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憧れが走る日

次の週末、ベルアマードは競駆場を訪れていた。


もちろん、走るためではない。


ユニフォームに袖を通しているわけでもなく、

控室へ向かう必要もない。

トレーナーにコンディションを確認されることもない。


今日の彼は、一人の観客だった。


エクラディーヌとの約束。


彼女が次のレースで勝ったなら、自分は競駆を続ける。


あの時は半ば勢いで了承しただけだった。

正直なところ、本当にそんな展開になるとは、まだどこかで信じ切れていなかった。


それでも約束は約束だ。


見届けないという選択肢はなかった。


隣にはベルフレアがいる。


「お兄ちゃん、こっちこっち。この辺の方が見やすいよ」


ベルフレアは慣れた足取りで競駆場の中を進んでいく。


ベルアマードは黙ってその後を追った。


観客として競駆場に来るのは初めてだった。


見慣れているはずの場所なのに、不思議なほど違って見える。


彼が知る競駆場は、控室であり、練習場であり、通路であり、ゲート前であり、そしてターフだった。


走る者として見る競駆場。


勝利を目指して踏み込む場所。


期待と緊張、そして恐怖が渦巻く場所。


だが観客席から眺める競駆場は、まるで別世界だった。


人間も駆人も、それぞれがレースを楽しみに集まっている。


出走表を片手に予想を語り合う者。

応援する駆人の名を口にして盛り上がる者。

売店で買った食べ物を抱え、笑顔で席へ戻る者。

場内イベントに足を止め、記念写真を撮る者。


そこには、ベルアマードの知らない競駆の姿があった。


レースは走る者だけのものではない。


見る者たちもまた、それぞれの想いをターフへ託している。


期待。

憧れ。

祈り。

興奮。


ターフの上では気づけなかった熱気が、観客席には確かに存在していた。


ベルアマードは静かに周囲を見渡した。


雨月賞も、日本クラウンも、錦秋賞も。


背中に浴びていた歓声は、ただの音ではなかったのだ。


これほど多くの人々が、自分たちの走りに胸を躍らせ、息を呑み、願いを託していた。


観客席から初めてその景色を見たとき、胸の奥に鈍い重みが落ちた。


「ほら、お兄ちゃん! エクラちゃん出てきたよ!」


ベルフレアの声に促され、ベルアマードはターフへ目を向けた。


そこにエクラディーヌがいた。


肩まで伸びた黒髪を揺らしながら、堂々とターフへ姿を現す。


目を引いたのは、その表情だった。


緊張よりも喜びが勝っている。


走れることそのものが嬉しい。


そんな笑顔だった。


今回のレースは、デビュー戦を勝ち上がった二歳駆人たちによる一戦だった。


女駆だけではない。


男駆も混じっている。


そして見渡してみれば、女駆はエクラディーヌただ一人だった。


二歳とはいえ体格差はある。


まだ成長途中とはいえ、男駆たちは一回り大きく見えた。


脚の長さも肩幅も違う。


ベルアマードは思わず眉をひそめる。


本当に勝てるのか。


そう考えた直後、自分がいつの間にか彼女の勝敗を気にしていることに気づいた。


エクラディーヌが最終調整に入る。


軽くコースを流したその瞬間、


ベルアマードは目を細めた。


綺麗だった。


デビューして間もない二歳とは思えないほど、走りに濁りがない。


腕の振りも、脚の運びも、身体を支える軸も。


もちろん完成には程遠い。


粗さもあるし、無駄もある。


それでも、その根っこにあるものは驚くほど澄んでいた。


軽く流し終えたエクラディーヌは、トレーナーらしき女性のもとへ戻る。


何か指示を受けているようだった。


女性トレーナーは身振りを交えながら熱心に説明している。


おそらくコース取りやペース配分についてだろう。


しかしエクラディーヌは終始笑顔で頷いているだけで、どこか上の空だった。


やがてトレーナーは頭を抱えた。


「あっ、またエクラちゃん、トレーナーさんの話ちゃんと聞いてない」


ベルフレアが苦笑する。


ベルアマードは横目で尋ねた。


「……そうなのか?」


「うん。コース取りとかペースとか色々言われるらしいけど、全然頭に入ってないって言ってた」


ベルアマードは返す言葉を失った。


かつて武田の助言を聞き流し、とにかく前へ出ることしか考えていなかった頃の自分を思い出す。


外から見れば、あれもこんなふうに映っていたのだろうか。


そう思うと、妙に居心地が悪かった。


エクラディーヌは頭を抱えるトレーナーを置き去りにし、上機嫌でゲートへ向かおうとしていた。


その時だった。


観客席のベルアマードとベルフレアに気づいたらしい。


ぱっと顔を輝かせる。


そして大きく手を振った。


「ベルアマードさーん!」


声は届かないはずなのに、そう呼んでいるのが分かった。


ベルフレアも負けじと手を振り返す。


「エクラちゃん、頑張ってー!」


ベルアマードもわずかに手を上げる。


それだけでエクラディーヌはさらに嬉しそうに笑った。


やがて係員に促され、ゲート前へ向かっていく。


出走者たちが次々とゲートへ収まる。


競駆場の空気が自然と静まり返った。


ベルアマードはその変化に驚いた。


いつも自分はゲートの内側にいた。


狭い空間。

目の前の扉。

聞こえる自分の呼吸。


それしか意識していなかった。


だが外から見るゲートは違う。


無数の視線がそこへ集まっている。


誰もが息を潜め、始まりの瞬間を待っていた。


自分はこんな期待を背負ってスタートしていたのか。


ベルアマードは小さく息を呑んだ。


そして――


ゲートが開く。


鋭い音が響いた。


観客の視線が一斉にレースへ注がれる。


まだ経験の浅い駆人たちだけあって、スタートはばらついた。


出遅れる者。

飛び出してから体勢を整える者。

周囲を気にして動きが硬くなる者。


そんな中で、


エクラディーヌだけが違った。


完璧なスタートだった。


迷いがない。


一歩目で前へ出る。


二歩目で差を広げる。


三歩目には先頭へ躍り出ていた。


ベルアマードは無意識に身を乗り出していた。


本来ならここで一度後ろを確認するべきだ。


位置取りを把握し、後続との差を測り、ペースを整える。


今のベルアマードならそう考える。


だがエクラディーヌは振り向かない。


ペースも落とさない。


ただ前へ。


ひたすら前へ。


競駆の常識を知った今のベルアマードには、その走りは危うく映った。


このままでは最後まで持たないかもしれない。


そう思うのに、目を離せなかった。


先頭で風を切る横顔。


誰もいない空間へ飛び込んでいく背中。


後ろを恐れず、ただ前だけを追う脚。


それは、かつての自分が確かに持っていたものだった。


レースはエクラディーヌ先頭のまま進む。


ペース配分もコース取りも決して上手くはない。


それでも彼女は楽しそうに走っていた。


周囲からも声が聞こえ始める。


「あの子、飛ばすな」


「最後までもつのか?」


「でも綺麗な走りだな」


そんな言葉があちこちから漏れていた。


ベルアマードは何も言わない。


ただ見つめていた。


勝たなければならない。


母を超えなければならない。


期待に応えなければならない。


いつからだろう。


そんなものばかり抱え込み、走ることそのものを見失っていたのは。


エクラディーヌの背中は、その問いを容赦なく突きつけてくる。


エクラディーヌが最終直線へ飛び込む。


まだ先頭。


だが脚は重い。


後続が襲いかかる。


ベルアマードは立ち上がった。


拳を握る。


「エクラ……」


外から一人。


内から一人。


差が一気に詰まる。


飲み込まれる――そう見えた。


だがエクラディーヌは踏み込んだ。


苦しげに肩を揺らしながら、それでも脚を止めない。


腕を振る。


前へ押し出す。


歯を食いしばり、顔を上げる。


視線はただゴールだけを見据えていた。


ベルアマードの胸が跳ねた。


「行け!」


ベルフレアも叫ぶ。


「エクラちゃん、行けー!」


歓声が爆ぜる。


エクラディーヌは譲らない。


迫られても、食らいつかれても、先頭を守る。


ゴールが迫る。


差はわずか。


それでも前だ。


そして――


駆け抜けた。


先頭で。


勝った。


ベルアマードはしばらく動けなかった。


歓声が競駆場を包む。


ベルフレアが隣で飛び跳ねている。


「勝った! エクラちゃん勝ったよ、お兄ちゃん!」


分かっている。


ちゃんと見ていた。


一瞬たりとも目を逸らせなかった。


ベルアマードはターフの上で息を切らすエクラディーヌを見つめる。


彼女は膝に手をつきながら荒く呼吸していた。


それでも顔を上げる。


そして観客席を見た。


ベルアマードを探している。


見つけた瞬間、


疲れ切った顔で笑った。


勝ちました。


そう言っているような笑顔だった。


ベルアマードは拳を握ったまま立ち尽くす。


約束。


その言葉が胸に浮かぶ。


エクラディーヌは勝った。


ならば自分は競駆を続ける。


だが胸を打っているこの鼓動は、約束を守る義務感だけでは説明できなかった。


母の言葉が蘇る。


走れば何かが変わるのよ。


悪い方にも、良い方にもね。


走らなければ何も変わらないわ。


エクラディーヌは走った。


ただ前を向いて。


走ることを心から楽しみながら。


その姿は、観客席で初めて知った熱気と重なり合い、ベルアマードの胸の奥深くに沈んでいた何かを静かに揺り起こしていた。


まだ言葉にはできない。


けれど確かに分かる。


消えかけていた火は、完全には消えていなかった。


灰の下で燻り続けていたそれが、今もう一度、小さな炎になろうとしている。


――走りたい。


その想いが、確かに胸の中で息を吹き返していた。

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