ベルアマードとして
ベルアマードが先頭で直線へ入った。
富士国立競駆場の直線は長い。
かつて、日本クラウンで味わった場所だった。
あの時も、ベルアマードは先頭でここへ入った。
完璧に近い逃げだった。
脚も残っていた。
呼吸も乱れていなかった。
それでも、最後の最後でルーレットショーに飲み込まれた。
あの直線は、逃げる者にとってあまりにも長かった。
背後から迫る足音を聞き続けなければならない。
観客席のざわめきが、追手の接近を知らせてくる。
一歩ごとに、まだか、まだかとゴールまでの距離を数えさせられる。
だが、今のベルアマードは違った。
直線が長いとは思わなかった。
むしろ、どこまでも続いてほしかった。
先頭で風を受ける。
ただそれだけが、こんなにも身体を満たすものだったのかと、今になって知った。
風は正面から来る。
冷たいのに、熱い。
頬を叩き、髪を後ろへ流し、胸の奥まで入り込んでくる。
息を吸うたび、身体の内側に空が広がっていくようだった。
ベルアマードは走った。
前だけを見て。
ゴール板はまだ遠い。
だが、焦りはない。
遠くにある白い標識。
揺れる観客席。
ターフの緑。
秋の光。
そのすべてが、流れていく。
世界が後ろへ飛んでいく。
自分だけが前へ進んでいる。
そんな感覚だった。
後ろでは、ついに海外の駆人たちが動き出していた。
それまで余裕を残していたはずの彼らの表情が、わずかに変わっている。
大きな肩が揺れる。
長い脚が力強く芝を叩く。
厚い筋肉が一気に伸び縮みし、速度を生む。
本来なら、ここからが彼らの時間だった。
前で飛ばした者が止まり、集団の中で脚を溜めた者たちが襲いかかる。
世界の舞台を何度も経験してきた駆人たちは、その瞬間を知っている。
直線で前を捕まえるために、ここまで待っていた。
だが、彼らはすぐに気づいた。
前が、落ちない。
ベルアマードの背中は、まだ遠い。
むしろ、最終コーナーを抜けた瞬間よりも、ほんのわずかに軽くなって見えた。
ありえない。
誰かの顔に、そう浮かんだ。
無理をして逃げた者の脚ではない。
恐怖に押されて暴走した者の走りではない。
計算を捨てて壊れた逃げでもない。
あれは、走っている。
ただ、走っている。
先頭で風を受けることを、身体の芯から喜んでいる。
その姿は、追う側にとって奇妙なほど遠かった。
ベストセンスは、集団の内側で苦しんでいた。
位置は悪くない。
悪くないはずだった。
だが、そこへ至るまでに脚を使わされすぎていた。
海外駆人との位置取りは、リュニークのどのレースとも違っていた。
一歩ごとの圧。
進路を奪う身体の強さ。
こちらが息を入れたいところで、相手は平然と前へ出てくる。
ベストセンスは歯を食いしばり、前を見る。
ベルアマードの背中が見える。
遠い。
悔しいほど遠い。
雨月賞で、自分はあいつを倒した。
日本クラウンでは、あいつに負けた。
そして今。
世界の駆人たちを相手に、自分が消耗しながら戦っている間に、ベルアマードは一人で前にいる。
「……行け」
ベストセンスの口から、小さく声が漏れた。
それは、諦めではなかった。
悔しさでもあった。
だが、それ以上に、認めざるを得ないものだった。
今日、前にいるべきなのは自分ではない。
あの背中だ。
ルーレットショーは外へ出していた。
だが、いつもの爆発がない。
脚は残っている。
残っているはずだった。
それでも、日本クラウンの時のように、すべてを切り裂く伸びが出ない。
直線に入るまでの争いで、ほんの少しずつ削られていた。
海外の駆人たちに外へ張られ、進路を作るために余計な脚を使った。
いつものように最後だけに全てを賭けるには、舞台があまりにも重かった。
それでも、ルーレットショーは前を見た。
ベルアマードの背中がある。
あの日、富士国立の直線で捕まえた背中。
今日も捕まえるつもりだった。
だが、今のベルアマードは、あの日とは違った。
「……綺麗だな」
ルーレットショーは、息を切らしながら笑った。
悔しい。
悔しいに決まっている。
けれど、目を奪われた。
自分が憧れたアマルティアの末脚とはまったく違う。
世界を後ろから塗り替える走りではない。
世界の一番前で、風そのものになる走り。
それは、ベルアマードにしかできないものだった。
レクルースも脚を使っていた。
長く、じわじわと伸びる。
錦秋賞で見せたような、止まらない加速。
派手さはない。
だが確実に前との差を詰めるはずの脚。
しかし、今日は差が遠い。
距離が違う。
流れが違う。
相手が違う。
そして何より、先頭が違う。
「あれ、ほんとに止まらないんすか」
息を吐くように、レクルースが呟いた。
その声には呆れがあった。
だが、口元には小さく笑みが浮かんでいた。
錦秋賞の時、ベルアマードは早く動かされ、最後に脚を失った。
今日も、前で長く脚を使っている。
ならば止まる。
普通なら、そうなる。
けれど、今日のベルアマードは普通ではなかった。
止まるために走っていない。
逃げ切るためだけに走っているのでもない。
あの背中は、もっと単純で、もっと厄介なものに突き動かされていた。
走りたいから走っている。
それだけだった。
その頃、観客席では、誰もが立ち上がりかけていた。
最初にベルアマードを見ていた者は少なかった。
海外の有力駆人。
三歳世代の代表たち。
アマルティア以来の勝利を狙う日本勢。
注目は分かれていた。
だが今、視線は一つに集まりつつあった。
先頭。
黒いユニフォーム。
ベルアマード。
誰かが叫ぶ。
その名前は隣へ伝わり、後ろへ広がり、波のようにスタンドを走った。
ベルフレアは、両手を握りしめたまま、瞬きもできなかった。
兄が走っている。
いつも近くにいたはずの兄。
反抗的で、不器用で、強がっていて、けれど何度も傷ついてきた兄。
その兄が、今は誰よりも遠くに見えた。
遠い。
けれど、見失えない。
隣でエクラディーヌが震えていた。
涙が頬を伝っている。
それでも、彼女は声を出せなかった。
叫べば、この景色が壊れてしまいそうだった。
あれが見たかった。
あのデビュー戦で見た輝き。
でも、今のベルアマードは、あの時よりもずっと遠くへ行こうとしている。
ただ無邪気に前へ行く少年ではない。
負けて、壊れて、走ることを手放しかけて、それでも戻ってきた駆人が、もう一度先頭で風を受けている。
その姿が、胸を締めつけるほど美しかった。
ベルアマードは、後ろのことを知らなかった。
いや、正確には、気づかないわけではなかった。
背後から迫る圧はある。
歓声の形が変わっていることも分かる。
スタンドの熱が、自分と後続との距離を伝えていることも分かる。
強い駆人たちが追ってきていることも、身体のどこかで感じている。
だが、意識はそこへ向かなかった。
後ろを気にする余裕がないのではない。
後ろよりも、今見ている景色の方が大きかった。
目の前に広がる直線。
その先にあるゴール。
足元を流れる芝。
全身を包む風。
そのすべてに夢中だった。
ベルアマードは、今、自分がどんな顔をしているのか分からなかった。
ただ、苦しいのに笑いそうだった。
息は熱い。
脚は焼けるように重い。
肺の奥が軋む。
腕を振るたび、肩に疲労が積もる。
それでも。
もっと行ける。
そう思った。
まだ前へ行ける。
身体の奥で、何かが開いていく。
武田の練習も、アマルティアの言葉も、ウインドベルの伝言も、エクラディーヌの走りも、ベストセンスたちの期待も、すべてが一つになって自分を支えていた。
そのすべてを背負っている。
だが、重くない。
追い風のようだった。
ベルアマードはさらに脚を伸ばした。
観客席が揺れた。
後ろの海外駆人たちの表情が変わる。
迫っているはずだった。
直線に入った時、差は縮まるはずだった。
だが、縮まらない。
一人が歯を食いしばって加速する。
別の一人が外から脚を伸ばす。
さらに後ろから、屈強な駆人が身体を揺らして追い込む。
それでも、先頭の背中は近づかない。
むしろ、一歩ごとに、その背中が風の中へ溶けていくように見えた。
ベルアマードは落ちない。
落ちないどころか、まだ進む。
誰よりも前で。
誰よりも自由に。
ゴールが迫る。
白い線が、視界の奥からこちらへ跳ね上がってくる。
一歩ごとに、世界が引き裂かれるように後ろへ弾ける。
心臓が爆ぜるように鳴る。
肺が焼ける。
脚は限界を越えている。
それでも、止まらない。
止まれない。
止まりたくない。
――ここだ。
ベルアマードの中で、何かが弾けた。
過去の敗北も、迷いも、すべてが一瞬で燃え尽きる。
ただ一つ、前へ。
ただ一つ、この瞬間へ。
最後の一歩を、叩きつける。
時間が裂ける。
音が消える。
風だけが残る。
身体が前へ投げ出される。
ベルアマードは、先頭でゴールを駆け抜けた。
一瞬、世界が止まった。
誰も息をできなかった。
次の瞬間。
爆発した。
富士国立競駆場が、地鳴りのように揺れる。
歓声が空を裂く。
叫びが重なり、波となって押し寄せる。
拍手が弾け、音が音を飲み込む。
それはもはや歓声ではなかった。
感情そのものが、音となって解き放たれていた。
ベルアマードは、走り抜けた先でゆっくりと速度を落とした。
呼吸が荒い。
脚が震える。
身体中が熱い。
だが、胸の奥だけは不思議なほど静かだった。
後ろから、海外の駆人たちが次々とゴールへ入ってくる。
その中に、ベストセンスも、ルーレットショーも、レクルースもいた。
誰もすぐには声をかけなかった。
ただ、ベルアマードの背中を見ていた。
その時、場内実況の声が歓声を裂くように響いた。
『日本競駆史に刻む勝利!』
声は震えていた。
それでも、言葉ははっきりと競駆場全体へ届いた。
『ベルアマードが、ベルアマードが歴史を作った!』
さらに歓声が大きくなる。
『史上初! 三歳日本駆人によるジャパントロフィー制覇! 伝説の女王アマルティアが開いた道の先で、その子ベルアマードが、新たな歴史を刻みました!』
ベルアマードは、空を見上げた。
秋の空は高かった。
どこまでも遠く、どこまでも広い。
その空の下で、ベルアマードはようやく思った。
勝った。
自分の走りで。
ベルアマードとして、勝ったのだ。




