自由を纏う
レースが近づくにつれ、競駆場全体の熱はさらに増していった。
控室の壁越しにも、外のざわめきが伝わってくる。
日本語だけではない。
いくつもの言葉が重なり、遠い波のように響いている。
拍手。
歓声。
アナウンス。
足音。
扉の向こうにある世界が、ゆっくりと本番へ向かって形を変えていく。
ベルアマードは一人、控室で準備を進めていた。
身体は軽い。
数週間しかなかった。
だが、その短い時間の中でやれることはやった。
完璧とは言えない。
けれど、不思議と不安はなかった。
机の上には、いつものユニフォームが置かれている。
ベルアマードは、それを手に取った。
何度も身につけてきたものだった。
雨月賞。
日本クラウン。
錦秋賞。
そのたびに、このユニフォームを着てターフへ向かった。
いつも同じはずだった。
だが、今日は違って感じた。
以前は、重かった。
布そのものの重さではない。
身にかけた瞬間、そこに積もったものが肩へ落ちてくるようだった。
アマルティアの子。
ウインドベルの子。
最優秀二歳男駆。
母を超えなければならない。
先頭で勝たなければならない。
そのすべてが、ユニフォームに染み込んでいるように感じていた。
だが、今は違う。
手に持ったそれは、驚くほど軽かった。
羽衣のようだった。
身につけると、身体が締めつけられるのではなく、むしろ解き放たれていくような感覚があった。
どこまでも行ける。
そんな気がした。
このユニフォームは、重圧ではなかった。
自分を縛るものでもなかった。
走るための翼だった。
そう思えた。
ベルアマードは、静かに息を吐いた。
その時、扉の方から声がした。
「いつもより良い顔ね。」
振り向くと、アマルティアが立っていた。
いつの間に来ていたのか分からなかった。
腕を組み、扉にもたれかかるようにして、こちらを見ている。
その表情は、寮長のものでも、伝説の女王のものでもなかった。
母の顔だった。
「来ていたのか。」
「勿論よ。」
アマルティアは当然のように言った。
「フレアも来てるわよ。お友達と一緒にね。」
お友達。
誰のことかは、すぐに分かった。
エクラディーヌだろう。
あの走りで、彼女は自分に約束を守らせた。
いや。
約束という形を借りて、自分の中に残っていたものを見つけさせた。
ベルアマードは少しだけ目を伏せた。
「……そうか。」
アマルティアは控室の中へ入り、ベルアマードの前で足を止めた。
少しの間、何も言わなかった。
そして、ふいに口を開く。
「ねえ、アマード。子供の頃のこと、覚えてる?」
「子供の頃?」
「私が色々教えようとしてるのに、あんたが全然聞かなくて、お父さんみたいに走ってた頃。」
ベルアマードは小さく息を漏らした。
忘れるわけがなかった。
あれは、自分の原点のような記憶だった。
アマルティアが、脚の使い方を教えようとする。
後ろから抜く感覚を伝えようとする。
だが、幼いベルアマードは聞かなかった。
父のように前へ行きたかった。
誰よりも先に飛び出して、誰もいない景色を見たかった。
母がどれほど偉大でも、その走りではなく、父の背中に憧れていた。
ベルアマードは頷いた。
「覚えてる。」
「そう。」
アマルティアは、どこか懐かしそうに笑った。
「私みたいに走ってくれなくて、結構悔しかったのよ。」
その言葉は、責める響きも重さもなく、たださらりと流れるように口にされた。
だが、その奥に本当の感情があった。
ベルアマードは少しだけ視線を落とす。
「……悪かったな。」
「別に謝らなくていいわ。」
アマルティアは首を横に振った。
そして、ベルアマードを真っ直ぐ見た。
「あの頃のあなたが走ってる顔が輝いてて、私は大好きだったの。」
ベルアマードは言葉を失った。
アマルティアは続ける。
「前だけ見て、誰よりも先に行こうとして、風を受けて、楽しそうで。私の助言なんて聞かないし、腹が立つこともあったけどね。」
ふっと肩の力を抜くように、小さく笑った。
「でも、その顔を見るのが好きだった。」
ベルアマードの胸の奥に、静かな風が吹いた。
思えば、母はいつも見ていた。
女王としてではなく。
母として、ずっと見ていてくれた。
デビュー戦も。
勝った日も。
負けた日も。
壊れた日も。
走るのをやめると言った日も。
戻ってきた日も。
ずっと、自分の走りを見ていた。
「今のあなたは、その顔をしてる。」
アマルティアの声は、静かだった。
「だから、あなたが走れば良い方に世界は変わるわ。絶対に。」
その言葉に、ベルアマードは目を閉じた。
走れば何かが変わる。
悪い方にも。
良い方にも。
かつては、その意味が分からなかった。
だが今なら少し分かる。
エクラディーヌが走ったから、自分は変わった。
ベストセンスたちが言葉をくれたから、自分は戻ってきた。
父が自由に走れと言ってくれたから、自分は前を向ける。
母がこうして見てくれていたから、自分は自分の走りを信じられる。
自分が走ることでも、何かが変わるかもしれない。
誰かの胸に火を灯せるかもしれない。
かつて自分が父の背中に憧れたように。
エクラディーヌが自分のデビュー戦に憧れたように。
ベルアマードの心に、風が吹き抜けた。
どこへでも走っていけるような、自由な風だった。
「ありがとう。」
自然に言葉が出た。
アマルティアは何も言わない。
ベルアマードは、ユニフォームの胸元を一度だけ握った。
「……行ってくるよ、母さん。」
アマルティアは頷いた。
「行ってらっしゃい。」
その声に背中を押されるようにして、ベルアマードは控室を出た。
通路を歩く。
足音が響く。
かつて、雨月賞へ向かった時の通路は暗く感じた。
日本クラウンへ向かった時の通路は、運命へ続いているように見えた。
錦秋賞へ向かった時の通路は、どこか重く、長かった。
だが今日は違う。
通路の先にある光が、怖くなかった。
ベルアマードは歩きながら、自分の呼吸を聞いていた。
落ち着いている。
昂っているのに、乱れていない。
心の奥は静かだった。
やがて、通路の先が開ける。
待っていたのは、懐かしい舞台だった。
富士国立競駆場。
日本クラウンと同じ舞台。
長い直線。
広いターフ。
遠くに見える富士の姿。
白く輝く観客席。
だが、見える景色はあの時とは違っていた。
一度、観客席からレースを見た。
あの時、初めて知った。
スタンドには、ただ音があるのではない。
熱がある。
期待がある。
楽しみがある。
祈りがある。
誰かの憧れがある。
誰かの願いがある。
走る者たちは、そのすべてを背に受けている。
かつては重かった。
押し潰されそうだった。
だが、今は違う。
この舞台で走れることが、どれほど特別なことなのか。
ベルアマードには、痛いほど分かった。
観客席のどこかに、ベルフレアがいる。
エクラディーヌもいる。
父もどこかで見ているのだろう。
そして、母は控室で送り出してくれた。
ベルアマードはターフに足を踏み入れた。
芝の感触が足裏から伝わる。
身体が自然に動き出しそうになる。
最後の調整に入った。
軽く流す。
一歩目で分かる。
調子は良い。
身体が軽い。
脚がよく動く。
呼吸も深い。
無駄な力が入っていない。
数週間で仕上げたとは思えないほど、身体は走りたがっていた。
武田が近くで見ていた。
いつものように細かく指示を出すかと思ったが、何も言わなかった。
ベルアマードが戻ると、武田は短く頷いただけだった。
「行ってこい。」
それだけだった。
その一言で十分だった。
ベルアマードは頷き、ゲート前へ向かった。
係員の指示で、出走者たちが集まっていく。
海外の駆人たちがいる。
ベストセンスがいる。
ルーレットショーがいる。
レクルースがいる。
誰もが、それぞれの顔をしていた。
緊張。
集中。
闘志。
静かな自信。
世界の舞台に立つ者たちの空気が、そこにあった。
やがて、ファンファーレが鳴り響いた。
重厚で、華やかで、どこか異国の風を含んだ音色。
日本クラウンの時とも、錦秋賞の時とも違う。
ジャパントロフィー。
世界が集う舞台の音だった。
観客席から拍手が湧く。
それはやがて歓声へ変わり、競駆場全体を包み込んだ。
ベルアマードは、その音を聞いていた。
怖くはなかった。
熱い。
そう思った。
係員に促され、ゲートへ入る。
扉が閉まる。
外の音が少し遠ざかる。
いつもなら、この瞬間にさまざまな考えが押し寄せてきた。
勝たなければ。
逃げなければ。
追いつかれたらどうする。
母を超えられるのか。
父のように走れるのか。
また負けるのか。
だが、今日は違った。
ゲートの中は静かだった。
聞こえるのは、自分の呼吸だけ。
目の前には扉がある。
その向こうには、誰もいない最初の景色がある。
ベルアマードは、ゆっくり息を吸った。
好きなように走ろう。
先頭に立つ。
昔みたいに。
子供の頃みたいに。
風を受ける。
誰よりも先に行く。
ただ、それだけ。
それだけでいい。
胸の奥で、何かが高まっていく。
重圧ではない。
恐怖でもない。
走り出す前の、純粋な熱だった。
静寂。
一瞬、世界が止まったように感じた。
そして――
ゲートが開いた。
運命のレースが始まった。




