父のように走りたい
ベルアマードは、すくすくと育っていった。
春に生まれた小さな命は、季節が巡るたびに少しずつ大きくなっていった。
最初は泣くことしかできなかった。
アマルティアの胸に抱かれて眠り、ウインドベルの指を小さな手で握り、風杜の皆に見守られながら、ただ温もりの中で息をしていた。
それが、いつの間にか首を動かすようになった。
母の声がする方へ顔を向けるようになった。
父が部屋へ入ってくると、まだ言葉にならない声を上げて手を伸ばすようになった。
やがて、立った。
初めて立ち上がった日のことを、アマルティアはしばらく誰にでも話した。
「すごかったのよ。ふらふらしてたけど、ちゃんと立ったの。私の子だから当然だけど」
そう言って胸を張るアマルティアに、ウインドベルはいつも静かに笑っていた。
そんなやり取りが、風杜の日常になっていった。
ベルアマードは歩けるようになった。
最初は数歩進んでは尻もちをつき、悔しそうに顔を歪めて泣いた。だが、すぐにまた立とうとした。転んでも、手を伸ばされる前に自分で床へ手をつき、むっとした顔で立ち上がろうとする。
その姿を見て、アマルティアは満足そうに言った。
「負けず嫌いね」
ウインドベルは、少し困ったように笑った。
「君に似たんだろうな」
「何よ。いいことじゃない」
「そうだな」
やがて、しゃべるようにもなった。
最初は短い言葉だった。
母を呼ぶ声。父を呼ぶ声。翠子を呼ぶ声。
それが少しずつ文章になり、気に入らないことがあれば不満を言い、嬉しいことがあれば得意げに報告し、風杜の中を小さな足で歩き回るようになった。
そして、駆人の子供らしく、走るようになった。
最初は廊下を駆けるだけだった。
風杜の長い廊下を、ぱたぱたと足音を立てて走る。
翠子に「廊下は走らないの」と注意されても、少し歩いたあと、また我慢できなくなって走り出す。
庭ではもっとひどかった。
夏の陽の下を、秋の落ち葉の間を、冬の冷たい空気の中を、ベルアマードは走った。まだ速いとは言えない。歩幅も小さく、すぐに息を切らし、転ぶことも多かった。それでも彼は、前へ出ることが好きだった。
誰かと一緒に遊んでいても、気づけば一番前に行こうとする。
追いかけっこをすれば、追うより逃げる方を選ぶ。
そして逃げると、後ろをほとんど見なかった。
それを見て、ウインドベルは目を細めた。
「……前に行きたがるな」
アマルティアは腕を組み、少し不満そうに言った。
「私の子なら、最後に全部抜く方が気持ちいいって、そのうち分かるわ」
「どっちでもいいさ。あいつが楽しいなら」
「よくないわ。走り方は大事よ」
「君も昔、誰かにそう言われたら反発しただろ」
「……それはそれよ」
ウインドベルは笑った。
そんな日々の、ある午後だった。
風杜の居間には、柔らかな陽が差し込んでいた。窓の外では木々が風に揺れ、庭先には花が咲いている。昼食の後の穏やかな時間で、風杜全体が少し眠たげな空気に包まれていた。
ベルアマードは床の上に座り、小さな積み木を並べていた。
その横で、アマルティアはテレビをつけた。
画面には、競駆の特集番組が映っていた。
過去の名レース。
歴史を変えた勝負。
伝説となった駆人たち。
画面の中では、重厚な音楽とともに、かつてのレース映像が流れ始めていた。スタンドを埋める観客。ゲートへ向かう駆人たち。実況の声。土や芝を蹴る足音。歓声。
アマルティアはそれを見て、少しだけ口元を緩めた。
「ほら、ベルアマード」
積み木を並べていたベルアマードが、顔を上げる。
「テレビで競駆がやってるわよ」
「けいく?」
「そう。お母さんとお父さんが走ってたやつ」
その言葉を聞いて、ベルアマードは積み木を置いた。
まだ幼い顔に、興味の色が浮かぶ。小さな身体で立ち上がり、テレビの前に座るアマルティアの横へやってくる。
「ここ」
アマルティアは自分の隣を軽く叩いた。
ベルアマードはそこに座った。足を投げ出し、両手を膝の上に置いて、画面をじっと見つめる。
テレビでは、過去の名レースが紹介されていた。
『史上初、二つの道を制した女王――アマルティア』
ナレーションの声が流れた瞬間、アマルティアはわずかに背筋を伸ばした。
「ほら」
彼女は待ってましたと言わんばかりに、画面を指さした。
「ほら、お母さんよ!」
画面の中には、若い頃のアマルティアが映っていた。
ターフの上。
大観衆の前。
最後に呼ばれゆっくりとゲートへ向かう栗毛の駆人。
表情は今と全然違う。鋭く、誰に何を言われても関係ない顔をしている。
ベルアマードは画面を覗き込んだ。
「おかあさん?」
「そうよ。ほら、あそこ」
アマルティアは得意げに言う。
映像がレースへ切り替わった。
ゲートが開き、駆人たちが一斉に飛び出す。
だが、アマルティアは後ろだった。
先頭集団から大きく離れ、最後方近くにいる。
ベルアマードは首を傾げた。
「いちばんうしろじゃん」
アマルティアの耳がぴくりと動いた。
「まあ、見てなさいって」
「でも、うしろだよ」
「だから、見てなさいって言ってるでしょ」
アマルティアは腕を組み、ふふん、と鼻を鳴らした。
「ここからがすごいんだから」
ベルアマードは母の横顔を見た。
自慢げだった。かなり自慢げだった。
その顔を見て、ベルアマードはもう一度テレビへ視線を戻す。
画面の中で、レースは進んでいく。
先頭の駆人たちは軽快に飛ばしていた。中団では位置取り争いがあり、何人もの駆人が相手の出方を窺っている。実況は先頭の名前を叫び、場内は熱を帯びていた。
それでもアマルティアは後ろにいた。
ベルアマードは少し退屈そうに見えた。
「まだうしろ」
「待つの」
「なんで?」
「作戦よ」
「さくせん?」
「そう。大事なことなの」
アマルティアは真面目な顔で言ったが、ベルアマードはまだよく分かっていない様子だった。
レースは最終コーナーへ向かった。
前を行く駆人たちがスパートを始める。観客の歓声が一段大きくなる。実況の声が熱を帯びる。
そして、最後の直線。
その瞬間、画面の中のアマルティアが動いた。
最後方にいたはずの彼女が、外へ持ち出される。
身体が沈む。
次の一歩で、明らかに速度が変わる。
ベルアマードの目が見開かれた。
画面の中で、アマルティアは一気に前へ進んでいった。
一人抜く。
また一人抜く。
さらに一人抜く。
前にいた駆人たちが、次々と後ろへ流れていく。
まるで、画面の中で時間の流れが彼女だけ違うようだった。
実況が叫ぶ。
観客が立ち上がる。
スタンド全体が揺れる。
『アマルティアが来た! アマルティアが来た! 外からまとめて呑み込んでいく!』
最後の坂。
残りわずか。
それでも彼女の勢いは止まらなかった。
先頭を捉え、並び、抜き去る。
そして、誰よりも先にゴールを駆け抜けた。
画面の中の歓声が、居間の静かな空気を震わせるようだった。
アマルティアは満足げに顎を上げた。
「ほーら、どうよ」
彼女はベルアマードを見る。
「すごいでしょ」
ベルアマードはテレビを見つめたまま、素直に頷いた。
「すごい」
アマルティアの顔がさらに得意げになる。
「そうでしょ」
「ぜんぶぬいちゃった」
「そうよ。最後に全部抜くの。これが一番気持ちいいのよ」
アマルティアは胸を張った。
「前にいる全員を、自分の脚で追い越していくの。誰が前にいようと関係ない。最後に私が一番前にいればいいのよ」
ベルアマードは、まだ画面を見つめていた。
すごかった。
それは本当にすごかった。
最後方にいた母が、直線に入った瞬間、まるで別の生き物のように速くなった。前にいた全員を抜いて、最後には一番先にゴールした。
それは、幼いベルアマードにも分かるほど圧倒的だった。
けれど、胸の中にひとつ、疑問が残った。
ベルアマードは、母を見上げた。
「でも」
「何?」
「なんで速いのに、はじめから走らないの?」
アマルティアは一瞬、固まった。
「え?」
ベルアマードは不思議そうな顔をしている。
「だって、あんなに速いなら、さいしょから一番まえに行けばいいじゃん」
アマルティアの口が少し開いた。
その顔は、まさかそんなところを突っ込まれるとは思っていなかった、という顔だった。
「いや、それは……」
「ほら」
ベルアマードはテレビを指さした。
ちょうど番組は次の映像へ移っていた。
『続いては、世界の観客を熱狂させた大逃げの旅人――ウインドベル』
画面に映ったのは、ウインドベルだった。
若い頃の父。
スタート前から、どこか遠くを見ているような横顔。
ゲートの中で静かに立っているが、その身体には今にも前へ飛び出しそうな力が満ちている。
ベルアマードの目が、自然とそちらへ引き寄せられた。
ゲートが開く。
ウインドベルは、ためらいなく飛び出した。
最初の一歩から速い。
迷いがない。
他の誰かの位置など見ていない。
ただ前へ。
ただ先へ。
一瞬で先頭に立つ。
そこからさらに差を広げる。
一人になる。
後ろの駆人たちは必死に追うが、ウインドベルは振り返らない。
ターフの上に、彼だけの道があるようだった。
誰もいない先頭。
風を真正面から受ける場所。
一番先に景色が開ける場所。
ベルアマードは、息をするのも忘れたように見ていた。
ウインドベルは、ただ逃げているのではなかった。
前へ行っていた。
最初から全力で、自分の見たい景色へ向かっていた。
中盤になっても、彼は落ちない。
終盤になっても、まだ前にいる。
最後の直線に入っても、背中は遠いままだった。
実況が叫ぶ。
『ウインドベル、まだ先頭! 大きく離している! このまま行くのか、このまま逃げ切るのか!』
最後まで、彼は先頭だった。
誰にも並ばせず、誰にも前を譲らず、そのままゴールへ駆け抜けた。
画面の向こうで、観客が沸き上がる。
ベルアマードは、ぽつりと言った。
「お父さん、ずっと一番まえだ」
アマルティアは腕を組み、少しだけ視線を逸らした。
「まあ、そうね」
「すごい」
「私もすごかったでしょ」
「うん」
ベルアマードは頷いた。
「お母さんもすごかった」
アマルティアは少し満足しかけた。
しかし、ベルアマードは続けた。
「でも、ぼくは、お父さんの走りの方がカッコよかったな」
「なっ!?」
アマルティアの声が裏返った。
ベルアマードは真剣だった。
「だって、さいしょからいっしょうけんめいでしょ」
「最後に全部抜く方がかっこいいでしょ!」
「でも、お父さんはずっと一番まえだったよ」
「それは走り方が違うのよ。作戦よ、作戦」
「さくせん?」
「そう。駆人には、それぞれ一番得意な走りがあるの。お母さんは後ろで待って、最後に全部抜くのが得意。お父さんは最初から前に行くのが得意。それだけよ」
アマルティアはそう説明したが、どこか負け惜しみのようにも聞こえた。
ベルアマードは小さな腕を組んで、真剣に考え込んだ。
母の走りはすごかった。
最後に全員を抜くのは、確かにかっこよかった。
誰にも止められない速さだった。
でも、父の走りは違った。
最初から前にいた。
誰よりも先に飛び出して、誰よりも先に風を受けていた。
誰かの後ろで待つのではなく、自分で景色を開いていた。
ベルアマードの胸の奥が、小さく熱くなった。
走るなら。
もし自分が走るなら。
後ろから全部抜くよりも、最初から前へ行きたい。
誰よりも先に走りたい。
誰もいない場所で、風を受けてみたい。
ベルアマードはテレビの中のウインドベルを見つめた。
画面はすでに次の解説へ移っていたが、彼の目には、父が先頭を駆ける姿がまだ焼きついていた。
「ぼく」
小さな声で、ベルアマードは言った。
アマルティアがまだ少し不満そうな顔で見る。
「何?」
「ぼく、走るなら、お父さんみたいに走りたい」
その言葉に、アマルティアは目を見開いた。
廊下の向こうで、ちょうど居間へ戻ってこようとしていたウインドベルが足を止めた。
ベルアマードは、まだ幼い声で続けた。
「一番まえで走りたい。ずっと一番まえ。だれにも前に行かせないで、さいごまで走るの」
テレビの音が、部屋に小さく響いていた。
アマルティアは何か言おうとして、言葉に詰まった。
自分の走りを選ばなかったことが、少し悔しい。
父の走りをかっこいいと言われたことも、かなり悔しい。
だが、それ以上に、ベルアマードの目があまりにもまっすぐだった。
その目は、もう何かを決めていた。
ウインドベルは、廊下の影から静かに二人を見ていた。
そして、ほんの少しだけ笑った。




