名前を呼ぶ声
錦秋賞から、数週間が過ぎた。
あのレースのあと、ベルアマードは武田トレーナーに競駆を辞めると告げた。
武田は止めた。
当然だった。
「リュニークは終わった。だが、競駆は終わっていない。お前が走れる場所はまだある。今辞めるには早すぎる」
その言葉は正しかった。
三歳の秋。
リュニークが終わっただけで、競駆人生そのものが終わるわけではない。
四歳になれば、太閤賞も、天皇杯も、甲子園記念もある。
秋にはジャパントロフィーも、東都記念も待っている。
走る場所はいくらでもあった。
だが、ベルアマードの中には、もうそこへ向かうだけの力が残っていなかった。
雨月賞で心を削られた。
日本クラウンで届かなかった。
錦秋賞で、最後の希望までも失った。
母を超えるために走ってきた。
父のような逃げに憧れて走ってきた。
自分という存在を証明するために走ってきた。
それでも、リュニークでは何ひとつ掴めなかった。
武田は何度も言葉を尽くした。
だが、ベルアマードは首を縦には振らなかった。
そして、両親にも伝えた。
もう走るのをやめる。
その言葉を聞いた時、アマルティアは長い間黙っていた。
ウインドベルも、すぐには何も言わなかった。
叱られると思っていた。
止められると思っていた。
逃げるなと言われると思っていた。
だが、違った。
アマルティアはただ、ベルアマードの顔を見つめた。
そして、静かに頷いた。
「分かったわ」
それだけだった。
ウインドベルも、小さく息を吐いてから言った。
「お前が決めたなら、それでいい」
あまりにもあっさりしていた。
だからこそ、その言葉は重かった。
止めてほしかったのかもしれない。
まだ走れと言ってほしかったのかもしれない。
お前はこんなところで終わる駆人じゃないと、誰かに無理やり引き戻してほしかったのかもしれない。
だが、二人はベルアマードの意思を尊重した。
それは優しさだった。
同時に、逃げ道を残さない優しさでもあった。
話が終わり、ベルアマードは席を立った。
もう言うべきことは言った。
これで終わりだ。
そう思って背を向けた時だった。
「ねえ、アマード」
アマルティアが呼び止めた。
ベルアマードが振り返ると、母は穏やかな表情のまま問いかけた。
「どうして駆人は速く走れると思う?」
唐突な質問だった。
意味が分からなかった。
速く走れる理由。
才能か。
努力か。
鍛錬か。
いくつか答えは浮かんだが、どれも違う気がした。
ベルアマードは答えられずに黙っていた。
するとアマルティアは、少しだけ微笑んだ。
「答えはね、私たち駆人が走れば何かが変わるのよ。悪い方にも良い方にもね」
静かな声だった。
だが、その言葉は不思議と耳に残った。
「走らなければ何も変わらないわ。それだけ覚えておいて」
ベルアマードは眉をひそめた。
何を言いたいのか分からない。
今の自分に、その言葉がどう関係するのかも分からない。
アマルティアはそれ以上何も言わなかった。
ウインドベルも黙ったままだった。
ベルアマードは小さく頭を下げると、その場を後にした。
背中に母の視線を感じたが、振り返らなかった。
言葉の意味は理解できなかった。
ただ、その問いだけが妙に胸の奥に引っかかったまま残った。
競駆を辞めてから、ベルアマードの生活には大きな空白が生まれた。
朝、決まった時間に起きる。
だが、走りに行く必要はない。
グラウンドへ向かう必要もない。
武田にメニューを確認する必要もない。
身体の状態を測り、今日のペースを考え、次のレースを意識する必要もない。
自由だった。
だが、その自由は思っていたほど心地よくなかった。
何をしていいのか分からない。
部屋にいても落ち着かない。
本を開いても文字が頭に入らない。
外に出ても、気づけば足が走り出しそうになる。
身体はまだ、走ることを覚えている。
呼吸も、脚も、腕の振りも。
すべてが競駆のために作られていた。
だが、もう走らなくていい。
そう思うたびに、自分の居場所が分からなくなった。
何かを見つけなければならない。
そう思った。
だが、何も浮かばなかった。
走ることしかしてこなかった。
走ることしか、自分を語るものがなかった。
その走ることを手放した時、自分には何が残るのか。
ベルアマードには、分からなかった。
ある日のことだった。
ベルアマードが部屋から居間へ降りると、ベルフレアがテレビの前に座っていた。
画面には競駆場が映っている。
どうやら競駆の特集番組らしかった。
ベルフレアはベルアマードに気づくと、慌てたようにリモコンを手に取った。
「あ、お兄ちゃん。ごめん、テレビ変えるね」
その声には気遣いがあった。
競駆を辞めたベルアマードの前で、競駆番組を見ることを悪いと思ったのだろう。
ベルアマードは少しだけ眉を動かした。
「俺に気にしないでいい」
ベルフレアはリモコンを持ったまま、少し迷った。
「でも……」
「いいって言ってるだろ」
強い声ではなかった。
だが、それ以上言うなという響きはあった。
ベルフレアは小さく頷き、リモコンを膝の上に置いた。
テレビの中では、番組が次の特集へ移ろうとしていた。
ベルアマードは、居間の入口に立ったまま、遠巻きに画面を見た。
別に見るつもりはなかった。
ただ、何となく目に入っただけだった。
画面に大きな文字が浮かび上がる。
『三歳世代が挑む偉業!ジャパントロフィー』
ベルアマードの呼吸が、わずかに止まった。
ジャパントロフィー。
日本で行われる国際GR。
国内の駆人だけではない。
世界中から強豪が集まる、秋最大級の舞台。
番組は、その歴史を紹介していた。
かつて、ジャパントロフィーを制するのは海外の駆人ばかりだった。
日本の強豪たちは何度も挑んだ。
若き才能も、経験豊富な古豪も、その壁に跳ね返され続けた。
だが、その歴史を変えた駆人がいた。
アマルティア。
四歳時。
海外の名駆たちをまとめて差し切り、日本駆人として初めてジャパントロフィーを制した伝説の女王。
画面には、若き日のアマルティアの映像が流れていた。
最後の直線。
外から一気に伸びる栗色の影。
実況の絶叫。
観客席を揺らす歓声。
ベルアマードは無意識に目を逸らしかけた。
だが、逸らせなかった。
番組は続ける。
アマルティアの勝利以降、多くの日本駆人がその背中を追った。
三歳世代の挑戦者たちも、実績ある古馬たちも、次こそはと挑み続けた。
しかし、再び海外勢の壁は厚く立ちはだかった。
アマルティアに続く勝者は、まだ現れていない。
そして今年。
その歴史へ挑む三歳世代として、三人の名が紹介された。
雨月賞を制した、怪物ハイセンスの子。
ベストセンス。
日本クラウンでアマルティアの記録を破った、憧れを追う駆人。
ルーレットショー。
錦秋賞で三千メートルの適性を証明した、長距離の新星。
レクルース。
画面に三人が並ぶ。
ベルアマードは、そこに自分の姿がないことを当然だと思った。
もう辞めたのだから。
出走予定がないのだから。
名前が出ないのは当たり前だった。
だが、その当たり前が胸の奥を鈍く締めつけた。
番組は三人へのインタビューへ移った。
ベストセンスは相変わらず静かに答えていた。
ルーレットショーは明るく、けれど日本クラウン後の少し大人びた表情を見せていた。
レクルースは短い髪のまま、どこか面倒くさそうにしながらも、以前よりはるかに落ち着いていた。
自信。
意気込み。
海外勢への印象。
三人は、それぞれの言葉で答えていく。
やがてインタビュアーが笑顔で言った。
『やはり、この三人には注目ですね。三歳世代の代表として、三人には期待していますよ』
その瞬間、ルーレットショーが首を傾げた。
「えっ、三人?」
インタビュアーが少し驚いた顔をする。
『ええ。今年のジャパントロフィー、三歳で出走予定となっているのは、ルーレットショーさん達三人だけですよ』
ルーレットショーは、心底不思議そうな顔をした。
「えー! それはおかしいよ。ベルアマードは?」
その名前が出た瞬間、ベルアマードの胸が小さく跳ねた。
ベルフレアも、ちらりとベルアマードを見る。
画面の中で、インタビュアーが少し言葉を詰まらせた。
『えっと……ベルアマードさんは出走予定はないです。それに、競駆引退の噂も囁かれていますが……』
その言葉を聞いた瞬間、三人の表情が変わった。
ベストセンスは目を見開いた。
ルーレットショーは笑顔を失った。
レクルースでさえ、気だるげな顔を完全に消していた。
信じられない。
ありえない。
そんな表情だった。
最初に声を上げたのは、ベストセンスだった。
「ふざけるな! その話は本当なのか!」
インタビュアーに詰め寄るような勢いだった。
画面越しでも分かるほど、怒っていた。
「ちょっとベストセンスさん、落ち着いてくださいよ」
レクルースが慌てて止めに入る。
だが、ルーレットショーも黙っていなかった。
「そうだよ! ふざけてるよ。ベルアマードは僕よりも強いし、速い。彼は競駆界を背負うほどだよ!」
その目には、うっすらと涙が浮かんでいるように見えた。
レクルースは、今度はルーレットショーまで宥めるように両手を出した。
「いや、二人とも落ち着きましょうって。番組中ですよ」
それでも、彼自身の表情も穏やかではなかった。
インタビュアーは、少し困ったように笑った。
『そんなに皆さんはベルアマードさんに期待しているんですね。それは、ベルアマードさんがあの伝説の女王アマルティアの子だからですか?』
少し棘のある質問だった。
少なくとも、ベルアマードにはそう聞こえた。
またそれか。
そう思った。
アマルティアの子だから。
結局、どこへ行ってもそこに戻る。
走っても、負けても、辞めても。
自分は母の名前から逃げられない。
だが、画面の中の三人は、ほとんど同時に答えた。
「そんなの関係ない」
声が重なった。
ベルアマードは、目を離せなかった。
ベストセンスが言った。
「あいつの走りは、あいつにしか出来ない。レースするたびに強くなる」
ルーレットショーが続ける。
「あんな思い切りの良い逃げ、真似できないよ」
レクルースも、少しだけ視線を逸らしながら言った。
「長距離なら負けないですけど、それ以外は勝ち目ないですよ」
三人の言葉は、用意されたものではなかった。
番組のための綺麗な答えでもない。
実際にベルアマードと走り、戦い、勝ち、負けた者たちの本音だった。
ベルアマードの走りを知る者たちの言葉だった。
アマルティアの子だからではない。
ウインドベルの子だからでもない。
ベルアマードだから。
その走りを、彼らは見ていた。
認めていた。
期待していた。
ベルアマードは、画面から目を離せなかった。
胸の奥に、何かが差し込んでくる。
嬉しい。
そう思った。
確かに、嬉しかった。
あの三人が、自分を見ていた。
雨月賞で負けた相手。
日本クラウンで抜かれた相手。
錦秋賞で勝てなかった相手。
その全員が、自分の走りを認めている。
それは、ずっと欲しかったものだった。
アマルティアの子ではなく。
ベルアマード自身として。
誰かに見てほしかった。
呼んでほしかった。
認めてほしかった。
その願いが、今になって画面の向こうから返ってきている。
だが、同時に眩しかった。
あまりにも眩しかった。
今の自分には、まともに受け止められないほどに。
彼らはまだ走っている。
前を向いている。
ジャパントロフィーという、さらに大きな舞台へ向かっている。
自分は。
ベルアマードは、無意識に一歩下がった。
ベルフレアが小さく声をかけた。
「お兄ちゃん……」
ベルアマードは返事をしなかった。
画面の中では、三人がまだ何かを語っている。
ベルアマードの名前がまた出る。
そのたびに、胸の奥が痛んだ。
嬉しいのに。
苦しい。
認められているのに。
逃げ出したい。
ベルアマードは、静かに居間を出た。
ベルフレアが何か言いかけた気配がしたが、追ってはこなかった。
廊下に出ると、テレビの音が少し遠くなる。
それでも、三人の言葉は耳の奥に残っていた。
そんなの関係ない。
あいつの走りは、あいつにしか出来ない。
競駆界を背負うほどだよ。
ベルアマードは壁に背を預けた。
息が少し乱れていることに気づく。
走ってもいないのに。
ただテレビを見ただけなのに。
胸の奥が熱く、苦しかった。
ベルアマードは目を閉じた。
走るのをやめたはずだった。
もう終わりにしたはずだった。
なのに、どうして。
あの三人の言葉が、こんなにも胸を揺らすのか。
答えはまだ出なかった。
ただ、完全に消えたと思っていた火種が、胸の奥で小さく、確かに揺れていた。




