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一番前で

ゲートが開いた瞬間、ベルアマードは迷わなかった。


身体が前へ弾ける。


芝を掴む一歩目。

身体を押し出す二歩目。

風を切り裂く三歩目。


そのすべてが、驚くほど自然だった。


速く出ようと意識したわけではない。

誰よりも先に行かなければと焦ったわけでもない。

後ろから迫られることを恐れたわけでもない。


ただ、前へ行きたかった。


目の前に開いた空間へ、自分の身体が吸い込まれていく。


観客席が一瞬、どよめいた。


ベルアマードはその音を背中で聞いた。


だが、振り返らない。


前に誰もいない。


その景色を見た瞬間、胸の奥が熱くなる。


これだ。


そう思った。


懐かしいというよりも、ようやく帰ってきたような感覚だった。


誰もいない場所。

まだ誰の足跡もついていない場所。

自分だけが最初に風を受けられる場所。


ベルアマードはそのまま先頭へ立った。


横に並ぶ者はいない。


一歩ごとに、後ろの気配が遠ざかっていく。


それでも、以前のように無理やり離そうとは思わなかった。


もっと離さなければ。

追いつかれたくない。

怖い。


そんな声は聞こえない。


聞こえてくるのは、風の音だけだった。


頬を打つ風。

ユニフォームの裾を揺らす風。

胸の奥へ入り込み、身体を軽くしていく風。


ベルアマードは走った。


好きなように。


思うままに。


一番前で。


後方の集団では、まったく違う時間が流れていた。


海外の駆人たちは、最初の数歩でベルアマードが飛び出したのを見ていた。


だが、すぐには反応しなかった。


三歳の日本駆人。

リュニーク未勝利。

復帰戦。

しかも国際GRでの逃げ。


彼らの目には、それが挑戦というより無謀に映った。


暴走。


そう判断するのに、時間はかからなかった。


前に行かせておけばいい。


いずれ脚が止まる。


最後の長い直線に入れば、捕まえられる。


そう考えた者は、一人ではなかった。


だから、彼らはベルアマードを追わなかった。


むしろ、意識は互いへ向いた。


どの位置を取るか。

誰の後ろにつくか。

どのタイミングで外へ出すか。

内を取るか、外を選ぶか。


世界の駆人たちは、ベルアマードではなく、互いを相手にレースを始めていた。


その集団の中で、ベストセンスは静かに歯を食いしばっていた。


海外の駆人たちは大きい。


一歩の圧が違う。

肩がぶつかれば、こちらの体勢が簡単に揺らぐ。

ただ進路を主張するだけで、空間を奪われる。


それでも、退かなかった。


雨月賞の勝者として。


日本クラウンでベルアマードに敗れた者として。


この舞台で、ただ飲み込まれるわけにはいかなかった。


ベストセンスは内の位置を取りに行く。


前を見据えながら、周囲の動きを読む。


海外駆人が外から被せてくる。

別の駆人が前へ入る。

一瞬の隙を縫わなければ、たちまち包まれる。


息を入れる余裕はなかった。


それでも、彼は崩れない。


静かな闘志だけを胸に、集団の中で位置を確保していく。


少し離れた位置では、ルーレットショーが外へ持ち出そうとしていた。


日本クラウンで見せたような、最後にすべてを変える脚。

それを使うためには、進路が必要だった。


だが、世界の駆人たちは簡単には開けてくれない。


横に張られる。

前に壁を作られる。

少しでも迷えば、外へ弾かれる。


それでも、ルーレットショーは諦めなかった。


「最高のショーにするには、まず舞台を確保しないとね」


誰に聞かせるでもなく、そう呟く。


その声に軽さはある。


だが、呼吸はすでに荒くなり始めていた。


レクルースは後方寄りで、淡々と流れを見ていた。


前半から無理に争う気はない。


長く脚を使う自分にとって、焦りは不要だった。


だが、何もしなくていいわけでもない。


世界の集団は重い。


位置を下げすぎれば届かない。

前へ出すぎれば、余計な消耗を強いられる。


彼は面倒くさそうに眉を寄せながら、それでも的確に脚を運んでいた。


「やっぱり、楽なレースじゃないっすね」


そう言いながらも、その目は冷めていない。


錦秋賞を勝った駆人の目だった。


彼ら三人は、それぞれの場所で戦っていた。


ベルアマードとは違う戦いをしていた。


世界の駆人たちに飲まれないために。


世界の駆人たちを相手に、自分の競駆をするために。


一方、ベルアマードは前にいた。


ただ一人。


長いターフの先に、彼だけの道が伸びている。


向こう正面へ入る頃には、集団との差ははっきりと開いていた。


観客席がざわつく。


最初は驚きだった。


次に、困惑。


そして少しずつ、そのざわめきに別の熱が混じり始める。


あれは暴走なのか。


それとも、本当に逃げているのか。


スタンドの中で、ベルフレアは身を乗り出していた。


「お兄ちゃん……」


隣でエクラディーヌが、両手を胸の前で握っている。


彼女の瞳は、まっすぐベルアマードだけを追っていた。


「あの走りです」


小さく、震える声だった。


「私が見たかったのは、あの走りです」


ベルフレアは横を見た。


エクラディーヌの目には涙が浮かんでいた。


だが、その表情は笑っていた。


ターフの上で、ベルアマードは速度を落とさない。


むしろ、少しずつ上がっていく。


それは逃げ切るために無理をしている加速ではなかった。


身体が求めるままに、歩幅が伸びていく。


呼吸が深くなる。

脚が地面を弾く。

風が強くなる。


気持ちがいい。


ベルアマードは、そう思った。


レース中にそんなことを思ったのは、いつ以来だろう。


勝つために走っていた。

負けないために走っていた。

恐怖を消すために走っていた。

母を超えるために走っていた。


でも今は違う。


走ることそのものが、身体の中で熱になっている。


世界の舞台。


誰もが見ているレース。


海外の強豪が背後にいる。


それでも、ベルアマードの目の前には誰もいない。


前だけがある。


その景色が、ただ嬉しかった。


集団では、ようやく位置取りが固まり始めていた。


海外の有力駆人たちが前目に構える。

その内側にベストセンス。

外へ出す機会を探るルーレットショー。

少し後ろで脚を溜めるレクルース。


形だけを見れば、まだ冷静な隊列だった。


だが、その中にいる者たちは分かっていた。


余計に脚を使わされている。


ベルアマードを追っているわけではない。

だが、互いの位置を奪い合う中で、少しずつ削られている。


海外の駆人たちも同じだった。


表情には出さない。


だが、先頭との距離は思ったよりも縮まらない。


飛ばしているはずの三歳日本駆人が、まだ止まらない。


むしろ、遠くにいる背中が、少しずつ小さくなっていく。


その事実が、集団の空気を変え始めた。


「あれは、落ちないのか」


誰かがそう呟いた。


言葉は違っても、抱いた疑問は同じだった。


暴走なら、そろそろ乱れるはずだった。


肩に力が入り、呼吸が浅くなり、脚が鈍るはずだった。


だが、ベルアマードの背中は乱れない。


軽い。


あまりにも軽い。


まるで、ターフの上を走っているのではなく、風そのものに乗っているようだった。


ベルアマードは、最終コーナーへ向かっていく。


富士国立競駆場の長い直線が、その先に待っている。


日本クラウンで、ルーレットショーに飲み込まれた直線。


あの時、ベルアマードは完璧に近い走りをして、それでも敗れた。


長い直線は、逃げる者にとって残酷だ。


後ろから迫る影を、長く長く背負わされる。


脚が止まれば、一瞬で飲み込まれる。


だが、今のベルアマードは、その直線を恐れていなかった。


むしろ、待っていた。


このまま行く。


そう決めていた。


息は上がっている。


脚にも確かに負荷はある。


だが、苦しさの奥に、まだ熱が残っていた。


夏から積み上げたスタミナ。

錦秋賞で知った長さ。

日本クラウンで知った直線。

雨月賞で知った恐怖。


そのすべてが、今のベルアマードを前へ運んでいた。


過去は重荷ではなかった。


走るための力になっていた。


コーナーへ入る。


芝の傾きが足裏に伝わる。


身体を内へ預ける。

遠心力を受ける。

風が斜めから頬を打つ。


ベルアマードは一瞬、子供の頃のグラウンドを思い出した。


アマルティアの声を聞かず、ただ父のように走ろうとしていたあの頃。


あの時も、こんな風を受けていた気がする。


誰に勝つとか。


何を証明するとか。


そんなことは分からなかった。


ただ前に行きたかった。


その気持ちだけで走っていた。


今、同じものが胸にある。


けれど、あの頃とは違う。


負ける怖さを知っている。

追われる恐怖を知っている。

届かない悔しさを知っている。

自分を信じられなくなる空白も知っている。


その全部を抱えたまま、それでも前を選んでいる。


ベルアマードは、最終コーナーを駆け抜けていった。


後ろでは、集団がようやく動き始めていた。


海外の有力駆人たちが前を向く。


ベストセンスが脚を使う。

ルーレットショーが外へ出る。

レクルースがゆっくりと加速を始める。


世界の駆人たちも、もうベルアマードを暴走とは見ていなかった。


捕まえなければならない先頭。


そう認識した。


だが、その時にはもう、ベルアマードは最後のコーナーへ深く入っていた。


一番前で。


風を受けて。


長い直線の入口へ向かっていた。

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