↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
22/33

最後の冠

秋が深まり始めた京都は、まるで季節そのものが静かに衣を替えるように、その空気の色を変えつつあった。


灼けつくような夏の熱気は、すでに遠い記憶の彼方へと去っている。

朝の風には澄んだ冷たさが宿り、競駆場へ続く並木の葉も、少しずつ紅や黄金へと染まり始めていた。

京都競駆場の上空にはどこまでも高い秋空が広がり、その柔らかな陽光がターフを静かに照らしている。


しかし、その穏やかな景色とは対照的に、競駆場の内側には張り詰めた熱気が満ちていた。


リュニーク最終戦――錦秋賞。


雨月賞、日本クラウンを経て、三歳駆人たちが最後に挑む決戦の舞台。

距離は三千メートル。

リュニーク最長にして、最も過酷な戦場だった。


ここで勝つ者は、ただ速いだけの存在ではない。


限界を超えて走り続ける力。

苦痛に耐え抜く精神。

そして、自らの走りを最後まで信じ抜く覚悟。


そのすべてを証明した者だけが、この栄冠に手を伸ばせる。


ベルアマードは、その熱気を肌で感じながら競駆場へ足を踏み入れた。


観客席は埋め尽くされている。


日本クラウンのような狂騒にも似た熱狂とは違う。

だが、錦秋賞には別種の重みがあった。


華やかさではなく緊張。

勢いではなく覚悟。


三千メートルという距離そのものが、このレースが決して容易な戦いではないことを、見る者にも走る者にも突きつけていた。


ベルアマードは静かに息を吸う。


リュニーク最後のレース。


雨月賞では崩れた。

日本クラウンでは、ほぼ完璧と言える逃げを打ちながら敗れた。


そして今、残された舞台は錦秋賞だけだった。


ここで勝てば、まだ母に近づける。


だが負ければ――目指し続けてきたその背中は、さらに遠くへ離れていく。


いや。


もう二度と届かない場所へ消えてしまうような気さえした。


母を超える。


かつては迷いなく口にしていたその言葉も、今では簡単には言えない。


それでも。


諦めたわけではない。


だからこそ、今日だけは絶対に負けられなかった。


ベルアマードは、いつも以上に慎重に準備を進める。


身体を温める。

呼吸を整える。

足元の感覚を確かめる。


そして京都競駆場の起伏を、頭の中で何度も描き直した。


上り。

下り。

果てしなく続く距離。


先頭に立ち続けることの重み。


初めて経験する三千メートル。


どれほど夏に走り込もうと、本番でしか味わえない苦しさがある。


ベルアマードは、それを理解していた。


その時だった。


背後から声がかかる。


「久しぶりだな、ベルアマード。」


振り返ると、そこにはベストセンスが立っていた。


雨月賞の勝者。


そして日本クラウンではベルアマードを追い続けながら、最後は三着に敗れた男。


その表情は相変わらず静かだった。


だが、その瞳の奥には燃えるような闘志が宿っている。


「……ああ、日本クラウンぶりだ。」


ベルアマードが答えると、ベストセンスは一歩近づいた。


「日本クラウンではお前に負けた。錦秋賞、お前には譲らない。」


ベルアマードはわずかに眉を動かした。


「違うだろ。日本クラウンの勝者はルーレットショーだ。」


あのレースを制したのはルーレットショー。


アマルティアの記録を塗り替え、レコードタイムで日本クラウンを勝った。


それは揺るがない事実だった。


だが、ベストセンスは首を横に振る。


「結果はそうだ。だが俺にとっては違う。」


静かな声だった。


「俺はあのレースで、お前に負けた。」


ベルアマードは言葉を失った。


そこに言い訳も虚勢もない。


ただ真っ直ぐな本音だけがあった。


雨月賞では勝った。


だが日本クラウンでは届かなかった。


先に動いても、最後の直線でベルアマードを捕まえられなかった。


その現実を、ベストセンスは真正面から受け止めている。


ベルアマードは静かに拳を握った。


「……なら今日は、レースでも勝ってみせる。」


そう言った瞬間だった。


二人の間に、別の声が割り込む。


「二人とも盛り上がってますね。でも残念。今日だけは、あんた達は脇役ですよ。」


ベルアマードとベストセンスが同時に振り向く。


そこに立っていたのは、一人の駆人だった。


最初、ベルアマードは誰なのか分からなかった。


以前とはあまりにも印象が違っていたからだ。


長かった黒髪は短く切り揃えられ、肩にかかっていた髪も前髪も、走るために邪魔にならない長さへ整えられている。


葉桜記念で見せていた気だるげな雰囲気は残っている。


だが――目だけが違った。


「お前、レクルースか。」


ベルアマードが言うと、彼は軽く頭を下げた。


「そうですよ。お久しぶりです、ベルアマードさん。」


丁寧な口調は変わらない。


しかし、その奥にあった力の抜けた空気は薄れていた。


レクルースは自分の髪に触れる。


「髪ですか? 走るのに邪魔なんで切りました。」


何でもないことのように言う。


だがベルアマードには、その変化がひどく大きなものに見えた。


走りたくないと騒いでいた男。


日本クラウンの優先権を得ても嫌がっていた男。


怪物たちの戦いに加わりたくないと叫んでいた男。


そのレクルースが、錦秋賞のために髪を切っている。


それは決して小さな変化ではなかった。


ベルアマードは先ほどの言葉を思い出し、口を開く。


「俺とベストセンスが脇役だと言ったが、それは違う。今日のレース、勝つのは――」


勝つのは俺だ。


そう続けようとした。


だが、その言葉を遮るようにレクルースが言った。


「負けたら辞めてやる。」


空気が凍りついた。


ベルアマードの言葉が止まる。


ベストセンスもまた、レクルースを見つめた。


レクルースは迷いなく続ける。


「このレースで勝てないなら、僕に競駆をやる価値なんてない。」


静かな声だった。


怒鳴っているわけでもない。


感情を爆発させているわけでもない。


それでも、その言葉には揺るぎない覚悟が宿っていた。


冗談ではない。


本気だった。


ベルアマードは、その瞬間初めてレクルースという男の奥底を見た気がした。


走りたくないと言っていた。


勝てるわけがないと笑っていた。


怪物たちの戦いには向いていないと逃げようとしていた。


だが、それは本当に臆病だったのだろうか。


もしかすると違う。


彼は最初から知っていたのかもしれない。


自分の距離を。


自分の舞台を。


自分が勝たなければならない場所を。


錦秋賞。


三千メートル。


この距離なら、自分が主役になれる。


そう確信している目だった。


レクルースはふっと、いつものように少しだけ笑う。


「まあ、負けても落ち込まないでくださいね、ベルアマードさん。この距離で僕に勝てるわけないんですから。」


口調は軽い。


だが、その瞳は一切笑っていなかった。


ベルアマードが言い返そうとした時には、レクルースはすでに背を向けていた。


短くなった髪が秋風に揺れる。


その背中には、葉桜記念で見た逃げ腰の影はどこにもなかった。


ベストセンスが静かに呟く。


「あいつも、本気か。」


ベルアマードは答えない。


ただ、その背中を見つめ続けていた。


雨月賞にはベストセンスがいた。


日本クラウンにはルーレットショーがいた。


そして錦秋賞にはレクルースがいる。


リュニーク三戦。


そのすべてで、異なる強敵が異なる形で立ちはだかった。


ベルアマードはゆっくりと息を吐く。


絶対に負けられない。


そう思っていた。


だが、それは自分だけではない。


ここにいる全員が、それぞれの想いを背負っている。


ベストセンスは雨月賞の勝者として。


そして日本クラウンで敗れた者として。


レクルースは、自らの競駆人生そのものを賭ける者として。


そして自分は――。


ベルアマードは胸元を軽く握った。


母を超えるため。


自分の名を刻むため。


誰よりも前で、自分だけの景色を見るため。


恐怖さえ忘れさせるほどの願い。


父の言葉が胸の奥で静かに響く。


まだ答えは見えていない。


だが、この三千メートルの果てで。


この錦秋賞の先で。


必ず見つけなければならない。


ベルアマードは前を向いた。


京都競駆場のターフが、秋の陽光を受けて静かに輝いている。


リュニーク最後の一戦。


逃げ切れるか。


耐え切れるか。


超えられるか。


そのすべてが、今日決まる。


ベルアマードは静かに踵を返し、決戦の準備へと戻っていった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。