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冠のない秋

レクルースの仕掛けは、明らかに早かった。


まだ最後のコーナー手前。


ベルアマードが考えていた勝負どころよりも前だった。


ここで動くのは危険だ。

三千メートルの最後を考えれば、まだ脚を残しておかなければならない。

予定では、最終直線に入ってからスパートするはずだった。


それまで耐える。


上りで削られすぎず、下りで流れすぎず、コーナーを最短で回り、直線で残した脚を使う。


それが、夏の間に組み立ててきた錦秋賞の走りだった。


だが、レクルースはその予定を壊しに来た。


じわじわと前へ上がってくる。


速いようには見えない。

だが、止まらない。

一歩ごとに圧が増していく。


ここで無視すれば、先に前へ出られる。


三千メートルの終盤、京都競駆場の起伏を越えた後に、前を奪い返す余力が残っている保証はない。


ベルアマードは判断した。


予定を早める。


ここで行く。


最後のコーナーへ入る瞬間、ベルアマードはスパートをかけた。


身体が反応する。


夏に作った脚。

八坂記念で掴んだ感覚。

京都の起伏を何度も頭の中でなぞった経験。


それらが、ベルアマードを前へ押し出した。


コーナーでは順調だった。


レクルースを簡単には並ばせない。

ベストセンスも後ろで動く気配を見せている。

集団もざわつき始めている。


だが、ベルアマードは先頭を守っていた。


行ける。


一瞬、そう思った。


予定より早く動いた。

それでも、ここまでなら耐えられる。

このまま直線へ入り、押し切る。


錦秋賞を勝つ。


リュニーク最後の一戦で、すべてを取り返す。


だが、最終直線へ入った瞬間、異変ははっきりと現れた。


脚が重い。


思ったよりも、ずっと重かった。


芝を蹴る感覚が鈍い。

身体は前へ行こうとしているのに、脚が遅れてついてくる。

呼吸も深くならない。

肺の奥が熱く、胸が詰まる。


早かった。


仕掛けが、早かった。


予定よりも前に脚を使った代償が、最終直線で一気に来た。


ベルアマードは歯を食いしばる。


まだ先頭だ。


まだ終わっていない。


だが、その背後で、レクルースが動いた。


まるで、その瞬間を待っていたかのようだった。


ルーレットショーのような爆発的な脚ではない。


一瞬で空気を裂くような加速ではない。


レクルースのスパートは、もっと違っていた。


じわりと伸びる。


一歩ごとに速くなる。

一歩ごとに確かになる。

疲れた者たちが少しずつ鈍っていく中で、彼だけが速度を落とさない。


いや、上げている。


三千メートルを走ってきた後とは思えないほど、滑らかに、淡々と。


ベルアマードは対応しようとした。


もう一度脚を使う。

もう一段上げる。

前を譲らない。


そう思った。


だが、身体は応えなかった。


脚が上がらない。


夏の間、あれほど走り込んだ。

坂を上り、外周を回り、最後まで脚を残す練習を重ねた。

八坂記念も勝った。


それでも足りなかった。


レクルースが近づく。


横に来る。


並ぶ。


ベルアマードは必死に前を見た。


並ばせるな。


ここで抜かれたら終わる。


逃げろ。


前にいろ。


だが、レクルースは淡々と前へ出た。


抜かれた。


その瞬間、ベルアマードの中で何かが静かに崩れた。


雨月賞のような黒い波ではなかった。

日本クラウンのルーレットショーのような閃光でもなかった。


もっと静かで、残酷だった。


自分の作戦が壊され、脚を使わされ、最後に余力の差で抜かれる。


長距離で負けるとは、こういうことなのだと思い知らされた。


ベルアマードは、それでも止まらなかった。


最後の最後の力を振り絞る。


前へ。


もう一歩。


もう一歩。


レクルースの背中が遠ざかる。

別の駆人が外から迫る。

ベストセンスも必死に脚を使っている。

集団の足音が広がる。


ベルアマードは、もう順位を考えられなかった。


ただゴールまで走る。


それだけだった。


視界が揺れる。


歓声が遠くなる。


身体中が重い。


それでも、ゴールだけは見えていた。


ベルアマードは、何とかそこへ辿り着いた。


ゴールを通過する。


そこで、すべてが終わった。


結果が表示される。


一着には、レクルースの名があった。


錦秋賞を勝ったのは、レクルースだった。


そして、ベルアマードの名前は五着にあった。


掲示板には入った。


だが、それだけだった。


雨月賞、十三着。

日本クラウン、二着。

錦秋賞、五着。


リュニーク三戦。


ベルアマードは、一つも勝てなかった。


息が上がっていた。


喉が焼ける。

脚が震える。

肩で呼吸をしても、胸の苦しさが消えない。


だが、それ以上に、胸の中が重かった。


もう怒りも湧かなかった。


悔しさも、すぐには形にならなかった。


ただ疲れていた。


走ることに。


追われることに。


勝たなければならないと思い続けることに。


母を超えると言い続けることに。


特別でなければならないと、自分に言い聞かせ続けることに。


ベルアマードは、ターフの上で立ち尽くした。


自分は特別だと思っていた。


アマルティアとウインドベルの子。

デザイアトロフィーを勝った最優秀二歳男駆。

母を超えるために生まれてきたような存在。


そう思っていた。


だが、リュニークでは勝てなかった。


雨月賞ではベストセンスが勝った。

日本クラウンではルーレットショーが勝った。

錦秋賞ではレクルースが勝った。


それぞれが、それぞれの舞台で自分を超えていった。


自分は、何者なのだろう。


先頭に立つことはできる。


だが、最後まで勝者ではいられない。


ベルアマードは掲示板を見た。


五着。


その数字は、十三着の時ほど派手に崩れたものではない。


二着の時ほど誇れるものでもない。


ただ、届かなかったという事実だけが、静かに置かれていた。


武田トレーナーが近づいてくる気配がした。


何かを言おうとしているのが分かった。


だが、ベルアマードは聞きたくなかった。


責められるのも嫌だった。

慰められるのも嫌だった。

次があると言われるのも、走りは悪くなかったと言われるのも、今は耐えられそうになかった。


次。


その言葉が、ひどく遠い。


ベルアマードはゆっくりと息を吐いた。


もういい。


そう思った。


これ以上、何を証明すればいいのか分からなかった。


母を超えることも。

父のように走ることも。

自分の名前で呼ばれることも。

先頭の景色を見ることも。


全部、遠くなった。


見たい景色など、もう分からない。


怖さを忘れるほどの想いも、見つからなかった。


あるのはただ、疲労だけだった。


身体の疲れではない。


心の奥から、何かが抜け落ちていくような疲れだった。


ベルアマードは、誰にも聞こえないほど小さく呟いた。


「……もう、いい」


その言葉を口にした瞬間、不思議と胸の奥が静かになった。


悔しさも、怒りも、焦りも、少しだけ遠ざかる。


代わりに、冷たい決心だけが残った。


走るのをやめよう。


この日、ベルアマードはそう決めた。


リュニーク最後の一戦。


錦秋賞。


そこで彼が得たものは、勝利ではなかった。


母に近づく手応えでもなかった。


自分は特別ではないという、あまりにも重い現実。


そして、走ることから離れたいという、初めての明確な願いだった。


観客席では、レクルースの勝利を祝う歓声が響いている。


その声を背に受けながら、ベルアマードはゆっくりとターフを後にした。


もう振り返らなかった。

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