夢への変化
ベルアマードは、一歳を過ぎる頃には、目に見えて走ることが速くなっていた。
生まれたばかりの頃は、ただ泣き、眠り、母の腕の中で小さな息をしているだけだった。けれど季節が巡るうちに、彼は立ち、歩き、言葉を覚え、そして駆人の子らしく走るようになっていった。
最初の走りは、ただ身体が前へ転がっていくようなものだった。
風杜の廊下を小さな足で駆け、庭へ飛び出し、草の上で転び、悔しそうに顔を歪める。それでもすぐに立ち上がった。泣く時もあったが、泣きながらまた走ろうとする。誰かに抱き上げられるより、自分の足で前へ進むことを好んだ。
そんなベルアマードの日常に、もう一つ大きな変化が生まれた。
彼は、兄になった。
冬の寒さが強くなり、春の訪れを拒むように冷たい風が吹いていた頃。アマルティアに第二子が生まれた。
ベルアマードとは違い、その子はアマルティアによく似た栗色の髪をした女の子だった。
初めて妹の顔を見た時、ベルアマードはしばらく黙っていた。
白い布に包まれた小さな命。
自分よりもずっと小さく、まだ目もほとんど開かない。
声も細く、手も小さい。
「妹よ。あなた、お兄ちゃんになったの」
アマルティアにそう言われたベルアマードは、じっと妹を見つめた。
完全に意味を理解していたわけではなかったかもしれない。
それでも、自分より小さな家族ができたことだけは分かったのだろう。
その日から、ベルアマードの顔には少しだけ兄の表情が混じるようになった。
妹が泣けば、すぐに覗きに行く。
けれどどうすればいいか分からず、少し離れて困ったように立っている。
眠っている妹を見る時には、いつもの負けん気の強い顔ではなく、どこか真面目な顔をしていた。
冬の寒さと新たな出会いを過ぎ、ベルアマードの走りには少しずつ形が生まれていた。
好きなように駆け回るだけではない。
腕を振り、身体を前へ傾け、足で地面を押す。まだ幼く、まだ粗く、まだ競駆と呼べるものではない。けれど、その目はすでに、ただ遊ぶ子供の目ではなかった。
前を見ていた。
遠くを見ていた。
まるで、自分もいつか、母や父が走った競駆の世界へ入るのだと、幼いながらに見据えているようだった。
風杜の中で遊ぶことよりも、外へ出てグラウンドを走ることが増えていった。積み木や絵本にも手を伸ばす。けれど、それらは長く続かない。少し遊ぶと、すぐに窓の外を見る。風が吹けば立ち上がる。誰かが外へ出る気配を見せれば、自分も連れていけと言うように駆け寄ってくる。
グラウンドに出ると、ベルアマードは別の顔になった。
土の匂い。
草の匂い。
風杜の木々を抜けてくる風。
そのすべてを受けながら、小さな身体でまっすぐ前へ走る。
アマルティアは、そんな我が子を見るたび、胸の奥が騒いだ。
嬉しかった。
誇らしかった。
そして、少しだけ落ち着かなかった。
自分の子が走っている。
それも、ただ遊びで走っているのではない。
何かを掴もうとするように、前へ進んでいる。
だからこそ、口を出したくなった。
かつて最後方からすべてを抜き去った彼女には、教えたいことがいくらでもあった。脚を溜めること。焦らず待つこと。相手を見ること。勝負どころを見極めること。そして、最後にすべてを抜き去る快感。
けれど、アマルティアがグラウンドで走るベルアマードに声をかけようとすると、彼は決まって振り返り、少しだけ眉を寄せた。
「僕はお父さんみたいに走りたいんだ」
その言葉を残して、ベルアマードはまた走り出す。
アマルティアは、そのたびにむっとした。
母として、そして一人の駆人として、自分の助言を聞いてくれないことが悔しかった。自分だって、誰よりも走ってきた。誰よりも勝ってきた。最後方から全員を抜き去る走りで、世界まで届いた。
それなのに、ベルアマードが憧れるのは父の走りだった。
最初から先頭へ行く走り。
後ろを振り返らず、風を真正面から受ける走り。
ウインドベルの大逃げ。
アマルティアは不満を隠しきれず、時折、ウインドベルや翠子にこぼした。
そのたびに、ウインドベルは懐かしそうに目を細めた。
「懐かしい。君も、あんな感じだったな」
その一言に、アマルティアは反論しようとして口を開き、そして閉じた。
翠子もまた、同じように穏やかに笑った。
「貴女もよく言ってたじゃない。私の走りは私が1番分かるのって。本当親子ね」
そう言われると、アマルティアは黙るしかなかった。
図星だった。
かつての自分もそうだった。誰かに走りを決められることを嫌い、自分の感覚を信じ、納得できない助言には反発した。自分の道は自分で決める。そう思って走ってきた。
ベルアマードの頑固さは、父譲りだけではない。
確かに、母からも受け継いでいた。
それを分かってしまうから、アマルティアは余計に複雑な顔をした。
ベルアマードは、父とよく話していた。
ウインドベルは引退後、風杜にずっといるわけではなかった。海外のレースを数多く経験した彼は、日本の駆人が海外遠征する際のアドバイザーとして、たびたび海外へ仕事に出ていた。
異国の芝。
現地の風。
重い空気。
長い直線。
遠征先での調整。
知らない観客の声。
そういったものを実際に知る駆人は少なく、ウインドベルの経験は必要とされていた。
だから、ベルアマードが父に会える時間は限られていた。
それでも、ウインドベルが風杜へ帰ってくると、ベルアマードは真っ先に玄関へ向かった。小さな足で走り、転びそうになりながらも父のもとへ行く。
普段、ウインドベルは口数の多い男ではない。
必要なことを短く話し、余計なことはあまり語らない。
けれど、ベルアマードの前では違った。
どんな国へ行ったのか。
どんなレースを見たのか。
どんな駆人がいたのか。
前へ行くとはどういうことなのか。
逃げるためには、最初の速さだけではなく、最後まで前にいるための強さが必要なのだということ。
ウインドベルは、忙しい時間の合間を縫って風杜へ帰り、ベルアマードに話した。
ベルアマードはその一つ一つを、真剣に聞いた。
母の言葉には反発する。
けれど、父の言葉には耳を傾ける。
アマルティアは、その様子を見るたびに悔しさを覚えた。
自分も教えたい。
自分も頼られたい。
自分の走りだって、ベルアマードに見てほしい。
けれど同時に、目の前の光景に幸福を感じてもいた。
腕の中には栗色の髪をした長女が眠っている。
グラウンドでは、ウインドベルがベルアマードの歩幅に合わせて走っている。
ベルアマードは父の背中を追いかけ、時折立ち止まって何かを尋ねる。
ウインドベルは静かに答え、ベルアマードは頷き、また走る。
それは、競駆場の歓声とは違う光景だった。
世界を制した時の高揚とも違う。
もっと近く、もっと穏やかで、胸の奥をゆっくり満たすような時間だった。
アマルティアは、自分を頼ってくれないことを悔しがりながらも、夫と我が子が並んで走り、話す光景に、確かな幸せを感じていた。
そんな時が過ぎ、季節は秋になった。
風が涼しさを運び、風杜を囲む木々の色を少しずつ変えていった。夏の濃い緑は薄れ、枝先には赤や黄色が混じり始める。落ち葉は庭の隅に重なり、風が吹くたびにからからと軽い音を立てて転がった。
秋の陽は、春とは違う。
春が新しい命を迎える光なら、秋は流れてきた時間を静かに照らす光だった。縁側に差し込む陽射しはやわらかいが、風には少しだけ冷たさがある。その温度の違いが、季節の深まりを知らせていた。
その日、グラウンドではベルアマードがウインドベルと走っていた。
小さな身体で父の背中を追いかけ、何度も前へ出ようとする。勢い余って足元が乱れることもあったが、そのたびに踏ん張り、また走り直した。
その声と足音が、秋風に乗って縁側まで届いていた。
アマルティアと翠子は、風杜の縁側に二人で肩を並べて座っていた。湯呑みからは白い湯気が立ち上り、庭の赤や黄色の葉を背景に、静かに揺れていた。
しばらく、二人は何も言わなかった。
グラウンドから聞こえるベルアマードの声。
それに応えるウインドベルの低い声。
落ち葉を転がす風の音。
そのすべてが、風杜の秋の午後を形作っていた。
やがて、アマルティアが口を開いた。
「ねえ翠子。相談があるのだけど。」
静かな時間を破ったのは、アマルティアの声だった。
翠子は湯呑みを両手で包んだまま、穏やかに横を見る。
「どうしたの、ベルアマードのこと?」
「まあ、そうね……」
アマルティアはそこで一度言葉を切った。
普段の彼女なら、言いたいことはすぐに言う。遠回りを嫌い、迷うより先に踏み込む。それがアマルティアだった。
けれど、この時の彼女は違った。
膝の上で手を組み、グラウンドの方を一度見る。
ベルアマードが走っている。
ウインドベルがその傍で見守っている。
その光景を目に焼き付けるように見てから、アマルティアは翠子へ向き直った。
背を正す。
いつもの勝ち気な顔ではなく、どこか覚悟を決めたような表情だった。
「単刀直入に言うわ。ここ風杜を本格的に寮へと変えたいの。」
翠子は、その言葉を静かに受け止めた。
風が縁側を抜け、庭の落ち葉を一枚転がした。
アマルティアは翠子の沈黙を見て、すぐに言葉を続けた。
「翠子が言いたい事は分かるわ。私も色々調べたの。設備のこととか、規則とか。寮に必要なこととか。でも、ベルアマードが競駆に出るには寮に入らないといけない。他の寮に入れば良いのは分かるんだけど。……私の子供ってことでどこも受け入れてくれないの。」
その声には、悔しさが滲んでいた。
アマルティアは現役時代、並ぶもののないほど圧倒的な成績を残した。誰も届かなかった高みへ行き、誰も成し遂げなかった偉業を積み上げた。
だが、その道は穏やかではなかった。
前例を壊し、常識を踏み越え、風杜を一時的に寮として認めさせてまで走った。強く、不器用で、周囲とぶつかることも多かった。
その名はあまりにも大きい。
だからこそ、ベルアマードを受け入れることに、どの寮も慎重だった。アマルティアの子というだけで、注目が集まる。失敗すれば責任を問われる。成功しても、常に母と比べられる。
丁寧な断りの言葉は、いくつもあった。
けれどアマルティアには、その奥にある本当の理由が分かっていた。
自分の名が、ベルアマードの前に壁として立っている。
それが、何より悔しかった。
ベルアマードは、もう走る未来を見ている。
父のように先頭を走りたいと、本気で思っている。
あのグラウンドで前を見つめる目は、ただの遊びではない。
その道を、自分のせいで閉ざしたくなかった。
「でも、私はあの子を走らせてあげたいの。だから……お願いします!風杜を寮に変えさせてくだい。」
アマルティアは床に手をつき、翠子に向かって頭を下げた。
その姿に、翠子は息を呑んだ。
アマルティアをずっと見てきた翠子にとって、初めて見る姿だった。
この子は、誰に対しても簡単には頭を下げなかった。
勝ち気で、意地っ張りで、不器用で、自分の走りを信じて疑わなかった。
自分で選び、自分でぶつかり、自分で道を切り開いてきた。
そのアマルティアが今、自分のためではなく、我が子のために頭を下げている。
それは、勝者の姿ではなかった。
伝説の駆人の姿でもなかった。
母の姿だった。
家族のために動き、子の未来のために願い、必要なら自分の誇りすら横に置く。
そんな姿を目の前にして、翠子の胸に静かな熱が広がった。
涙が、頬を伝った。
翠子は、頭を下げるアマルティアを見つめながら、穏やかに微笑んだ。
「もう立派にお母さんね、アマルティア。」
その言葉に、アマルティアはゆっくりと顔を上げた。
翠子は続けた。
「風杜を寮にする事は許可します。私もそうなると思って動いていたの。」
アマルティアの目が大きく開いた。
「……本当にいいの?」
「勿論。でも、あなたが勉強しないといけないことも沢山あるから頑張って。」
その瞬間、アマルティアの表情がぱあっと明るくなった。
それは、レースに勝った時の笑顔とは少し違っていた。
誰かを負かした喜びではない。
未来が開けたことへの、まっすぐな喜びだった。
「分かってるわ!家族の為にやってやるわよ、絶対に。」
その声には、かつてターフへ向かった時と同じ強さがあった。
けれど、向かう先はもう勝利だけではなかった。
ベルアマードの未来。
風杜の未来。
家族のために作る道。
グラウンドでは、ベルアマードがまだ走っていた。
小さな身体で父の背中を追いかけ、前へ、前へと進んでいる。時折つまずきそうになりながらも、倒れずに踏ん張り、また走り出す。
ベルアマードは、まだ何も知らない。
自分が競駆の世界へ進むために、母が頭を下げたことも。
翠子が、その未来を見据えてすでに動いていたことも。
風杜が、自分の夢を支える寮へと変わろうとしていることも。
何も知らず、ただ父の背中を追っていた。
けれど、その知らないところで、道は少しずつ築かれていた。
母の決意で。
父の背中で。
翠子の静かな覚悟で。




