前へ行くため
アマルティアと翠子の働きにより、風杜は正式に寮として認められた。
ただ、それは風杜がこれまでの役割を捨てるということではなかった。
行き場を必要とする子を受け入れ、暮らしを支え、帰る場所としてあり続ける保護施設としての風杜。
そして、競駆を目指す駆人を預かり、育て、送り出す寮としての風杜。
二つの役割を両立する形で、風杜は新しい一歩を踏み出した。
だが、手続きは決して簡単ではなかった。
設備の確認、寮としての規則、生活管理、トレーニング環境、競駆協会への申請。
慣れない書類を前にして、アマルティアは何度も眉間にしわを寄せた。
「……なんで走るより面倒なのよ、これ」
机に突っ伏しかけるアマルティアを、翠子は穏やかに見守っていた。
「寮を作るというのは、走る場所を作るだけじゃないのよ。預かる命の責任も背負うということ」
「分かってるわよ」
アマルティアは少し不満そうに言いながらも、すぐに顔を上げた。
「でも、ベルアマードのためだもの。やるわ」
その言葉だけは、いつも迷いがなかった。
やがて正式な認可が下り、風杜には新しい看板が掲げられた。
保護施設としての名と、競駆寮としての名。
その二つが並んだ札を、アマルティアはしばらく黙って見つめていた。
ここが、帰る場所であり、走り出す場所にもなる。
その実感が、胸の奥にゆっくりと広がっていった。
寮の代表、寮長にはアマルティアが就いた。
その知らせは、すぐに競駆界を揺らした。
あのアマルティアが寮長になる。
新聞もテレビも、しばらくその話題を取り上げた。
現役時代、誰にも縛られず、誰よりも強く、常識を壊し続けた女王。
そのアマルティアが、今度は寮長として若い駆人を預かる。
当然、さまざまな声が出た。
期待する者。
不安を口にする者。
面白がる者。
だが、噂話というものは長くは続かない。
次のレース、次の話題へと人々の関心は移っていき、風杜の話も次第に落ち着いていった。
ただ、風杜の中だけは確かに変わっていた。
グラウンドは整備され、トレーニング用の道具が増えた。
外部のトレーナーが出入りするようになり、日々の生活の中に競駆へ向かう時間が組み込まれていった。
それでも、風杜の空気は大きく変わらなかった。
朝には子供たちの声が響き、食堂には湯気の立つ食事が並び、廊下は相変わらず少し軋む。
そこは変わらず、誰かが帰ってこられる場所だった。
そして、ベルアマードが二歳となる春。
ベルアマードは正式に風杜寮へ入寮した。
もっとも、本人にとっては不思議な話だった。
そこは生まれてからずっと過ごしてきた場所であり、朝起きる部屋も、食事をする場所も、走り回る庭も変わらない。
けれど、その日から彼はただの風杜の子ではなく、競駆を目指す駆人として、正式に寮へ所属することになった。
アマルティアは、その日やけに落ち着きがなかった。
「今日から正式に入寮よ、ベルアマード」
「でも、ここ、いつもの風杜だよ」
ベルアマードは首を傾げた。
アマルティアは胸を張った。
「形が大事なのよ。今日からあなたは、風杜寮所属の男駆候補。つまり、本格的に競駆の道へ入るってこと」
ベルアマードは少しだけ考えたあと、グラウンドの方を見た。
「じゃあ、もっと走れる?」
その一言に、アマルティアはふっと笑った。
「ええ。走れるわ。ただし、遊びじゃなくなるけどね」
ベルアマードの目が、静かに輝いた。
秋口のデビューへ向けて、ベルアマードのトレーニングが始まった。
トレーナーとして来てくれたのは、武田トレーナーだった。
現役時代、アマルティアとウインドベルを見てきた人物である。二人の強さも、癖も、扱いにくさも、誰よりもよく知っていた。
武田は、自分の後輩たちを数人連れて風杜へやって来た。
初めて本格的にベルアマードの走りを見た時、武田はしばらく黙っていた。
父譲りの茶色い髪。
最初から前へ行こうとする姿勢。
指示を聞きながらも、自分の考えを曲げようとしない目。
そこには確かに、ウインドベルの面影があった。
だが同時に、アマルティアの気の強さもはっきりと見えた。その姿に武田は苦笑を浮かべた。
トレーニングは、これまでの楽しむための走りとは違った。
ただ前へ走ればいいわけではない。
速く走るだけでも足りない。
スタートの姿勢。
足の運び。
呼吸の整え方。
ペースの作り方。
相手がいる中で、自分がどう走るのか。
ベルアマードは、少しずつレースで勝つための走りを学んでいった。
だが、素直に学んだわけではない。
彼には、すでに彼なりの走りのこだわりがあった。
父のように前へ行きたい。
最初から先頭に立ちたい。
なぜ脚を溜めなければならないのか。
なぜ後ろを見る必要があるのか。
トレーナーが少しでも抑えることや、脚を残すことを教えようとすると、ベルアマードはすぐに不満を顔に出した。
「僕は前に行きたいんだ」
何度もそう言った。
若いトレーナーたちは困った。
無理に抑えようとすると、ベルアマードの走りは途端にぎこちなくなる。
逆に自由に行かせると、勢いはあるが荒い。
武田は、何度もその走りを見た。
ただの反抗ではない。
この子には、前へ行くことへの強い意志がある。
それは父への憧れであり、本人の気質でもあった。
練習後、トレーナーたちはアマルティアとウインドベルを交えて話し合った。
武田は静かに言った。
「無理に抑えるより、前へ行く方がいいかもしれない」
アマルティアは少し複雑な顔をした。
本音を言えば、自分のように後方で構え、最後にすべてを抜き去る走りも教えたかった。
だが、ベルアマードが見ているのは父の背中だった。
その憧れを無理に折ることが、正しいとは思えなかった。
ウインドベルも、静かに頷いた。
その走りはベルアマード本人の希望でもあり、アマルティアとウインドベルの願いでもあった。
そして、練習方針は決まった。
ベルアマードの逃げたい意志を尊重する。
ただし、ただ飛び出すだけではなく、最後まで前にいるための走りを覚えさせる。
逃げるための技術。
先頭で風を受けるための体。
後ろから追われても崩れない心。
ベルアマードは、それを学んでいくことになった。
方針が決まってから、ベルアマードの走りは少しずつ変わった。
反発が消えたわけではない。
納得できないことがあれば、相変わらず顔をしかめる。
思い通りに走れなければ、悔しさを隠さない。
それでも、自分の走りを否定されていないと分かってから、ベルアマードは前よりも真剣にトレーニングへ向かうようになった。
朝のグラウンド。
夕方の風。
雨上がりの土の匂い。
夏の強い陽射し。
その中で、ベルアマードは何度も走った。
最初から前へ行くために。
誰よりも先に風を受けるために。
そして、父のように、最後まで先頭で走り切るために。
やがて、夏が過ぎた。
照りつけるような陽射しは少しずつ和らぎ、空は高く澄んでいった。
風は暑さではなく、涼しさを運ぶようになる。
木々の色も、少しずつ緑から赤へと変わり始めていた。
秋になった。
そんな季節の中で、ベルアマードのデビュー戦が決まった。
風杜の空気が、少しだけ張りつめた。
ベルアマード自身は、むしろ待っていたと言わんばかりだった。
ようやく走れる。
ようやく、自分の走りを見せられる。
ベルアマードのデビューに外の世界はすでに騒がしかった。
デビュー戦前から、ベルアマードへの注目は高かった。
アマルティアとウインドベルの初子。
その肩書きだけで、競駆界が放っておくはずがなかった。
新聞は大きく取り上げ、テレビでも特集が組まれた。風杜のグラウンドを走るベルアマードの映像とともに、必ずと言っていいほど、母アマルティアの過去の映像が流された。
伝説の女王の初子。
アマルティアの再来となるか。
そんな言葉が、見出しに並んだ。
もちろん、父ウインドベル譲りの走りにも触れられていた。
だが、世間が真っ先に見るのは、やはりアマルティアの子であるという事実だった。
当然のように、比べられた。
アマルティアの二歳時はどうだった。
アマルティアのデビュー前はどれほど評判だった。
アマルティアなら初戦から圧倒した。
アマルティアの子なら、勝って当然だ。
その声は、少しずつベルアマードの耳にも入っていった。
すべてを理解しているわけではない。
それでも、周囲が自分だけを見ているのではないことは感じ取っていた。
自分を見る目の奥に、母の姿がある。
ベルアマードは、そのことを胸のどこかで覚え始めていた。
秋風の吹くグラウンドで、彼は走った。
前へ。
誰よりも前へ。
アマルティアの子としてではなく。
ウインドベルの子としてだけでもなく。
いつか、自分自身の名前で呼ばれるために。
ベルアマードのデビューの日は、静かに近づいていた。




