されている。


その事実に、悪い気はしなかった。


むしろ、少しだけ気持ちが上がった。


ようやく自分を見てくれるのか。

ようやく俺が走るところを見せれる。


そう思った。


やがて名前を呼ばれ、ベルアマードは用意された場へ出た。


その瞬間、視界が白く弾けた。


眩しい。


一つではない。

いくつもの光が、連続して目に飛び込んでくる。


ベルアマードは思わず目を細めた。

やがて少しずつ光に慣れてくると、それがカメラのフラッシュだと分かった。


記者。

観客。

インタビュアー。

関係者。

多くの視線が、ベルアマードに向けられていた。


初めての経験だった。


風杜で走っていた時とは違う。

練習で見られていた時とも違う。

ここでは、全員が自分に何かを期待している。


胸の奥が熱くなった。


だが、その熱は長く続かなかった。


インタビュアーが最初の質問を投げた。


『アマルティアさんの様に走るんですか?』


ベルアマードの表情が、わずかに止まった。


続けて、別の記者の声が飛ぶ。


『お母様アマルティアさんは、デビュー戦を圧倒的な末脚で制しました。』


その瞬間、さっきまで湧き上がっていた気持ちは、急速に冷めていった。


まただ。


ここでも、母だ。


自分のデビュー戦なのに。

自分がこれから走るのに。

彼らが聞きたいのは、自分のことではない。


アマルティアの子が、アマルティアのように走るのか。

アマルティアと比べてどうなのか。

アマルティアの伝説に続くのか。


それだけだった。


ベルアマードは、記者たちをゆっくり見回した。


無数の目がある。

無数のカメラがある。

その奥に、期待がある。

けれどその期待の形は、彼にとって心地よいものではなかった。


ベルアマードは短く息を吸った。


そして、はっきりと言った。


「俺は、母じゃない。俺らしく走る。」


それだけだった。


言い終えると、ベルアマードはそれ以上何も答えず、その場を後にした。


一瞬、周囲が静まり返った。


フラッシュの音も、記者たちのざわめきも、ほんのわずかに止まったように感じられた。


次の瞬間、小さなどよめきが起こる。


強い言葉だった。


母を否定するようにも聞こえる。

だが、同時に、母を誰よりも意識している言葉でもあった。


その場にいた者たちは、ひとつの予感を覚えた。


アマルティアの子は、やはり普通の子ではない。


気難しい。

扱いづらい。

そして、強烈な自我を持っている。


その印象は、たった一言で十分だった。


インタビューを終えた頃には、レースの時間が近づいていた。


ベルアマードは、ターフへ向かう通路を歩いていた。


その隣には武田トレーナーがいる。


武田は少し険しい顔をしていた。


「あの答え方はどうなんだ」


ベルアマードは前を向いたまま歩く。


「聞かれたから答えただけだ」


「もう少し言い方がある」


「俺は母さんじゃない」


「それは分かっている。だが、余計に注目を集めたぞ」


「なら、走って黙らせればいい」


武田は眉間にしわを寄せた。


だが、何も返さなかった。


その言葉はあまりにもアマルティアに似た言葉だった。


そして同時に、ウインドベルのように前しか見ていない言葉でもあった

 

ベルアマードは通路の先を見ていた。


そこには、光があった。


ターフへ続く出口。

観客の声。

広がる芝。

今日、自分が立つ場所。


彼の心は、すでに舞台へ向かっていた。


トレーナーの注意も、周囲のざわめきも、記者たちの視線も、今は遠くに聞こえた。


あと少し。


あと少しで、自分の名を示せる。


ベルアマードは歩みを止めなかった。


アマルティアの子としてではなく。

ウインドベルの子としてだけでもなく。


ベルアマードとして。


彼は、初めてのターフへ向かっていった。


暗い通路を抜け、ターフへ出た瞬間、ベルアマードの視界は白く霞んだ。


秋の陽の光が、真正面から差し込んでいた。

通路の薄暗さに慣れていた目には、その光は眩しすぎた。思わず目を細める。足元の芝が、陽を受けてきらきらと揺れている。風が吹くたび、緑の表面が波のように動いた。


少しずつ、目が慣れていく。


そして、ベルアマードは自分がどこに立っているのかを実感した。


競駆場。


幼い頃、風杜の居間で母と並んでテレビを見た、あの場所。

画面の向こうで、母アマルティアが最後方から全員を抜き去った場所。

父ウインドベルが、誰よりも先頭で風を切っていた場所。


その舞台に、今、自分が立っている。


観客席からは歓声が降ってきていた。

大舞台と呼ばれるようなGR(グランドランク)に比べれば、きっと数も熱も違うのだろう。だが、ベルアマードにとっては初めて浴びる本物の歓声だった。


耳に届く声の一つ一つが、自分の身体に触れてくるようだった。


期待。

興味。

好奇心。

そして、母の名と重ねる視線。


それでも、ベルアマードの胸は高鳴った。


ここが、始まりだ。


武田トレーナーが隣で声をかけた。


「最後に確認するぞ。芝は少し軽い。風は向こう正面で少し受ける。無理に飛ばしすぎるな」


ベルアマードは頷いた。


だが、その目はもうコースを見ていた。


「聞いてるのか」


「聞いてる」


「……聞いてる顔じゃないな」


武田は小さく息を吐いたが、それ以上は言わなかった。


ベルアマードは、芝の感触を確かめるように足を軽く踏み込んだ。

練習のグラウンドとは違う。整えられた芝は柔らかく、それでいてしっかりと足を受け止める。風の流れも、音も、空気も違う。


ここで勝つ。

ここで、自分の走りを見せる。


やがて係員の合図があり、出走者たちは始まりのゲートへ向かった。


ベルアマードも歩き出す。


ゲートが近づいてくる。


その鉄の枠を目にした瞬間、身体の奥がいつもと違う感覚に包まれた。


練習でも、ゲートは何度も使ってきた。

だが、目の前のゲートは、練習のそれとはまるで違って見えた。


ここに入れば、競駆が始まる。


夢見ていた勝利がある。

同時に、その逆もある。


勝てば称えられる。

負ければ、比べられる。


アマルティアの子なのに。

ウインドベルの子なのに。

そんな声が、きっと聞こえてくる。


ベルアマードは、奥歯を軽く噛んだ。


違う。


今日は、それを聞く日ではない。

今日は、自分の名を示す日だ。


ゲート入りを知らせるファンファーレが鳴り響いた。


競駆場の空気が、一段張りつめる。

観客のざわめきが少し低くなり、出走者たちが次々とゲートへ入っていく。


ベルアマードの番が来た。


係員に呼ばれ、彼は一歩前へ出た。


胸の中には期待があった。

夢があった。

そして、苛立ちもあった。


母と比べられ続けたこと。

自分を通して母を見られたこと。

父のように走りたいという願いを、自分の中で何度も確かめてきたこと。


そのすべてを抱えたまま、ベルアマードはゲートへ入った。


中は狭かった。


外の歓声が、少し遠くなる。

代わりに、自分の呼吸が大きく聞こえた。

心臓の音が、身体の内側で強く打っている。


ベルアマードは前を見た。


ゲートの先には、芝がある。

誰もいない、まっすぐな景色がある。


父は、いつもここから出ていったのだろうか。


そう思った。


最初の一歩で、誰よりも前へ。

誰にも譲らず、そのまま行く。


ベルアマードは、身体を静かに沈めた。


ゲートが開いた。


その瞬間、ベルアマードは飛び出した。


反応は鋭かった。

練習で何度も繰り返した動きが、迷いなく身体から出た。足が芝を捉え、身体が前へ弾ける。


他の走者がわずかにスタートで戸惑う中、ベルアマードは一歩、二歩と前へ出た。


すぐに先頭に立った。


観客席から声が上がる。


だが、ベルアマードにはもうほとんど聞こえていなかった。


前が開けていた。


誰もいない。


風が真正面からぶつかってくる。


それは、これまでグラウンドで感じていた風とはまるで違った。

重い。

強い。

けれど、心地よかった。


ベルアマードは走った。


当初、武田トレーナーと組んだプランとは大きく違っていた。

本来なら、最初はもう少し抑えるはずだった。逃げるにしても、息を整え、後続との距離を見ながら運ぶ予定だった。


だが、ベルアマードは止まらなかった。


誰にも先頭は譲らない。


その意思だけが、身体を前へ押した。


父のように、先頭の景色を見たい。

そして、母の偉大さを越えるために、自分の走りを見せたい。


後ろを見る気はなかった。


ただ前へ。

ひたすら前へ。


向こう正面で風を受ける。

トレーナーが言っていた通り、少し重い風だった。

けれどベルアマードは、それすらも自分を試してくるもののように感じた。


負けない。


前にいる以上、この風は自分だけのものだ。


コーナーへ入る。


身体が外へ流れそうになるのを、足でこらえる。

練習で教えられたことが、そこでようやく生きた。勢いだけなら膨らんでいたかもしれない。だが、ベルアマードは踏ん張った。


先頭のまま。


後続との差は、少しずつ広がっていた。


観客席のざわめきが大きくなる。


「速いぞ」

「逃げるのか」

「あれはウインドベルの……」


そんな声が、風の中に混じった気がした。


ベルアマードは唇を引き結んだ。


ウインドベルの走り。

それは間違っていない。


でも、今走っているのは自分だ。


最後のコーナーを回る。


ベルアマードは、まだ先頭にいた。

しかも、後続には大きな差がついている。


視界の先に、直線が広がった。


ゴールが見える。


観客席の声が一気に近くなった。

右側から、左側から、上から、歓声が降ってくる。

だが、前には誰もいない。


ゴール前には、自分だけの景色が広がっていた。


ベルアマードは一瞬、息を呑んだ。


これが、先頭の景色。


父が望んだ景色は、これだったのか。


誰かを追うのではない。

誰かの背中を見るのでもない。

自分が、一番最初にゴールへ向かっている。


その事実が、胸の奥で熱く弾けた。


足はまだ動く。

身体も前へ出る。

苦しさはある。

けれど、それ以上に、気持ちが前へ行っていた。


ベルアマードは、勢いを落とさなかった。


最後まで先頭のまま、ゴールへ飛び込む。


大きな歓声が、競駆場を包んだ。


後ろとの差は、はっきりと開いていた。


快勝だった。


ベルアマードは、デビュー戦を逃げ切り勝利で飾った。


ゴールを過ぎても、しばらく身体の熱は収まらなかった。

風が頬を撫でる。

歓声が耳に押し寄せる。

芝の匂いが、強く残っている。


ベルアマードは振り返った。


後続が、ようやくゴールへ入ってくる。


その光景を見た時、胸の中に確かな感覚が生まれた。


自分は勝った。


アマルティアのように、最後方からすべてを抜いたのではない。

ウインドベルのように、最初から前に立ち、そのまま走り切った。


いや。


父のように、ではない。


今日、先頭を走ったのは自分だった。


初めてのターフ。

初めての歓声。

初めての勝利。


その日、ベルアマードの競駆人生は、先頭の景色とともに始まった。


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