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灼熱の三千メートル

蝉の声が、風杜の敷地いっぱいに降り注いでいた。


真夏の空はどこまでも高く、白い雲はゆっくりと流れている。

だが、その穏やかな景色とは裏腹に、陽射しは容赦なく大地を焼いていた。


熱を帯びた土。

揺らめく陽炎。

乾いた外周路を踏みしめるたび、細かな砂が足元で弾ける。


その灼熱の中を、ベルアマードは走っていた。


一周。


また一周。


一定のリズムで呼吸を刻みながら、風杜の外周を巡る。


速さを磨くためではない。


誰よりも前へ飛び出すためでもない。


ただ――最後まで走り続けるために。


日本クラウンから、しばらくの時間が過ぎていた。


それでも、あの日の光景は少しも色褪せない。


理想に限りなく近かった逃げ。


ベストセンスを抑え込んだ直線。


自ら先頭に立ち、自分の意思でレースを支配した感覚。


あれ以上ないと思えた走り。


だが、そのすべてを大外から一頭が飲み込んでいった。


ルーレットショー。


掲示板に灯った赤い文字。


レコードタイム。


あの瞬間だけは、何度思い返しても胸の奥が静かに疼いた。


雨月賞の敗北とは違う。


あの時は、自分の走りを見失い、何を信じればいいのかも分からなくなった。


だが、日本クラウンは違った。


走れた。


成長できた。


ベストセンスにも先着した。


積み上げてきたものは確かにそこにあった。


それでも届かなかった。


だからこそ、立ち止まるわけにはいかなかった。


ベルアマードは敗戦の直後には、もう次を見据えていた。


錦秋賞。


リュニーク最後の一戦。


雨月賞を落とし、日本クラウンも落とした。


もはやトリプルクラウンの夢はない。


だが、終わりではない。


まだ一つ残っている。


最後の冠。


最後の証明。


錦秋賞だけは、絶対に譲れなかった。


三千メートル。


リュニーク最長距離。


ベルアマードにとって未知の領域だった。


これまでの逃げだけでは足りない。


葉桜記念で学んだことも、日本クラウンで得た経験も、それだけでは届かない。


戦術を語る前に必要なものがある。


スタミナ。


長く走り、最後まで脚を残す力。


先頭に立ったまま、三千メートルを支配し続ける力。


だからベルアマードは、この夏を走り込みに捧げていた。


外周を回る。


坂を駆け上がる。


長い距離を一定の呼吸で刻む。


そして最後に、残った力を絞り出すように脚を伸ばす。


地味な練習だった。


華やかさはない。


歓声もない。


あるのは蝉時雨と、自分の呼吸だけ。


単調なはずの時間。


だが、その一歩一歩が未来へ繋がっていることを、ベルアマードは知っていた。


ふと、グラウンドの方から明るい声が響いた。


「フレア、腕をふれ!」


武田トレーナーの声だった。


続いて返事が飛ぶ。


「はい!」


弾むような声。


ベルフレアだった。


ベルアマードは走りながら視線を向ける。


そこには懸命に身体を動かす妹の姿があった。


春に入寮した頃と比べれば、見違えるほど良くなっている。


まだ粗削りだ。


フォームも完成には遠い。


それでも前へ行こうとする意志だけは誰よりも強い。


その姿を見ていると、自然と口元が緩んだ。


自分にも、あんな時期があったのだろうか。


ただ前へ行きたかった。


誰よりも速く。


誰よりも先に。


先頭の景色だけを信じていた。


あの頃の自分は何も知らなかった。


後ろから迫られる恐怖も。


完璧に走ってなお届かない現実も。


自分が追い求める背中のさらに先へ行く誰かがいることも。


だが今は違う。


知った上で、それでも走る。


それが今の自分だった。


ベルアマードは視線を前へ戻した。


汗が頬を伝う。


喉は焼けるように乾いている。


脚には少しずつ疲労が溜まっていく。


それでも足は止まらない。


錦秋賞。


三千メートル。


その距離を逃げ切るには、今の自分では足りない。


武田トレーナーにも最初にそう言われていた。


「錦秋賞は今までとは別物だ。先頭に立つだけならできる。問題は、その先だ」


「その先?」


「長く前にいるほど、全員の目標になる。日本クラウン以上に、後ろはお前を見て走る。お前が緩めれば詰められる。飛ばせば自分が潰れる。三千メートルで逃げるなら、我慢だけじゃない。耐え続ける脚がいる」


その言葉は今も胸に残っている。


逃げることはできる。


だが、逃げ切ることは別だ。


ベルアマードは今、そのための脚を作っている。


速さだけではない。


勇気だけでもない。


勝負の最後まで崩れない身体。


それがなければ、錦秋賞では戦えない。


日本クラウンで、ベルアマードは理想に近い走りを見せた。


それでも負けた。


その事実は消えない。


ならば求めるしかない。


さらに先を。


完璧の、その先を。


理想に戻るだけでは足りない。


武田に教わったことをなぞるだけでも足りない。


今まで積み上げてきたすべてを抱えたまま、その先へ進まなければならない。


母を超える。


その言葉は、昔ほど軽く口にできなくなっていた。


かつては信じていた。


無敗でトリプルクラウンを獲る。


母を超える。


それが当然の未来だと。


だが今は違う。


母の偉大さを知った。


父の逃げがどれほど過酷なものだったかを知った。


ベストセンスの覚悟を知った。


ルーレットショーの才能を知った。


そして何より、自分自身の弱さを知った。


それでも。


錦秋賞だけは落とせない。


ここで負ければ、母を超える夢はもう見えなくなる。


リュニークで何も掴めなかった者として終わる。


そんな結末だけは認められなかった。


やがて外周路の最後の直線へ入る。


正面から真夏の陽射しが突き刺さる。


肺が苦しい。


脚も重い。


だが。


ここで止まるようでは、三千メートルの最後に耐えられない。


ベルアマードはわずかにペースを上げた。


無理はしない。


崩れない範囲で。


それでも確かに前へ。


三千メートルの最後に、もう一度脚を使うために。


ただ前へ行くためではない。


最後まで先頭に立ち続けるために。


ベルアマードは走る。


蝉が鳴く。


陽射しが照りつける。


遠くからベルフレアの声が聞こえる。


風杜の夏は厳しい。


その真っただ中で。


ベルアマードは黙々と距離を積み重ねる。


雨月賞の敗北を越えるために。


日本クラウンの悔しさを力へ変えるために。


そして――リュニーク最後の一戦、錦秋賞を勝つために。


灼熱の季節は、まだ続く。


だがベルアマードは知っていた。


この苦しさの先にしか、辿り着けない場所があることを。


だから走る。


ただひたすらに。


誰よりも長く前にいるために。


熱い夏を越えた先に待つ決戦へ向かって、ベルアマードは今日も走り続けていた。

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