夕暮れの約束
あのテレビを見た夕方、ベルアマードは風杜のグラウンドに立っていた。
特に走る気はなかった。
トレーニングをするつもりもない。
誰かに呼ばれたわけでもない。
それでも、なぜかここに立ちたくなった。
夕暮れの風杜は静かだった。
昼間の練習を終えたグラウンドには、もうほとんど人影がない。
地面には走った跡が残り、夕陽に照らされた芝が淡く赤く染まっている。
空の色は、青から橙へ、そして少しずつ紫へと変わっていった。
走るのをやめたはずなのに、足は自然とこの場所へ向いていた。
ベストセンスの言葉が浮かぶ。
「あいつの走りは、あいつにしか出来ない」
ルーレットショーの声も。
「ベルアマードは僕よりも強いし、速い」
そしてレクルースの言葉。
「長距離なら負けないですけど、それ以外は勝ち目ないですよ」
彼らは、アマルティアやウインドベルの子としてではなく、ベルアマード自身に期待してくれていた。
それは嬉しかった。
だが同時に苦しかった。
期待されているのに、自分自身はもう走れないと思っている。
走ってもまた負けると思っている。
期待してくれる人たちに、また申し訳ない結果を見せるだけだと思っている。
ベルアマードはグラウンドの先を見た。
かつては怒りや焦りを抱えながら、母を超えようと叫び、父の背中を追って何度も走った場所だ。
今は胸の中が空っぽだった。
その時、背後から声がかかった。
「は、初めまして。ベルアマードさん。」
聞き覚えのない声だった。
ベルアマードは振り返った。
そこには、一人の少女が立っていた。
年齢はベルフレアと同じくらいだろうか。
肩にかかるほどの黒い髪。
大きな瞳。
緊張しているのか、背筋は伸びているのに指先が落ち着かない。
そして何より、服装が目を引いた。
女性の服に詳しくないベルアマードでも分かるほど、仕立てが良い。
落ち着いた色合いでありながら、細部まで上品に整えられている。
ただ高価なだけではなく、着る者の育ちまで感じさせるような服だった。
ベルアマードは少し警戒するように尋ねた。
「……君は?」
少女は、はっとしたように慌てて頭を下げた。
「申し遅れました。私、エクラディーヌと言います。フレアちゃんの友達です。」
「フレアの?」
そう言われて、ベルアマードは少し思い出した。
たしかに、何度か風杜で見かけたことがある気がする。
ベルフレアと一緒に話していた少女。
時々、外から来て、グラウンドの端で練習を見ていた少女。
あれが彼女だったのだろう。
ベルアマードは、ベルフレアと仲良くしてくれていることへ礼を言おうとした。
だが、その前にエクラディーヌが口を開いた。
「あの、ベルアマードさん。」
「なんだ」
エクラディーヌは一度、深く息を吸った。
そして、顔を赤くしながら言った。
「私とお付き合いしてください!」
ベルアマードは固まった。
意味が、すぐに頭へ入ってこなかった。
付き合う。
今、そう言ったのか。
自分に。
初対面に近い相手が。
ベルアマードは、どう答えればいいのか分からなかった。
走ることなら分かる。
レースのことなら分かる。
逃げ方、ペース、追われる怖さ。
だが、これは違う。
完全に経験のない領域だった。
「いや、その……」
ベルアマードが言葉を探していると、エクラディーヌはさらに続けた。
「一目惚れなんです。去年のデビュー戦で見てから、ずっと惹かれていました。だから、次のレースで私が勝ったら、付き合って欲しいんです!」
勢いのある声だった。
緊張しているのに、目は真っ直ぐだった。
ベルアマードは少しずつ思考を取り戻した。
デビュー戦。
自分がまだ、何も知らなかった頃。
ただ前へ行き、ただ先頭で風を受け、誰にも追いつかれないまま走り切ったレース。
あの走りを、彼女は見ていたのか。
ベルアマードは少し視線を落とした。
そして、静かに言った。
「……ごめん。付き合うことはできない。気持ちは嬉しいんだけど。」
彼女のことを、自分はほとんど知らない。
それに、今の自分には誰かと向き合える余裕もない。
沈黙が落ちる。
しかし、返ってきた声は思っていたものとは違っていた。
「……まあ、そうですよね。ベルアマードさん、断ると思ってました。」
あまりにも当然のような声だった。
ベルアマードは思わず顔を上げた。
「分かってたのか?」
「はい。だってベルアマードさん、私のこと知らないですよね。だから断られると思ってました。」
頬は赤く、声も少し震えている。
それでも彼女は真っ直ぐ立っていた。
「答えは、これから私のことを知ってからでいいです。」
ベルアマードは戸惑った。
断ったはずなのに、話が終わっていない。
むしろ、ここから始めるつもりらしい。
エクラディーヌは、少しだけ表情を引き締めた。
「……だけど、ひとつお願いがあります。」
「お願い?」
「次のレースで私が勝ったら、競駆を辞めないでください。」
その言葉に、ベルアマードの中の空気が一気に変わった。
「……フレアに聞いたのか。」
声が低くなった。
だが、エクラディーヌは首を振った。
「フレアちゃんは関係ありません。」
「じゃあ、どうして知ってる」
「そんなのどうだっていいじゃないですか。……それで、どうなんですか? 約束してくれるんですか?」
その目は、今日会ってから一番鋭かった。
告白していた時の熱とは違う。
真剣な、勝負の目だった。
ベルアマードは、彼女を見つめ返した。
「……どうしてだ?」
「え?」
「君のレースの勝敗と、俺の引退。何が関係あるんだ。」
エクラディーヌは少しだけ目を伏せた。
そして、ゆっくり話し始めた。
「……私、本気であなたのことが好きなんです。」
最初の告白よりも、静かな声だった。
「先ほどお伝えした通り、去年のデビュー戦でのあなたの走り。あの走りで、私はあなたに夢中になりました。」
ベルアマードは黙って聞いていた。
「あの時のあなたは、後ろなんて見ていませんでした。誰が追ってくるかも、どれだけ離れているかも気にせず、ただ前で走っていた。最前線で風を受けて走るあなたの顔が、とても美しくて、輝いていました。」
エクラディーヌの目が輝いている。
まるで大切な宝物を語るような目だった。
「私も、あなたのように最前線で風を受けたい。あなたのように走りたい。そう思っていました。……だけど。」
そこで、彼女の目の色が変わった。
「最近のあなたの走りには、その輝きが全くない!」
声が強くなった。
ベルアマードの胸が、小さく揺れる。
「周りはあなたのことを、逃げる技術が上がったとか、周りを見られるようになったとかおっしゃるけど、それは違う!」
エクラディーヌは一歩前へ出た。
「そんな走りは、私が憧れたベルアマードさんの走りじゃない!」
その言葉は鋭かった。
武田に教わった走り。
アマルティアとの特訓で得た走り。
日本クラウンで見せた完璧に近い逃げ。
競駆として見れば成長だった。
だがベルアマード自身も、どこかで感じていた。
昔の自分とは違う。
何も考えず先頭へ飛び出し、誰もいない景色へ向かって走っていた頃の眩しさが、今の自分からは消えているのかもしれない。
エクラディーヌは息を整えた。
そして、涙を浮かべながらベルアマードを見つめた。
「だから、私が思い出させてあげます。」
「思い出させる?」
「あなたに。私が憧れたあなたに。本当のベルアマードの走りを。」
涙が一筋、彼女の頬を流れた。
それでも、彼女は目を逸らさなかった。
「……私にもう一度、あなたの走りを見せて欲しいのです。」
その言葉に、ベルアマードは動けなかった。
彼女は自分の苦しみのすべてを知っているわけではない。
だが、彼女は見ていた。
自分が忘れかけている自分を。
ベルアマードは、ゆっくり息を吐いた。
「……分かった。」
エクラディーヌの目が揺れる。
「君が次のレースで勝ったら、競駆を続ける。」
その瞬間、エクラディーヌは目を大きく見開いた。
「本当ですか!? 本当に?」
「約束だ。」
ベルアマードがそう言うと、エクラディーヌはその場で小さく飛び跳ねた。
「やった……! やりました! 本当に約束ですよ! 絶対ですよ!」
さっきまで涙を流していたのに、今は子どものように喜んでいる。
その切り替わりの速さに、ベルアマードは少し呆れた。
だが、不思議と嫌ではなかった。
久しぶりに、誰かの真っ直ぐな感情を真正面から受けた気がした。
エクラディーヌは何度も確認するように言った。
「約束ですからね。私、勝ちます。絶対に勝ちますから。そしたらベルアマードさんは競駆を辞めない。いいですね?」
「ああ」
「それで、私のことも少しずつ知ってください」
「それは……まあ、分かった」
ベルアマードがそう答えると、エクラディーヌは満足そうに頷いた。
夕暮れのグラウンドに、彼女の明るい声が響く。
ベルアマードは、その様子を見ながら思った。
まだ走りたいとは思えていない。
競駆を続ける覚悟が戻ったわけでもない。
けれど、完全に終わったと思っていた未来が、ほんの少しだけ動き出した気がした。
エクラディーヌが次のレースで勝つこと。
それだけで、自分の未来がもう一度動くかもしれない。
馬鹿げている。
そう思う。
だが、少しだけ胸の奥が軽かった。
空はもう、夕暮れから夜へ変わろうとしていた。
風杜のグラウンドに、秋の風が吹く。
エクラディーヌはまだ嬉しそうに何かを話している。
その声を聞きながら、ベルアマードは久しぶりにグラウンドの先を見た。
そこに、走りたいという強い気持ちはまだない。
だが、完全に目を逸らすこともできなくなっていた。




