もう一度、自分を信じる
エクラディーヌが勝利した翌日。
ベルアマードは、アマルティアと武田トレーナーを呼び出した。
風杜の一室。
アマルティアは椅子に腰掛け、腕を組んでいる。
武田はその隣で、いつものように厳しい表情を崩さない。
二人とも、今日ここに呼ばれた理由を、ある程度察しているようだった。
ベルアマードはしばらく口を開けなかった。
言うべきことは決まっている。
だが、それを口にした瞬間、自分はもう後戻りできなくなる。
それでも――。
昨日のエクラディーヌの走りが、頭から離れなかった。
後ろを振り返らない。
前だけを見据える。
先頭で風を受けながら、苦しささえ楽しむように駆け抜ける。
その姿は、かつて自分が確かに持っていた輝きを思い出させた。
失ったと思っていた。
もう二度と戻らないと思っていた。
けれど違った。
あの走りを見た瞬間、胸の奥で何かが確かに動いた。
消えたはずの火種が、まだそこに残っていた。
ベルアマードは静かに息を吸い、口を開いた。
「……俺、もう一度だけ走りたいんだ」
その言葉を聞いても、アマルティアも武田もすぐには反応しなかった。
静かな沈黙が部屋を満たす。
ベルアマードは二人を見つめた。
止められるかもしれない。
呆れられるかもしれない。
今さら何を言っているのかと叱られるかもしれない。
それでも構わなかった。
どんな言葉が返ってきても受け止める覚悟はできていた。
やがて、アマルティアが静かに問いかける。
「それはどうして?」
責めるでもなく、喜ぶでもなく。
ただ本心を確かめるための声だった。
「……走りたくもないのに無理やり走るなら、やめたほうがいいわ」
ベルアマードは黙った。
その言葉は痛いほど正しかった。
期待されたから走る。
約束したから走る。
周囲が望むから走る。
そんな理由だけなら、きっとまた壊れる。
雨月賞の時と同じように。
錦秋賞の時と同じように。
誰かの期待を背負いすぎて、自分自身の足で走れなくなる。
だからこそ答えなければならなかった。
自分はなぜ、もう一度走りたいのか。
ベルアマードはゆっくりと息を吸った。
「もう一度……」
声がわずかに掠れる。
それでも言葉を続けた。
「もう一度だけ、自分を信じたいんだ」
アマルティアの瞳がわずかに揺れる。
武田も何も言わず耳を傾けていた。
「自分の走りを。俺の走りを期待してくれている人たちのためにも……でも、それだけじゃない」
拳を強く握る。
「俺自身が、もう一度俺を信じたいんだ」
テレビ越しに届いた三人の言葉。
エクラディーヌの涙。
父が残した“見たい景色”という言葉。
母から投げかけられた問い。
走れば何かが変わる。
その一つひとつが、ようやく一本の線として繋がり始めていた。
「だから、お願いします」
ベルアマードは深く頭を下げた。
「引退を取り消してください」
その瞬間、アマルティアは大きく息を吐いた。
「はあー……」
重い沈黙が流れる。
ベルアマードは顔を上げられなかった。
呆れられたのだろうか。
そう思った次の瞬間。
「誰もあんたを引退なんかさせてないわよ」
予想外の言葉が飛んできた。
ベルアマードは思わず顔を上げる。
アマルティアは呆れたような顔をしていた。
「勝手に辞めるって言って、勝手に落ち込んで、勝手に戻ってきただけでしょ」
「……それは」
反論できなかった。
まったくその通りだった。
正式な引退手続きが進んだわけではない。
出走予定を外し、練習を止め、自分で勝手に終わったと思い込んでいただけだ。
アマルティアは姿勢を正した。
「それで? 次はどうするの。年末のレース? それとも来年に向けて立て直す?」
ベルアマードは即答した。
「ジャパントロフィー」
その瞬間、部屋の空気が変わった。
武田の眉がわずかに動く。
アマルティアも目を見開いた。
ベルアマードは真っ直ぐに言った。
「そこに出させてほしい」
沈黙が落ちる。
最初に口を開いたのはアマルティアだった。
「ジャパントロフィーね」
その声に軽さはない。
「確かに出走資格はあるわ。デザイアトロフィー、葉桜記念、八坂記念。リュニークでは勝てなかったけど、実績だけなら十分」
そして表情を引き締める。
「でも、もう数週間しかない。それでもいいの?」
ベルアマードは迷わず頷いた。
「それでもいい」
迷いはなかった。
「……俺のことを期待してくれる奴らと、一緒に走りたいんだ」
ベストセンス。
ルーレットショー。
レクルース。
リュニークで自分を打ち破った者たち。
それでもなお、自分を認めてくれた者たち。
「あいつらと同じ舞台で、俺の走りを見せたい」
その言葉に虚勢はなかった。
母を超えると叫んでいた頃とは違う。
誰かを倒すためだけでもない。
勝たなければ意味がないと、自分を追い詰めるためでもない。
ただ走りたい。
見せたい。
自分がまだ、自分を信じられるのか確かめたい。
その想いだけだった。
アマルティアは小さく笑った。
「だってさ。どう、武田? 間に合う?」
武田は額に手を当てた。
本気で頭を抱えているようだった。
「また無茶を言うな」
だが、その声には責める響きはない。
呆れと諦め、そして少しの嬉しさが混じっていた。
武田は深く息を吐く。
「数週間で国際GRに戻すなんて普通はやらない。しかも相手は世界の駆人だ。リュニークとはわけが違う」
「分かってる」
「分かってない奴ほどそう言うんだ」
そう言いながらも、武田の目はすでに先を見ていた。
どれだけ身体が落ちているか。
どこまで戻せるか。
何を積み上げれば間に合うのか。
完全にトレーナーの目だった。
やがて武田は短く言った。
「なんとかしてみせるよ。寮長さん」
その答えにアマルティアは満足そうに頷く。
「決まりね。アマードの次のレースはジャパントロフィー」
その言葉が静かに部屋へ落ちた。
ジャパントロフィー。
日本最高峰の国際GR。
アマルティアが歴史を変えた舞台。
世界の強豪が集う場所。
そこへ、自分が向かう。
ベルアマードの胸に静かな熱が灯った。
その時、アマルティアが思い出したように言う。
「そうだ。父さんから伝言を預かってるの」
「伝言?」
「そう」
アマルティアは少しだけ口元を緩めた。
「『自由に走れ。お前の走りを期待している』だって」
ベルアマードは黙った。
父の言葉。
自由に走れ。
お前の走りを期待している。
以前の自分なら、その言葉を重荷にしていたかもしれない。
父のように走らなければならない。
自由でなければならない。
期待に応えなければならない。
そう思い込み、自分を縛っていたかもしれない。
だが今は違う。
その言葉は重さではなく、確かな後押しとして胸に届いた。
父は父の走りを求めているわけではない。
母も母の走りを求めているわけではない。
ライバルたちも、エクラディーヌも同じだ。
皆が見たいのは、ベルアマードという一人の駆人の走りだった。
ベルアマードは静かに頷いた。
「……分かった」
その後、ベルアマードはすぐにグラウンドへ向かった。
久しぶりに、練習のために踏みしめる土だった。
逃げるためではない。
義務だからでもない。
もう一度、自分を信じるために。
武田が隣に立つ。
「まずは身体を慣らせ。細かい調整はその後だ」
ベルアマードは頷いた。
だが走り出す前に、武田へ向き直る。
「武田トレーナー。お願いがある」
武田は眉を上げた。
「なんだ」
ベルアマードは真っ直ぐに見返した。
「今度のジャパントロフィー、俺の好きなように走らせてほしい」
武田の表情がわずかに険しくなる。
「どういう意味だ?」
ベルアマードは迷わず答えた。
「コース取りも、ペース配分も、勝つためには必要だって分かってる」
雨月賞で壊れた。
葉桜記念で学んだ。
日本クラウンで形にした。
錦秋賞で崩された。
必要なことは理解している。
もう昔のように何も考えず飛び出すだけではない。
それでも――。
「このレースだけは、俺らしく走りたいんだ」
ベルアマードは続ける。
「一番前で風を受けて、誰よりも速く走り抜けたい」
その言葉を口にした瞬間、胸の奥が少し軽くなった。
これだった。
ずっと探していたもの。
母を超えるためでもない。
父の真似をするためでもない。
誰かの期待に応えるためだけでもない。
自分自身が見たい景色。
最前線で風を受け、誰よりも先へ行くこと。
それこそが、恐れを知る前の自分が愛していた走りだった。
ベルアマードは頭を下げた。
「だから頼む」
武田はしばらく黙っていた。
勝つためには策がいる。
ジャパントロフィーは甘くない。
世界の駆人相手に好き勝手走れば潰れる可能性も高い。
きっとそう言いたかったはずだ。
だが武田は言わなかった。
深く息を吐き、静かに頷く。
「分かった」
ベルアマードは顔を上げた。
武田は真っ直ぐに見返していた。
「お前の好きなように走れ。そのためのトレーニングを組んでやる」
胸が熱くなる。
「いいのか」
「今さら止めても聞かないだろ」
武田は苦笑した。
「ただし、好きに走るのと無策は違う。お前が好きなように走っても最後まで戦い抜ける身体を作る。前に出るなら最後まで前で戦わせる。それが俺の仕事だ」
ベルアマードは力強く頷いた。
「頼む」
武田は静かに言った。
「走れ、ベルアマード」
その声がグラウンドに響く。
ベルアマードは前を向いた。
久しぶりの感覚だった。
足元の土。
頬を撫でる冷たい風。
広がるグラウンド。
走り出す直前の静寂。
胸の奥で燻っていた火が、少しずつ形を取り戻していく。
ベルアマードはゆっくりと走り出した。
最初は確かめるように。
一歩ずつ。
だが進むたびに、眠っていた感覚が目を覚ましていく。
風を受ける。
前を見る。
誰もいない先へ向かう。
それだけで身体の奥が熱くなった。
こうして、ベルアマード自身の走りを取り戻すためのトレーニングが始まった。
次なる舞台はジャパントロフィー。
世界の駆人が集う場所。
ライバルたちが待つ場所。
そして――。
自分の走りを、もう一度信じるための場所だった。




