↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
33/33

FIN

季節は流れた。


富士国立競駆場を揺らしたあの歓声は、もう遠い日のものになっていた。


秋の光は薄れ、風は冷たくなり、風杜の木々からは色づいた葉が落ちきった。


地面に広がっているのは、もう落ち葉ではない。


白い雪だった。


朝の光を受けた雪は静かに輝き、木々の枝にも薄く積もっている。

息を吐けば白くなり、足を踏み出すたびに、雪が小さく音を立てた。


あの日、ベルアマードは歴史を作った。


ジャパントロフィー。


世界の駆人たちが集う、日本最高峰の国際GR。


誰もが海外勢の勝利を疑わなかった舞台で、三歳の日本駆人が先頭で風を受け、そのまま世界を振り切った。


史上初。


三歳日本駆人によるジャパントロフィー制覇。


その言葉は、レース翌日からあらゆる場所で繰り返された。


新聞の一面。

競駆専門誌の表紙。

テレビの特集。

街中の大型掲示板。

風杜へ届く大量の手紙。


ベルアマードは、一躍時の人となった。


かつては、アマルティアの子として語られた。


最優秀二歳男駆として期待され、雨月賞で崩れ、日本クラウンで敗れ、錦秋賞で傷つき、引退の噂まで流れた。


だが、ジャパントロフィーの後、人々が口にした名は違った。


ベルアマード。


その名そのものだった。


レース後のインタビューで、ベルアマードはしばらく言葉を探していた。


勝利直後の熱気はまだ競駆場に残っていた。

観客席は揺れ続け、記者たちの視線が一斉に注がれている。

何を言うのか。

伝説の女王の子は、どんな言葉でこの偉業を語るのか。


かつてのベルアマードなら、きっと胸を張っていた。


母を超える。

自分が最強だ。

誰にも負けない。


そんな言葉を口にしていたかもしれない。


だが、あの日のベルアマードは違った。


荒い呼吸を整え、少しだけ視線を落とし、それから真っ直ぐ前を見た。


「自分の走りを信じました。」


その声は、驚くほど静かだった。


「そして、自分を期待してくれた人たちに応えたかった。」


競駆場が少しだけ静まる。


ベルアマードは続けた。


「俺の走りに憧れを持ってくれた人に、感謝を伝えたい。」


その瞬間、会場は少し面食らったように静かになった。


強気で、不遜で、勝つことに飢えていたベルアマード。


その彼が、感謝を口にした。


誰かに応えたかったと言った。


自分の走りを信じたと語った。


数秒の沈黙。


そして、拍手が起きた。


最初はまばらだった。


やがて、それは広がった。


観客席の一角から別の一角へ。

人から人へ。

日本語も異国の言葉も関係なく、拍手は競駆場全体へ満ちていった。


ベルアマードはその音を聞いていた。


勝ったことへの称賛だけではない。


何かが届いた音だった。


それが何なのか、はっきりとした言葉にはできなかった。


けれど、アマルティアが言っていたことを、彼は少しだけ理解した。


走れば何かが変わる。


悪い方にも。


良い方にも。


あの日、自分が走ったことで何かが変わった。


少なくとも、自分自身は変わった。


そして、おそらく誰かの中でも。


雪の積もった風杜のグラウンドで、ベルアマードは立ち止まった。


白い息が、冬の空へ溶けていく。


静まり返ったグラウンドには、他に人の気配はない。

雪を踏む自分の足音だけが、やけに大きく響いていた。


少し前まで、ベルアマードは自分のことで精一杯だった。


勝つこと。

負けること。

母を超えること。

父のように走ること。

追われる恐怖。

期待に応えられない苦しさ。


世界はいつも、自分の足元と背後ばかりにあった。


だが今は違う。


見える景色が少し広くなった。


誰かが自分を見ている。


自分の走りが、誰かの胸を動かすことがある。


それは誇らしいことだった。


同時に、少しだけ怖いことでもあった。


それでも、もう逃げようとは思わなかった。


ベルアマードは、雪の上に残る自分の足跡を見た。


まっすぐではない。


迷い、止まり、また進んだ跡だった。


それでいいと思えた。


まっすぐな道ではなかった。


だが、その全部が今の自分を作っている。


雨月賞で崩れたことも。


日本クラウンで届かなかったことも。


錦秋賞で特別ではないと思い知らされたことも。


走るのをやめようとしたことも。


エクラディーヌの走りを観客席から見たことも。


すべてが、あのジャパントロフィーへ続いていた。


そして今日。


ベルアマードは、年末の東都記念へ向かう。


リュニークを共にしたライバルたちと、もう一度。


ベストセンス。

ルーレットショー。

レクルース。


一度も勝てなかったリュニーク。


その中で傷つき、迷い、何度も自分を見失った。


だが、その敗北があったからこそ、彼らはただの相手ではなくなった。


倒すべき敵ではない。


並び立つ者。


自分を引き上げ、自分を認め、自分の走りを待っていてくれた者たち。


今度の東都記念は、過去の借りを返すためだけのレースではない。


勝った負けたの先にあるものを、彼はもう知っている。


それでも勝ちたい。


彼らと走るなら、やはり勝ちたい。


その気持ちは消えていない。


むしろ、前よりも澄んでいた。


母を超えるためではない。


誰かを黙らせるためでもない。


自分の走りを、自分の名で刻むために。


ベルアマードはターフへ向かう通路を歩いていた。


東都競駆場の空気は、富士国立とは違っている。


冬の冷気を含んだ硬い空気。

年末の高揚。

一年を締めくくる大舞台に集まった観客たちの熱。


通路の向こうから、微かな歓声が聞こえる。


その音に、胸が静かに震えた。


怖くはない。


重くもない。


ただ、また走れるのだと思った。


通路の先で、ベストセンスが待っていた。


腕を組み、いつものように静かな顔をしている。


「遅いぞ」


「まだ時間はあるだろ」


「そういう問題じゃない」


その言い方に、ベルアマードは小さく笑った。


少し離れた場所で、レクルースが肩を回していた。


「年末までこの顔ぶれっすか。ほんと、しつこい世代っすね」


「お前もその一人だろ」


「まあ、そうなんすけど」


ルーレットショーはすでに笑っていた。


「今日は誰が主役になるかな。ベルアマードばっかり目立たせるわけにはいかないよね」


その声は明るい。


だが、目は真剣だった。


誰も、ジャパントロフィーの勝者に遠慮していない。


ベルアマードを特別扱いもしない。


それが、少し嬉しかった。


ベストセンスが一歩前へ出る。


「ジャパントロフィーの勝者だろうが関係ない。今日は俺が勝つ」


「僕も譲る気ないよ」


ルーレットショーが続く。


「最後に全部持っていくから」


レクルースも軽く息を吐いた。


「長く脚を使う展開なら、俺の番っすね」


ベルアマードは三人を見た。


雨月賞で敗れた相手。

日本クラウンで届かなかった相手。

錦秋賞で崩された相手。


そして、自分を待っていてくれた相手。


ベルアマードは、静かに笑った。


「なら、俺はいつも通り前に行く」


三人の表情が変わる。


その言葉だけで、十分だった。


勝負はもう始まっている。


やがて、係員の声が響いた。


出走の時間が近づいている。


四人は並んで歩き出した。


同じ方向へ。


同じ舞台へ。


けれど、それぞれ違う走りを胸に。


外へ出ると、東都競駆場の空は白く霞んでいた。


雪は止んでいる。


だが、スタンドの屋根や植え込みにはまだ白い名残があった。

吐く息は白い。

芝は冬の色をしている。


それでも観客席は熱かった。


ベルアマードの名を呼ぶ声がある。


ベストセンスを応援する声がある。

ルーレットショーを待つ声がある。

レクルースに期待する声がある。


それぞれの名前が、冬の空へ響く。


ベルアマードは、その声を聞きながらターフへ足を踏み入れた。


もう、歓声をただの音とは思わない。


そこには人がいる。


想いがある。


誰かの一日がある。


誰かの憧れがある。


ベルアマードは軽く息を吸った。


冷たい空気が肺に入る。


それが不思議と心地よかった。


観客席の一角に、ベルフレアはいた。


隣にはエクラディーヌがいる。


「あ、いました! ベルアマードさんです!」


その声に、ベルフレアも視線を向ける。


兄がいた。


冬のターフに立つ兄。


その背中を見つめながら、ベルフレアは胸の奥が熱くなるのを感じた。


これまで当たり前だったその姿が、今は多くの人に見られている。


待たれている。


願われている。


その光景を前にして、ただ一つの想いが浮かんだ。


――自分も、あそこへ行きたい。


ベルフレアは小さく息を吸った。


冷たい空気が胸に満ちる。


けれど、その奥は熱かった。


東都競駆場にファンファーレが鳴り響く。


ゲートが閉まり、静寂が訪れる。


ベルフレアは兄の背中を見つめたまま、誰にも聞こえないほど小さく呟いた。


「……私も」


その言葉は短かった。


だが、確かに芽生えたものだった。


冬の空の下、ゲートが開く。

最後までベルアマードの物語を読んでいただき、ありがとうございました。

ベルアマードの物語はここで一区切りとなります。

ただし、『黄金の血脈』はまだ続きます。

明日9月28日20:10には、ベルアマード達とは別の視点から一つの世代を振り返る幕間、

『ある怪物の記憶 ―黄金の血脈・幕間―』

を公開します。

そして9月29日から、次の主人公へ。

『黄金の血脈Ⅱ ベルフレア―親友を追い続けた少女は、自分の走りを見つける―』

が始まります。

次に走るのは、ベルアマードの背中をずっと見てきた妹です。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。