風杜へ帰る日
春風がやわらかく頬を撫でる、穏やかな昼下がりだった。
ついこの間まで残っていた冬の冷たさは、もうすっかり力を失っていた。風杜を囲む木々の梢には、淡い緑が宿りはじめ、枝先は陽光を受けてきらめいている。庭先の草も、昨日より一段濃く色づいたように見えた。
空は澄んでいた。
春の陽射しは強すぎず、眩しすぎず、ただ静かに大地へ降り注いでいた。古い木の戸も、石畳も、風杜の壁も、その光を受けてやわらかく温められている。暑くもなく、寒くもない。少し目を閉じれば、そのまま眠りに落ちてしまいそうなほど、穏やかな日だった。
風杜の施設長、翠子はその日、朝から何度も玄関の方を気にしていた。
食堂の片づけをしていても、ふと手が止まる。
廊下を歩いていても、外から車の音や足音がしないか耳を澄ませる。
窓辺の花瓶に水を足しながら、何度も庭の先へ目を向けてしまう。
今日、帰ってくる。
アマルティアが。
ウインドベルが。
そして、二人の子が。
そう思うだけで、胸の奥が静かに熱を帯びた。
風杜は、かつてと変わらずそこにあった。古びた廊下も、少し軋む床も、何度直しても春風に鳴る窓枠も、昔のままだ。けれど、そこへ戻ってくる者たちは、もう昔の子供ではなかった。
アマルティアは母になった。
ウインドベルは父になった。
その事実を思うたび、翠子は不思議な感覚に包まれた。
時間は、確かに流れている。
あの小さかった子たちは、ターフを駆け、世界を知り、そして戻ってくる。新しい命を抱いて。
昼を少し過ぎた頃だった。
玄関の外に、足音が近づいてきた。
翠子は手にしていた布巾をそっと置いた。胸の奥で、何かが小さく跳ねる。廊下を歩き、玄関へ向かう。まだ戸は叩かれていない。けれど、外にいるのが誰なのか、彼女にはもう分かっていた。
こんこん、と古い木の戸が鳴った。
帰ってきた者が、ここにいると知らせる音だった。
翠子は戸を開けた。
春の光が、ふわりと玄関へ差し込む。
そこに、アマルティアが立っていた。
栗色の髪を黄色の髪紐で束ね、腕の中には白い布に包まれた小さな命を抱いている。出産を終えたばかりの身体には疲れが残っているはずなのに、彼女の表情は晴れやかだった。いつもの勝ち気な目元もそのままに、けれどそこには、以前にはなかった柔らかさが宿っている。
その隣には、ウインドベルがいた。
茶色の髪を春風に揺らし、アマルティアと小さな我が子を静かに見守っている。かつて誰よりも前へ行こうとした少年は、今は一歩後ろで、家族を支えるように立っていた。
アマルティアは、翠子を見るなり、いつもの調子で声を上げた。
「帰ったわよ! 翠子」
翠子は一瞬、言葉を失った。
目の前にいるのは、確かにアマルティアだった。
けれど、腕の中に小さな命を抱いているその姿は、翠子が知っているどのアマルティアとも違っていた。
それでも、言うべき言葉は決まっていた。
「おかえり、アマルティア」
翠子は静かに言った。
「よく頑張ったわね」
それから、隣のウインドベルへ目を向ける。
「ウインドベルも。おかえりなさい」
ウインドベルは、静かに頭を下げた。
「ただいま、翠子」
その声を聞いたからだろうか。
白い布の中で、小さな子がわずかに身じろぎした。眠っていたまぶたがかすかに震え、薄く開く。まだ光の意味も、声の主も分からないはずの瞳が、ぼんやりと春の明るさを受け止めた。
アマルティアはすぐに気づき、腕の中を覗き込んだ。
「あら、起きたの?」
その声は、現役の時の強い声ではなかった。
もっと柔らかく、もっと優しい声だった。
アマルティアは小さな子を少し翠子の方へ向け、誇らしげに笑った。
「ほら、翠子。私たちの子よ」
そう言って、白い布に包まれた我が子を見せる。
「見てよ。髪の色とか、ウインドベルそっくりでしょ。名前はベルアマードにしたの」
ベルアマード。
翠子は、その名を胸の中で繰り返した。
白い布に包まれた赤子は、ウインドベル譲りの茶色い髪を持っていた。けれど、きゅっと寄った眉や、どこか気の強そうな口元には、確かにアマルティアの面影があった。まだ生まれて数日しか経っていないはずなのに、その小さな顔には不思議な存在感がある。
「ベルアマード……」
翠子は、そっと名前を呼んだ。
「いい名前ね」
「でしょ」
アマルティアは、すぐに得意げな顔をした。
そしてアマルティアはふと思いついたように、翠子へ顔を向けた。
「あっ、そうだ。翠子も抱いてみてよ」
「私が?」
「そうよ」
アマルティアは当然のように言った。
「生まれたばかりの子って、すっごいあったかいのよ。抱くと分かるの。ちゃんと生きてるんだって」
その言葉に、翠子の胸が静かに揺れた。
ちゃんと生きてる。
その響きが、春の光の中で深く残った。
翠子はすぐには手を伸ばせなかった。
白い布に包まれた小さな命を見つめる。
その温もりを、アマルティアが当然のように抱いていることを見つめる。
遠い春の日が、ふと胸の奥をかすめた。
けれど、それは今ここで語るものではなかった。
今、目の前にいるのは、過去ではない。
帰ってきたアマルティアと、ウインドベルと、二人の子だった。
翠子はゆっくりと両腕を差し出した。
「……抱かせてもらえるかしら」
「もちろん」
アマルティアは慎重に、けれどどこか嬉しそうに、ベルアマードを翠子へ預けた。
「首、ここを支えて。こっちはこう」
「分かっているわ」
「でも気をつけてよ。すっごく小さいんだから」
「ええ。大丈夫」
そのやり取りを、ウインドベルが静かに見ていた。
翠子の腕の中に、ベルアマードが収まる。
軽かった。
あまりにも軽い。
けれど、確かに重かった。
命の重さだった。
白い布の内側から伝わってくる体温は、驚くほどやわらかく、あたたかかった。小さな胸がゆっくり上下している。眠りから起こされて不満なのか、ベルアマードは眉を寄せて、口を小さく動かした。
翠子は、その顔をじっと見つめた。
アマルティアに似ている。
ウインドベルにも似ている。
けれど、そのどちらでもない。
この子は、この子として生まれてきたのだ。
「……そうね」
翠子は、かすれそうになる声を整えながら言った。
「とても温かいわ」
その瞬間、視界がわずかに滲んだ。
涙が一筋、頬を伝う。
アマルティアが目を丸くした。
「翠子?」
翠子は小さく首を振った。
「ごめんなさい。違うの」
そう言いながら、彼女はベルアマードを見つめ続けた。
「ただ……本当に、温かいと思って」
その言葉を聞いたアマルティアは、少しだけ黙った。
翠子の涙の意味を、すべて分かったわけではない。
それでも、その涙が悲しみではないことだけは分かった。
ベルアマードは、母とは違う腕の中にいることに気づいたのか、急に顔をくしゃりと歪めた。
そして、大きな声で泣き出した。
「ふえ……っ、あああああ!」
小さな身体から出ているとは思えないほど元気な声だった。
風杜の玄関に、その泣き声が響き渡る。
廊下の奥で誰かが驚いたように顔を出した。食堂の方からも足音がする。静かだった風杜が、一瞬でざわめきに包まれた。
アマルティアは慌てて手を伸ばす。
「ああ、ほら。泣いちゃったじゃない」
翠子は少し困ったように笑った。
「私では違うと分かったのね」
「たぶんね。私じゃないと嫌みたい」
アマルティアは、どこか誇らしげに言った。
翠子は泣いているベルアマードをそっとアマルティアへ返した。
その時、彼女は静かに言った。
「それにしても、こんなに元気」
そして、アマルティアを見た。
「ありがとう、アマルティア」
アマルティアは一瞬、言葉を失った。
「……何よ、急に」
「言いたくなったの」
翠子は穏やかに微笑んだ。
アマルティアは照れたように目を逸らしながら、ベルアマードを抱き直した。
「はいはい、私よ。もう泣かなくていいでしょ」
ベルアマードはまだ少し泣いていた。
けれど、アマルティアの胸に抱き寄せられると、徐々に声を弱めていった。
「あー、もう。そんなに怒らなくてもいいじゃない。翠子は怖くないわよ。私よりずっと優しいんだから」
アマルティアの手つきは優しかった。背中を小さく撫で、頬を寄せ、胸の近くで揺らす。ベルアマードは少しずつ落ち着き、最後には小さく息を吐いて、再び眠りへ落ちていった。
その姿を、翠子は静かに見ていた。
アマルティアが、母になっている。
ウインドベルが、父としてその隣にいる。
その腕の中には、新しい命がある。
風杜の玄関に差し込む春の光が、三人を包んでいた。
翠子は、ゆっくりと口を開いた。
「アマルティア」
「何?」
アマルティアは、ベルアマードの寝顔を見たまま返事をした。
翠子は少しだけ間を置いた。
言葉を選ぶ必要はなかった。
一番伝えたいことは、最初から決まっていた。
「……あなたに家族ができて、本当に嬉しいわ」
玄関に、静かな時間が流れた。
外では春風が木々を揺らし、庭先の花が陽を受けて淡く光っていた。薄紅の花びらが一枚、開いた戸口からふわりと入り込み、床の上へ落ちる。
アマルティアはすぐには答えなかった。
腕の中のベルアマードを見る。
隣にいるウインドベルの気配を感じる。
目の前にいる翠子を見る。
そして、風杜の空気を吸い込む。
ここに帰ってきたのだと、ようやく実感した。
やがて、アマルティアは笑った。
勝ち気な笑みではなかった。
誰かに見せつけるための笑顔でもなかった。
ただ、胸の奥から自然に浮かび上がった、柔らかな笑みだった。
「ええ」
彼女は静かに言った。
「私にも、家族ができたわ」
翠子は二人を見て、また小さく笑った。
その日、風杜は賑やかになった。
新しい命を迎えるための、あたたかな騒がしさだった。




