俺たちの誰か
ジャパントロフィーへ向けた練習は、これまでとは明らかに質が違っていた。
武田トレーナーは、あえて細かな戦術を語らなかった。
どこで息を入れるか。
どの位置で後続を引きつけるか。
どのコースを通れば無駄がないか。
相手が動いた時、どう反応するか。
そうした“勝つための理屈”は、必要最低限に抑えられていた。
理由は、ベルアマード自身が誰よりも理解していた。
今の自分に、それは重すぎる。
雨月賞で壊れ、日本クラウンで作り直し、錦秋賞で再び崩された。
そのたびに、ベルアマードは考え続けた。
考えすぎるほどに。
後ろを測り、相手を意識し、脚を残し、勝つための形を追い求めた。
それは決して間違いではない。
競駆で勝つために必要な思考だった。
だが――今回、取り戻そうとしているものは、それだけではない。
前へ行くこと。
一番前で風を受けること。
誰よりも速く、誰よりも先に、自分が見たい景色へ辿り着くこと。
そのために、武田はメニューを組んだ。
どんな展開でも耐え抜く身体。
予定より速く入っても崩れない脚。
前半から風を受け続けても止まらない心肺。
追われても焦りに飲まれない精神。
それは、“好きに走るための身体”だった。
自由に走るためには、それを支える絶対的な土台が必要だ。
武田は、それを知っていた。
だからこそ、練習は過酷だった。
長く、強く走る。
息が上がった状態で、さらに脚を使う。
疲労の中でもフォームを崩さない。
最後まで前に居続けるため、ひたすら身体を鍛え上げる。
派手さはない。
だが、確実に積み上がっていく。
ベルアマードは黙ってそれをこなした。
苦しい。
だが、その苦しさは以前とは違っていた。
勝たなければならない焦りだけではない。
母を超えなければならない重圧だけでもない。
負けたくないという意地だけでもない。
走るたびに、少しずつ思い出していく。
前にいる時の風。
誰もいない領域へ踏み込む感覚。
追われながらも、それでも前を選ぶ熱。
それは、ずっと自分の中にあったものだった。
ただ、一度見失っていただけだ。
練習の終わり、膝に手をつきながら何度も顔を上げる。
その先にあるのは、ジャパントロフィー。
ベストセンス。
ルーレットショー。
レクルース。
そして、世界の駆人たち。
自分に期待する者たちが待つ舞台。
自分の走りを、もう一度証明するための舞台。
そのために、ベルアマードは走り続けた。
ジャパントロフィーが近づくにつれ、世間の熱は日ごとに膨れ上がっていった。
新聞も、テレビも、競駆場の掲示も、その名を大きく扱う。
世界の強豪が来日する。
今年はどの国が勝つのか。
日本勢はどこまで通用するのか。
リュニークを沸かせた三歳世代は世界に通じるのか。
期待は確かにあった。
だが、その多くは日本勢全体、あるいは海外の有力駆人へ向けられたものだった。
ジャパントロフィーは甘くない。
アマルティアが勝った年を除けば、海外勢の勝利のみ。
何度も挑み、何度も跳ね返されてきた壁。
今年も本命は海外勢。
日本勢では、ベストセンス、ルーレットショー、レクルース。
三歳世代の代表として大きく取り上げられていた。
一方で、ベルアマードへの評価は低い。
リュニーク未勝利。
一度は引退の噂。
復帰戦がいきなり国際GR。
無謀だという声もあった。
話題性はある。
だが、期待とは違う。
ベルアマードは、それを理解していた。
それでも、不思議と心は沈まなかった。
もう、世間すべてに認められたいわけではない。
自分を見てくれている者がいる。
それだけで、前を向く理由になる。
そして――ジャパントロフィー当日。
富士国立競駆場は、朝から異様な熱気に包まれていた。
リュニークとも、日本クラウンとも違う。
人の数以上に、空気が違う。
日本語だけではない。
様々な言語が飛び交う。
各国の旗。
海外記者。
異国の応援。
普段とは違う装いの関係者たち。
国際GR。
その意味を、ベルアマードは肌で理解した。
ここは日本でありながら、日本だけの舞台ではない。
世界が見ている。
その実感が、空気として存在していた。
練習場に入ると、その感覚はさらに強まる。
そこには、海外の駆人たちがいた。
まず目に入るのは、その身体。
同じ競技者とは思えないほどの違い。
肩幅。
脚の長さ。
背中の厚み。
筋肉の質。
ただ大きいのではない。
走るために完成された身体。
ぶつかれば弾き飛ばされる圧。
一歩でこちらの二歩を超える脚。
立っているだけで空気が変わる存在感。
ベルアマードは思わず見上げた。
これが世界。
日本で戦ってきた相手も強かった。
だが、ここにいる者たちは別次元だ。
年齢も、経験も、背負ってきた舞台も違う。
その差が、言葉より先に身体へ突きつけられる。
その時――
「引退は嘘だったようだな。」
振り向くと、ベストセンスがいた。
静かな顔。
だが、その目は鋭い。
「あんな噂が本当だったら、一生恨んでた。」
強い言葉。
だがそこにあるのは怒りではなく、安堵だった。
レクルースが横から口を挟む。
「心配してたんすよ、この人。取材で取り乱して大変だったんだから」
「余計なことを言うな」
軽口と静かな圧。
変わらないやり取りに、ベルアマードはわずかに笑った。
そこへ、ルーレットショーが駆け寄ってくる。
「信じてたよ。君とまた走れるって」
その言葉は、真っ直ぐだった。
そして彼は笑う。
「今日はみんな仲間だよ!伝説になろう!」
その声に、海外の駆人たちが視線を向ける。
だが、そこに敵意はない。
ただの観察。
まだ脅威ではない存在を見る目。
その視線が、ベルアマードの胸を静かに燃やす。
「勝つのは一人だけだ」
ベストセンスが言う。
そして続ける。
「だが、勝者は俺たちの誰かだ」
宣戦布告。
静かだが、確かな意志。
ベルアマードの胸が熱くなる。
“俺たち”の中に、自分がいる。
一度は諦めかけた自分が。
感謝を言いたくなる。
だが、それは違う。
彼らが求めているのは言葉ではない。
ベルアマードは息を吐き、前を見る。
世界の駆人たち。
圧倒的な存在。
だが――
それがどうした。
顔を上げる。
胸の奥で風が吹く。
「どんな相手でも関係ない」
三人が見る。
「俺らしく走る」
迷いはない。
「一番前で」
ベルアマードは前を見る。
世界の舞台。
誰も三歳の日本駆人が勝つとは思っていない場所。
だが、自分はここにいる。
勝てるかは分からない。
それでも、もう逃げない。
怖さも、不安も、圧もある。
それでも――前へ行きたい。
誰よりも先に風を受けたい。
自分の走りを見せたい。
それだけで、足は進む。
ベルアマードは拳を握る。
ジャパントロフィー。
自分を信じるための舞台が、すぐそこにある。




