春に産まれた子
穏やかな春の日だった。
冬の冷たさはすでに遠く、空には淡い青が広がっていた。窓の外では、若い葉をつけた木々が春の陽を受けて、柔らかく光っている。庭先には色鮮やかな花が咲き、白、黄色、薄紅、紫――いくつもの色が、風に揺られていた。
満開の桜は枝いっぱいに花をつけていた。
風が吹くたび、薄紅の花びらが空へ舞い、陽の光の中をゆっくりと流れていく。
まるで、季節そのものが新しい命を迎えるために、世界を明るく飾っているようだった。
その日、一つの命が生まれた。
病室は白く、静かだった。
けれど、その静けさを破るように、生まれたばかりの子の泣き声が響いていた。
小さな身体。
まだ頼りない手足。
けれど、その声だけは驚くほど力強かった。
自分はここにいる。
自分は、いま生まれた。
そう世界に告げるように、その子は肺いっぱいに空気を吸い込み、元気に泣いていた。
父親譲りの茶色の髪が、春の光を受けて柔らかく輝いている。まだ細く、ふわりとしたその髪は、窓から差し込む光の中で、まるで新しい芽のように淡く揺れていた。
ベッドの上で、アマルティアは静かに息を整えていた。
栗毛の髪は、黄色の髪紐でひとつに束ねられている。かつてターフの上で黄金色に輝いた髪。数え切れない歓声を浴び、世界の頂を駆け抜けた女王の髪。
今は少し汗に濡れ、乱れていた。
頬には疲労の色が残っている。
それでも、その瞳には、これまでのどの勝利の瞬間とも違う光があった。
鋭さではない。
誇りでもない。
勝者としての輝きでもない。
もっと柔らかく、もっと静かな光だった。
助産師に支えられながら、アマルティアはそっと両腕を伸ばした。
その腕の中へ、生まれたばかりの子が渡される。
その瞬間、アマルティアの指先がわずかに震えた。
どれほどの歓声を浴びても、どれほど強い相手を前にしても、どれほど「無理だ」と言われても、アマルティアは前を向いてきた。
けれど今、腕の中にいる小さな命を前にして、彼女は静かに息を呑んでいた。
小さな子は、まだ泣いていた。
だが、アマルティアが胸に抱き寄せた瞬間、その泣き声がふっと止まった。
まるで、探していた場所をようやく見つけたように。
小さな頬が、アマルティアの胸元に触れる。丸められた手が、布を握るようにかすかに動く。さっきまで世界に向かって声を張り上げていた子は、嘘のように静かになった。
そして、ほんのわずかに口元を緩めた。
笑ったように見えた。
ベッドの横に立っていた男――ウインドベルは、しばらく言葉を発しなかった。
彼はただ、その光景を見つめていた。
産まれた子と同じ茶色の髪。
かつて誰よりも前を走り、まだ見ぬ景色を求めて世界を渡った男。
風を切り開き、誰もいない先頭で、自分だけの景色を追い続けた駆人。
そのウインドベルが今、アマルティアの手を握り締めたまま、ひどく静かな顔をしていた。
「もう、母親のことが分かるんだな」
低い声だった。
競駆場で見せた熱も、旅人としての衝動も、そこにはなかった。
ただ、父になった男の声だった。
「……良い顔をしてる」
ウインドベルは、そう言って小さく笑った。
アマルティアは腕の中の子を見つめたまま、わずかに息を吐いた。疲れ切っているはずなのに、その表情は驚くほど穏やかだった。
「そうみたいね」
そう言って、彼女は子の髪にそっと指を通した。
まだ柔らかく、細い髪。
けれど、その色は明らかにウインドベルのものだった。
春の光を受けると、茶色の髪は少しだけ明るく見えた。
それは、ターフの上でいつも前へ前へと走っていた父の背中を思わせる色だった。
「ほら、見てよ。あなたそっくりの髪色」
ウインドベルは少しだけ眉を下げた。
「そうか?」
「そうよ。どう見てもあなたの色じゃない」
「顔は君に似てる気がするけどな」
「まだ生まれたばかりよ。そんなの分からないでしょ」
「分かるさ」
ウインドベルは、小さな子の顔を覗き込んだ。
眠りに落ちかけているその子は、わずかに眉間へしわを寄せていた。泣き疲れたからなのか、それとも抱かれ方が気に入らないのか。まだ言葉を持たないはずなのに、どこか不満そうにも見える表情だった。
ウインドベルは小さく笑った。
「この気の強そうな顔は、君だ」
アマルティアは一瞬だけ目を細めた。
「失礼ね」
けれど、その声には怒りはなかった。
腕の中の子は、ゆっくりと眠り始めていた。小さな胸が規則正しく上下し、薄いまぶたが静かに閉じられていく。
さっきまであんなに強く泣いていたのに、今はアマルティアの腕の中で安心しきったように眠っている。
アマルティアは、その顔を見つめ続けた。
目を離せなかった。
この子は、自分の子だ。
その事実が、胸の奥で何度も響いた。
勝ったから得たものではない。
誰かを抜き去ったから手にしたものでもない。
歓声や称号や記録の先にあるものでもない。
ただ、生まれてきてくれた。
ただ、自分の腕の中にいる。
それだけで、胸の奥が静かに満たされていく。
涙が落ちた。
一粒、頬を伝い、アマルティアの顎から布の上へ落ちる。
彼女自身も、自分が泣いていることに少し遅れて気づいたようだった。目を瞬かせる。だが、涙は止まらなかった。
ウインドベルは何も言わなかった。
ただ、握っていた手に少しだけ力を込めた。
アマルティアは、その温もりを感じながら、眠る子に顔を近づけた。
「やっと会えたわ」
声は、ひどく小さかった。
けれど、その場にいた者には確かに聞こえた。
「私の家族」
その言葉を口にした瞬間、アマルティアの表情がわずかに崩れた。
伝説の女王ではなかった。
史上初の偉業を成し遂げた駆人でもなかった。
世界を制した存在でもなかった。
そこにいたのは、一人の母だった。
ウインドベルは静かに目を伏せた。
「家族か」
その言葉を確かめるように呟く。
「本当に家族になったんだな」
「何よ。今さら?」
「いや」
ウインドベルは、窓の外を少しだけ見た。
桜の花びらが風に乗って舞っていた。行き先を決めず、光の中を流れていく。かつての自分なら、その花びらを追いかけるように、どこか遠くへ行きたいと思ったかもしれない。
まだ見ぬ景色。
知らない風。
遠い国のターフ。
その衝動は、完全に消えたわけではない。
けれど今、ウインドベルは静かに理解していた。
自分がこれから見るべき景色は、遠い国にだけあるわけではない。
この子が初めて目を開ける瞬間。
初めて笑う瞬間。
初めて立ち上がる瞬間。
初めて走り出す瞬間。
それもまた、まだ見ぬ景色だった。
「……悪くないな」
彼は、ぽつりと言った。
アマルティアが横目で見る。
「何が?」
「ここにいるのも」
その言葉に、アマルティアは少しだけ黙った。
それから、ふっと笑った。
「気づくのが遅いのよ」
ウインドベルは、眠る子に視線を戻した。
「それで、この子の名前は?」
病室の空気が、少しだけ静まった。
アマルティアは腕の中の子を見つめた。
小さな命。
父譲りの茶色の髪。
母の腕で泣き止み、安心したように眠る子。
丸まった手は、何かを掴もうとするように動いてた。
アマルティアは、その小さな手に自分の指をそっと近づけた。
すると、子は眠ったまま、その指を握った。
ほんの小さな力だった。
けれどアマルティアは、その小さな力にまた胸を揺さぶられた。
「ベルアマード」
彼女は、静かにその名を口にした。
ウインドベルの瞳が、少しだけ揺れた。
「ベルアマード」
彼もまた、その名を繰り返す。
病室の中に、初めてその名が落ちた。
ベルアマード。
風を受けて前へ進む父の名を宿し、
愛される者として母の願いを込められた名。
アマルティアは、小さな額にそっと口づけた。
「あなたは、私たちの子」
外では桜が舞っていた。
薄紅の花びらが、窓の向こうをゆっくりと流れていく。
春の光が病室へ差し込み、アマルティアの栗色の髪と、ベルアマードの茶色の髪を同時に照らした。




