見たい景色
長い夏を越えた頃、陽射しにはまだ力が残っていたが、吹き抜ける風にはかすかな秋の気配が混じり始めていた。
ベルアマードは、京都競駆場を走っていた。
錦秋賞の舞台となる競駆場。
富士国立競駆場とは違う。
まっすぐな長い直線だけで勝負が決まる場所ではない。
この競駆場には、細かなアップダウンがある。
上りで脚を使えば、後半に響く。
下りで流れに乗りすぎれば、ペースが乱れる。
コーナーの入り方ひとつで、呼吸もスタミナも削られる。
ペース管理の難しいコースだった。
だが、ベルアマードはその起伏を苦にしないように走っていた。
夏の間、積み重ねてきた長い距離。
外周路で刻んだ呼吸。
坂道で作った脚。
最後にもう一度伸ばすための身体。
それらが、今の走りに表れていた。
先頭に立っても、無理に飛ばさない。
上りで力を使いすぎない。
下りで焦らない。
コーナーで余計な距離を走らない。
逃げているのに、荒さがない。
そして最後。
ベルアマードは先頭のまま、ゴールを駆け抜けた。
八坂記念。
錦秋賞の前哨戦を、ベルアマードは勝った。
ゴール後、ベルアマードは足を緩め、深く息を吐いた。
夏前とは疲れ方が違う。
肺は苦しい。
脚も熱を持っている。
だが、最後まで崩れた感覚はなかった。
息を整えていると、武田トレーナーが歩いてきた。
「いい走りだった。これで錦秋賞出走確定だ。」
その言葉を聞いても、ベルアマードは大きく喜ばなかった。
視線は、まだコースの先に向いている。
「……だが本番はこれよりも長い。」
ベルアマードが勝った八坂記念は、錦秋賞の前哨戦だった。
舞台は同じ京都競駆場。
しかし、距離は二千四百メートル。
錦秋賞は三千メートル。
さらに六百メートル長い。
その差がどれほど大きいか、今のベルアマードには分かる。
六百メートルは、ただのおまけではない。
一歩ずつ疲労が積み重なった先で、さらに走らされる距離だった。
逃げる者にとっては、後続から見られ続ける時間がそれだけ長くなるということでもある。
武田は頷いた。
「短期間で三歳の駆人がそんな長距離を連続して走るのは危険だからな。前哨戦で三千を走らせるわけにはいかない」
そして、コースの方へ目を向けた。
「だが、コースの特徴は掴めただろ。」
ベルアマードは静かに頷いた。
「上りで焦ると脚が削れる。下りで楽をしようとすると、逆にペースが乱れる」
「そうだ」
「富士とは違う。ここは、ただ直線まで我慢すればいい場所じゃない」
武田の目が、わずかに細くなった。
「分かってるならいい」
夏の成果は出た。
八坂記念を勝ち、錦秋賞への出走を勝ち取った。
だが、ベルアマードの胸は落ち着かなかった。
勝った。
確かに勝った。
それでも、本番はここからだった。
錦秋賞。
三千メートル。
リュニーク最後の一戦。
その響きが、ずっと胸の奥で鳴っていた。
京都から風杜へ戻ったのは、夕方に近い時間だった。
ベルアマードがグラウンドの近くまで来ると、見慣れた背中があった。
ウインドベルだった。
父は仕事から帰ってきていたらしい。
グラウンドの端に立ち、ベルフレアの走りを見ている。
ベルフレアは元気よく駆け、時々こちらへ視線を向けては、また前へ向かって走っていた。
ウインドベルは、ベルアマードに気づくと軽く手を上げた。
「よお、アマード。お疲れさん。」
「父さん帰ってたのか。」
「ああ、少し前にな。」
相変わらず、どこか軽い声だった。
だが、その立ち姿には不思議な余裕がある。
風のようにそこにいて、またすぐにどこかへ行ってしまいそうな気配。
ベルアマードは父を見た。
「それで、またどこかに行くんだろう。」
ウインドベルは小さく笑った。
「仕事でな。また見たことない景色を見てくるよ。」
そう言う横顔は、遠くを見ていた。
グラウンドでも、風杜でも、今この場所でもない。
もっと遠い場所。
まだ誰も知らない景色。
その先を見ているようだった。
瞳は少年のように輝いていた。
ベルアマードは、その表情を見て思った。
父は、変わっていない。
現役を退いても、旅をしても、仕事をしても。
この人はずっと、見たことのない景色を追い続けている。
だから、逃げられたのかもしれない。
誰よりも前へ出て、誰も見たことのない場所へ行くことを、本気で望めたから。
ベルアマードはしばらく黙っていた。
そして、口を開いた。
「なあ、父さん。」
「なんだ?」
「逃げるのって怖くなかったのか?」
その質問に、ウインドベルは間髪を入れずに答えた。
「怖かったさ、勿論。」
あまりにも即答だった。
ベルアマードは少し目を見開く。
ウインドベルは笑うでもなく、軽く言った。
「その中でも母さんは一番怖かった。レースでは一回しか走ってないが、それでもどんな奴より怖くて強かった。」
アマルティア。
その名が出ても、ベルアマードは以前ほど反発しなかった。
むしろ、納得に近いものがあった。
母に追われる怖さは、今なら少し分かる。
練習で何度も抜かれた。
日本クラウンでは、母に憧れたルーレットショーに抜かれた。
後ろから全てを飲み込む走り。
逃げる者にとって、それがどれほど恐ろしいか。
ベルアマードは、もう一度聞いた。
「……怖さって克服しないと強くなれないのか?母さんを超えられないのか?」
ウインドベルは、すぐには答えなかった。
さっきの質問とは違う。
少しだけ黙り、ベルフレアの走りを見つめる。
グラウンドの上では、ベルフレアが腕を大きく振りながら前へ出ようとしている。
その姿を見ながら、ウインドベルはゆっくり口を開いた。
「どうだろうな。俺は最後までその怖さを持っていたからな。」
ベルアマードは父を見た。
ウインドベルは続けた。
「……ただな、俺はその怖さよりも見たかったんだ。自分の脚で誰も見た事のない景色を。」
その声は静かだった。
だが、そこには確かな熱があった。
「後ろが怖くなかったわけじゃない。追われるのが平気だったわけでもない。母さんみたいなのが後ろにいる時なんか、正直たまったもんじゃなかった」
ウインドベルは少し笑った。
「でも、それでも前に行きたかった。誰よりも先に、まだ誰も見てない場所へ行きたかった。怖さを消したんじゃない。見たいものの方が、怖さより大きかっただけだ」
ベルアマードは黙った。
怖さを克服する。
そればかり考えていた。
追われる恐怖を消さなければ。
後ろの気配に慣れなければ。
怖がらない自分にならなければ。
そうでなければ、母を超えられないと思っていた。
だが、父は違った。
怖さは最後まであったと言った。
その上で、前へ行った。
ウインドベルはベルアマードの横を通り過ぎ、ベルフレアの方へ向かおうとした。
その途中で、ふと足を止める。
そして、振り返らずに言った。
「お前にもあるはずさ。怖さなんかを忘れるほどの想いが。」
ベルアマードは、何も答えられなかった。
ウインドベルはそれ以上何も言わず、ベルフレアの元へ歩いていく。
「フレア、もっと前を見ろ。景色を追いかけるみたいに走れ」
「景色?」
「そうだ。見たいものを見に行くんだよ」
ベルフレアが不思議そうな顔をする。
ウインドベルは楽しそうに笑っていた。
ベルアマードは、その背中を見つめた。
怖さなんかを忘れるほどの想い。
自分に、それはあるのか。
母を超えること。
自分の名前で呼ばれること。
先頭の景色を取り戻すこと。
どれも本当だった。
だが、父の言葉を聞いた今、それだけでは足りない気がした。
もっと奥にあるもの。
なぜ自分は、逃げたいのか。
なぜ前にいたいのか。
なぜ、誰もいない景色に憧れたのか。
ベルアマードはグラウンドを見た。
夕陽が地面を赤く染めている。
ベルフレアが走り、ウインドベルがそれを見守っている。
少し離れた場所には、武田が記録を確認している。
風杜のいつもの景色だった。
けれど、今のベルアマードには少し違って見えた。
自分は、何を見たいのか。
答えは、まだ見つからない。
だが、探さなければならない。
錦秋賞まで残された時間は、もう多くない。
三千メートル。
京都競駆場。
リュニーク最後の一戦。
その日が近づくたびに、胸の奥で何かが形を変えていく。
恐怖か。
憧れか。
それとも、まだ名前のない想いか。
分からない。
それでも、スタートの瞬間は必ず来る。
逃げ続けた先で何を見るのか。
追われながら何を選ぶのか。
そして、最後にどんな走りを見せるのか。
誰にも分からない。
ベルアマード自身にも。
夕暮れに吹く風だけが静かに季節を進めていた。
その風の向こうで、運命の一戦が待っている。
錦秋賞。
すべてが試される日まで、あとわずかだった。




